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    かけはし2016.年6月13日号

右旋回した「共に民主党」への失望感


湖南は、なぜ「国民の党」を選択したのか

「チャンスをくれたに過ぎない」

 第20代国会議員選挙での興味深い結果のうちの1つが湖南(韓国南西部、光州を中心とする地域)の政治権力の変化だ。湖南は選挙当時、創党からわずか2カ月にしかなっていない「国民の党」をこの地域の第1党に押しあげた。国民の党は湖南全体で28議席のうち23議席を獲得し、光州では8議席すべてを手にした。「共に民主党」の「湖南の屈辱」と呼ぶに値するほどの結果だった。
政治圏では、野党勢力が政権を握ろうとするならば湖南の支持だけでは難しいけれども、湖南の支持がなければ政権をつかむことはできないと言う。共に民主が去る5・18民主化運動前夜祭と当日の催しに現役議員や第20代国会当選者を大挙集結させたのも、共に民主に冷え冷えとなった湖南の民心に再び扉を叩くための動きだった。
湖南は、なぜこのような結果を作り出したのだろうか。湖南は国民の党を信ずるに足る対案として選択したのだろうか。湖南は孤立した地域主義を自ら選んだのだろうか。我々がチェ・ギョンファン国民の党当選人に会ったのは、そのような気がかりな点に迫るためだった。彼は第20代国会議員に連鎖インタビューする「20代に託す」の3番目の主人公だ。「ハンギョレ21」は読者が気にしている質問を事前に受けて去る5月19日に光州で彼とインタビューを行った。

 国民の政府(キム・デジュン政府)の青瓦台で勤務したチェ・ギョンファン当選人は元大統領が逝去する時まで彼の側を守った秘書官だった。キム・デジュン元大統領がこの世を去り、「キム・デジュン自叙伝」の編さんまでまとめあげた後に、初めて政治に跳び込んだ。彼は光州北区乙で国民の党現役議員(イム・ネヒョン)が参加した党競選(党公認争い)を勝ちぬいた後、「共に民主」との本選対決で勝利して初選議員になった。キム元大統領に付き従った「東橋洞系」を経て、今や新たな「ニューDJ(キム・デジュン)世代」が議会に入って行くことになったのだ。
彼は国民の党が湖南で楽勝したものの「(1度)ちゃんとやってみろ、とチャンスをくれたにすぎず、湖南が心底から気持ちをさらけだして預けてくれたわけではない」と自ら評した。「全国政党化の要求にこたえるために努力しなければならないし、アイデンティティを明確にしながら成果を出さなければ支持層を拡大することはできない」と彼は語った。
特に彼は「キム・デジュン、ノ・ムヒョン精神が(再び)堅固に協力しなければならないし、1期のキム・デジュン、2期のノ・ムヒョン時代を超えて第3期の民主政府を作りあげなければならない」と語った。それがキム元大統領の最後の秘書官だった自らの責務だと語った。「ハンギョレ21」はチェ当選人のインタビューに加え、湖南住民・地域の人々の意見を土台として湖南の民心を追加分析した。(「ハンギョレ21」編集部)
*以下に紹介する記事は、リード中の湖南の民心分析に関する部分のみである。(「かけはし」編集部)

評価が割れる湖南の投票結果


「私は、とても怒っている。湖南人たちの選択に対してだ。(中略)今や全羅道なしに民主は不可能だという通念は粉々になった。全羅道神話が壊れたのだ」。
4・13国会議員選挙直後の4月18日、キム・ヨンオク韓神大碩座教授(注1)は「ハンギョレ新聞」とのインタビューで、「国民の党」に28議席中25議席をまとめて与えた湖南に対する毒舌をぶちまけた。これに対して湖南の神話化や代議民主主義に対する没理解から始まった極端な評価だとの批判が提起された。だが程度の差はあっても非湖南の野党勢力支持層の中では、「湖南が孤立を自ら招いた」「湖南が世俗化した」という憂慮の視線も少なくない。湖南はなぜ国民の党(注2)を選択したのだろうか。

