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    かけはし2016.年6月13日号

15Mがポデモスの出発点


スペイン 15Mの5年を説明する10のテーゼ

新自由主義に対する民主的反乱

単なる怒りのデモではなく一つの運動

ブライス・フェルナンデス

 われわれは、五年後の15M運動、その結果、その限界と潜在力をどのように説明できるだろうか? それはたやすい任務ではないが、われわれは挑戦しなければならない。それをわれわれが読み取るやり方が、われわれが行う諸々の政治的選択を決定するからだ。

?15Mは似たものを経験したことのない他の欧州諸国を注視することでより良く理解される

 先頃アントニオ・ネグリは、15M運動は反ファシズム的な決裂をつくり出した、と語った。これは、少々無理があるように聞こえるかもしれない。それが、打ち破るべきファシズムの体制がまったくなくなっている以上、スペイン社会には存在していない争いの軸を前提にしているからだ。しかしそれは、隠喩としては極めて有用だ。
二〇一一年スペイン社会は、衰弱する中産階級、また何らかのデマゴーグにとっては容易にスケープゴートとなり得た移民住民のかなりの存在を伴って、急速に貧困化を進行させていた。つまり、他の欧州諸国では右翼ポピュリズムのための物質的基盤に導いた一定数の客観条件が存在していた。
しかしながら、諸々の広場での決起の自然発生的な勃発が、問題が何であるかをはっきりさせた。たとえば、もっとも人気のあるスローガンが「われわれは政治家や銀行が扱う商品ではない」であったこととして。そこから様々な危機は、残酷さをより深めるのではなく、快適さの減少となった。

?15Mは単なるデモのサイクルではなく、一つの運動だった

 諸々のデモはしばしば、諸制度によって解決されなければならない、そうした一組の具体的で防衛的なあるいは攻勢的な要求を提起する。15Mは決起を続けていたが、それはそれ以上のものだった。それは、「投票箱には収まらない」ほどに曖昧で抽象的な行動、形態、願いを提起した。
広場での諸々の総会は、討議の場、代表制の虚構を置き換える直接民主主義の場、政治の再獲得を目標とした市民たちの場として、議会の代わりになろうとし、都市の空間は二、三週間のあいだ再び公共性を帯びることになった。この運動は「反権力」としての存在から「対抗権力」としての存在に進むことは決してできなかったとはいえ、ある種の文化的な印、社会の何らかの部分が彼らの不満を表現するために突出する場合の、一連の戦闘的な実践的提案を残した。

?15Mは一つの政治主体を確立はさせなかったが、支配的な社会的ブロックを解体した

 15Mの背骨は、その思想的構成物が消費のために借金ができる、中産階級の子どもたちだった。二〇〇八年の危機には、この構成物を支えた、スペインのエリートが何十年間も根気強く築き上げた物質的関係の材料の解体が含まれている。
何万人という若い大学生(忘れないようにしなければならないが、彼らは若者たちの多数派を形成しているわけではない)は、いわば将来への期待が奪われる、経済危機から苦しめられている。すなわちスペイン資本主義は、大学学位と同じペースで職を生み出すことができずにきたのだ。
七八年体制がその上に安定を基礎付けた社会部門はバラバラになった。つまり、中産階級の子どもたちによって開始された15M運動は、彼らの両親に急速に到達し、それが世代を貫く感情に変えた。

?15Mは一つの階級の運動ではなかったが、実際は「階級闘争」だった

 プロレタリア化過程の中にあった中産階級は、15M期間中「普遍性をもった階級」としては闘わず、まさしくこのプロレタリア化に抵抗した。医療や教育に関係した公務労働者のようないくつかの社会層は、「諸々の波」(たとえば医療労働者は、緊縮が強要した医療破壊に抵抗する大衆的決起を全国的に連ねたが、それは当時「白い波」と称された:訳者)を通じてこの運動に加わった。伝統的な労働者階級や大都市のプレカリアートのような他の社会層は、共感をもって15Mを見つめたが、運動に集団としては参加することはなかった。
15M運動は一つの階級的主体を築き上げることまではしなかったが、われわれはそれを、それが経済と政治を結び付けた関係、つまり利潤を政治権力に固くつなげ、また逆も成り立つ結合関係を暴露した以上は、階級闘争が交叉したエピソードだったと言うことができる。
まさに15Mは、資本主義の下に存在している政治と経済の間の構造的関係の諸結果を標的にしているが、しかしその関係そのものを問題にさせることは決してなかった。

