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    かけはし2016.年2月15日号

提示されたものは反エコロジー、反社会の道


気候変動

COP21 空しい合意

現システムによる気候救出
の不可能性こそが赤裸々に

ダニエル・タヌロ

 昨年末パリのCOP21で合意に達した気候協定に関しさまざまな評価が交差している。この協定によって現システムの下での気候救出に道が開かれたかのように持ち上げる人々もいる。そのおかしさは、日本のエリートたちの、ごまかしに満ちた「自発的削減目標」を考えるだけでも明らかだが、この合意について、ダニエル・タヌロ同志がここに掲載した論文でより丁寧に厳しい批判を明らかにしている。(「かけはし」編集部)
 COP21パリ気候会合は予想通り、一つの協定にたどり着いた。この協定は、気候変動に関する国連枠組み協定に署名した諸国のうち五五カ国が批准し、それら五五カ国が温室効果ガスの世界排出の少なくとも五五%を占めるという条件で、二〇二〇年から発効することになる。パリで示された諸々の立場を考慮すれば、上の二重の条件はどのような困難も引き起こすことはないだろう(とはいえ、米国による京都議定書批准拒否は、驚くようなことが常にあり得る、ということを示す)。

目標は合意されたが保証はない

 この協定は、「地球平均気温上昇を前工業化期レベルに比べ二度Cよりも十分低く保つこと、並びに、気候変動の諸々の影響とリスクをそれが相当に減じるであろうことを認めつつ、前工業化期に比べた温度上昇を一・五度Cに抑制する努力を追求すること」という目標を定めている。
加えて協定序文は、共通だが差違ある責任の原則、人権、健康への権利、発展する権利、先住民衆の諸権利、障がい者や子どもたちの諸権利、ジェンダー平等、さらに国際連帯を尊重し、「労働の世界」に向けた「公正な移行」の重要性を強調し、各国の能力を考慮に入れつつ、先の目標を達成する意思を確認している。
こうした立場にもちろん人は同意できるだけだが、しかしCOPに出席した一九五カ国が採択したこの文書は、それらが実効性をもって追求されることに、何の保証も与えていない。加えて、またもっと重要なことだが、それは、達成されるべき気候の目標に対する最終期限に関しては、完全に曖昧なままだ。単に「関係者たちは、温室効果ガス排出の世界レベルでのピークをできる限り早期にもってくることを目標にする。そこにおいては、発展途上諸国の場合ピーク到達にはもっと時間がかかること、そして、今世紀後半における温室効果ガス貯留による除去と諸排出源からの人為的排出の間で一定の均衡を達成するために、利用可能な最良な科学的成果にしたがって、その後に急速な削減を引き受けることを認識する」との言明が行われているにすぎない。
しかしながら、ピークとなる年、その後の排出量全体の削減年率、そして排出/除去の全体均衡が達成される二〇五〇年から二一〇〇年の間の正確な時、といったものが温暖化安定をどのようなレベルにするかを決定するのだ。

証拠不在のまま解決可能を大言


フランスのオランド大統領は二〇一五年一二月一二日、参加者総会に先立って討論に加わり、「野心的でもあり現実的でもある」一文書の採択によって、この会合が「両立しないように見えるものを和解させた」事実を歓迎した。彼は、「地球のための決定的な合意が今ある」と結論づけた。彼の政権の外相であるローレン・ファビウスは今回のCOP議長として彼の前に発言し、「あり得る最良の均衡」を表現している結果を歓迎した。
気候変動に関する国連枠組み協定は一九九二年から始まっている。それは、まったくの不十分な成り行きとなってきた。つまり京都議定書だ。気候の突き付けは何年かの間、資本主義の正統性とその政治的管理に対する信頼性を掘り崩すことにますます貢献してきた。
しかしパリでのCOPに続いて、すでに明白となっていることがある。このシステムは、言われてきたこととは逆に、それが生み出した惨害を食い止めることができる、そしてその任に着いている諸政府はそれらの前にある試練に準備ができている、との考え方を広めることを狙った極めて幅広い反攻に、われわれが直面しようとしている、ということだ。
グリーン資本主義の可能性を信じない者たち、特に成長に向けたこのシステムの原理的傾向を疑問に付すことなく気候を救出する可能性を信じない者たちはそれゆえ、この角度からパリ協定を検証する点に利点をもっている。つまり、COP21は「両立しないものを和解させている」のかと? 以下の論考はこの点に主要に焦点を絞っている。われわれはその後、適応、南の諸国への援助その他といった、協定の他の側面に戻るだろう。
それではパリ協定は、恐ろしく陰鬱な悲観主義者やエコソーシャリストが嘘であることを示したのだろうか? この疑問に対する回答は――少なくとも――八〇%ノーだ。なぜ八〇%か? その理由は、気候変動に関する国連枠組み協定(UNFCCC)事務局の専門知識を基礎としたとき、温暖化を二度C以下にとどめる道としては第五番目の道しか取り上げられなかった(そして書面にあるものはこれだけなのだ!)としか、われわれは言えないからだ。言い換えれば、それはグラスの半分は満杯で半分は空という問題ではない。COP21のグラスは少なくともその五分の四が空なのだ。原理的に気候の破局は継続し、両立可能と考えられたものごとも和解させ得る、との証拠は提出されていない。以下に説明する。

