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    かけはし2016.年5月2日号

生涯4・3を語ることが運命


作家・金石範と共にした日本現地文学ルポ(上)

執筆40年ぶりに「火山島」韓国語版完訳


 水の色は土色だった。
 運河の流れの上に雨足が錐のように差し込まれた。雨足にうがたれた水が川底の土を水面に押し上げた。くもり空ほどに濁った水だった。よどんだ世界でよどんだ道をたどりながら、「在日」たちは生きてきた。

平野運河…オモニの胎内から密航者

 金石範(キム・ソッポン、91)が傘を差しながら平野運河(平野川、大阪市生野区)に沿って歩った。去る3月14日、春雨が冷たく降り注ぎ、風はサクラの開花を阻んだ。「昔は手すりもなかったし、水もはるかに汚れていた」として金石範は記憶の中からその風景を抜き出した。御幸橋が運河を横切った。
彼は1961年まで生野で暮らした。幼なかった頃、御幸橋の近くには派出所があった。オモニの胎内にいたときから密航者だった彼は巡査らが恐くて、橋を避けて行き来した。20余年ぶりに訪れた出生の地で金石範は、見分けることのできない事ごとの中から思い出すことのできるものを選びだすのにくたびれていた。
平野がクダラ(百済)という名で呼ばれていた時があった。海の道とつながる平野川にそって渡来人たちが船に乗って入ってきて暮らしを営んだ。雨が降れば水があふれ湿地となった。安い土地に朝鮮人たちが家を求めた。近くのゴム工場、ガラス工場では日本人たちが嫌がる骨の折れる仕事を朝鮮人が耐えた。
金石範が歩みを止めて、奥まった路地の中に視線を向けた。「あのような家に南承之(ナム・スンジ、火山島中の主人公の1人)の父親が暮らすだろう、と考えた」。小さくて古びた家々は、身を隠した故郷でのように縮こまっていた。「右側に二階建ての家屋の裏塀が続き、左側に平屋建て長屋が並んでいたが、その一軒が母の家だった」(文芸春秋社刊、「火山島」第U巻74頁)。
1948年、南承之と康蒙九(カン・モング、同・主人公の1人)は済州から日本に密航した。4月3日に予定されていた武装蜂起の資金調達の任務を担った。生野の狭い袋小路に着いた南承之は、奥から2番目の家の前で「オモニ」を呼んだ。彼は「解放祖国の革命」を夢見つつ、オモニと妹を大阪に残して帰国した。
昨年10月、「火山島」の完訳本(全12巻、ポゴ社・刊)が韓国で出版された。終生、文章によって済州4・3と対決してきた金石範の「必畢の大作」だ。韓国語版として完成されるまで40余年がかかった。1976年に日本で連載を始めた「火山島」は1997年に7巻(文芸春秋社)で完巻した。執筆するだけで20余年が経過し、完訳されるのにさらに20余年の歳月が流れた。4・3のハン(恨)が200字原稿用紙で2万2千枚に丹念に積みあげられた。清算することのできない親日派(売国奴の意)と彼らを背後にした単独政府樹立が4・3とどうふれあっているのかを小説は執拗に問い続ける。
4・3は長い期間、口にすることの許されない鉄窓の中に閉じ込められていた。語られることのありえなかった4・3の運命が、語られることのできなかった理由を語らなければならない「火山島」の運命を生み出した。その運命の束縛に、生涯4・3を語るために生きていくよう金石範の運命も縛りつけられた。
4・3が直面した「歴史的退行」の岐路で「ハンギョレ21」が日本に渡って行った。「火山島」の現場を金石範と一緒に尋ね回った。彼は「切迫さ」という言葉を何度も用いた。
シャーシで枠を抑えた衰落した家は放置されたままの空き家だった。南承之のオモニの家だったと言うにふさわしい「そのような家」の中には文世光(ムン・セグワン、1974年8月15日、陸英修(ユク・ヨンス、朴大統領夫人)狙撃容疑で同年12月20日、死刑)が暮らしていた家(韓国大阪教会の後ろ側)もあった。彼の命を断った巨大な事件が連想されないほどに、主人のいない家は人目からはずれていた。抜かれていない雑草が玄関の腰丈まで茂っていた。
「この道を過ぎると市場全体からキムチの匂いがした」。
韓国飲食店が道の両側に広がっていた。今風のおかず屋を金石範は、ひとしきり眺め回した。南承之のオモニの家の近くには「朝鮮市場」があった。1920年代初め、日本は排水を改善し輸送路を確保する目的で水路を整備した。朝鮮人徴用労働者らが動員され、平野運河を建設した。彼らが頼りにした同胞らの店が朝鮮市場の基礎となった。裏路地でキムチを売っていた朝鮮人たちが表通りに出てきて店を構えた。日本人の商人たちは市場に集まってくる朝鮮人たちを避け、店をたたんだ。
生野のコリアタウンは平野運河を右にし、左側のJR線鶴橋駅と桃谷駅の間にある。韓国歌謡が流れ、韓国語で意思疎通し、トルハルバン(済州独特の石像)を立てた食堂などが街並みを作っている。日本人なのか韓国人なのか、大阪なのか済州なのか、そのいずれでもないかも知れない街が植民と被植民、移住と定着を通過しながら形成された。

