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    かけはし2016.年4月18日号

希望はない、だが作る、そのために闘う


福島で出会った3人

「暮らし」を奪い去っても開き直る政府に怒り


 3・11東日本大地震と東京電力福島第1原子力発電所の事故以降、放射能が福島を襲った。5年が過ぎたけれども、ここは依然として「死の都市」のように映っている。住民たちは政府が「棄民政策」を繰り広げているとしつつ、自らを「捨てられた人々」だと呼びもする。
だがここでも暮らしは続いている。離れることのなかった人々がいる。離れたものの戻らなければならない人々がいる。被ばくの危険を抱えて生計を紡ぎ続けている日雇いの除染労働者もいる。ある人は動物との宿命のような因縁を断てなかった。福島で希望の手綱を放さない3人の話を紹介する。

父は広島、私は福島

 私の名前は木幡ますみ。父は「広島入市被ばく者」だった。第2次世界大戦当時、海軍だった父は広島への原爆投下直後、都市に進入して救助・復旧作業を行った。広島の住民ではないながらも原爆地域で深刻な被ばくに遭った父たちを「入市被ばく者」と呼んだ。人類の歴史上、初の「原爆の都市」で死体を片づけ、被爆患者を手助けするのが彼の仕事だった。人や建物、道路がすべて放射能だらけだった。福島県郡山出身の父は戦争が終わって故郷に戻ってきた。父が入市被ばく者だったという話を聞いたのは、亡くなるわずか2日前のことだった。父は最後の力を絞り出した。「被ばく者の子ども、それが原因の遺伝病を患うという差別を受けるのではと思って生涯、語ることができなかった。すまない」と…。

被ばくを子孫に伝える、息の詰まる歳月
いわき出身の母は私が生まれた時から病みがちだった。母は戦時に爆弾製造の工場で仕事をした。困難な暮らし向きで高校に進学したものの、いくらもしないうちに戦争が勃発した。科学の素質のある学生たちは爆弾作りの仕事に動員された。猛毒性物質を扱わなければならなかった。年かさだった母に友達はいなかった。同じ仕事をしていた同級生らは大方が早世した。生涯、病む身で過ごしていた母は昨年、あの世に旅立った。
「息詰まる人生の遺伝」というのは、このようなことだろうか。私は福島で学習塾を営みながら生きてきた。前庭ではコメと椎茸も育てた。3・11大地震がすべてを変えた。逃げなければならなかった。3月12日未明5時、避難命令が出た。私らのように山間地域の住民たちは立ち遅れて避難の行列に加わった。水、食料、おむつ、お金も準備できなかった。非常薬もなかった。退避所での2日目、夜中に目の前で、寒さと怒りで立ちあがろうとする瞬間にそのまま倒れて死んだ人を見た。子どもらが泣くと1人の中年男性が「赤ん坊の口でも塞げ」と言った。沖縄出身のおばあさんは「戦争の時と一緒だ。当時は敵軍を避けて隠れていながら、生きるために赤ん坊らの口を塞いだが、その時と何も変わっていない」と語った。
一時帰宅の機会を得て家に行った。避難する時、家で飼っていた子犬の「ポチ」だけではなく、一緒に飼っていた捨て猫の「ニャーニャー」も連れていくことはできなかった。3カ月後、家に戻るやいなや防護服の端を歯でくわえ、どこかに連れていく。ニャーニャーが死んでいた。人の気配のない所で犬や猫が死ぬと、山の獣がやってきて死骸を食いあさるのは珍しいことではない。だが、ニャーニャーには傷痕が全くなかった。ポチの全身に生じた大きな傷痕が「母ちゃん、俺がおらいの家族、ニャーニャーを最後まで守ったよ」と教えてくれているようだった。ポチは昨年9月に死んだ。動物病院で、がんと心臓病の診断を受け、あまりにもひどく苦しがりながら逝かなければならなかった。
涸れてしまった井戸から水が逆流した。第1原発から3q離れた所でも同じようなことが起きた。津波が押し寄せたのだから水が逆流することもあるのだと思った。けれども簡易線量計を水の近くに当てると、はなはだしい警告音を発した。核発電所(原発)が爆発するとともに放射性物質が地下水とつながったことは間違いなかった。

涸れた井戸から
汚染水が逆流
5年が過ぎたものの状況は全く良くなっていない。子どもらの甲状腺結節、甲状腺がんの頻度が増加している。ある夫婦の下で、2人の子どもがいずれも甲状腺がんにかかったケースも見た。ある高校生は2度の甲状腺手術を受け、また肺がんが発病した。政府は「福島の事故との因果関係はない」と主張しながらも、これらの人々を治療してくれる。異常なことだ。地域社会が台無しになっている。政府は放射能地域に戻らない人々に「もはや、だだをこねるのは止めろ」と逆に開き直った態度を取っている。解決法は決まっている。政府や自治体が放射能の危険地域への強制移住を撤回し、移住を希望する人々に避難所を提供すべきだ。「戻らない権利」を与えればよい。

