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    かけはし2016.年4月4日号

廃墟というより「幽霊の街」


福島原発事故地域を5年ぶりに再訪問

帰還を強制するための除染作業

 5年前、大地震とそれに続いた放射能漏出の事態によって数万人が死を迎えていた時、ホン・ソッチェ記者は日本に急派され、取材に乗り出した。昨年、彼は定期健診で甲状腺機能低下症の診断を受けた。その時の被曝と関連があるのか心配している。だが再び勇気を出して訪れてみた。ホン記者は「幽霊のマウル(集落)」を見て帰ってきた。米国を狙っている北韓(北朝鮮)の核ミサイルを恐がりながらも、この地の至る所にある原発については無感覚に過ごしている韓国の人々に、その原発を伝える。今後3回にわたって現地ルポと韓国の原発問題を明らかにする記事を連載する。(取材ホン・ソッチェ記者、編集チョン・ウンジュ記者、デザイン、チャン・グワンソク)


その日、「火の輪」が舞った。2011年3月11日、環太平洋を取り巻く地震の巣が揺さぶられ、マグニチュード9・0の大地震が日本の全地域を焦土化した。震源地は日本の東北部・宮城県牡鹿半島から東南東方向へわずか130q離れた三陸沖合いだった。東京からも300qにしかならない場所だ。
水をたたえていた海底の地盤が揺らぐと、海もそれにつれて激しく揺れ動いた。7階ビルの高さの巨大な津波が東北部の海岸一帯をガバッと呑み込んだ。日本全域で2日間だけで行方不明者が4万人を超えた。1年後に集計された資料では死亡1万5844人、行方不明3469人と確認された。
事故の翌日「ハンギョレ」特派員として福島に向かった。国際運転免許証も用意できないまま、東京で知人の車を借りた、自衛隊や消防・救急車両の移動のために、政府が東京と福島を結ぶ高速道路を規制した。福島の内外から四方八方に脱出してくる車両によって、国道は「アナコンダ級の長蛇の列」状態だった。国道に沿って20時間以上、走った。
現場は残酷だった。ガソリンスタンドもバリケードを張った。政府の方針によって、特殊・緊急車両以外にはガソリンを供給しなかった。カメの歩みで移動していた避難民の車両のうちの一部が燃料切れで道路に放置された。道は修羅場そのものとなった。
マンションは崩壊するほどに揺さぶられながらも、その形を維持していたけれども、耐震設計が不可能な内部のガスパイプや水道管はトウキビの枯れた茎のように折れ曲がっていた。人々は公共の体育館に退避した。それでも「どんな逆境にもうち勝つことはできる。明日になれば悲しみを乗りこえ、再建に乗り出すだろう」と互いに誓いあった。
残っていた希望を絶望へと変えたのは福島第1原子力発電所(原発)だった。津波の余波で原子炉の冷却施設が破壊されると、核燃料が溶け落ちた。大規模な放射性物質が流出し、住民16万人が強制退避した。10万人がまだ故郷の家に戻れずにいる。放射能の恐怖とは、そういうものだった。そして、あれから5年。

