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    かけはし2016.年5月16日号

軍事要塞の役割は増大し続けている


沖縄報告5月8日

本土復帰から45年目の5・15

辺野古新基地NO! 自衛隊配備NO!

沖縄 K・S

 一九七二年五月一五日の沖縄返還、沖縄の本土復帰から数えて、四五回目の五・一五がめぐってきた。復帰までの米軍政下の二七年間を四半世紀と表現していたのが、いまや復帰後の日本政府支配下の期間が半世紀に近づきつつある。
この間沖縄はどう変わったのか、あるいは変わらなかったのか。異民族支配と言われた米軍の直接的な植民地支配たる米軍政支配は終わりを告げ、日本政府の政治的・経済的支配の下に組み込まれた沖縄は日本の一地方自治体として憲法、安保条約、日米地位協定をはじめ日本の法体系の適用を受けることになった。
しかし、軍事要塞としての沖縄は何ら変わるところはない。否、軍事要塞としての沖縄を維持するために、復帰前すでに危機に瀕していた米軍政に代わって、米軍政から日本政府への施政権の返還が行われたといえる。一九七二年の段階で全国の米軍専用施設の五三%が沖縄にあったが、現在その比率は七四%にまで上昇した。日本本土の米軍基地が漸次縮小されて沖縄への移転が進んだためだ。そして、老朽化した基地の代替を口実に、こともあろうに海を埋め立てて強大な新基地をつくろうとするのが辺野古の新基地建設だ。復帰直後からの自衛隊の派遣はすでに陸海空合わせて六〇〇〇人以上の部隊を有するに至っているが、現在、日米の軍事一体化のもと、琉球列島全体への実戦部隊の派遣の工作が進行中である。
天皇制明治政府は沖縄を「帝国の南門」と位置づけた。沖縄はアジア侵略の出口として県民は大挙南方に動員されて行くと共に、沖縄に帝国を守る軍事拠点が築かれた。現在の沖縄の姿と重なる。沖縄に生きる人々、かつて国策により命を奪われた人びとの魂を受け継ぐわれわれは帝国の南門や軍事要塞を拒否する。軍事基地と戦争のない沖縄を必ずつくり上げる。 
復帰して沖縄は日本の法体系を闘いの武器にすることを学び、たくさんの人々と連帯して共通の敵に対して闘うことを経験した。翁長知事を誕生させた辺野古NO! の闘いは過去一年半の攻防を通じて大きく前進し、現在埋立工事の中止に追い込んでいる。もちろんまだ決着はついていないが、力関係は依然として有利に展開している。これからの一年は決定的に重要だ。情勢に対する確信を持ち、辺野古NO! 琉球列島の自衛隊配備NO! の闘いを推し進めよう。その先に自治に基づく沖縄の解放が見えてくる。

5.6

嘉手納基地ゲート前行動
辺野古NO! 
嘉手納も閉鎖!