?15Mは左翼でも右翼でもなかったが、そこにはいわば急進的な魂があった

 わたしは、このテーゼを分かりやすく示す一つの小話を伝えたい。15Mのある総会の中で、左翼間に起きた何時間かの論争の後、一人の少女がマイクロフォンを取り上げる。彼女はあまりに多くの冗長さに疲れて、次のように言うことになる。「私は私が左翼なのか右翼なのかは分からないが、仕事に行くために朝起きた時どう感じるかは分かっている。私は搾取されていると感じるのだ」と。
私が考えるにこれは、左翼の危機に対する、左翼の慣例、その政治、その文化的な表現、それらの危機に対する、一つの例証的な隠喩になっている。搾取に対する憎しみを表現する上で役に立っていないとするならば、伝統的な左翼の思想的な用具すべてにどのような良さがあるのだろうか?
15M運動の中で表現されたものは、散漫であり、多様だったが、しかし急進的だった。こうして、15Mが「われわれは上にある者たちと敵対する負け組だ」と言明する時、そこに思想的な主張はまったくなかったが、そこでは実際に現存する左翼が駆り立てることのできなかった一つの急進主義が表現されていたのだ。

?15Mは反資本主義的ではなかったが、資本主義の最大の敵、つまり民主主義を軸に築き上げられた

 マルクス主義理論家であるエレン・ウッド・メイクシンスはある有名なエッセイの中で、人間的な解放のための闘争における基軸は、「資本主義に立ち向かう民主主義」となるに違いない、と提起した。それは、歴史的構築物としての資本主義が民主的な取り組み方と一層争うようになる、ということを意味している。
新自由主義は、部分的にその外にあった空間を、福祉社会としての欧州においていったんは原理的と見なされた一定の諸権利のような、つまり医療や教育のような空間を、資本主義の論理の下に包摂することを何とか果たした。
15Mは、新自由主義の反改良が壊した市民と諸権利の間の筋道を回復しようと挑んだがゆえに、深く民主的な反乱だった。
それは社会主義的オルタナティブのような何らかのものは決して提起しなかったとはいえ、その諸行為と熱望をもって、新自由主義のヘゲモニーを深く疑問に付すことができた。不幸なことに15M運動の民主的な反乱は、職場の門のところで立ち止まり、マルクスが隠れた権力関係として言及したものが近づきがたいもののままとどまることに余地を残した。

?15Mは必然とは言えなかったが、必要なものだった

 グラムシは次のように機械論的なマルクス主義に警告した。つまり、「直接的な経済的諸危機それ自体が原理的な歴史的できごとをつくり出すことも除外されない可能性がある。それらは単純に、思想の一定の様式、および国民生活のその後の発展全体を含んだ諸問題の提起および解決に関する一定のやり方、それらの普及にもっと好都合な一地勢を作りだし得る」と。
これは、15Mの出現は必然の成り行きではなかったとしても、しかしそれはこの情勢の中に暗に示されていた、ということを意味する。そしてそれは起き、「危機」の中でいわば突然変異をつくり出した。その危機は極度の困難を伴ってまた分散的なやり方で経験された危機でありながら、一つの体制危機に、政治システムの危機になった。
15Mは組織化の問題を解決はしなかったが、その問題を提出した。15Mは、運動を儀式的な機会と理解することとはまったく違って、哲学者のダニエル・ベンサイドの表現を借りれば、戦略的な課題設定を再開する機会だった。
経済から政治への危機の引き渡しを受けて、有効な社会的成果へと憤りをどのように転換すべきか? 左翼の旧式な諸形態がもはや有用ではないことがはっきりした時、いかに組織化すべきか? 運動の一定部分が提起する「永久的ハプニング」へと落ち込むことをどのように回避し、ポストモダンの政治が持ち出すテンポに背きつつ、辛抱強い「諸々の立場の戦争」へとどのように移るのか?
これらが数多くある問題だが、観察としてあるものがひとつある。つまり、この運動それ自体の組織はまったく現れていない、ということだ。これだけが次のテーゼを説明できる。

