もどる

    かけはし2016.年5月23日号

釜山・慶南で再び芽生えた野性


韓国総選挙をどうみるか

1990年の3党合同から4・13総選挙までの嶺南地域の投票傾向の変化

 4月13日に投開票された韓国総選挙(定数300)で保守与党セヌリ党は122議席にとどまり、最大野党「共に民主党」の122議席を下回って第1党の座から転落した。また同党から分裂した安哲秀(アン・チョルス)率いる「国民の党」が38議席を獲得し、キャスティング・ボートを握ることとなった。首都圏での野党優位は従前通りだったものの従来、地域間対立の典型とされてきた湖南(韓国南西部)と嶺南(同、南東部)の関係の中で釜山を中心とする嶺南の民心の変化が今回、特に注目されている。(「かけはし」編集部)

 「今回の総選(総選挙)で最も骨身にしみたのは首都圏でもTK(大邱、慶北)でもなく、PK(釜山、蔚山、慶南)だ。PKで野性が盛り返しているというのが感じられた」。
与党セヌリ党の関係者が4・13国会議員選挙の結果について語った言葉だ。4年前の総選当時、釜山・蔚山・慶尚南道(40議席)でわずか3議席を失ったセヌリ党は、今回は11議席を野党に奪われた。セヌリ党の立場からすれば、今日の「嶺南対湖南」の選挙の構図が作られた1990年以降で最悪の成績表だ。とりわけ比例代表の議席を配分する基準となる政党得票率だけについて見れば、セヌリ党(40・63%)は26年ぶりにして初めて釜山、蔚山、慶南において野党圏(51・28%)に敗れた。今、PKではどんなことが起きているのだろうか。

時には野党、時には与党


当初、釜山、慶南(蔚山は1997年に直轄市に昇格)は保守政党とは距離が程遠かった。パク・チョンヒ、チョン・ドゥファン軍事独裁時代に反維新・反独裁の闘いを率いたキム・ヨンサムを含めた釜山、慶南は「民主化の聖地」と呼ばれた。特にキム・ヨンサムが国会議員9選のうち7選を果たした釜山は野党の闘士を育てあげた「野党の都市」(野都)という自負心があった。
釜山、慶南の劇的な変化は1990年の3党合同から始まった。1990年1月22日、キム・ヨンサム統一民主党総裁はノ・テウ大統領、キム・ジョンピル新民主共和党総裁と並び立ち、3党合同と民主自由党の創党を発表した。1988年の総選で競争者であるキム・デジュン率いる平和民主党に第1野党の座を奪われたキム・ヨンサム総裁が、当時の与小野大(少数与党多数野党)の状況に不安を感じていたノ・テウ大統領と手を握った結果だった。出しぬけにTK(民主正義党)、忠清圏(新民主共和党)と共に「保守大連合」を実現することになったPK(統一民主党)は、非湖南対湖南地域の構図の固着、保守の歪んだ優位などについての批判が起こるたびに、その矢面に立つこととなる。
それにもかかわらず釜山、慶南は一丸となって団結した。1992年の総選で釜山は16議席中15議席を執権与党たる民自党に集中して与えた。残る1議席も無所属で出馬したキム・ヨンサムの最側近ソ・ソクチェ前統一民主党事務総長に抱かせた。4年前の総選では「与1席、野14席」で強い野性を示していた釜山の「変身」だった。民心に反した3党合同の逆風によって民自党の議席は全国的に194席から149席に縮小したが、釜山、慶南では正反対の結果が現れたのだ。
同じ年に行われた大選(大統領選挙)でも釜山はキム・ヨンサム民自党候補に73・34%(全国平均41・96%)、慶南は72・31%の圧倒的な支持を送った。キム・ヨンサムは結局、14代大統領に当選した。チャ・ジェクオン釜慶大教授(政治外交学)は「当時のPKは厳密に言えば民主化の聖地ではなく、民主化の闘士だったキム・ヨンサムのための聖地だった」のであり「3党合同を前後して釜山の票心が野党から与党へと完全に後ろ向きになったのは、(有権者の選択が)理念の問題よりは『YS(ヨンサム)に対する高い忠誠心』から出てきた、と説明せざるをえない」と語った。
1990年代末まで釜山、慶南の与党独裁体制は一層強化された。文民政府体制の安定を後押しすると同時に湖南、進歩勢力の支持を受けているキム・デジュンの大権をけん制しようとする意図が反映された影響が大きかった。1995年、初の全国同時地方選挙で民主党が全国的な勝利を実現したものの、唯一釜山では3党合同を批判しつつキム、ヨンサムとの決別を宣言していたノ・ムヒョン民主党候補(37・58%)が落選した。慶南では民主党が候補を出すこともできなかった。大選を前にして政界復帰したキム・デジュンが率いていた翌年の総選結果は、さらに辛かった。野圏は釜山(21席)でただの1席も占めることができなかった。慶南(23席)では辛うじて3席を手にした。