福島とチェルノブイリの違い


「福島第1原発では、まだ炉心が溶けているものと推定されます。きょう行く福島富岡町は第1原発から南側に9qほどしか離れていない所です。居住制限区域と帰還困難地域が混じりあっている所なので、高い放射能の数値のゆえに疲労感を感じることがあります。ここから3q下には大地震当時に爆発直前にまでいった第2原発もあります。3・11以降、富岡に来るのは私も初めてなので、ちょっと心配になりますね」。
去る2月28日、鈴木薫いわき放射能市民測定室(市民測定室)事務局長の言葉を聞いてバスの中には、いささか緊張感が漂った。午前9時から7時間ほど、福島県富岡地域周辺で放射能測定視察のある日だった。日本には福島原発事故以降、このような民間の放射能測定団体が百カ所以上、できた。
前日、他の取材のために高速道路に乗って仙台に移動していた途中、自治体が道路のそばに設置した「放射能測定器」で「4・4μSv(マイクロシーベルト)」の線量を見たので緊張感は一層、高まった。時間当たり4・4μSvを年間被曝量に換算すれば38・5mSv(ミリシーベルト・4・4μSv×365日×24時間=3万8544μSv)に該当する。日本政府が、住民らが居住できない地域(居住制限地域)とみなしている年間基準は年間20〜50mSvだ。福島の事故以前、一般人の年間被曝限度線量だった1mSvに照らしてみると40倍近い数値だ。さまざまな研究結果は放射線関連職種者たちの年間許容被曝量は50 mSv、以後のがん発病率が0・5%ほど高まる可能性のある数値を100mSv程度と見ている。
福島原発半径20q周辺の一部地域で、今も住民たちが暮らしているだけに、放射能の危険を誇張する必要はない。けれども一般人らが日常的に通行している高速道路から出てきた線量で4・4μSvは余りにも高い数値だ。この日、ベータ線研究の権威者であるベータ線研究所天野光博士と鈴木譲東京大学名誉教授(農学生命科学)などの専門家グループが行動を共にした。天野博士は「一部では『居住制限区域』の指定基準である年間20 mSvを超えなければ大丈夫だと主張する。けれどもチェルノブイリの場合、時間当たり0・23μSvが出てくれば出入り禁止区域とみなしている」と説明した。
「きょうは車両通行が可能な居住制限区域を中心として移動するつもりです。バリケード1つ隔てて、手を伸ばしさえすれば帰還困難区域がある所だけに注意しなければなりません。まわりの人を意識することなく、心配になればマスクを使ってもいいです」。
薫事務局長の案内とともに富岡の入り口に立った。近くの「Jビレッジ」芝生競技場で、意外にも若い女性サッカー選手らが練習していた。いわき市議会議員だった佐藤和良の説明だ。「2020年オリンピックが迫っている状況なので、このようなサッカー選手らを犠牲の羊として、放射能問題は解消された式の展示効果を狙っているようだ。日本政府のプロパガンダ(宣伝戦略)だ」。

固定線量計の数値マジック


Jビレッジは原発事故後に放射線量が高まると、東京電力の職員や除染労働者(放射性物質を拭い線量を減らす人々)、建設労働者、警察などが主として駐在する地域となった。高い放射線量のゆえに通行が制限されていたが、最近になって車両の通行が許可された所でもある。東京電力は去る2月、福島原発に出勤する東京電力職員や除染労働者など8千人余がJビレッジの施設を利用していると発表した。
その向こうに国立楢葉原子力融合技術開発センターが見えた。第一原発の内部状態を確認するために投入されているロボットを実験する所だ。1台当たり2〜3億円ほどするロボットだと伝えられている。莫大なカネが投入されているものの、佐藤和良は大きな期待をかけている表情ではなかった。「センター内に実際の原発設計図を縮小模型で作りおき、実践に近いようにロボットを投入する訓練をしているものと伝えられています。けれども溶け落ちた原発内部に投入されたロボットを、まだ1度も回収したことがありません」。
ほどなく放射能の測定が始まった。富岡町当局が固定式線量計を設置した「富岡白鳥が見える湖」で、市民測定室の線量計は時間当たり0・16μSvと集計された。固定式線量計も0・1μSvを指した。けれども市民測定室関係者が固定式線量計からちょっと離れて奥まった空間を測定すると、線量計の数値は「0・6」にまで上がった。年間5・9mSvに該当する。最悪の核発電所事故があったウクライナ・チェルノブイリでは年間5・9mSv以上の地域から住民たちを強制移住させた。
天野博士は「固定式線量計は、政府や自治体が周辺を完全に掃除した後、セメントの基盤を敷いてその上に再び鉄板を置いて設置したものなので、キチンとした数値が出てくることはありえない。政府がそのように見かけ倒しで測定した線量を基にして住民らに『帰還してもよい』と説得したものだ」と語った。