 毎週金曜日の朝七時半から九時まで、嘉手納基地第一ゲート前で、嘉手納閉鎖! を訴える抗議行動が平和市民連絡会のメンバーや北谷町の町議などにより行われている。第一回目の四月一五日は四〇人、第二回目の四月二二日は六五人、第三回目の四月二九日、第四回目の五月六日はそれぞれ一〇〇人以上が集まり、沖縄の米軍基地の心臓・嘉手納空軍基地第一ゲート前で辺野古NO! 嘉手納も閉鎖! を訴えた。
四〇〇〇m級滑走路二本とF15イーグル戦闘機、KC135空中給油機、海軍のP3C対潜哨戒機など約一〇〇機の航空機を有し、七〇〇〇人の兵士、多数の軍属、軍雇用員を抱える嘉手納基地はアジア最大の米空軍基地である。広大な基地面積は成田空港の二倍、隣接する嘉手納弾薬庫はその嘉手納飛行場よりも広い。さまざまな空母艦載機や三沢・厚木など国内の基地や韓国オサン基地、さらには米本国のカリフォルニア州やアラスカ州などからもステルス戦闘機F22やF16戦闘機、AV8Aハリアー戦闘機が部隊と共に頻繁に飛来し、訓練を繰り広げている。
七一年前の沖縄戦で、日本軍は「不沈空母」をスローガンに伊江島、読谷、那覇、宮古など沖縄各地で、土地を収用し、県民を総動員して飛行場建設を推し進めた。当時「中飛行場」と呼ばれた嘉手納の飛行場もその一つだった。しかし、米軍の本島上陸に当たって、日本軍は航空機を持っていなかったので滑走路を爆破して南に撤退した。米軍は難なく「中飛行場」に駐屯し、滑走路を補修・拡張し嘉手納飛行場とした。そして沖縄に居すわった。
先月、嘉手納町による二〇一五年度の嘉手納基地の騒音調査の結果が明らかにされた。七〇デシベル以上の騒音回数は四万七六八五回だった。ジェット燃料や泡消化剤ピーホスの流出事故も度々起きている。嘉手納基地の一部を返還してつくられた沖縄市のサッカー場から一〇〇本以上の腐食した枯葉剤ドラム缶が地中から発見された。周辺の水溜りからは基準値の二万倍以上のダイオキシン類が検出、現在調査が進行中である。(枯葉剤について詳しくは、ジョン・ミッチェル『追跡・沖縄の枯葉剤』高文研、二〇一四年)。米軍基地は文字通り諸悪の根源だ。
嘉手納基地ゲート前には、CLOSE KADENA BASE. NO HENOKO NEW BASE. やSTOP HENOKO OR LOSE OKINAWA. の横断幕が掲げられている。Yナンバー、Aナンバー、Eナンバーの車がひっきりなしにゲートを内外から通過する中で、抗議団はゲート前の各所に散らばり、GOOD BYE KADENA ! などのプラカードを手に、車で通過する米軍人・軍属・家族と国道を通る県民にアピール行動を展開する。時たま、兵士をたくさん載せた自衛隊トラックが通り過ぎる。ゲート入口付近には、県警と共に、軍警や米兵、私服の米人など十数人がたむろして抗議行動の様子をうかがっている。日を追うごとに軍警の数が増え、米軍がゲート前行動に神経を尖らせていることが見て取れる。
ゲート前抗議団の呼びかけに対する米兵たちの反応はさまざまだ。GET OUT of OKINAWAのメガホンでの訴えに、窓をピッタリと閉め切って無視を決め込む人たちが多い。中指を突き立てて敵意を表す人やどういうつもりなのかVサインをしたり手を振る人もたまにいる。通過するスクールバスの中には、大人たちがさせているのか、子どもたちがいっせいに親指を下げて非難の意思表示をするバスもある。
信号待ちで停車している時には、メガホンを使わず肉声で丁寧に話しかける。窓ガラスを開けたまま抗議団の訴えに耳を傾ける人もいる。「ここは県民の土地だ。あなたたちはインベイダーだ。米軍と住民は友だちではない。沖縄から出て行ってほしい」との英語での訴えに、うなずきながら涙ぐむ女性兵士もいる。米軍はインベイダーだとの言葉に、無言で目を見つめてくる米兵もいれば、ムキになって表情を変える米兵もいる。「僕は沖縄が好きだ。ワイフは沖縄の女性だ。僕の職場は米軍だ、なくなっては困る」という若い兵士との論争になることもある。
嘉手納のゲート前行動は始まったばかりだが、沖縄の海兵隊だけでなく嘉手納空軍基地の存在を問題として提起する重要なアピールの場となっている。