協定とINDCsとの長い距離


この交渉には二つの要素がある。つまり一方にはパリで採択された協定とその序文、そして他方にある想定上の「気候計画」だ。この後者は、会合に参加した各国が採用済であり、COPを考慮してUNFCCC事務局に伝えられていた。この想定上の諸々の気候計画は、交渉者の専門用語という形で、頭文字略語のINDC(「意図として各国で決定された寄与」が直訳となるが、日本語での定着した訳語はまだないようであり、「各国が自主的に決定した約束草案」などが紹介されている:訳者)と呼ばれている。パリで採択された文書では、可能な限り一・五度Cに近い二度C以下の温暖化という目標が掲げられている。しかしINDCs――それが対応する年月は二〇二五年ないしは二〇三〇年――は、この目標達成とはかけ離れている。これまでに行われた評価によれば、これらの計画の集計的効果は、およそ三度Cという破局的な温暖化にわれわれを導くと思われる。
協定が意図する諸言明と協定に署名した諸国の気候計画に込められた実質の間にあるこの矛盾は、秘密ではない。パリで採択された協定序文は「深刻な懸念をもって、二〇二〇年までの温室効果ガス年間世界排出における関係者たちの軽減約束がもつ集合的効果(一方における)と、世界の平均気温上昇を十分な二度C以下に維持し、一・五度Cまでの温度上昇に押さえる努力を継続するという目標に一致する累積的排出軌道(他方の)との間にある、重大なギャップに取り組む切迫した必要性」を強調している。
INDCsの集計的効果とパリで採択された一・五度Cから二度Cという目標の間にあるこのギャップは、気候政策の野心を高める方法と手段を決めるために、ダーバンでのCOPで設立された特別の作業グループ(行動引き上げのためのダーバンプラットホームに基づく特別作業グループ)によって研究されてきた。二〇一五年一〇月三〇日、この作業グループはCOP21準備の枠組みの中で、詳細な報告をUNFCCC事務局に付託した。
この文書の中で、二〇二五年と二〇三〇年を最終期限としたINDCsの排出の総計は、一方では「いつも通りのビジネス」シナリオの排出と比較され、他方では、IPCCにしたがって、「最小のコストで」温暖化を二度C以下にとどめる蓋然性が六六%あるようにするためにしたがうべき世界排出に向けた削減軌道(のさまざまな変種)、と比較されている(この後者の諸軌道は、最新IPCC報告が「最小コスト二度Cシナリオ」と呼ぶものを構成している)。
この研究の著者たちの方法は単純だ。彼らは、「いつも通りのビジネス」シナリオ排出を参照シナリオ(二度C目標の〇%)として、「最小コスト二度Cシナリオ」を達成すべき目標(二度C目標の一〇〇%)として取り上げている。こうすることで彼らは、INDCsが構想した排出削減の総計を二度C目標のパーセンテージとして表現する。以下が彼らの結論だ。つまり、「この比較の中でINDCsは、『いつも通りのビジネス』シナリオ排出と二度Cシナリオとの間にある違いを、二〇二五年には二七%だけ、二〇三〇年には二二%だけ小さくすると評価できる」と。これこそが、上記でわれわれが「COP21のグラスは八〇%が空だ」と述べた理由だ。
その上、この八〇%という数字が現実にはもっと高いということすら排除できない。INDCsは、魔法使いの良い弟子というイメージをふりまく目的で、諸国家が彼らの数字を膨らませていないかどうかを確かめる目的で、もっと詳細な検証にさらされなければならないだろう。気候に関しては、この種の騙しがすでに何度も起きてきたのだ(たとえばわれわれは、EUメンバー諸国が各国の汚染産業の排出を過大評価したやり方を挙げることができる。そのことでこれらの業界が、利益付きで売ることのできる無料の排出権を最大限受け取ることを可能にするためだった)。INDCsの相当数が森林による二酸化炭素吸収、あるいは諸々の排出源に関連する縮小に大きくに依拠し、純粋の削減にはほとんど依拠していないという事実は、不信を強めるものだ。
しかしこうした側面は専門家に残そう。むしろわれわれは、INDCsと一・五度Cから二度Cに温暖化を維持するという目標の間に、パリ協定がどのようにして橋をかけようとしているかを見てみよう。

