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    かけはし2016.年3月7日号

12年間「朝鮮人慰安婦」問題検証


声明ではなく研究が必要だ

沖縄宮古島での慰安婦追悼碑設立

ホン・ユンシンが渡嘉敷島へ

 2004年5月のある日、百合の咲きほこっている渡嘉敷島でホン・ユンシンさんは6時間ほど蝶を追い回していた。渡嘉敷島は沖縄本島から西方に30q離れている。65歳のヨシカワがホンさんに蝶の写真の撮り方を教えてくれた。「蝶が飛び立つ瞬間を静かに待つのです」「蝶の次の動作を考えながらシャッターを押します」。ホンさんはヨシカワが「あの日」の記憶を語ってくれるのを待っているところだった。
 25歳の博士課程生ホン・ユンシンさんは、この日午前の便で東京から飛行機に乗り、那覇空港に下り立った。那覇から沖縄西部のトマリ港に移動し、さらに1時間20分の間、快速船に乗って、やっと島にたどりついた。博士課程生にとっては実に大変な費用のかかることだった。
 1945年3月、渡嘉敷島の住民329人が集団自決をした。「米軍の捕虜になれば、強かんされ拷問されるというむごい人生を生きなければならない」という恐怖と「捕虜になって日本軍の機密を漏らしてはならないので死ななければならない」との脅迫を日本軍が注入した結果だった。終戦の1カ月前、島の住民らは互いを殺し、あるいは自らを殺した。
 その無間地獄の中で生き残った生存者が当時6歳のヨシオカだった。ヨシオカの話を聞きに島へ渡ったのだ。そしてその訪問が、この10年余の人生を変えた。2004年以降、ホン・ユンシンの人生は「沖縄・朝鮮人慰安婦の生涯」に出会うことによって一杯になった。

12年前の初の出会いと証言


 1月26日、東京・早稲田大学図書館で会い、12年前の「初の証言」の記憶を語るホン・ユンシン早稲田大学国際言語文化研究所招聘(へい)教授(38)の声は湿りぎみだった。ホン・ユンシン教授は沖縄戦争を経験した住民の話を聞くために沖縄島現場調査に通った。さまざまな島のうちでアジア太平洋戦争当時「地上戦」がなく、とりたてて注目されていなかった宮古島での「慰安所」の個数が正確でないことを発見し、慰安所16カ所を確認した。宮古住民25人の証言を通して「朝鮮人日本軍慰安婦」の生きざまのさまざまな断面を把握した。
 沖縄で慰安婦生活を送ったものと見られる4人の韓国人の実名も初めて確認した。以降、宮古島の研究を拡大し、2012年に博士論文「沖縄朝鮮人の性(sex)/生(life)の政治学―記憶の場としての慰安所」を書いた。沖縄全域の公文書や沖縄の住民たちの「慰安所についての証言」を織り交ぜて、沖縄島での朝鮮人慰安婦の生き方と性がどのように「管理されたのか」を確認した論文だ。
 論文に先立ちホン教授は2008年9月7日に、宮古島に「日本軍慰安婦のための追悼碑」を建てる際にも決定的役割を果たした。「韓・日・沖縄共同調査団」を編成し、06〜08年にわたって宮古島の現場調査を実質的に遂行した。
 韓国の大学で国際関係学を専攻したホン教授は2002年、「沖縄」をテーマとして勉強するために早稲田大学アジア平和研究所に留学した。彼女の見るところでは、沖縄の人々はどこにも属することのない人々だった。独立した琉球王国だった沖縄は、明治時代に薩摩藩主に征服されるとともに日本領に属することとなる。沖縄語を使うことができないなどの差別的政策を通じて支配された。第2次世界大戦中に日本全域のうち最も激烈な地上戦が繰り広げられたのも沖縄だ。沖縄住民の犠牲を日本軍は「当然のこと」と考えた。戦争期間中に沖縄語を使っている住民はスパイとみなされ処刑されたりもしたし、「集団自決」に追い立てられもした。