?ポデモスは15Mでも、それを軸とした他のやり方でもないが、15Mがなければポデモスも存在しなかったと思われる

 15Mはポデモスの出現に対する諸条件をつくり出している。しかしポデモスはそこから出現しているわけではない。ポデモスは、15Mおよび諸々の波のようなそれに続いた表現の消耗から、それらが具体的な成果の獲得および権力のための闘争への飛躍実現、この双方ができないでいる事態から出現している。可能性(15Mは異議を突き出す社会的基盤を生み出している)と能力欠落(その社会基盤は安定したやり方で自己組織化ができない)のこの組み合わせがポデモスを生み出している。
これこそが、ポデモスが永続的に緊張をはらんだ関係の中で生きている理由だ。つまりポデモスは、15Mの遺産の相続人として、15Mが提起した社会的自己組織化能力を、選挙の領域を超えて発展させることができずにきた。15Mは去っているが、それは再三再四戻っているのだ。
昨年一二月二〇日総選挙キャンペーンに転換点があったとすればそれは、パブロ・イグレシアスの有名な瞬間だった。彼はその選挙キャンペーンに非常な疲れを見せて到着し、指導的な候補者間の論争の中で、TVを介して何百万という人びとに話しかけ、15Mのことであった「できごと」への「忠誠心」に訴えた。
この訴えはうまくいった。街頭での決起や諸々の波や総会に自己組織化はもはやまったくないとしても、15Mは、社会的公正や民主主義を語る一つの方法として今なおとどまっているのだ。
アラン・バディウが「できごと」と考えているものの特徴の一つは、それが繰り返し不可能、ということだ。しかしながら、15M運動は、資本主義社会の中で予測可能な唯一のものが、つまり争いが現れる場合に戻ってくる、そうした闘争と組織の諸形態を提出してきた。
今ある意味で、15Mは「妖怪のほほえみ」となっている。

▼筆者は「アンティカピタリスタス」運動の一員であると共に、ポデモスに参加している。(「インターナショナルビューポイント」二〇一六年五月号) 

注 「15M」とは二〇一一年五月一五日を出発点にスペイン全土で展開されたEU・政府の「緊縮政策」に反対する怒れる若者たちの広場占拠を中心とした運動。(「かけはし」編集部)

スペイン

憤激後の次が問題だ

多くの人たちが古い政治を捨てた

エステル・ビバス

 怒れる者たちの運動を生み出した二〇一一年の五月一五日の大規模な占拠から五年が経過した。その途上に多くの前進と後退を伴った五年という千鳥足の五年だった。巨大な危機、市民の不安、そして大衆的な抗議の五年だった。それで、そのように憤激の持続した時期を経た今日、何が残されているのか?

 Mが価値基準
に転換もたらす
15Mは、われわれが直面し続けている危機を読み取り解釈する方法を変えた。二〇〇八年にわれわれすべては、「われわれは収入以上の生活をしている」と告げられ、現在の状況に対する責任を責められた。しかし怒れる者たちの運動は、われわれがその筋書きを変えることを可能にした。その原理的スローガンの一つ、「われわれは政治家と銀行家から操作される単なるものではない」は、この方向を示した。15Mは、銀行が経済崩壊の作者だ、政治階級のほとんどもまた共犯だ、と語った。怒れる者たちは、公式筋の嘘に異議を差し挟む対抗筋書きを押し込んだ。それは、われわれは罪もなければ責任もなく、腐敗の時代の犠牲者だ、と語ったのだ。
経済的危機として始まったものは、すぐさま社会的危機となり、最終的には15Mとカタルーニャ独立運動の衝撃の下に、政治システムそれ自体の危機へといたった。この最後の危機は、一九七八年の(ポスト・フランコの)スペイン憲法に込められた土台的な諸原理、その支柱である君主制、二党システム、われわれの国家モデルを疑問に付すよう人びとを導いた。これは少し前には想像もできないものだったと思われる。
15Mは渦巻く社会的不満と結びつき、公共の広場における野営、あるいはPAH(住宅ローンで傷ついた人びとのプラットホーム)のような銀行所有の空き家の占拠といった、非暴力直接行動と抗議行動を正統なものとしながら、それが集団的決起の形態に進むことを助けた。潜在的に非合法な諸行動は今や、世論のかなりの部分によって正統だと見られた。いくつかの世論調査によれば、公衆の八〇%にものぼる人びとは、権力にある者たちから犯罪視され、そのように烙印を押されたにもかかわらず、怒れる者たちは正しく、われわれを支援している、と考えた。