湖南軽視論と疎外論


スタート・ラインは一致した。湖南で独走してきた「共に民主党」(共に民主)に対する失望と怒りだ。サラリーマンのシム・ソンミさん(37、光州西区)は投票権が生じて以降、初めて「3番(ここでは国民の党を指す)」を選んだ、と語った。「これまでは『ともかくも湖南は団結しなければならない』という雰囲気があって、共に民主を選んでやったが、長い間、闘っているのが余りにもしっくりしなかった。時あたかも新たな『選択肢』ができて、『共に民主よりはいいだろう』と思う期待から国民の党に票を投じた」。2006年の地方選挙以降10年ぶりに湖南で「2つの野党による競争の構図」によって選挙が行われ、共に民主の未熟さと無能に疲れはてていた有権者らが対案勢力として登場した国民の党へ大挙して移って行ったのだ。
「共に民主からの離脱」現象は20代において際立って現れた(表1、参照)。進歩・改革のイシューに関心の高い20代は、パク・クネ政権の非民主的統治を阻止できなかった共に民主に対する冷笑が深かった。大学生イ・ダソムさん(24、光州北区)は「セウォル号問題などで、共に民主は与党セヌリ党に負けたとしても必死にあがかなければならないのに何もしなかった」(テロ防止法制定を阻止するための)フィリーバスターの時、多少は何かをやったけれども、状況が悪化する前に措置を取らなければならなかったはずだ」と批判した。
60代では選挙期間中ずっと共に民主に対する好感が最も低かった。「湖南は野圏(野党勢力)の心臓」だという自負心が強い人々にとっては昨年2月、ムン・ジェイン体制になって党職の配分や公認の過程で湖南が一貫して差別されてきたという「湖南怱待論」や「湖南疎外論」が根深かった。
1987年、キム・デジュン総裁の平和民主党の時代から民主党系列の党員として活動してきたパク・ジェンさん(60、光州南区)は今回は(小選挙区と比例の)2票を、いずれも国民の党に投じた。「(新政治民主連合を脱党するまでも)アン・チョルスはムン・ジェインに多くの機会を与えたのに、ムン・ジェインは(辞退しない)とこだわり続け、党を割った。ムン・ジェインは国会議員の再補選のたびに惨敗を重ねたにもかかわらず責任を取る姿勢を1度も示さなかった」。
特に選挙の終盤でキム・ジョンイン非常対策委員長体制のもと刻印された共に民主の右クリック路線は、湖南が「政党の一体感」を失わしめる決定的契機として働いた。オ・スンヨン全南大研究教授の説明はこうだ。「国保委(国家保衛非常対策委員会)出身のキム・ジョンインの党への迎え入れは、5・18民主化運動の価値をまっ向から損なったものと受けとられ、所得主導の成長論や太陽政策の廃棄と対北強硬路線などは正統野党のアイデンティティを損なうものだと湖南では受けとめられた。共に民主が『わが党』だとの認識は、もはや維持しがたくなった」。

