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    かけはし2016.年5月16日号

4・3はまだ終ってはいない


作家・金石範と共にした日本現地文学ルポ(下)

北朝鮮・韓国・日本の狭間で生きて

 人々がとまることなく流れた。
水滴が宿った水たまりのように、人々が滞った地下道である時があった。赤くなった人の遺族が、もはや「人間が集まる空間」を許されなかった。人間が人間を押し出す地下道で人はただ流れることができるだけだった。

  上野駅地下道

 「明るくなったねえ…」。
東京・上野駅(台東区)の地下道で3月15日、金石範(91)が語った。カツカツと床を蹴る靴の音が鼓膜を叩きながら過ぎていった。「火山島」が描いた1948年のあの日の地下道を、2016年のせわしい足取りの中で読みとるのは至難だった。人がたまることのできない空間は明るく、きれいで、無臭だった。
南承之(ナム・スンジ、「火山島」の主人公のうちの1人)と康蒙九は1948年4月3日に予定された武装蜂起の資金調達のために済州から日本に密航した。大阪(第1105号「生涯、4・3を語ることが運命」参照)を経て東京に到着した2人は代々木駅から千葉行きの電車に乗った。彼らが上野駅で下りた時、地下道は流れない人々で滞っていた。
「地下道の片側に浮浪者たちが集まっていた。みんなボロをまとい、手拭いで頭を縛りつけているか、おんぼろの帽子で何とか身を覆っていたけれども、背中を丸めて身をすくめる姿勢だった。大方、寒いことは間違いなかった」(「火山島」より)。
貧しい者の高潔さを主張する青年や、それを煽動家だとしてとがめている中年の男性が、自分たちをあざわらっている野宿者たちとの間で論争を繰り広げた。
江戸時代には生まれた時の身分で、暮らす地域が決められた。商人や農民の居住地として上野は確定された。北海道や東北地域の低賃金労働者たちが上野駅(1883年開通)を経て都市に散らばった。上野の東側には清日戦争以降、東京の3大貧民街だった下谷万年町があった。上野が属した台東区や荒川区の境界には死刑場、火葬場、食肉解体場、下水処理場、遊郭が密集した。敗戦後、戦争の被害者や帰還軍人、孤児などが上野駅地下道にやってくるようになった。近代日本の明暗が上野になだれ込み、現代を形づくった。「都市の結果物」であるものの、「都市が拒否する事(物)などが上野周辺を浮遊しながら「腐った水」のように集まった。
南承之、康蒙九が上野に到着する1年前(1947年)、東京都は浮浪者1187人中940人を上野で把握した。「上野地下道は犯罪謀議の場所となったばかりではなく、発疹チフスなどの伝染病や花柳病の発生流布の地点となった」(東京都総務部調査課)。69年の歳月が流れた春の日の上野で、彼らはもはや目につかなかった。
地下道を上っている金石範の足元に階段がざぁ〜と流れ落ちてゆく。「私は、ゆっくりは歩けない」と言って、一行を追い越した。彼の眼差しと語り口、そして実直な姿勢は、1世紀近い年齢(1925年生まれ)が率直なエネルギーを吐き出した。数十年、若い人々と対坐して飲みかわしても、先に盃を置くということはなかった。2日前に大阪でソ・ジュンソク(成均館大学名誉教授)は「済州の英霊たちが見守っているようだ」と語った。
「火山島」(2015年10月、韓国語版完訳)をめぐって韓国と日本とでは反応が違った。金石範に同行したチョ・ドンヒョン(68、済州4・3を考える会会長)は問うた。「日本語版第1巻(全7巻)出版後の1983年、朝日新聞社は『大仏次郎賞』を与えたし、完刊後の1981年に毎日新聞社は『毎日芸術賞』を授与した。韓国は何をしているのか」。
済州4・3をタブー視してきた韓国が金石範と「火山島」と無視している時、済州人たちが虐殺を避けて密航した日本は、彼と彼の文学を抱いた。韓国政府は金石範が韓国で受けた最初の賞(2015年、第1回済州4・3平和賞)の受賞所感(李承晩批判)を理由に、彼を入国禁止とした。出版社・岩波書店が「火山島」を再出版した日本では大江健三郎(ノーベル文学賞受賞者)らが実行委員会を作り、記念シンポジウム(昨年11月)を開いた。