住民の意思と関係ない帰還政策

 測定室は線量の信頼度を高めるために、日本政府が公認している測定器「アロカ」を含め「ホリバッテリー」「ホットスポットファインダー」など3つの線量計を利用して測定した。天野博士は「きょう持っていく線量計は最大30mSvまでになっている地域が余りにも多くて使い物にならなかった。それでも今は使えるようになった」と語った。
周辺のそこかしこにビジネスホテルが新築されていた。薫事務局長は「住民は帰ってこないと言っているのに、外部の人々がまず地域の復興に乗り出すという奇妙なことが繰り広げられている。政府が地域住民たちの意思と関係なしに避難指示解除区域へと帰還政策を強行しているという意味」であるとして、あきれかえっていた。
さほど遠くない所に「高濃度放射性廃棄物最終処分場」が待ちかまえていた。福島を清掃して出てくる放射性のゴミを貯蔵する場所だ。最終処分場には放射性廃棄物を集め入れた「フレコンバッグ」が福島の全域から次々と入ってくる。「固くないコンテナ」(flexible container)という意味のフレコンバッグは大型黒色の布袋形態になっている。一種の「放射性ゴミ重量制封筒」だ。「トンバッグ」とも呼ばれる。
福島の海岸線に近い臨時貯蔵所には黒いフレコンバッグが水平線にまでつながったという錯覚を催すほどに、ものすごい量の廃棄物が出てきている。日本産業技術総合研究所が、福島県の除染作業だけで5兆1300億円(約54兆9千億ウォン)がかかるだろうと推定した研究結果がある。
福島周辺の地域で放射能が染みついた木の葉を捨てたり、住宅除染の過程で出てきた放射性のゴミのうち、s当たり8千〜10万Bg(ベクレル)を超える廃棄物をここに貯蔵することになる。山を削って作ったこの場所を、政府や自治体は「エコテック・クリーンセンター」と呼ぶ。環境科学技術を動員して、きれいに放射性廃棄物の処理が可能だという意味のはずだ。けれども福島の事故以前にはs当たり100Bgを超えれば政府が直接に放射性廃棄物として処理したけれども、基準値を80倍も高めた。専門家でなくとも「安全」ではない、処理可能な「容量」に基準を置いたものと考え得る由縁だ。
最終処分場の横には「放射性廃棄物搬入反対」という横断幕がかけられていた。薫事務局長は「富岡の住民らの心配は10万Bg以下の廃棄物処分場だけではなく、これを皮切りとして中間処分場へと行くべき10万Bg以上の超濃度廃棄物がここで処理されかねない、と憂慮している」と説明した。

家には何も残っていなかった

 富岡の中央商店街は人が暮らしていた所だった。道に沿って小さな市場が形成され商店、子どもらがわいわい行き交った塾、米屋などなどが並んだ町なみだった。だが今は幽霊都市となった。街角にはダイダイ色の点滅燈だけがまたたいていた。犬も猫も、その姿は見えなかった。集落の時間は3・11当時のままに止まっていた。
遠藤が経営していたハンコ屋もそうだった。固く閉ざされたガラス窓の中に、沿道に仕事を依頼したお客らの「ネーミング・カード」が雑然と散らばっていた。3坪ほどの店の作業台の上にライターとボールペンが置かれていた。ハンコの技術がとても優れていたのか、どこからかもらった「入選」の賞状が、その作業台の上に転がっていた。壁にかけられたカレンダーは「2011年3月」を示していた。5年目の4月を迎えることができずにいた。
遠藤の店からちょっと離れた飲食店「アトムすし」もそうだった。テーブル1つに3個の湯のみがその場を占めていた。軽いお盆やプラスチックのコップなどは床に散らばっていた。片隅ではふきんが空のビールジョッキ10個ほどを覆っていた。「現地の港直送店」と書かれた大きな看板の下には「新鮮度最高、楽しさまで満足する」という宣伝文句が、いかにもそのようだった。壁時計は9時45分を指していた。3・11以降、ある時点までチクタクチクタクと時を刻んでいたであろう時計は5年たってもやってこない主人を待っていて、待ちくたびれて時の刻みをやめてしまったようだった。
ナカヤマ・ヒロコの家もそうだった。この集落で生まれ育ったナカヤマは家族とともにここで4代目を生きてきた。彼女は家に付設した建物で「ナカヤマ勉強の家」を運営していた。ここで町内の子どもらに勉強を教えた。父母らの退勤が遅れるときには、遅くまで子どもらの面倒を見もした。小さな庭が日本特有の作庭方式でこざっぱりとしつらえれた場所だった。いなかの集落の心根というのは、だいたいそんなものだ。両親は「ナカヤマ時計店」を経営していた。
大地震が起き津波が押しよせると家族らは逃げた。時計店の値の張る時計を持ち出す余裕はなかった。その時に限れば、数日も過ぎれば家や店を片付けて再び生活ができるだろうと考えた。なにせ大災害だったのだから、そのくらいの覚悟もしっかりとしなければと考えた。だが原発が爆発し、放射能のせいで富岡にも疎開令が下された。
数カ月後、政府が「一時帰宅」を許可した時、時計店には何も残ってはいなかった。ハルモニ(おばあさん)のモンペに用意していた非常の際の財布のカネも消えた。かわいい新郎・新婦の木彫り人形の顔はハツカネズミにかじり取られて無くなっていた。店に残っていたのは重くて持ち出すことなどできなかったマッサージ器具、そして放射能だった。