辺野古総合大学が大成功
4月5日の第1回講義から
4月30日まで全17回開催

 辺野古総合大学の講義は盛況のうちに四月末で終了した。以下、いくつかを簡単にまとめて報告する。

4・20加藤裕弁護士が裁判について講義


加藤弁護士は、和解に至った国と県の間の三つの裁判について解説した後、次のように語った(要旨)。熱血弁護士・加藤さんの話に二〇〇人の参加者はじっと耳を傾けた。
国は敗訴を避けるために和解に応じたが、今回の和解はわれわれにとっても失うものは何もない勝利だ。代執行裁判の判決で勝つ以上の成果を手にした。和解を受け入れずたとえ代執行裁判で勝訴の判決を得たとしても、国交相の執行停止は残るので、工事を止めることはできなかった。和解で工事を止めることができたのは重要な成果だ。
現在、知事の承認取り消しに対し国が「是正の指示」を出し、国地方係争処理委員会で審議中だ。係争委の勧告が県の勝利、あるいは敗北になるのか今のところ断定はできないが、係争委の勧告は強制力を持たないので、どちらにせよ、高裁で争われ、その後最高裁に移る。この裁判で県が勝てば、国はもう辺野古新基地建設ができない。仮に県が負けても、判決主文は「原告の請求を棄却する」というだけのこと。承認取り消し以外にも知事の権限は、承認撤回や工事変更申請の不許可などいくつもあり、まったく制約されていない。
菅官房長官が和解条項九条を持ち出して、裁判で県が負ければあたかも辺野古基地建設に協力しなければならないかのようにいっているのはウソだ。もともと代執行裁判に限られるという和解条項の趣旨は明確だった。国の訴訟代理人も分かっている。
われわれは弁護団として裁判に全力を尽くす。しかし大事なことは住民の運動。今県民が命がけで闘っているように、知事も命がけだ。あらゆる手段を行使し、知事と共に勝ち抜こう。

4・21三上智恵監督の話

 映画『戦場ぬ止み』の三上智恵監督は、「標的の村から標的の島へ」と題して、辺野古に対する思いと与那国、宮古、石垣の自衛隊の動きについて、次のように話した(要旨)。

 辺野古に反対協が生まれてからずっと通い、撮影をはじめた。たくさんの人に会って話をうかがった。住民の中の反対派・賛成派という小さな枠で見てほしくない。本当は誰が辺野古に基地をつくりたがっているのか。そのことをきちんと見てほしい。
基地から派生する基地被害はいろいろあり、深刻だ。しかし基地というのは戦争に行くところ、人を殺しにいくところだ。イラクのファルージャで一〇万人に上る虐殺を行った米軍は沖縄の海兵隊だったことをどれだけの人が認識しているだろうか。ファルージャで取材した時、イラクの人たちは、オキナワがアメリカの一部だと思っていた。まさか日本の一地域だとは思っていない。オキナワが日本だというと非常にびっくりして、オキナワの上で爆弾を爆発させてやりたいと言った。このように恨みを買ってはいけない。人の恨みを買わないことが最良の安全保障だ。
先月与那国で一六〇人の自衛隊部隊が発足した。日本ではあまり注目されていなかったが、国際社会の見方は違う。アメリカで活動している乗松さんも言っていたが、小さなニュースではない。与那国と合わせて、宮古八〇〇人、石垣五〇〇人の「南西諸島」の自衛隊配備計画では、宮古島に、地対艦・地対空ミサイル、実弾射撃場、水陸両用戦車の訓練場、弾薬庫、さらに「南西諸島」全体を網羅するミサイル防衛の司令部を宮古島の地下につくるという。これは宮古を戦場とした制限戦争の計画だ。日本中の人が危機感を持ってほしい。
(三上智恵さんはウェブマガジン「マガジン9」の連載コラムで詳しく発信している。http://www.magazine9.jp/article/mikami/27354/ )

