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    かけはし2016.年4月25日号

普天間返還合意から20年 日本政府無為無策の20年


沖縄報告 4月17日

無条件返還の訴え今こそ

日米両政府に迫る闘いを

もういい加減にしてほしい

 一九九五年の少女暴行事件のあと沖縄県民の米軍に対する怒りのマグマが大きく噴出する中、一九九六年四月一二日、当時の橋本首相とモンデール駐日米大使は緊急記者会見を開き、既存米軍基地の中に新たにヘリポートを建設することを条件に、米海兵隊普天間基地の五年ないし七年以内の返還に合意したことを発表した。本来なら普天間は二〇〇一年ないし二〇〇三年に返還されていなければならない。
大田昌秀元知事が『東京新聞』のインタビューでこの時の日本政府とのやり取りについて次のように述べている。
「合意公表の約二カ月前、橋本龍太郎首相(当時)の密使として、秩父小野田相談役を務めた故諸井虔(もろいけん)氏が沖縄に来たので、那覇市のホテルでひそかに会談した。『米軍基地の中で最優先に返還すべきなのはどこか』と聞かれ、『一番危ない普天間飛行場をまず返してほしい』と答えた」
善意に解釈すれば、橋本首相は大田知事のこの要望に応えようとして普天間返還合意を発表したのだろう。しかし日本の政治の仕組みは、一首相の意思よりもっと大きく強い構造的な対米従属の支配の下にあった。橋本首相の善意はいつの間にかどこかに消え去り、「普天間の危険性の除去」を口実とした「県内移設」、辺野古新基地建設の流れが、日米安保マフィアたる日米安全保障協議委員会を軸にした日米政府によってつくられていくのである。
その後、基地内ヘリポート建設は東海岸沖の浮桟橋型海上ヘリポート案、さらにリーフ上埋め立て案となったが、海上抗議行動でボーリング調査が完全に阻止されてしまうと、日米両政府は二〇〇五年、キャンプ・シュワブ辺野古崎の両側を埋め立てX字型の滑走路を備えた新基地を建設する現行案を発表した。当時の稲嶺県知事や岸本名護市長が主張した「一五年使用期限」と「軍民共用」を取り入れた閣議決定はいとも簡単に投げ捨てられ、軍港、弾薬搭載場、ヘリパッド、そして背後に辺野古弾薬庫をもつ、運用年数四〇年、耐用年数二〇〇年の最新鋭総合飛行場計画となったのである。

大半のメディアも
無条件返還を支持

 他方、沖国大へのヘリ墜落事故が市街地のど真ん中に居すわる普天間基地の危険性をあらためて明るみに出し、深刻な騒音被害が続く中でも、普天間は一ミリも動かなかった。「辺野古が唯一」を掲げる日本政府がしたことは次の二つである。@海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイ二四機を県民がこぞって反対しているにもかかわらず配備した。夜間・早朝かまわず低周波を含むより以上の騒音をまき散らしている。A「負担軽減」の鳴り物入りで、KC一三〇空中給油機部隊一五機を山口県岩国基地へ移転した。しかし度々沖縄に飛来し訓練を行なっている。
返還合意から二〇年を経たにもかかわらず普天間の返還がまったく進まないことに、日本本土のメディアも政府の不作為を批判している。「なぜ返還は実現しないのか。沖縄の民意を顧みない政府の姿勢に最大の原因がある」(朝日新聞)、「問題をこじらせたのは県内に代替施設をつくる条件がついていたことだ」(毎日新聞)、「日米両政府は普天間を無条件で閉鎖し返還する作業を何より急ぐべきだ」(中国新聞)、「政府は普天間の返還を強く求めるべきだ。辺野古と絡めては問題解決は難しい」(神戸新聞)など、特定の右派新聞を除いて中央紙・地方紙ともメディアの大半は辺野古と切り離して普天間の無条件返還に取り組む必要性を強調している。
この二〇年、普天間は動かなかったが、普天間の無条件返還の必要性の理解は大きく広がったと言ってよい。
七一年前の沖縄戦で、住民がすべて戦火を避けて逃げている間に家・田畑をつぶしてつくられた基地を返還してほしいというのは、至極当たり前の民主的な、人権に基づく要求である。一八九九年にオランダ・ハーグで開かれた第一回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)並びに同附属書は「私有財産は没収できない」と明記している。普天間基地は国際法違反の上に造られた基地なのだ。米軍の鉄面皮と日本政府の追従が国際法違反の普天間を維持し続けている。もういい加減にして欲しい、奪ったものを早く返してほしい、という市民、県民の声はいまや最大限に高まっている。こうした市民・県民の当然の願いさえ聞きいれず長期間放置してきた日本政府、アメリカ政府はおかしい、という声の広がり・世論の形成は、沖縄現地の普天間返還・辺野古NO!の闘いと結びついて、日米両政府に対峙していっそう強く圧力を加え、普天間閉鎖の道筋を切り開く強力な援軍となるであろう。