政治的光景の
激変的な進展
マレアス・シウダダノス(市民の波)後の二年、15Mの精神は最終的に政治形成への飛躍を遂げた。「ノ・ノス・レプレセンタン」から「ポデモス」、また「ロス・コムネス」の主張(注)への進展であり、政治的牽引力獲得の困難の克服だ。学者先生たちが、真剣な政治的オルタナティブを提起できずにいると運動を責め、われわれの政治諸制度の管理は専門家に任されなければならないと語った後であってもそれは起きた。
ポデモスの出現は、二〇一四年五月のEU議会に対する五人の議員選出をもって到来した。それは、新たな政治/選挙サイクルの始まりを印した。それは、そこで閉じられず、バルセロナ、マドリード、サラゴサ、サンチャゴ・デ・コムポステラ、カディス……といった地方政府の首長に代わりとなる候補者を立て、あらゆる見込みに反して勝利した、その二〇一五年の地方選でさらに結晶化し、昨年一二月二〇日の二党政治の破壊(総選挙において)を続編としたサイクルだ。憤激に駆られた社会的不安のこの政治的翻訳は、単純に二つのものごと、つまり時間と戦略的な大胆さを必要とした。これらの成功は予想されたものではなかった。そして15Mなしにはあり得なかったものだと思われる。
「古い政治」にとらわれていた者たちは、意思疎通の彼らのやり方を再考するよう迫られた。ある者たちは諸々のしがらみを捨て去り、一歩一歩あらゆる種類の移行が必要となるにつれもっと時代にあったシャツを身につけ、言葉の「変更」は選挙の場面でどこにでもあるものとなった。あたかもそれでも十分ではなかったかのように、社会的不安がもっと無害な回路に向けられることを可能にする目的の下に、新党、シウダダノス(市民)が船出した。

社会的決起が
残された課題
おそらく今日整えられた政治の将棋盤上でもっとも弱体な側面は、あらゆる変革の歩みに必要となる社会的動員だ。制度的な参加に向けた努力、新しい政治的手段の用意、またさまざまな市議会における突然かつ思いがけない勝利は、社会的受動性という空気の中で起きた。
しかしながら、本物の変革は諸制度の征服を通じてではなく、決起した社会からの支持獲得を通じてはじめて生じるのだ。社会が変革に向けて政府に圧力を加えなければ、圧力を加えることになるのは現にある権力であり、われわれは、それが誰の利益に奉仕するのかを知っている。
あらゆるわれわれの憤激に残されているものは何かか? 危機にある体制は、倒壊に向けて準備しているのではなく、今も再形成に向けて用意を調えている。フランスの哲学者、ダニエル・ベンサイドが語ったように、「憤激は始まりだ。立ち上がり、歩き始めることの方法だ。人は怒れる者、反乱者となり、そして次いで次は何かとかんがえる」。これが今われわれがいるところなのだ。

▼筆者はバルセロナのさまざまな社会運動の活動家であり、ポムピュー・ファブラ大学の社会運動研究センター(CEMS)メンバーであると共に、ビエント・スル誌編集部の一員でもある。
注)これは、二〇一五年五月にバルセロナ市長に選出されたアダ・コラウの立候補に当たって使用された名称。
 

 


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