4・25海上チームが報告

 辺野古総合大学第一三回目の四月二五日は、海上チームの相馬由里さんと仲宗根和成さんが報告した。二人の報告は次の通り(要旨)。

相馬由里さん
私は普通の人。沖縄とは一六年の付き合いになる。きっかけはスキューバだった。クマノミが好きで、沖縄のクマノミを制覇したいと思った。一〇年前の海上闘争の時、那覇の介護の仕事の職場から通って、海の上の工事用やぐらに寝泊りした。なんとしても工事を止めたかった。
当時介護していたオバアの体に傷があった。私は何気なく、交通事故ですかとたずねたが、オバアは、違うよ、戦争だよといった。戦争の傷を目の当たりにした悲しみ。八〇歳近くのオバアは、もし動けたら戦争を止めるために辺野古で抗議船の船長をやるよ、と言った。そんな声に押されて、私は抗議船の船長になった。二年半前には仕事もやめて、辺野古に常駐することになった。
海に出ると、海保が「女船長、さがれ、さがれ、拘束するぞ」と叫ぶ。とても緊張する。カヌーチームの年齢は一八歳から七四歳まで。工事中止中でも行動は中止しない。先日は強襲揚陸艦ボノム・リシャールが大浦湾にやってきた。オスプレイもホバークラフトも演習を繰り広げた。
私にとって今しかできないこと、それは船に乗ること、そして海を守ること。全国の皆さん、一緒に頑張りましょう。

仲宗根和成さん
私は本部町出身。本来の仕事はエコツアーガイド。大浦湾の自然は本当にかけがえのないものだ。
小学校一年生の時のオジーの言葉を覚えている。「戦争をするために基地をつくるんだ」。この間海上での闘いをやってきて、辺野古の基地とオジーの話がつながった。ベトナム戦争のときB52が爆弾を積んでベトナムの上空から落とした。ベトナムの人びとは沖縄を「悪魔の島」と呼んだという。反論できるか。辺野古に新基地ができたらどうなるのか。ハッキリNO! と言わなければならない。
日本政府の大臣さんたち。大浦湾に来たことがあるのか。船に乗ったことがあるのか。
自民党など、与党のみなさん、なぜ来ないのか。たまに来ても空から見るだけ。良心があれば、埋立をするなどと決して言えないはずだ。安倍さん、海を見に来てください。案内しますよ。
昨年三月と九月、私は二回逮捕された。けれどめげない。最後に「黄金の花」という歌で締めましょう。黄金で心を汚さないで、黄金の花はいつか散る。どこにいても心はつながっている。健康に気をつけて頑張ろう!

4・26佐々木末子さん
昆布の土地闘争に学ぶ


過去に学ぶシリーズの三回目は、喜瀬武原闘争、CTS闘争に続き、昆布の土地闘争であった。佐々木末子さん(第三次嘉手納爆音訴訟具志川支部事務局長)が米軍政下の土地を守る闘いを次のように報告した。
具志川市(現在のうるま市)昆布には米軍の天願桟橋・物資集積場があったが、一九六二〜六五年にかけて大改修が行われ、全長六四〇m、巾三〇mの突堤が出来上がった。近くには燃料タンクの基地があり、ナイキ・ハーキュリーズのミサイルも配備されていた。一九六六年、米軍は新たな土地収用の通告を地主に行なってきた。米軍が示した契約金額は坪あたり一〇セント、当時コーラ一本の値段だった。契約しなければ強制収用すると言われた。「この土地を取られたら生きていけない」と地主三八人は協議を重ね、村長や村議会に請願し、村内の各団体に協力を求め、村民大会を開いていった。
天願桟橋はベトナム戦争と直結していた。赤土にまみれた戦車や泥だらけの靴を履いた兵士たちが降ろされていた。米軍は強制収用を通知してきた。テント小屋を建てて座り込んだが、まっ先に駆けつけてくれたのが伊江島の人たちだった。支援の輪も広がった。教職員たちは生徒を連れて来てくれた。
その中で、地元から八人が伊江島を訪問した。命がけの闘いをしている真謝部落など訪れ、阿波根昌鴻さんの話も聞いた。私はその時、伊江島の人たちの話をメモした。これを基にあの昆布土地闘争の歌の歌詞をつくった。
年末には米兵の集団襲撃もあった。旗を奪われ、闘争小屋も焼かれた。今度は焼かれない闘争小屋を造ろうと、鉄筋コンクリートの団結道場をつくった。一九六九年のことだ。結局、米軍は一九七一年、最終的に収用をあきらめた。その結果、昆布一〇班(A、B)が誕生した。強制収用を防いだだけでなく、広大な黙認耕作地の返還も勝ち取った。



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