表面的には痕跡がみつけ難い


ナカヤマの家を中心に再び放射能測定が始まった。0・614、0・655、0・690…。機械を動かすたびに数値が上がっていく。小さな池の前では時間当たり最大1・244μSvが測定された。「以前はホタルが出てきていた所です。きれいな環境でのみ生きるというホタルだが、放射能のある所にホタルは出てくるのでしょうか。自治体がここをきれいに片付けたけれども、人間が暮らせない所になったのではないですか」。ナカヤマの言葉には恨みというよりも絶望に近い諦めがないじまっていた。彼女の家の前の道路では線量計が最大1・4μSvを指した。
この地域は既に除染作業が完了したと自治体が報告した所だ。実際に通りはきれいだった。表面的には3・11大地震の痕跡を見いだしがたかった。田畑もまるで秋の取り入れをしたかのようだった。日本政府が2014年から住民らの「帰還政策」を推進しつつ、放射能の数値を低める除染作業と復旧作業を同時に進めているからだ。
除染作業は住宅と道路、田畑から放射性物質を払い出し、削り取り、放射能の数値を低める仕事だ。日本政府は2017年3月までに主要な避難指示解除準備区域と居住制限区域の解除を推進している。既に2014年に田村市都路東部など一部地域に避難指示解除が実施され、昨年にはすべての住民が町を離れていた楢葉町にも同じ措置が講じられた。
除染作業など、一定の手続きを経て放射能の数値が低くなれば富岡も同じ過程をたどることになるだろう。除染作業は主として屋根と壁を水で洗い流し、住宅や道路の周囲に落ちた草などを除染するやり方で行われる。除染作業後、風が吹けば山から再び放射性物質が家の周囲に舞い下りる。
道路で時折、出くわす除染労働者たちが、このようなことを言う。彼らは日給6千円をもらう日雇い労働者だ。他にもらう危険手当6千円ほどを加えても韓国のカネで1日10万ウォンちょっとの低賃金日雇い労働者だ。昼食がわりに弁当を買うため「コンビニ」に立ちよった。入り口のガラスに張った環境省の「マナーアップキャンペーン」ポスターには、1人の除染労働者が雑巾で金網を拭いていた。ポスターは「美しい福島によみがえらせることが私たちの使命です」と語っていた。