朝鮮市場…「理念に染まったよこしまな心」

 昨年4月、金石範は熱い時間を過ごした。「済州4・3平和賞、初の受賞者」という栄誉が火の粉を浴びた。4・3の真相究明と平和・人権運動に注いできた功労を評価して賞が与えられた。彼は受賞の所感で「親日派勢力で構成された李承晩(イ・スンマン)政府」を批判した。保守陣営の攻撃が降り注がれた。
ハ・テギョン・セヌリ党議員は「反大韓民国的な発言」だと直撃し、「朝鮮日報」や「東亜日報」は「北の代弁者」「大韓民国をあしざまに非難するもの」と決めつけた。保守諸団体は授賞の取り消しと4・3平和財団の解散を要求してデモを繰り広げた。行政自治部(省)は、済州道が授賞者選定の適切性を監査するようにした。
6カ月後、「火山島」完訳本の出版を記念するシンポジウムがソウルで開かれた。金石範は出席できなかった。12月5日、済州で行われた出版記念会(「鴉の死」再出版)にも彼はいなかった。韓国政府が彼の入国を禁止した。彼の国籍は南も北も選択しない「朝鮮籍」だ。入国のたびに発給を受けなければならない旅行証明書を韓国大使館は出さなかった。
「入国許可を与えるという大使館の内諾が数カ月前にあったのに、出国直前に公式の葉書を送ってきて、不許可を通告してきた。入国禁止の理由は書かれていなかったけれども、明らかではないか。解放後70年が過ぎた時代に、イデオロギーに染まったよこしまな心があわれだ」。
猪飼野43―52。コリアタウンの「ジェデ薬房」(日本人が経営)の壁に付いていた旧地番表示を金石範が指差した。「痕跡でも残っていてよかった」。40年余り前まで「猪飼野」は生野を一括して呼ぶ名称だった。
金石範は1925年10月、猪飼野で生まれた。オモニは彼を胎内にかかえて済州から日本に密航し、彼を産んだ。大阪は在日朝鮮人たち(特に済州出身)の最多密集地(1922年1万余人→1932年10万余人→1940年30万余人)だった。
「済州から安い労働力を導入するために」1921年に就航した「君が代丸」号の済州〜大阪直航路線のせいであることが大きかった。1923年から10年間、朝鮮全人口が15%増加した時、済州島の人口は10%減少した。その期間、日本に渡った済州人は1年で3500人から3万人の水準に急増した。猪飼野は4・3を避けて密航した済州人たちの隠れ場だった。1950年代には済州人口の4分の1が日本にいた。
朝鮮人の青年たちにとって猪飼野は抜け出したい土地でもあった。「朝鮮人の町という別名がある猪飼野界隈は同じ地域に住む日本人が嫌うだけでなく、猪飼野に住んでいる朝鮮の青年たちにもいちどは猪飼野からの脱出を計る。在日朝鮮人としての生まれに対する反逆から、彼らは『猪飼野』が被差別の、恥辱の集中的表現だと思われるのである」(前掲同、第U巻265頁)。
金石範が鶴橋駅JR線高架下に立った。「1959年冬、串焼きの屋台をやっていた」場所だった。北海道で強制徴用暮らしをしていた朝鮮籍の男性が、彼の屋台にしばしばやってきて酒を飲んだ。彼から聞いた話を基にして金石範は短編「糞と自由」を書いた。
南承之・康蒙九は鶴橋駅を経て猪飼野に到着した。「鶴橋国際市場」は戦後のヤミ市場から発展した商店街だった。「店は日本人、中国人、朝鮮人がやっていたが、大半が朝鮮人で占められていた」(前掲同、73頁)。今も「オールド・カマー」(在日1〜2世代)と「ニュー・カマーたち」(1980年代以降、入ってきた韓国人)が韓服や韓国の食品を売りながら国際市場に依拠して暮らしている。
日本は愛憎がないまじった空間だ。憎悪の力で持ちこたえてきたけれども、憎悪だけでは生きてゆくことのできない「がめつい所」だった。「在日」は植民統治の産物でありながらも「在韓」であることのできない人々の、対案のない選択であった。
「穴を直接、掘らせた後、その穴に叔父を埋めてしまった」島から逃亡したパク・ヨンマンは猪飼野にきてやっと生を求めることができた。武装隊司令官イ・ドック(1948年6月、済州観徳亭広場で十字の刑具に縛られて遺体のまま展示)の甥イ・ボッスク(80)も「猪飼野の同胞らが互い互いに助けてくれて」生き残った。
「そこでは朝鮮人の生活の原形が少しも壊れずに不思議な生命力で生きつづけてきた」(前掲同、94頁)。
1973年、日本は猪飼野をなくしてしまった。鶴橋、桃谷、中川、東成などに分離して呼び、猪飼野という名称は「除去」した。朝鮮人の集落という認識を消すために、猪飼野は消された。