4.14

第1回作業部会開かれる

フロート・オイルフェンスの撤去を確認


四月一四日、首相官邸で、沖縄県と政府は代執行訴訟の和解条項を受け、詳細を話し合う作業部会の初会合を開いた。県から安慶田光男副知事と謝花喜一郎知事公室長、政府側は杉田官房副長官と法務省訟務局長が出席した。会合で両者は和解条項の「埋め立て工事の中止」が示す範囲を議論した。
県は国に対し、埋め立て承認が取り消されているので工事関係のフロート、ブイ、台船などが現場にあること自体法的根拠がないとして、@臨時制限区域の撤廃、Aフロート、ブイ、アンカーブロック、オイルフェンス、台船の撤去、B仮設道路の撤去、C陸上部分の兵舎工事の中止の継続、D普天間飛行場負担軽減推進会議の早期開催、を求めた。
政府は、和解による工事の中止の範囲は「工事を進めずに現状維持すること」(菅官房長官)で原状回復まで及ばないとして、臨時制限区域の撤廃や臨時制限区域を表示する浮標(ブイ)、アンカーブロックの撤去に難色を示した。その過程で、第一回目の議題として、一つひとつ解決できる問題から話していくことを合意して意見交換した結果、政府はブイについては臨時制限区域の問題で米軍との調整もあるとして撤去に否定的だが、フロート、オイルフェンスについては応じるとの態度を見せた。しかし、撤去の時期については明言しなかった。中谷防衛相は閣議後の記者会見で「確たる時期を答えることは困難」と述べた。次回会議は五月中に開催される予定だという。
またひとつわれわれは成果を手にしつつある。臨時制限区域を体現してきたフロートがついに撤去される。さらに、原状回復へ向けて、臨時制限区域そのものの撤廃とブイ・アンカーブロック・工事台船、そして資材搬入ゲート前に敷かれている殺人鉄板やフェンスの撤去を勝ち取らなければならない。

4.15

係争委第2回会合

4月23日に翁長知事
が意見陳述

 翁長知事の埋め立て承認取り消しに対する、国交相の「是正の指示」の適法性を審査する国地方係争処理委員会は四月一五日、総務省で第二回会合を開き、論点整理の意見交換をした。会合のあと記者会見した小早川光郎委員長は、四月二二日の第三回会合で、県、国双方の意見陳述を求めることを明らかにした。陳述はそれぞれ二〇分、そのあと委員からの質疑の時間を設けるとのことである。第三回会合は報道陣に公開される。
沖縄県は翁長知事が出席して意見を述べる。翁長知事は、「承認取り消しの適法性を述べると共に、沖縄の歴史、置かれている状況、県民の思いや辺野古・大浦湾の自然環境の重要性を訴えていきたい。委員会は関係法令に照らし中立、公正な審理をしていただきたい」とのコメントを発表した。
県が申請していた稲嶺名護市長ら八人の参考人の意見陳述の採否は次回以降に検討されるとのことだ。係争委を舞台とした安倍政権との政治闘争に勝ち抜き、日米両政府との力関係を有利に転換させていこう。
今辺野古現地では、来るべき闘いの日々に備えて、深く学び共有する「辺野古総合大学」の講義が多彩に進行中である。同時に、県内外への運動の広がりとつながりを追求して、全国各地の運動や韓国チェジュ道の運動との連帯・交流の動きが進行している。名護市の二〇一五年度ふるさと納税が額にして一二倍の二億五八五九万円に達したこともこうした県内外への運動の広がりの具体例だといえる。そして県内の各市町村地域では、島ぐるみの総会、講演会や学習会など草の根から運動を再組織する動きが進んでいる。さらに注目すべき運動が加わった。嘉手納空軍基地第一ゲート前での早朝抗議行動の取り組みが始まり、初日の四月一五日に約四〇人が参加した。毎週金曜日、朝七時半から九時まで、「沖縄に基地は要らない」「米軍は嘉手納から撤収せよ」の訴えを行なう。
これらの闘いの上に、目前に迫った県議選と参院選に必ず勝利し、県議会与党多数派を引き続き維持・確立し、参議院議員をひとり加え現在の五人の衆参国会議員と合わせて沖縄選出のすべての国会議員を闘いの味方とし、翁長知事、稲嶺名護市長と共に、闘う民意をあらわすオール沖縄の闘争体制をさらに強固につくり上げて日米両政府との対決へと向かっていくのだ。