一緒に暮らせない避難民家族


「想像してみますか。200年以上も桜の花々が道の両側にずらっと並んでいます。しっかりと育った枝にそって毎年、春ごとに桜花が空をおおいます。我々はその間を行き交いながら子ども時分をすごした所なのです」。
もともと富岡は桜で有名な所だった。町のまん中に桜の木2千本余りが花の道を作っている。年ごとに4月ともなれば数万人の人々が花の通りを見るために押しよせてきていた所だ。
ナカヤマは100mほどの桜が左右に並んでいる道の入り口で、子どものころを思い浮かべた。「ここは道が始まる場所にすぎません。あの目の前のバリケードを越えれば本物の桜の道があります。事故以後5年間、ここを訪れてくることができなかったけれども、花は私たちを忘れることなく咲いていたことでしょう」。
わずか30m余り前方にマスク姿で警戒用のライトを持った警備員。そしてその後ろに帰還困難地域が控えている。道路右側のガードレールにそって帰還困難区域と設定されている。手を伸ばしさえすれば帰還困難区域になるのだ。現在は累積放射能が50 mSvを超える地域だ。政府は事故後6年が経過しても年間累積放射線量が20 mSv以下に落ちないものと予想する。住民といえども接近することは強制的に遮断される。がっちりしたバリケードが道を阻んでいる。マスクと警戒用のライトを持った警備員が進入を阻んでいる。バリケードは放射能を阻むことはできない。戻ることのできない大地となってしまった訳だ。
避難民たちのうち相当数の老人が仮設住宅で暮らしている。収入のない中年の家庭は何としてであれ仮設を脱け出したケースが多いという。子どもらの教育問題もかかっている。だが老人たちは依然として仮設住宅で暮らしている。故郷を離れた人々にとって断絶は日常となっている。ナカヤマは、こう説明した。「孫たちが仮設に遊びに来る場合があります。けれども『じいちゃん、ばあちゃん、家に遊びに来て』と言いながらも、『一緒に暮らそう』とは言いません。家族がカネの問題でたえられないから、初めっからそんな話を口にしないのです」。
福島原発の南部方向のいわきに移住した避難民たちの状況も似たようなものだ。いわきの住民たちは「富岡の避難民たちは政府から月10万円ずつの補償金をもらって、暮らしむきは豊かだろう」と、ねたみまじりの視線を送るという。実際に富岡の住民らは生活費として法外なカネをもらって故郷を離れ、トッセ(地元風をふかせること、先にいたものが後に来たものを軽んじること)で苦しむ生活が5年も続いている。
「富岡町が知らせる放送です。ここは居住区域です。すべての区域の定例の出入りは午後3時に制限されました。この時間までには全員、外に出てください。直ちにバリケードが設置されます」。機械的な声が町の至る所に設置されたスピーカーから響きわたった。
最後の目的地は滝川ダムと決まった。3・11当時、避難民らが死の恐怖に震えながら通って行った麓山トンネルを通過しなければならなかった。ここと接している川内村の人口は3千人余だが、このトンネルを脱け出すだけで5時間がかかったという。福島第1原発とは9qほど離れた所だ。通行可能地域で、目で第1原発を観察することのできる、何カ所もない所の1つでもある。

住民3千人がトンネルに5時間

 カメラのズームレンズを引きよせてみた第1原発には白い建物が点々と建っていた。第1原発を何度も観察していた佐藤和良は「以前はおびただしい数のクレーンが動いていたが、今は多少、安定したようだ。汚染水の貯蔵タンクと思われる青色の施設の周囲も以前よりは安定した感じだ」と語った。
バスは6号国道に乗った。日本の東北部海岸沿いに作られたこの道にそって福島第1原発、第2原発がある。道路の両側に除染された田畑がよく整理されている。自治体だけではなく住民たちも「除草作業組合」を作り管理しているという。一部ではいくつかの作物を栽培する実験を行う。また別の人々は太陽光パネル設置の場所として土地を貸してやろうという。希望はあるのだろうか。

誰も分からない、だから恐ろしい

 ナカヤマは「線量は余り高くないけれども、被曝が心配ならば、まずきょう着た服をすべてきれいに洗って」と言った。初の福島取材に向かった5年前の記憶がよみがえった。昨年の健康診察で甲状腺機能低下症の判断を受けた。2年前の健診時と比べて、甲状腺刺激ホルモンが20倍ほど上昇していた。担当医は「この状態のままであれば1年後には歩き回ることもできないだろう」と語った。医者が脅しをかけたのかも知れないが、本当なのかも知れない。原因は福島だったのだろうか。
チェルノブイリ地域の子どもたちの甲状腺がん発生率が5〜8倍に増加した時期が事故後4〜5年頃だとの報告書がある。自分の立場を誇張することでもあり得るが、本当でもあり得る。子どもは大丈夫だろうか。上の子は福島の取材後11カ月後に生まれた。かわいく、健康に育っている。ところが、よくカゼをひく。私のせいではないだろうか。原発の本当の恐怖がここにある。誰に、どんなことが、どのように、なぜ起きるのか「誰も知らない」。(「ハンギョレ21」第1102号、16年3月14日付)



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