二度にわたる与野の格差

 釜山、慶南の親与投票傾向は政権交代の可能性が高まっていた1997年の大統領選挙で頂点に達する。イ・フェチャン・ハンナラ党(旧・新韓国党)候補を、新韓国党の党内競選に不服で国民新党を作ったイ・インジェ候補が得た得票率の合計は釜山83・11%、慶南86・44%に達する。反面、キム・デジュン新政治国民会議の候補にいった得票は釜山15・28%、慶南11・04%にとどまった。キム・デジュンがDJP(キム・デジュン、キム・ジョンピル)連合を通じて忠清を引き入れなかったならば勝利を豪語するのは難しい勝負だった。国民の政府になって執り行われた1998年の地方選挙と2000年の総選でも釜山、慶南は「与9対野1」の極端かつ傾いた投票形態を示した。
2002年の大選から再びまた変化の兆しが起きた。湖南、進歩勢力の基盤の新千年民主党所属であるノ・ムヒョン候補は釜山で29・85%、慶南で27・08%の票を得た。競争者であるイ・フェチャン・ハンナラ党候補の得票率(66〜67%)には遠く及ばなかったものの、5年前にキム・デジュン候補が手にしていた得票率よりも2~3倍も高い支持だった。嶺南出身候補を支持した勢力と変化を望んでいた民主改革勢力が力を合わせた影響が大きかった。湖南の目標とTK、PKの亀裂によって結局、ノ・ムヒョン候補は大選で勝利した。
保守勢力が「ノ・ムヒョン大統領弾劾訴追案」を押しつけた2004年にも釜山、蔚山、慶南は動揺した。釜山は総選でノ・ムヒョン大選陣営出身であるヨルリンウリ党所属チョ・ギョンテ候補(沙下乙区)を当選させた。小選挙区制が導入された1988年以降、初めて湖南地域の支持を基盤にした政党の候補が釜山に旗を立てたのだ。ノ・ムヒョン大統領とかかわりのあるヨルリンウリ党所属パク・ジェホ候補(南乙区)やチェ・イノ候補(海雲台・機張甲区)も40%半ばの得票を挙げて善戦した。慶南、蔚山ではヨルリンウリ党キム・メンゴン(金海甲区)、チェ・チョルグク(昌原乙区)、チョ・スンス(蔚山北区)候補ら計5席を野圏が手にした。
だが変化の兆しは、たちまち収まった。ノ・ムヒョン大統領の人気下落と共に釜山、蔚山、慶南で「変化の風」もしおれていった。2007年の大選では与野間の隔たりが大きくなった。湖南出身チョン・ドンヨン大統合民主新党候補が釜山で得た得票率は13・45%で、10年前にキム・デジュン候補が得ていた支持率の水準へとパタッと下落した。イ・フェチャン無所属候補(19・68%)が嶺南、保守の票を分けたものの、イ・ミョンバク・ハンナラ党候補は57・9%の圧倒的支持を受けた。
蔚山と慶南も同様だった。TKとPKの連帯に力を得てイ・ミョンバク(MB)候補は全体で500万票以上のおびただしい差で10年ぶりに保守政権への交代を実現した。翌年の総選もハンナラ党の勝利で終わった。釜山、蔚山、慶南(計41席)で野圏の議席は6から4に減った。農民出身のカン・ギガプ民主労働党候補(慶南・泗川)の当選が野圏ではほとんど唯一の成果だった。

反イ・ミョンバクと野党支持


亀裂は2010年に再び始まった。露骨にTKを取りまとめていたMB政府に疎外感を感じていた釜山、蔚山、慶南では反ハンナラ党の情緒と共に、変化に対する渇望が芽生えていた。このような情緒に食いこんだ野圏の単一候補である無所属キム・ドゥグワン候補はイ・ダルゴン・ハンナラ党候補を負かし、慶南道知事に当選した。3度目の挑戦の末に手にした「初の野圏慶南知事」のタイトルだった。釜山市長選挙ではキム・ジョンギル民主党候補が2位(44・57%)だったものの、ハンナラ党をあと一歩の所まで追いかけた。
2年後の総選では釜山、蔚山、慶南(総40席)は民主統合党のムン・ジェイン(釜山・ササン)、チョ・ギョンテ(釜山、沙下乙)、ミン・ホンチョル(慶南、金海甲)の3人にのみ議席を渡した。それでも変化の力は蓄積された。釜山のキム・ヨンチュン(釜山鎮甲)、パク・ジェホ(南乙)、チョン・ジェス(北、江西甲)、ムン・ソングン(北、江西乙)、チェ・イノ(沙下甲)候補と慶南のキム・ギョンス(金海乙)、ソン・インヘ(梁山)候補らセヌリ党候補との格差が10%ポイント以内の野圏候補が続出した。政党得票率では野圏が40・2%も手にした。中央党のさしたる支援なしでも個別候補らが数年間、地域を1人で回りながら民心を掘りおこした結果だった。
同年の大選で、嶺南出身のムン・ジェイン民主統合党候補は釜山で39・87%、慶南で36・33%の得票率を上げた。湖南、進歩勢力が基盤の政党がPKで得た最大の成果だった。セウォル号の惨事直後、パク・クネ政権審判論が沸き起こっていた2014年の地方選挙当時、釜山市長選挙では野圏単一候補の無所属オ・ゴドン候補が49・34%で過半数に肉薄する支持を引き出した。ソ・ビョンス・セヌリ党候補に2万票ほどひけをとる結果だったものの、セヌリ党の内外では「釜山が尋常ではない」との憂慮がしきりだった。2年後の今回の総選で、野圏の「PK勝利」を一時的希望ではなく、選挙構図の変化だと解釈する以外にないとする理由だ。キム・テイル嶺南大教授は「TKの選挙結果にはキム・ブギョンという個人の変数が大きかった反面、PKの選挙結果には個別候補の誠実さと共に、これまで積み上げてきた有権者の地平の変化が反映したようだ」と説明した。