猪飼野…消された集落・消された名称

 金石範は日本で済州4・3真相糾明の象徴的存在だ。彼の長編「鴉の死」(1957)は日本で済州4・3を初めて公論化した。1987年には「済州島4・3事件を考える会」の結成を主導した。数百人が暗埋葬されたジョンットゥル飛行場(現・済州国際空港)の遺骸発掘の必要性も先頭に立って提起した。
4・3当時、金石範は済州を脱出した親戚を連れて対馬に行った。警察が焼きごてで焼いて両胸が溶けてしまった20代女性が親戚と一緒にいた。ろうそくの下で淡々と聞かせてくれた話は金石範にとってショックだった。聞いた話を基に初の小説「看守パクさん」(1957)を書くとともに、彼は「4・3の文章の監獄」に一生を閉じ込めた。
金石範の入国禁止は、韓国で4・3が直面した現実とも一緒だ。43年間、拒まれていた彼の入国は金大中(キム・デジュン)、廬武鉉(ノ・ムヒョン)政府の時に比較的自由になったものの、朴槿恵(パク・クネ)政府になって再び許されなくなった。金大中政府の時(2000年)4・3特別法が作られたけれども、朴槿恵政府は済州道に「犠牲者の再審査」を強く求めている。固定化された歴史教科書が4・3を歪曲するだろうという在日済州人たちの憂慮も大きい(「下」編で継続)。金石範は「私に対する非難は朴槿恵政府の4・3揺さぶりと無関係ではない」と語った。
生野区で「疎開道路(太平洋戦争時に米軍の空襲に備えて住民らを疎開した通り)に乗って北側に走ればJR線森ノ宮駅が現れる。駅の対角線方向に大阪城(豊臣秀吉が1583年に築城)が目につく。
「このあたりの広大な雑草の茂る敷地は、戦時中の陸軍工廠跡で、B29の集中爆撃を浴びせられたところだった。…かつての巨大な工場の群れは、錆びた鉄骨だけを剥き出しにした廃墟のままになっていた」(前掲同、103頁)。
「火山島」を書く時に廃墟だった兵器工場の跡地は現在、大阪城公園に変わっている。「それ以前は出入り禁止区域だった」のであり、金石範は「殺傷武器の旧屋」初めて足を踏み入れた。「東洋一の兵器工場だと言っていた。ここにあった武器で東洋の人々を殺したのではないのか」。
兵器廠の向こうには「アパッチ部落」(日本警察が朝鮮人たちをアメリカ原住民のように呼んでいた名称)があった。夜ともなれば朝鮮人らが爆撃を受けた兵器工場の中にもぐり込んで、クズ鉄や軍需品の残りかすを拾ってきて売った。
「26日の昼時を過ぎ、放送局の前の広い十字路周辺に集まった人々の叫びの中から突然、ターン、ターンと大きな音が破裂する銃声を聞きました」。