カネが必要で「死の灰」を拭う


私の名前はオカザキ・ヒサシ。福島に働きにきた人間なので縁のないわけではない。私は一時は岡山で家庭を持った。あれこれの理由で離婚した。長い間、機械関連のシステムエンジニアとして仕事をした後、不動産業に転じた。だが思わしくなかった。その頃、両親が暮らしている福島で3・11事故が起きた。故郷に戻ってきた。カネが必要だった。どこに行っても除染労働者を募るポスターが張ってあった。「美しい福島に取り戻すことが我々の使命だ」。53歳の離婚男にできる職場は、そう多くなかった。
日当6千円。最低時給(798円)をかろうじて超える水準だ。これに加え、放射能を扱う仕事だとして危険手当6600円が追加支給される。政府が大企業に仕事を与えると、多重下請けシステムを経て我々のような日雇い職労働者が手にするカネは1万3千円の水準だ。私が所属した人材派遣会社では労働者1人当たり1日2〜3千円程度をピンはねすると聞いた。カネが急に必要になった人々には先払いでくれもするので、すぐさま窮するというケースは、さしてないようだった。
朝8時からの食事時間を含めて午後4時まで働きさえすれば良い。会社が用意してくれた宿泊で過ごし、除染作業の場所に通った。いささかわびしいけれども、会社で朝食、夕食を準備してくれるので便利だ。放射性トラウマのある住民たちの偏見も避けることができる。少し前に、作業服姿でコンビニに入り店員たちから「トレイを使わないで」との話を聞いたこともある。少なくとも福島の住民たちは作業員らがチョッキや帽子を脱ぎさえすれば、ひどい差別のような状態を見せたことはない。日曜日と雨の日だけは休む。嵐が吹けば、どのみち除染作業はまた始める。森林にあった放射能が、そっくり飛んで来る。

最低賃金、多重
下請けは茶飯事
政府が除染作業を大々的に広報しつつ「住民帰還」政策を推進しているが、これは大したものではない。屋根は大方、水で洗い流す水準だ。壁は大部分は線量が高くなく、ほとんど除染作業を行わない。住宅で目につくほどに線量の高い所は拭い取りもする。「シンチレイション」という計測器で、1mの高さで0・23マイクロシーベルト(μSv)より高い所は除染対象だ。会社側が「できるだけ線量を落とせ、ただし床面をあまりかき出すと線量が上昇することもあるので適当にやれ」と語ったこともある。
問題は野山(平野部の低い山)近くの住宅地などだ。木や落葉も積もった線量が、はなはだしく高い。家周辺の小さな木は手をつけられないと思えばよい。落葉も完全に除去はしない。落葉もすべて捨てれば、落葉の下の地面に降り積もった放射能によって、むしろ線量がもっと高くなるからだ。正確な理由は分からないけれども、土までかき出せばまた線量が高くなる。我々が持っていたマニュアルには除染作業後、必ず線量が低くならなければならない、となっている。除染作業によって線量をどの水準にまで下げなければならないのかという正確な数値もない。
実際の除染作業というのは、線量計で測定して作業前よりも少しでも低くなるという水準で、ただうわべがきれいになる程度に行う。住宅内部は、はなから手をつけない。内部でも線量が相当に高い所があるだろうけれども、それは住宅の所有者が責任を持つ部分だ。こういうやり方で、福島の除染対象99万軒のうち90%ほどが除染を完了した。今や本格的に道路と生活圏の除染を始めるだろう。

家の中は放置、
住人に押しつけ
それでも長くやるべき仕事ではなかった。主として居住制限、帰還困難地域で作業をしているが、人が暮らせないまでにした空間で1日8時間ずつ仕事をするのだ。防護装備だと言ってみたところで長そでの服、長ズボン、長靴、防塵マスク、ヘルメットぐらいだ。一緒に仕事をしていた人々の中に「ここで働いても大丈夫」という人は誰もいなかった。「危険手当をもらったのだから働いているのだ。命と引き換えじゃないか」と語る。被ばくによって深刻に健康を損なった人は見たことがない。コンディションがよくないと言えば、何よりも会社が業務からはずすからだ。日雇い労働者というのは、もともとそんなものだ。
私は運の良い方だった。市内にあるわが家は新築した。昨年、父が肝蛭(てつ)性肺がんの診断を受け亡くなった。さまざまな病院に行ってみたが、放射能との因果関係を確認できなかった。それでもこのような家で暮らすことはできないと思って苦しい決定を下した。もともとの建物を撤去し、基盤からきれいな土を家の周辺に敷きつめ放射線量を減らした。除染労働者として働いた後、今は除染監理者に業務を替えた。除染対象の住人と交渉する仕事を主にしている。もはや帰還困難地域に投入されない。放射能から逃げることはできないが、少しは避けることができるようになった。