 アメ横と「無国籍者」


上野駅を抜け出してきた金石範は「アメ横」を通った。東京には大阪の次には多くの朝鮮人たち(1920年548人→1925年1万818人→1935年5万355人→1942年12万2135人)が暮らした。在日4・3遺族数も大阪(「4・3犠牲者申告書」によれば総数570人中129人)に次ぐ59人だった。東京の朝鮮人たちは銀座線鉄道公社の現場で土木労働者として働いた。石炭の荷役、ゴム・皮革工場、くず拾いが彼らに飯を与えた。
アメ横商店街の入り口・JR線(1987年に旧国鉄が7つに分割され民営化された鉄道)の下に小さな店々が身をすくめてうずくまっていた。鉄道を屋根として雨を避けていた貧しい人々が、鉄道を頭に載せたまま商いをしながら商店街を形づくった。上野の在日同胞たちもアメ横に生計の糧を求めてきた。茨の運命の茂みをかき分けてきた。チョ・ドンヒョンは大阪・生野で小学校4年の時まで暮らした後、上野に引っ越した。中学生になる時、アメ横に子どもを連れてきたオモニは韓国人から密輸時計を購入し、入学プレゼントとして与えてくれた。上野にはアメ横でカネを稼いで成功した済州人たちもいる。彼らが所有したモーテルや食堂、ビルなどを挙げながらチョ・ドンヒョンは「商人組合でも済州人たちを無視できない」と伝えた。
「本土に居住している済州島出身者の中には本籍を変える人が少なくなかった。地方差別の強い本土では昔からそうだったけれども、済州島出身と言うだけで、いわゆる出世に支障となった」(同前)。
済州は差別の島だった。韓国の異邦であったし、陸地(朝鮮半島を指す)の植民地だった。「済州人」であるとともに「在日」であることは二重のくびきだった。同胞から差別される島と移民として差別されている島国とを行き来しつつ、彼らはただ生きるために渡航(1934年、小作農の77・8%)し、密航した。済州にいようが日本にいようが4・3以降、済州人には「パルゲンイ(アカ)」という集団的汚名がかぶせられた。
済州人にして在日であり、「朝鮮籍」の金石範は何重もの障壁の前で文章を書いた。日本の敗戦後、帰国しなかった韓人すべてを日本は朝鮮籍(1970年29万余人→2015年3万3939人)に登録した。かつての被植民の人々に敗北帝国は自らが消し去った国の国籍を付与した。
朝鮮籍の人々は韓国籍に移り、あるいは北送を選択したり日本に帰化したりしても、金石範は「存在しない国』にこだわった。彼は「大韓民国の国民」でも「共和国の人民」でもない分断以前の「朝鮮人」として暮らした。「いつの日か北・日修好によって北を支持する人々が北韓(北朝鮮)の国籍を持つようになれば、朝鮮籍には私のように分断を認めない『無国籍者』のアイデンティティだけが残るだろう。引き裂かれた国の国民にはならない。私にとって朝鮮は国籍ではなく私を表す記号なのだ」。
南承之、康蒙九は旅館などが密集した通りに入り、済州人が経営している「チュンチョン荘」に泊まる。「ここは小さな旅館が多かった。上野は交通の便がよかったので上京した人びとがここでよく泊まった。『チュンチョン荘』もここだと考えなくちゃ」。
アメ横の周辺で金石範は宿泊業の密集した街を探った。旅館などが集まっていた場所にはモーテルや小型のチェーン・ホテルが建っていた。
人が集まる所ごとに、匂いもついて回った。「上野地域は朝鮮の飲食店が密集している所だった。そのほかにも、肉をまるごと販売する朝鮮式の精肉店や魚屋、食料品店、反物屋などがあって、大阪の猪飼野朝鮮市場を小さくしたような雰囲気を漂わせていた」(前同)。