猪飼野の妹マルスンは済州に戻った南承之に1948年4月24日の「阪神教育闘争」(神戸デモ参加者1664人を検挙)を伝える。米軍政の朝鮮学校閉鎖命令に怒った同胞が大阪府庁(大阪城の向かい側)前の大手前公園に集まり抗議集会を開いた。4月26日、警察が撃った銃によって朝鮮学校の16歳の学生キム・テイルが死に、27人が負傷した。「火山島」でマルスンが見聞きした内容は、現実において金石範が経験したことだった。彼とデモ隊は知事との面談を要求して府庁への進入を試みたが阻止された。当時は上がることのできなかった府庁の玄関に入りながら、金石範は70年前を回顧した。
「棍棒を持って追って来る警察を避けて茂みに身を投げ出した時、旧大阪NHKのビル側から銃声が聞こえた。知事面談が不発になるとともにデモは解散された。面談がされていたならキム・テイルは死なずにすんだだろう」。
猪飼野には小学校2カ所、中学校1カ所の朝鮮学校が残っている。金石範が「大阪朝鮮第四初級学校」に入っていった時、半ズボン姿の男の子が教室の外に顔を突き出した。金石範が頭をなでながら尋ねた。「ウリマル アラドゥロ?(言葉、わかる?)」。子どもが堂々とあいさつした。「アンニョンハセヨ」。1960年代に建てられた古い校舎の壁には標語のような文章が張ってあった。「ナド ウリマルル スゴ トンムド ウリマルル スジャ(私も国語を使い、友達も国語を使おう)」
学校を出てきた金石範が目のあたりを拭いながら語った。「子どもらに何の罪があたるのか。四面楚歌の中でもウリマル教育を守りぬいているのだ」。
大阪朝鮮第四初級学校と狭い道1つを挟んで日本の学校「御幸森小学校」がある。朝鮮学校にはないプールや講堂があった。「この学校の90%が在日同胞の子女たちだが、韓国の名前を使っている子どもらは10%ぐらいにしかならない」とフジイ・コーノスケ(猪飼野セッパラム(新しい風)文庫代表)は伝えた。

大阪府庁…「誰が不義なのか」


金石範は4・3平和賞をめぐる事態を扱った文章を「世界」(日本・岩波書店が発行している月刊誌)2016年3月号と4月号に発表した。「2015年10月現在の入国拒否が70年前の歴史問題に起因したものなのか。李承晩政権批判に対する現政権の制裁ということなのか。1987年の憲法前文には、3・1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抵抗した4・19の民主の理念を継承すると銘記されている。ここで言う『不義』とは李承晩政府を指している」。
文章の題名は「最後の韓国行き」だった。(「ハンギョレ21」第1105号、16年4月4日付、文、イ・ムニョン記者、写真、リュ・ウジョン)



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