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    かけはし2016.年5月30日号

米軍基地撤去の思い一つに


5.12〜5.15

「復帰」44年 沖縄平和行進に参加して

沖縄と「本土」を結び3500人が参加

 五月一二日〜一五日、沖縄現地において「復帰44年 第39回平和行進」が、同実行委員会と沖縄平和運動センターの主催で行われ、四日間で本土と沖縄の労働者ら約三五〇〇人が参加して成功した。毎年五月一五日を前後する日に行われる平和行進には本土の労働組合青年部を中心とした参加者と沖縄の労働者、市民との共同行動として行われる。
いわゆる「活動家」が中心ではなく、今までビラも撒いたこともないような青年層が中心になって行われる。参加者はこの四日間の行進と現地での交流を通じて沖縄米軍基地の現実とそのもとで暮らす沖縄県民の苦闘に満ちた歴史を学び、知る事になる。平和行進を準備し、主催した組合員たちも、過去三八回に及ぶ平和行進に参加してきた「活動家」ではない青年労働者だった。これらの積み重ねによって本土における多くの活動者を育て上げ沖縄連帯闘争のみならず、反戦と人権、労働運動を闘う労働者を生み出してきた。沖縄平和行進は沖縄と本土を結び、連帯と交歓を打ち固めるために一年に一回おこなわれる重要な共同行動として取り組まれている。

高良鉄美さん
が基調的講演
平和行進の前日、沖縄県庁の前にある百貨店「パレット久茂地」の八階にあるパレット市民劇場で平和行進団結団式が行われた。県庁前では沖縄の右翼が敵対する情宣をおこない早くも騒然とした雰囲気となったが会場を満杯にする約五〇〇人が結集し、午後三時から司会の挨拶で結団式が始まった。第一部では琉球大学大学院教授の高良鉄美さんが「平和憲法の意義」と題して基調講演をおこなった。高良さんは戦後のアメリカ支配の下で琉球大学の学生が弾圧をうけながらも原爆展を開催するために闘った歴史を紹介し、「平和憲法があるからこそ表現に自由や事実を知る事ができる。」と訴えた。
二部では平和行進実行委員長の山城博治さんが元気いっぱいのあいさつを行った。山城博治さんは「沖縄からあらためて反戦平和を訴えよう。安倍政権が戦争へとまい進する中、沖縄の状況をつぶさに確認し、後悔しないために何をすべきか考えよう」と訴えた。
連帯のあいさつでは、平和フォーラム代表の藤本さん。政党挨拶では社民党沖縄県連代表の仲村美央さんと比嘉京子さんがおこなった。さらに海外からのゲストとして共に平和行進に参加するために韓国から来沖した平澤米軍基地と闘う三〇人の代表団が紹介された。そして本土からの非核平和行進たすき授与式と、三つのコース代表団が決意表明を行い、最後に山城博治さんの団結ガンバローと参加者全員で「沖縄をかえせ」の大合唱で結団式は成功裏に終了した。この後、参加者は各コースごとで学習集会と歓迎交流会に参加し、沖縄の労働者との連帯と親睦を深めた。

 つのコースで
基地の現実学ぶ
五月一三日、三つのコースからなる平和行進が沖縄と本土の一二五〇人の労働者の参加で始まった。東コースは辺野古基地の「キャンプシュワブゲート」前で五〇〇人が参加し、出発式と金武町までの八・三キロの道のりを行進した。西コースは読谷村役場で出発式を行い「トリイ通信基地」「嘉手納基地」前を通って北谷町役場まで行進した。南コースは南城市中央公民館で出発式を行い、沖縄線の激戦地となった糸満市内と平和記念公園、そして多くの勤労学徒が死に追いやられた「ひめゆりの塔」までの道のりを行進した。
五月一四日の行進二日目では、東コースはうるま市の米軍天願浅橋で出発式をおこない嘉手納基地の安保の見える丘まで行進した。西コースは北谷街役場で出発式を行い普天間基地や米軍ヘリの墜落した沖縄国際大学を通り宜野湾海浜公園までの道のりを行進した。南コースは糸満市役所前広場で結団式を行い南風原町役場までの道のりを行進した。
三つのコースはいずれも米軍基地の中を縫うようなコースであり、また沖縄戦のあった場所でもある。初めて沖縄にきたという参加者、観光地としての沖縄しか知らない参加者たちは夕方の交流会で初めて知った現実に戸惑いながらも基地撤去と平和への思いを語り合った。
平和行進最終日の五月一五日は東と南コースは那覇市内の公園から、西コースは浦添市内の公園から県民大会が行われる那覇市の新都心公園をめざして行進が行われた。筆者は南コースに参加したが右翼の宣伝車両が大音量で罵声をあびせかけたり、先頭の前に宣伝車両を付けたりと執拗に妨害行為を行ったが参加者はこれを跳ね返し、最後まで行進を目的地の新都心公園までやりぬいた。