焼け落ちる家を前に軽い約束


私は前もって、IPCC報告の一点は私にとって説明不在のままに残されている、ということを告白しなければならない。つまり、気候変動の激しさに関する診断は一層懸念を呼ぶものであり、その現象は諸々のモデルを使って予想されたものよりもはるかに急速に進んでいるにもかかわらず、二度Cという限界内にとどまるチャンスが六六%あるという目的を満たすための温室効果ガス世界排出のピークの年限を、第四次報告と第五次報告の間で今あるように相当程度先に延ばすことになった理由は何なのか、ということだ。
第四次報告によれば、二度C上昇を超えないためには、世界の排出のピークが二〇一五年よりも絶対に遅くならないことが必要だった。しかしながら、第五次報告によれば、世界の排出が二〇二〇年、二〇二五年、さらに二〇三〇年であってさえそこでやっと減り始めることであっても、まだ二度C以下にとどまる可能性があるだろう――とはいえ、ますます重大となる諸困難を対価として――、となっている。
私の推測では、これらの報告の著者たちは単純に希望の情熱を維持しようとしたのではなく、この省略に対しては一定の科学的説明がある。しかし私はそれを知っていない。
いずれにしろ、二度Cあるいは一・五度Cに匹敵する排出のピークが実際に二〇二五年あるいは二〇三〇年にはじめて起きることが可能だと仮定し、われわれの疑問に戻ろう。つまりパリ協定は、INDCsと「十分に二度C以下」の温暖化という目標の間に、どのようにして橋をかけることを想定しているのか?
採択された文書中にある回答は、大志をより高めるという目標をもって、INDCsを五年ごとに改訂することによってだ。この改訂は、関係者たちの良識にのみ基礎をもつだろう。協定に法的な拘束はなく、どのような罰則も規定されていない。こうして、家が焼け落ちる中、これほどに軽い約束が歴史的突破として差し出されている。
ここでの重要な問題の一つはタイミングの問題だ。パリ協定は二〇二〇年に効力をもつことになるだろう。そして最初の改訂は二〇二三年になってはじめて具体化するだろう。京都議定書の批准には八年かかったということ、この議定書には関係者たちの少数しか関与せず、それは笑うほどの排出削減しか実行しなかった、ということを思い出そう。
一〇年間で、地政学的な諸々の緊張が高まり続けているにもかかわらず、一九五カ国が気候を救うための八〇%の道を依然として彼らがとらなければならないものとして残すことで大急ぎで合意するということを考えてみると、それは現実には、数億人という人類の運命とエコシステムをもって、ロシアンルーレットを演じているということだ。COP21はエコソーシャリストの分析を無効にすることなどなく、逆にそれを確証している。つまり資本主義システムは、それがエコロジー的諸限界に突き当たるとき、それを一層複雑にし危険にすることを通して、それが直面する問題の本質をただ先延ばしすることができるだけなのだ。

「化石燃料」…の言葉どこへ


諸々の危険に関して、一二月一二日にル・ブルジェ(サミットが開かれた地域名称)で一つの奇跡が起きたと信じるよう主張する人びとは、それでもさらに二つの疑問を問うべきだ。それは次の疑問だ。
▼「化石燃料」、「工業」、「石炭」、「石油」、「天然ガス」、「自動車(産業)」といった、さらにわれわれをとらえている話題に等しく決定的な他の言葉や表現が、パリの文書中に全く現れていない理由は何なのか? 「エネルギー」という言葉がアフリカに関する同じ文節中で二回だけ(付言すれば、国際エネルギーエージェンシーの名前で)使われている理由は何なのか?
▼逆に考えて、「エネルギー移行」、「エネルギー定常」、「リサイクル」、「リユース」、「共有財」、「現地化」、といった言葉や表現が全く使用されていない理由はどういうことか? 「再生可能エネルギー」の表現がたった一度だけ、「発展途上」諸国(「特にアフリカ」)に関してのみ使用されているのはどういう理由か? 「生物多様性」が一回だけ使われている理由は? 「クライメートジャスティス」の概念が、「ある者たちにとっては重要」として一回だけ現れている――正確には、生物多様性とマザーアースの重要性(またしても「ある者たちにとって」!)にふれている多くのものを雑多に詰め込んだ同じ章句の中で――理由は?