「4・28」64周年を迎えて

サンフランシスコ講和
条約と天皇メッセージ

 四月二八日は沖縄にとって特別な意味を持つ。現在の沖縄の政治的・法的な枠組みの始まりの日である。サンフランシスコ講和条約と日米安保条約は一九五一年九月八日に調印され、遅れて調印された日米行政協定と共に、翌一九五二年四月二八日に発効した。一九七二年復帰によって沖縄の日本本土からの分断と米軍政支配は消滅したが、軍事要塞の島・沖縄の現実に何ら変化はなかった。
サンフランシスコ講和条約は日本を含め五二カ国が参加したが、ソ連など三カ国は参加せず、中国は参加を認められなかった。東西冷戦の中で、日本が米国主導の「反共」世界の一員となったことを対外的に明らかにしたのがサンフランシスコ講和条約だった。
日本の旧植民地であった朝鮮、台湾は条約二条で、日本の支配から切り離すことが明記された。はじめ沖縄もこの二条に含まれていたが、のちに沖縄について三条が新たに設けられた。第三条の内容は、前段で、沖縄を、アメリカを唯一の施政権者とする信託統治に置くことを述べ、後段で、前段を実現するまでアメリカは沖縄の統治を続ける、というものであった。狐につままれたような文章だが、要するに、アメリカの沖縄に対する排他的、永久的支配を宣言したものにほかならない。
一九五一年九月八日、サンフランシスコ講和条約がオペラハウスで華々しく結ばれた同じの日の夕方、吉田首相と池田蔵相は米第六軍司令部の下士官用クラブハウスに出向き、日米安保条約にサインした。
それに先立つ一九五一年一月、対日外交を主導したダレス国務長官は、望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間駐留させる権利を確保する意思を表明していた。サンフランシスコ講和条約を通した日本の「主権回復」は、はじめから米軍の日本支配と沖縄の日本本土からの分断と軍事要塞化いう条件下でのみ可能だったのである。
二〇一三年四月二八日、安倍は「主権回復の日」を祝う式典を開催し、天皇陛下バンザイを三唱した。安倍には、日本の「主権回復」の条件として沖縄の日本本土からの分断と軍事要塞化および米軍政支配があったことはまったく念頭にない。日本の利益のために沖縄の犠牲をいとわない人たちが日本政府の中枢で国家権力を行使していることは実に不幸な事態だ。
一九七九年公開されたアメリカの外交文書に「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」というのがある。いわゆる「天皇メッセージ」である。一九四七年九月、昭和天皇が側近の宮内府御用掛・寺崎英成を通してGHQにたいし、沖縄の長期占領を希望することを口頭で伝えたものである。一九七八年、筑波大学の進藤栄一教授がアメリカ公文書館で調べ見つけた。新崎盛暉『沖縄からの問い―日米同盟の現在とこれから』(創史社、二〇〇七年)から一部を抜粋・引用すると、
「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望している」
「さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借―二五年ないし五〇年あるいはそれ以上―の擬制にもとづくべきであると考えている」。
アジア太平洋戦争と沖縄戦で完膚なきまでに敗北した日本の支配層、すなわち天皇と軍部・政界・財界・官僚・学界・教育界・メディアの支配層が、戦争責任を何らとることなく戦後もその地位にとどまることを米軍によって保障されることにより生まれたのが戦後日本である。アメリカに逆らえない日本の支配層の起源は戦後日本のそもそもの始まりに由来しており、年々拡大深化しながら、安倍政権に至って対米従属指数はMAXに達している。

 


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