韓国代表団と
行進を貫徹
一二時から「5・15平和とくらしを守る県民大会」が行われ、平和行進をやりきった沖縄と本土の労働者二五〇〇人が結集して行われた。最初に司会者のほうから会場の新都心公園はもとは米軍基地の関連施設や住宅があった場所だとの説明があった。司会者は「米軍がいなくなったことにより経済的にも活性化し元気な街になった。米軍基地がなくても沖縄は困る事はないという証拠だ。」と述べた。開会挨拶をおこなった山城博治さんは「辺野古新基地建設は絶対に許さない。自衛隊基地が離島につくられようとしているが戦争の準備を進めているからだ。戦争をさせない。沖縄を戦場にはさせない闘いを進めたい。軍国主義への道を止めよう。次の衆参選挙で自公に対抗する野党共闘で闘おう。」と発言した。
連帯あいさつでは平和フォーラムの藤本代表が「日本の植民地主義支配が沖縄の米軍基地の集中をゆるし、子どもの貧困率が沖縄は全国一位になるという事態を意味出している。沖縄の基地をなくす事が平和憲法を守る事だ。沖縄と思いをひとつにして闘う」と発言。
ヘリ基地反対協の安次富さんは「安倍政権の政治は戦争への野望として表れている。原発がなくても電気の供給ができるのに再稼働したり、アメリカのためにTPPを推進するなんてこんな政権があるか。安倍はヒトラーと変わらない」と厳しく批判した。さらに六月に予定されている沖縄県議会選挙の候補者が紹介され、嘉手納基地と普天間基地の爆音訴訟団が発言した。
韓国からの代表団も共に最後まで行進をやりぬき沖縄と共に韓国から米軍基地を撤去するまで闘う決意が述べられた。最後に集会宣言が読み上げられ拍手で採択。団結ガンバロー三唱で県民大会は終了し四日間の行動を終えた。  (越中)