 これらのギャップは、好機をはらんだ成果ではなく、気候の突き付けに対する資本主義的対応の一戦略、特定の構想の印だ。気候変動否定派は支配階級の聴衆を失いつつあるように見え、それは大いに良いことだ。そうであるとしても、パリ協定は「強力な合図」である、「化石燃料に関してページをめくると思われる」、あるいは「公正な移行」に向けた転換点を印すと思われる、などと安堵をもって考えるとすれば、そしてある人びとはそう語ったのだが、それは間違いとなるだろう。この惨害に対し責任のある者たち――幅広く言って、化石燃料部門と信用供与部門――は、依然しっかりと舵を握っているのだ。

利益に沿うやり方の破局的結末


パリは転換点なのか? おそらく。おそらく最高位レベルで、地球的温暖化が、それに立ち向かわない場合に、社会、その結合、そしてその経済に対して表現する大きな、予測不能のリスクに関する自覚はある(フランシスローマ教皇の教皇回勅はこの現象の一つの表れだ)。何人かの資本の決定策定者が、彼らの政治的管理が一九九二年の地球サミット以後に生み出してきた惨害を隠すための煙幕として今回のCOPを利用する、ということ以上のことをやりたいと思っていること、彼らが温暖化を二度C以下に抑制するために必要なこととINDCsとの間のギャップに橋をかけようと試みるだろうということ、こうしたことはありそうなことだ。
しかし、彼らが成功することはまったくありそうにない(そしてこれはいわば婉曲話法だ)。彼らの気づきはまったく遅すぎるのであり、化石燃料資本はその足をブレーキに乗せ、多極的世界ははっきりした指導性もないままに、猛烈な帝国主義間競争で引き裂かれている。
加えて、目標の問題ですべてが終わるわけではなく、やり方の問題もまたある。戦略家たちを勇気づけている「最低コスト二度Cシナリオ」には、「ソフトエネルギー」の使用だけではなく、核エネルギー、炭素捕獲・隔離と組み合わされた化石燃料燃焼、巨大な水力発電、さらに「炭素再生」と一体的なバイオマス燃焼までもがあるのだ。IPCC第五次報告は明確だ。つまり、これがなければ、二度C以下にとどめることは実際に「収益性あるものとはならず」、コストが跳ね上がり、利益が脅かされると! 何と罰当たりな!
これらの魔法使いの弟子的テクノロジーからなるヒットパレードの中で、炭素回復が一体となったバイオマス燃焼は高位に位置付いている(炭素の捕獲と隔離を伴うバイオエネルギーあるいはBECCS)。その支持者は次のように論じる。つまり、この燃焼から二酸化炭素を蓄え、大気から二酸化炭素を吸収することになる燃やすためのバイオマスを栽培することによって、このバイオマスの燃焼は、排出を削減するだけではなく、大気中に蓄積された二酸化炭素のストックをも削減するだろう、と。
理屈の組み立ては完全無欠だ。しかし、この構想に含まれるバイオマスのとんでもない量の消費は、エコシステムおよびそこに暮らす人間のコミュニティ双方を破壊するだけに終わる可能性があるのだ。
補償、バイオマス燃焼、炭素貯留、これがパリ協定の心臓部だ。同文書は、幅広い「持続可能な開発」を告知している。それを読むことでわれわれが理解することは、それは京都議定書の「クリーン開発メカニズム」を単純に最大限度まで強化するもの、ということだ。そしてそのメカニズムではそれを通して、特に欧州の自動車企業が、先住民衆に重荷を負わせる「森林」構想に対し南で投資することにより、自らの排出を「相殺」するのだ。
これが、オランドが表現した「現実主義的野心」なのだ。これこそが、ある者たちが「グリーン資本主義」に向けた行進として歓呼して主張し続けるものの本当の顔だ。現実に向き合おう。「持続可能な開発」の名の下に整然と置かれようとしているものは、反エコロジーかつ反社会の道であり、地球を救うことなどなく、抵抗を打ち破り異議を黙らせるためのさらにひどい抑圧を求めるだろう。
テロリズムと戦うとの口実の下に布告されたフランスの非常事態宣言は、今回のCOPの確信犯的に隠された諸々の傾向を、いかなる評価の点でもまさに赤裸々にさらしている。

▼筆者は実績ある農業科学者であるとともに、エコ社会主義の環境活動家、「ラゴーシュ」(第四インターナショナルベルギー支部、LCR・SAP月刊機関誌)記者でもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一五年一二月号)



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