  朝鮮食堂の路地

 南も北も選択しない金石範は「南からは反政府分子、北からは反革命分子として取り扱われる政治的挟み撃ち」(韓国語版、作家の言葉)を受けてきた。「火山島」は、その「挟み撃ち」の中で書かれた。
金石範は1951年に日本共産党を脱党し、1968年に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を脱退した。彼は文学によって政治と熾烈に対決したけれども、文学が政治の下部として服務することは耐えられなかった。「北韓は一体、人間の暮らすところなのか。私は南にいたとしても殺されただろうし、北にいたならば銃殺されたことだろう」。
南と北は必要に応じて彼を攻撃したり、懐柔しようとした。済州4・3平和賞の事態の際、韓国の保守各メディアは「朝鮮新報」(朝鮮総連の機関紙)の記者としての経歴(1960年代)を挙げ、彼を「北の代弁者」だと攻撃した。「先生が朝鮮総連や北韓を批判した後、要注意人物になったのがいつなのかの実相も知らず、レッテル張りをする」と、チョ・ドンヒョンはもどかしかった。「1998年の済州4・3の50周年の時、朝鮮総連が私に先生が関与している行事には出ていかないでくれ、と要求した。なぜ彼と交わるのかとして『禁足令』を出した。北韓の独裁を批判している彼は朝鮮総連の目障りになってから久しい」。
明るくてきれいな建物群の間に狭くて入り組んだ路地が、まるで魚の小骨のようにくっついていた。その小骨のすき間ごとに在日済州人たちが経営しているごくごく小さな店々が、あたかも中味だけ食べて残った肉片のように細かく並んでいた。「ここは変化のない所なのだ。このような路地にもぐり込んでマッコリを飲むというわけさ」。2人は通りすぎることのできない狭い通路に身を寄せながら金石範が語った。
アメ横の朝鮮人らが密輸品のヤミ取引で生存を求めている時、朝鮮食堂街の朝鮮人たちは密造酒と食べ物を売りながら上野に染み込んだ。
「猪飼野に比べれば規模が小さいだけではなく、マッコリなどをおいて売っている食堂兼飲み屋が圧倒的に多くて、市場とは言いがたい」(同前)路地だった。「ホルモン(日本人が食べていなかった牛や豚の内臓)」を焼く飲み屋とキムチやトックク(朝鮮風雑煮)を売る店などが、相変わらず路地に明かりをともして客を迎えていた。その食べ物の味や匂いは隠すことのできない「出身」をあらわにしていた。
その「出身の地」から金石範は1つの信念の体系だけを強要された。南韓人でも北韓人でもなく日本人でもない者として金石範は「教条的なこと」に向けた強い拒否感を「火山島」に刻み込んだ。作家の分身である主人公の李芳根(イ・バングン)は「違う考え」を許容しない両極端の価値と耐え間なく葛藤する。
「私は、プロレタリアートを赤絹の布で蔽った真理の祭壇に祀って、その前で跪拝はしない。…彼らにとってプロレタリアートは現実の労働者、農民たちであるよりも、1つの観念的な実態、頭の上にそびえる絶対的真理の神なのである」。
歴史の解釈を独占し「愛国的一致団結」を要求する南韓政府の暴力性も金石範は耐えられなかった。「朴槿恵(パク・クネ)大統領が韓国を愛するのであれば歴史をキチンと知って愛さなければならない。あの多くの人々を犠牲にした李承晩(イ・スンマン)が、どうして建国のアボジ(父)なのか。4・3の完全なる解放は、解放空間の再評価とあいまっている」。済州人たちは「限りなく死に近い忘却」の中で生きてきた。死なないために自らの記憶を殺してきた人々だった。
金石範がくもった空を見上げた。上野公園(日本最初の公園)の上にカラスが飛びカァカァと鳴いた。1942年、日本に留学した尹東柱(ユン・ドンチュ)は、いとこのソン・モンギュ、父のいとこのユン・ヨンチュンと上野公園を歩きながら詩や朝鮮の話をした。尹東柱が歩った道を中国人観光客らが歩きながら、まだ咲かない桜の前で写真を撮っていた。
カラスは済州では「極めて多い鳥」だ。済州のカラスたちは「くもった冬空を背景に、まっ黒な火山岩で作られた海岸の防波堤のあたりに座って」(同前)いたものだった。カラスは「火山島」に繰り返して登場しつつ、済州人たちの暗い運命を予告した。虐殺を避けて密航した済州人たちは日本においてさえも「カメギ モルン シッケ」(カラスも知らない間に執り行われる法事、を意味する方言)の人生を送った。