被ばく牛でいっぱいの「希望の牧場」


吉沢正巳。年は62歳。最後の牛と寿命を共にすることもあり得る。昨年から、牛たちがこれ以上は子牛を産めないようにした。今後5年、あるいは10年ぐらいは生き残るだろうか。
3・11原発事故の際、ここ福島県浪江町にも避難命令が下された。わずか14qの距離で福島第1原発が爆発し、放射能がここを覆った。事故当時、原発から立ち昇る煙も見ることができた。一時、放射能の数値が時間当たり100μSvを超えていた地域だ。人々は逃げていったけれども、私が育てていた牛たちはそうできなかった。ここ畜産法人の村田社長が「君も逃げろ」と言ったけれども、牛たちのように私も離れることができなかった。牛たちが飢え死にしないようにするのが私の仕事だ。村田社長も事故以前には「牛を失ってしまってはダメだ」と頼んでいた。
ここは「希望の牧場―福島」だ。ここで300頭の牛が暮らしている。福島原発の事故が勃発した時、住民らが逃げるとともに他の農場で1500頭ほどの牛が飢えて死んだ。健康な牛を殺処分したケースも多かった。事故から5年が過ぎた。その間にわが牧場でも200頭ほどが死んだ。けれども子牛が新たに生まれもしたし、近隣地域で生き残った被ばく牛たちを育ててくれと言われて預かったケースもある。再び300頭になった。事故から1年6カ月が経過して、胴回りに白い斑点を持った突然変異が20余頭が現れた。獣医たちは「毛の色素が抜けているのだ。病気ではない。牛たちは健康だ」と言いつつ驚いた。放射能以外に他の原因を考えることはできなかった。

突然変異が現
れ交配も中断
昨年までは牛たち同士の交配をした。けれども、それさえ中断した。この牛たちをなぜ育てているのか、私もよく分からない。周りの人々には「売られもしない子牛が生まれて、どうするのか」と話した。そう、「食うこともできない牛」に何の意味があるのだろうか。殺処分をするか悩みもした。けれども誰にも害を与えることなく、ともかく生きている牛を殺処分するのは、はたしてどんな意味があるのだろうか。
私は何かとんでもないことをしているのかも知れない。だが時の流れとともに、考えは整理された。牛を育てるということは無責任な国家に対する抵抗だと考えている。一種のカウボーイ、レジスタンスのようなものだ。飼料代や農場の運営費は全国の市民たちが募金してくれている。これらの人々は、ここで「希望」を見た、と語った。死んでしまったと思っていた村に300余頭の生命が生き続けているのというのだ。
人間が生命をどう扱ったのか考えさせる場所になったならば、と思う。大地震が起こると、みんなが生きとし生けるものを放置して逃げていった。原発が爆発しようとすると、自衛隊や救助隊員たちにも撤収命令が下された。危険な瞬間がやってくると、(人間ならざる)命をわずらわしいものと考えていたようだ。
ましてや牛は語ることがなかった。避難しながら、数百頭の牛をあのように捨ておいた。殺処分をしない理由もここにある。政府は第1原発の放射能流出や被ばく被害者たちの因果関係について大部分を否認している。新聞を見れば、福島で19歳以下の児童・青少年の甲状腺がんの発病患者が38万人中166人だと伝えている。全国平均(100万人中3人)と比較すれば100倍以上も高い。人間では実験することはできないが、ここで生きている牛たちが因果関係を証明してくれだろう。2014年には斑点牛を連れて東京都心まで出かけた。当時の農水産相を相手に、こう話した。
「政府が牛たちの殺処分を要請するのは放射能被害の証拠をいん滅しようとするものだ。国家は原発の再稼働、原子炉の輸出に血眼になった。斑点牛がうれしくない。牛との因果関係を明らかにしたくない。原発の放射能漏出事故との因果関係をキチンと調査すべきだ」。
「それでも希望はあるものなのか」と問う人々がいる。そのたびに「希望の農場は逆説の名称」だと答える。ここは絶望の大地だ。地域の住民たちは、政府が事実上「棄民政策」を取りながら見捨てられた住民扱いを受けている。けれども絶望した状態で倒れることはできない。だからこそ農場の名前も「希望の農場」とした。「希望は誰かが持ってきてくれるものではない」と語ってやりたい。今、希望がないのであれば作ればよい。ここは原発事故と政府の無責任な態度をそっくりそのまま見せてくれる所だ。さまざまな人々の目や心を打ち貫く所だ。行動し、闘わなければならない。希望の道が、その中にある。(「ハンギョレ21」第1103号、16年3月21日付、文、ホン・ソッチェ記者、写真、キム・ジンス記者)

 


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