引き続き「見守っている」

 共に民主に対する「懲罰」が、そのまま国民の党への「支持」へとつながっているわけではない。「アン・チョルス代表や国民の党に対してさしたるメリットが感じられないがゆえに、いざというときには(国民の党に)背を向けるという考えもある」(シム・ソンミ)、「国民の党がしっかりやるだろうと考えはしない。引き続き見守った後、支持を撤回することもあり得る」(イ・ダソム)など条件付き、一時的選択というのが多数だった。これらの人々は来年の大統領選挙の前に共に民主―国民の党の合意あるいは候補単一化の競選を通じてアン・チョルス代表であれ、ムン・ジェイン前代表であれ、あるいはパク・ウォンスン・ソウル市長であれ、本選での競争力の強い候補が最終的に選択されるべきだと考える。
ファン・プンニョン「全羅道ドットコム」編集長が読み取った湖南の民心もこれと似通っている。「失望ぎみの共に民主に第3党というけん制装置を置くという絶妙な選択であり、大枠において韓国の民主主義のために戦略的に(孤立を)選択する自己犠牲的選択だ。湖南は今や共に民主でも国民の党でも、ほとんど同じく見て、観望している」。政権交代の熱望が高い湖南が野圏を競争させるために、共に民主にはムチを振るい、国民の党には「図体」を大きくしてやる「戦略的選択」をしたと見る分析だ。
反面、オ・スンヨン研究教授は「系派による覇権政治に没頭した共に民主と大統領選の候補として競争力が不足だと考えているムン・ジェインを不信任した『審判投票』によって(国民の党への)支持政党交代が実現された」と考える。ただし彼は「湖南を1つの固まりと見る見方を捨てなければならない」との前提を付けた。今回の総選挙で高年齢、ブルーカラー、農村地域の有権者など、特定政策に対しては進歩的だけれども経済分野においては保守的な「中道保守」の有権者たちは国民の党へと移って行き、伝統的野党支持層は共に民主に残留する「分化した」投票が起きたというのだ。
国民の党に対する支持の強度とは関係なしに、湖南には共通の情緒があった。第3党である国民の党が特定の懸案解決するためには与党やセヌリ党と政策的連帯をすることはありうるが、人為的政界再編のための政治的連帯だけはしてはならないという「原則」だ。2005年、ノ・ムヒョン大統領が地域主義打破を名分としてハンナラ党に連政(連立政府)を提案した時、湖南では「1990年の3党合党(注3)の再現」だという激昂した批判が起きたほどに、湖南は「孤立」に対する憂慮が大きい。
アン・チョルス代表を「次の大統領にあさわしい人材」として高く評価しているパク・ジェスさんも「5共(第5共和国、チョン・ドゥファン政府)の時やイ・ミョンバク、パク・クネ政権の10年間、湖南を無視したセヌリ党とどのように連政をすることができるのか。民主化の聖地である光州は湖南の民心に反する行動をすれば果敢に審判するだろう」と警告した。

「セヌリ党との連政はない」

 総選挙後、湖南で国民の党が苦戦しているのも、このような原則とつながりが深い(表2参照)。「妥協と折衷の政治がしっかり定着するならば連立政府、連立政権に対しても国民はごく自然に受け入れるのではないだろうか」(4月24日、イ・テギュ国民の党戦略広報本部長)、「パク・クネ大統領が失政を認めれば(セヌリ党の国会議長を支持する方法も)考えてみる」(4月28日、パク・チウォン院内代表)と語るなど、セヌリ党との政治的連帯」の可能性をほのめかす発言が出てきた後、湖南では共に民主と国民の党の支持率格差が5%と大いに縮まった。ごう慢な国民の党に対する湖南の「警告」だった。
ただごとではない湖南の民心を読み取ったアン・チョルス代表は5月18日、光州で「アイデンティティが違う。セヌリ党との連政はない」と鎮火に乗り出した。そうしつつ彼は「今回の選挙結果は(湖南が)プレゼントをくれたのではなく宿題を与えてくれたのだと思う」「政治を変え、未来を準備し、政権交代を実現する大きな器となるという言葉をきっちり守っていく」と低姿勢だった。(「ハンギョレ21」第1113号、16年5月30日付、ソ・ボミ記者)

注1 企業や個人が寄付した寄金で研究活動をする大学が指定した教授。
注2 今年は2月、最大野党である新政治民主連合を離脱したアン・チョルス議員ら国会議員17人で発足。一方、民主連合はその後、党名を「共に民主党」に変えた。
注3 1990年、ノ・ムヒョン政権下の少数与党・民正党は野党のキム・ヨンサムの民主党とキム・ジョンピルの新民主共和党との保守連合による民自党(民主自由党)を立ち上げ一挙に巨大与党に転じた。

 


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