「ヌナたちが〈アリラン〉を歌った」


 修士論文において沖縄の軍基地や韓国の軍基地を通じて東アジアの平和を論じていたホン・ユンシンは、博士論文では沖縄戦を経験した沖縄の人々の話を直接、聞いてみたかった。理論にのみ重きを置いた勉強から脱皮し、現場調査(フィールド・ワーク)の方法を選択した。2004年に渡嘉敷島に向かった由縁でもあった。
 島で会った「生存者」ヨシカワは初めて会った日の、日も暮れて夜になってやっとそろそろと「あの集団自決の日」について話をし始めた。そして「朝鮮人慰安婦」についても語った。砲撃によって亡くなった「ハルエ」という名前の朝鮮人慰安婦だった。ハルエの遺体を彼の母親ヨシエが引き取ったという。「戦争なのだから余り悲しがるな。蝶のようにヒラヒラと飛んで行きなさい」。ヨシカワの母親が詠んだという祈りの言葉がホン教授の心を満たした。
 ほかの住民たちも戦争の体験を話すたびに「朝鮮人慰安婦」を思い出した。ホン教授の胸のうちに新たな質問が生じた。「そもそもあの人々は、なぜ覚えているだろうか? あの人々にとって慰安婦とは何なのだろうか」。
 2006年のある春の日、宮古島に到着して道を歩いていると住民のヨナハ・ヒロトシ(83)に会った。同行した宮古島の案内者が彼に言った。「韓国から来た研究者なの。ひょっとして朝鮮人慰安婦を見たことがある?」。するとヨナハが答えた。
 「朝鮮人の女の人らはチュガガという井戸に洗濯をしに来ていて、よく見ることがあった。洗濯をして帰る途中に、いつもここでちょっと休んでいた」。ヨナハが石のある場所を指した。「この石がある場所にいつも座って休んでいたから、ここを通るたびにその姿を思い出す。軍旗祭と言ったか、陸軍記念日に伝統劇をやったのだが、そこで慰安婦たちが〈アリラン〉を歌ったのだから。3月か、いや5月頃だったろう。その演劇で、この姉さんたちが〈アリラン〉を歌ったんだ。めちゃくちゃきれいな声だったので私も覚えている」。
 宮古島の住民たちの「朝鮮人慰安婦女性の生活」についての証言は、ほかの島とはいささか違った。ほかの島ではほとんどの慰安所が民家とは隔離された所に建てられた。住民たちとも隔離された。当然にも住民たちは慰安所を利用することはできなかったし、外を自由に行き来することもできなかった。宮古島でも民間人が慰安所を利用することはできなかつたけれども、慰安婦の女性たちは井戸を中心として洗濯をしに、しょっちゅう行き来した。それだけに住民との接点が多かった。軍の宴会に慰安婦たちを芸人のように仕立てて公演をさせたりもした。
 ホン教授が採集した証言の中では自由なように見えるけれども、自由はなかった女性たちの生き方がある。宮古島の住民シモジ・トミ(85)の記憶の中に現れる女性の姿がその代表的例だ。
 「今も到底、忘れることのできないのはある日、井戸の周りに座っている様子です。こうやって膝を立てて座っているチマ(民族服のスカート)の中には何も着けていないのです。本当に、それが全部、見えてるの女性のそれが。こうやって水辺に座って。(朝鮮から連れてきた人々が)この近くにいたんだから…。ぼうっと…。何の表情もなしに座っていたんだから、ただぼうっと…。その無表情な顔、それが今も忘れられません」。
 当時13歳の少年が覚えていたのは「ほのかに見える性器」ではなく、女性の無表情な顔だった。シモジ・トミは自らの記憶と体験を通して、「自由に」行き来していたように見える朝鮮人の女性たちが実際は幸福でも自由でもないということを知った。
 日本の地に来てコチュ(トウガラシ)をあたふたと口にしている姿も住民らの記憶に残っていた。「あの辛いコチュをあんなにムシャムシャと食べていた」。辛い食べ物がおよそない日本の地で、辛いコチュを口にしながら故郷への思いをなぐさめているようで、ふびんな思いがより募った。「チョーセンッピ」(「ッピ」は性器を意味する中国語)とからかっていたことをわびる住民もいた。

沖縄戦後の慰安婦の安否

 戦争が終わった後、沖縄島の朝鮮人慰安婦たちは無事に韓国に帰ることができたのだろうか。
1992年に沖縄の地方史研究者たちが明らかにした沖縄諸島の軍慰安所は130カ所だった。慰安所はすべて軍の飛行場の近くに建てられた。沖縄地方史の研究者たちは、そのうちの49カ所の慰安所に朝鮮人日本軍慰安婦がいたと考える。ただしその規模は正確ではなく700人だとか、あるいは1500人とするなど推定値の偏差が大きい。正確な数を明らかにする資料がない、ということだ。2002年、国外日本軍「慰安婦」被害者実態調査に乗り出した韓国挺身隊研究所は、少なくとも700人以上が沖縄島において日本軍慰安婦としての生活をしていただろうと推定する。
このうち何人が韓国に帰郷したのだろうか。1944年10月10日の沖縄空襲以降、沖縄戦で沖縄の人口59万人のうち18万人が死亡した。いつも軍隊と共に動いていた慰安婦女性の生存率は低くならざるをえない。地上戦が激甚を極めていた沖縄で慰安婦生活をしていた女性たちの相当数は、その痕跡も、記憶も、記録もなしに沖縄の50島のどこかに埋められたのだろう。
死なずに生き残った朝鮮人慰安婦女性らの痕跡も明らかではない。「性病にかかって精神に異常をきたした女性が、たそがれの迫る道を歩いていた」という沖縄県民の証言もあり、戦争が終わった後、沖縄・那覇に近い遊郭街で朝鮮人の女性たちが身を寄せ合って暮らしていたとのウワサもある。
沖縄で慰安婦生活をした後、韓国に戻ってきたことが確認された女性は4人にすぎない。ホン・ユンシン教授は「共同調査団」の研究をしつつ、1945年に沖縄に駐屯した米軍が作成した軍政活動状況報告書に記録された「祖国に送還予定の朝鮮人女性」名簿と韓国の「慰安婦申告書類」の名簿を対照した。
2つの名簿で名前が一致する4人を発見した。ク・スニ、チョン・ジェスン、イ・チュヌォル、パク・ジェナムさんがその人々だ。これらの名前を確認した時、ク・スニ、チョン・ジェスン、イ・チュヌォルの3人は既に亡くなっていた。このうちイ・スニさんは15歳の時に慶尚北道英陽郡から面(行政末端単位)職員の手にひきたてられていった後、渡嘉敷島で慰安婦生活をした。韓国に帰ってきたものの「獣のような扱いを受け性病にまでかかった体は満身創痍」の状態で余生を送った。沖縄のどの島かは思い出せないイ・チュヌォルさんは15歳の時に引っぱられていき台湾で5年間、慰安婦生活をした後、再び沖縄に移動した。戦争が終わった後、韓国に向かっていた海上で砲撃を受け、手首が切断された。