PKの野圏の風に火が付くか

 政治圏の関心は、今や釜山、蔚山、慶南の変化が来年12月の大選まで続くのかに集まっている。2002年、2012年の2回の大選の結果に照らし、セヌリ党の「TK―PKの亀裂」を加速化しようとするのであれば、PK出身の候補を押し出さなければならないとの主張も一部の野圏から出てくる。
イ・ジホ西江大現代政治研究所選任研究委員は「野圏が今回、釜山、蔚山、慶南で外縁を拡張したし、それは来年の大選でものすごく有利な環境となる」とし、「野圏からPKの人物が出るならば(野圏の風に)火がパッと付く傾向が現れ得る」と語った。だがキム・テイル教授は「2002年、2012年にはPK候補という人物の要因の外に2008年とは違って民主改革勢力が全面的に総動員されたという共通点があった。人物もさることながら野圏が勢力をいかに総結集するのかも重要だ」とし、「PK候補論」に慎重な態度を示した。(「ハンギョレ21」第1109号、16年5月2日付、ソ・ボミ記者)

韓国政府の「4・3逆走」に恐れる在日済州人

 在日済州人たちは不安がっていた。虐殺を避けて日本に密航した彼らだった。パク・クネ政府の4・3犠牲者再審査の推進と歴史教科書の固定化が、日本でさえ息を殺して暮らしていた彼らの悲痛をよみがえらせていた。
 「我々は数十年間、怖がりながら暮らしていた。4・3という言葉も口に出せない人がまだいる。韓国の歴史が後戻りすれば、我々に危害が及びかねないという思いから依然として恐ろしい」(オ・グワンヒョン在日本済州4・3帰省者遺族会会長)。
 3月13日、大阪生野の在日韓人キリスト教会館に百人余が集まった。「火山島」作家・金石範と詩人・金時鍾(「朝鮮と日本で生きる」で今年1月に第42回・大仏次郎賞を受賞)が聴衆の中にいた。金時鍾詩人も4・3の時、逮捕を避けて日本行きの密航船に乗った。
 韓国からソ・ジュンソク成均館大学名誉教授が「韓国の歴史教科書国定化問題と済州4・3」を講演した。彼は2000年の4・3特別法の公布後に発足した4・3真相究明委員会で活動してきた。「行事の開催自体が在日済州人たちの危機感の表れ」だとムン・ギョンス日本・立命館大学教授は語った。
 2017年から使用される国定教科書の済州4・3の叙述の方向を、ソ・ジュンソク教授が予測した。国定教科書が教学社の教科書の叙述に沿うか、あるいは論争が展開されないほどに無意味なレベルに縮小される可能性が大きいと見通した。学界の批判を受けて修正する前の教学社の教科書は、民間人と警察・右翼の犠牲を同一に表現(「無辜の民間人の多くの犠牲があったし、多くの警察官と右翼の人々が殺害された」)した。
 武装隊イ・ドック司令官(1948年6月、済州・観徳亭広場に遺体で展示)の甥イ・ボッスクさん(80)は生野に密航し、隠れて生きてきた。誰かが捕まえに来はしないかと恐れて、済州出身だということもよくよく話すことができなかった。52年ぶりの2008年3月になってやっと泣きながら虐殺の話(「第704号、特集「大阪の証言『虐殺の島で生き残った』参照)をした。遺族会長の10年にわたる説得でやっと口を開いたのは金大中、廬武鉉政府の特別法制定と真相究明のせいだった。8年後、大阪で再開した彼は韓国の「過去への回帰」の消息に言葉少なだった。「私の運命がそうだから」。(「ハンギョレ21」第1106号、16年4月11日付)



もどる

Back