  上野公園の昔と今

 「私が祖国の南や北のどちらかの所で暮らしていたならば到底、書くことのできなかった諸作品だ。怨恨の地、祖国喪失、亡国の流浪民、ディアスボラの存在、その人生の場である日本でなかったならば「火山島」は誕生できなかっただろう」(韓国語版、作家の言葉)。
南や北で暮らさず「生き残った作家」金石範は、「火山島」を「亡命の文学」であり「ディアスボラの文学」だと語った。いずれの国にも属することのできなかった彼の生き方のように、彼の文学も特定の国境線内に囚われることを望まなかった。
公園を歩いている金石範の目に野宿者は見えなかった。彼らのいない公園は清涼としていた。2000年代まで上野公園は家のない者たちがテントを張って居住した「最後の家」だった。1923年の関東大震災の時には最大の罹災民避難所となった。1948年から1956年まで東京の「浮浪者」や「くず拾い、日雇い労働者たち」が公園で「アイオイ部落」を形成して暮らした。部落民300余人の大半は朝鮮人だった。イラン・イラク戦争を避けてきたイラン人たちが移住労働をしながら公園の「野宿家族」になりもした。2010年、東京都が上野再生整備事業としてテント村を撤去するとともに、公園に「集まっていた人々」も片づけられた。
91歳の金石範は「現役の作家」だ。最近書いた中編小説が今年1月「すばる」に発表(「終わっていない人生」)された。彼は「『火山島』以降」も200字原稿用紙で1200枚分の長編小説(「地底の太陽」集英社、韓国語未翻訳)として書いた。済州を脱出した南承之と李有媛(イ・ユウォン、李芳根の妹)の日本での生活を描いた。「火山島」を完読した読者たちを泣かせた「ある話」が「火山島」の結末から始まる。今年の夏からは「地底の太陽」以降を「世界」に連載(1年6カ月の計画)する。「火山島」は事実上、完刊していない。
毛布をひっかぶった男が体をのたくった。上野公園への出入りを禁止された野宿者が、公園を右手にして取り巻く歩道に横たわって寝ていた。公園を取り巻いた垣根のそばに野宿者たちの荷物が、ずらっと置かれていた。荷物の上に張られた警察の撤去警告状が、黄色く色あせていた。貧しさは見えなくとも消えているわけではなかった。片づけられてもいなかったし、除去されもしなかった。貧しさは、ただ貧しくない時に引き下がるものだった。「火山島」を終わることのできない理由も同じだった。「4・3は、まだ終わっていないから」。
いつ終わるかも知れない話を完成する時まで金石範は力が残っていることを願った。「歳をとっても書き続けることができるならば私は生きる。もう書くことができないという時が私の命も尽きる時だろう。2つの時が一致するなら、どれほど幸せなことか」。(「ハンギョレ21」第1106号、16年4月11日付、文、イ・ムニョン記者、写真、リュ・ウジョン)

 


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