5.15

一坪反戦地主会関東ブロックが新宿デモ

シールズ琉球の学生が報告

命を奪うな、奪われるな


 五月一五日午後二時から、新宿駅東口アルタ前に集まり、沖縄「日本復帰44年」を問う5・15新宿デモを沖縄・一坪反戦地主関東ブロックが主催して行った。参加者は二五〇人。
 一坪反戦地主会の大仲尊さんが主催者あいさつを行った。
 「一九七二年五月一五日、沖縄が復帰した日だ。四四年経ったが何が変わったのか。辺野古新基地建設の問題の山場にきている。三月四日の代執行裁判での和解によって、フロートや台船の撤去が行われた。国のごり押しが破たんした。海の中にあるコーンブロックを撤去せよ、臨時制限区域をなくし、元の状態に戻せ。闘いはこれからだ。まずは辺野古の現地に行ってほしい。さらに、ヤマトの地での沖縄連帯の闘いも重要だ。基地を新しく作らせない」。
 司会者が「公安警察によるビデオ撮影に抗議し許さない」と呼びかけた。次に沖縄出身者が発言した。首里出身者、宮古島出身者が与那国、石垣、宮古、八重山諸島への自衛隊配備を批判した。「宮古島に自衛隊が配備されれば観光客が激減するだろう。また、ミサイル配備と地下に司令部を作るとされている。宮古では飲み水は地下水に頼っている。これが汚染される可能性がある。地下水を守るということで絶対反対の闘いが進められている。しかし、下地市長は何の説明もしない。四月一日、反対が強まる中で、一部計画を変更することを明らかにした。地元だけではたいへんなので、皆さんいっしょになって応援していこう」。
 沖縄から玉城愛さん(SEALDs RYUKYU《シールズ琉球》/島ぐるみ会議・名護共同代表、名護市にある名桜大学在籍。沖縄・うるま市出身)がかけつけた。
 「以前は米軍基地はただの背景としてあり、仕方のないことと思っていた。大学に入ってこの事態が異常と気づき、声を上げようと思った。シールズ琉球の名前をつけるにあたって、沖縄か琉球かと討論があった。日本に併合され、差別されている。その歴史を考えてシールズ琉球とした」。
 「自分の母方の祖父は満州にいた。父方の祖父は沖縄戦の時、伊江島の防衛隊員で戦争した。また、私はうるま市石川の出身で、一九五九年に米軍のジェット機が墜落した宮森小学校に通っていた。墜落日の六月三〇日には平和教育が行われた。米軍の配備は戦争の抑止になるという論があるが米軍に平和を感じたことはない。軍は市民の命を守らない。沖縄戦の話などどう考え発信するのか模索している」。
 「事実と違う内容の記述がある帝国書院の教科書が採用された。学ぶものにとって教科書はとても重要なものだ。また、『辺野古に行くと日当二万円がもらえる』とネットでデマが流されている。これを批判するパンフが出ているので買ってほしい。一番大切なことは、沖縄戦を内でも外でも二度と起こしてはならない。一人ひとり幸せにならなければならない。だからこそ、命を奪ってはならないし、奪われてはならない」。
 この後も辺野古リレーの訴えなどがあり、集会を終えて、新宿を一周するデモで「沖縄に基地はいらない。辺野古新基地反対」を訴えた。       (M)

 読者からの通信

ペルー大統領選めぐって

ウーゴ・ブランコ健在なり!

大阪・SS

 四月一〇日におこなわれたペルー大統領選挙に関する報道で、懐かしい名前を見つけました。ウーゴ・ブランコです。一九三四年生まれですから八二歳になります。
 彼の名前は、一九六〇年代初期のクスコ地域におけるケチュア人農民反乱の指導者として、かつて第四インターナショナル・ペルー支部であった革命的労働者党の指導者として、私たちの世代のトロツキストにとってはあまりにも有名でした。そして軍部によって捕らえられ死刑判決を受けた際、第四インターナショナルを中心として、ゲバラ、サルトル、ボーヴォワール、バートランド・ラッセルといった人びとの支持を得た国際的防衛キャンペーンにより懲役二五年への減刑をかちとったことでも知られています。
 エルフロントン島刑務所の獄中で書いた『土地か死か――ペルー農民の闘争』は、『土地か死か――ペルー土地占拠闘争と南米革命』(山崎カヲル訳、柘植書房、一九七四年)として日本語訳されています。その後、ベラスコ政権によって釈放され、メキシコへ国外追放、アルゼンチンを経てチリ亡命中に軍事クーデターに遭遇し、スウェーデン大使館に避難、スウェーデンへ亡命するという波乱万丈の(ラテンアメリカの革命家としては普通かもしれませんが)の前半生を送りました。
 そしてペルーに戻ってからは、統一左翼の候補者名簿から下院議員に当選、さらに九二年まで上院議員も務めました。その間に、第四インターナショナルからは離れましたが、今日までずっと先住民・農民運動や環境運動で積極的な役割を果たしつづけていて、ペルー、先住民、ラテンアメリカについての著作活動をおこなっています。なんと元気にフェイスブックも更新していることには驚きました。
 新聞報道を一部抜粋しますと、「政治的な功績がほとんどないケイコ氏には『フジモリの娘』という取りえしかない」。そう語るのは、先住民の権益擁護運動で知られるウーゴ・ブランコ氏。元大統領は在任中、先住民らの強制避妊手術を指示した疑いも持たれ、刑事責任を問う声は根強い。先住民問題を扱う月刊新聞を編集するブランコ氏は「ケイコ氏の政党は地方の貧しい有権者に米や砂糖を配って票を買収していると批判する」と彼のコメントが紹介されています。あくまで先住民の闘いと共にあり続けるウーゴ・ブランコの姿を目の当たりにして、感激しました。


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