唯一の生存者と追悼碑除幕式

 2007年の確認当時、パク・ジェナム・ハルモニが唯一生存していた。パク・ハルモニは大邱のある病院に入院中だった。共同調査団の韓国団長であるユン・ジョンオク韓国挺身隊問題対策協議会代表(当時)がパク・ハルモニに会いに行った。パク・ハルモニは宮古島で慰安婦生活を送ったと語った。だが当時の生活、帰って来る際の状況などについては固く口をつぐんだまま語らなかった。
ハルモニは「戻って来る際の状況については覚えているものが全くない。ただ死にものぐるいで抵抗した」という言葉だけを繰り返した。ユン・ジョンオク前代表は宮古島に「慰安婦のための追悼碑」を建てようと思うという言葉を伝えた。元気になったら一緒に行こうと提案したけれども、宮古島の追悼碑式のちょうど1カ月前の2008年8月5日、この世を去った。パク・ジェナム・ハルモニが亡くなった後になって、知人に託していた「宮古碑建立寄付金」5万ウォンが宮古碑建立実行委員会の手に伝えられた。
ホン・ユンシン教授は宮古碑を建立する過程で学問と運動を併行した。2007年9月29日、沖縄県民12万人が集まって「日本文部省の検定教科書介入」に反対する決起大会に行き、「宮古島慰安婦を追悼する碑設立」を知らせるビラを配布したりもした。追悼碑の除幕式を前にして、パク・スニ日本軍慰安婦被害者ハルモニを日本に招き証言大会を開くことにした。
ホン教授にとって「宮古島追悼碑」は研究と運動が出合う場所だった。「追悼碑」は記憶が記憶に言葉を手渡す「今日」の場所だ。宮古島の住民たちは1945年に戦争で生き残った後、あの時のあの戦争がどんな意味を持っていたのか、戦争で心身に傷を負った人々とは誰だったのか絶えず問いかけ、その話を聞いた研究者はその問いかけの意味を現在化しながら、歴史的記憶を過去から解き放させる役割を担う。
そのような彼女が思うには、韓日政府の12・28合意については韓日両国知識人たちの自己反省がぜひとも必要だ。日本政府が12・28合意を企てた背景には「慰安婦募集に強制性はなかった。従って政府の責任は存在しない」という認識が根底にある。ところが、韓国の学者たちの中で、これを否定することのできる研究を実証的やり方を通じて本格的に行った学者はいない。
日本軍が慰安所の運営・設計・管理の主体であることを示す日本軍の文書類が数多く存在するけれども、その原本を見て体系的に研究した国内の学者もいない。特に沖縄は、米軍が没収していった当時の文書を1972年以降返還するとともに、日本軍の内務規定、陣中日誌など軍の内部文書や日誌が数多く残っているにもかかわらず、これを検討してみる学問的作業はなかった。来る3月に出版されるホン教授の本「沖縄戦争の記憶と慰安所」(日本語版)が韓国人学者としては、その最初の作業となるだろう。

「韓日知識人、自己反省が必要だ」


日本で「朝鮮人慰安婦」問題を研究しているホン教授は孤独だ。日本ジェンダー学会で「朝鮮」に関連した勉強をしている学者は7人内外だ。そのうちの1人がホン教授であり、残るは在日朝鮮人など韓国系列の研究者だ。日本政府を批判している数多くの声明を出した日本の学者たちの中でも、学問の領域において「朝鮮人慰安婦」問題を研究しているケースは極めてまれだ。「知識人たちは声明書を出す安全な位置においてのみ発言しているのではないのか、自省してみたらよい」。慰安婦問題を実証的に掘り起こしてきたホン教授が両国の学界に投じている苦言だ。(「ハンギョレ21」第1098号、16年2月15日付、東京=パク・スジン記者)



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