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    かけはし2016.年6月20日号

この悲劇を繰り返さないために


沖縄報告 6月12日

基地・戦争と女性への暴力

6.8 VFPのアン・ライトさんを迎えて
これ以上基地・軍隊の駐留認めない

追悼抗議集会に160人

 元海兵隊で嘉手納基地勤務の米軍属による女性暴行殺人・死体遺棄事件の被害者を追悼し、二度と再びこのような事件を起こさないことをめざす「これ以上の基地・軍隊の駐留を認めない!追悼・抗議集会」が六月八日、那覇市内で開かれ、一六〇人が参加した。
集会は犠牲者の二〇歳の女性に対する黙祷から始まった。呼びかけ団体の「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代さんは暴力の根を断ち切るため米軍基地撤去に本気で取り組もう」と述べ、ゲストのアン・ライトさんを紹介した。
元米軍大佐で外交官も勤めたアン・ライトさんは、二〇〇二年アメリカのイラク侵略戦争の開始に当たって、「イラク戦争は間違っている」と当時のブッシュ大統領に手紙を送り外交官を辞任したあと、精力的に世界各地をまわりながら反戦を訴え続けている女性で、退役軍人の市民団体VFP(ヴェテランズ・フォー・ピース)に所属している。二〇〇八年に続き、昨年も沖縄を訪れ、辺野古のゲート前や海上行動に参加した。(アン・ライトさんと高里鈴代さんの対談「軍隊、その構造的暴力を止めるために」は二〇一六・一『けーし風』第八九号に掲載されている)
アン・ライトさんは要旨次のように発言した(通訳=宜野座綾乃さん)。

米軍内でも深刻
な女性への暴力
沖縄に来ることができてうれしい。まず、今回の犯罪に対し沖縄のみなさんにおわびしたい。軍隊の暴力は基地の中でも外でも現われる。米軍の中でも性犯罪は深刻で、兵士四人のうち一人が被害を受けている。女性だけでなく男性も被害者になっている。軍隊が暴力の源だ。
今日、キャンプ・ハンセン近くの犯行現場に行き花を手向けてきた。急に蝶が舞い降りて、痛ましい気持ちに襲われた。オバマは日米会談で、事件に対し遺憾の意を表明したが謝罪しなかった。オバマには一七歳の娘がいるが、沖縄という島全体がレイプされていることには沈黙し何も言わない。犯罪だけではない。七〇年のあいだ基地の存在により環境汚染がどれ程深刻なのか。不平等な地位協定のゆえに汚染が残される。今、地位協定の改定に向けて動き出す絶好の機会だ。県民大会など大きな動きはアメリカでも報道され注目される。
辺野古と大浦湾は静かだった。フロートもなかったし、海の警備や海保もいなかった。みなさんの闘いがアメリカの基地建設を中止させている。世界でこれまで誰もなしとげたことのないことだ。私は先週チェジュへ行ってきた。チェジュでは八年間毎日ゲート前の抗議行動が行なわれているが、残念ながら基地建設は強行されている。住民たちは心を痛めているがあきらめてはいない。みなさんも今後とも辺野古NO!にいっそう力を注いでほしい。私はみなさんの行動を讃える。

10人の女性が
リレートーク
そのあと、四六の賛同団体の中から一〇人のリレートークが行われた。
参議院議員の糸数慶子さん「沖縄では一九世紀のペリー艦隊の沖縄上陸以来、米軍による性暴力が続いている。今こそ、軍の暴力に終止符を!」。
沖退教の玉那覇さん「日米地位協定の抜本的改定を要求しても日米両政府はうわべだけの対策だけ。すべての基地をなくしていこう」。
ワンストップ支援センターの設立を強く望む会の金城葉子共同代表「私は一七歳の時米兵にレイプされた。三年前まで、二五年間誰にも言うことができなかった。おびえながら暮らしてきたが、米兵と私という個人の問題ではないと気付いた。基地あるがゆえの犯罪をなくそう」。
自治労県本女性部の比嘉さん「働く仲間のひとりとして怒りを抑えきれない。三月のホテルでの女性暴行事件から連続する犯罪は基地撤去しないとなくならない」。
女性会議の狩俣さん「綱紀粛正、再発防止の掛け声は飽きるほど聞いた。地位協定の改定を今すぐに。由美子ちゃん事件を忘れることができない」。
オキナワンスタディーズ一〇七の親川志奈子共同代表「七〇年たっても基地の事件事故がなくならないのは日本政府が容認しているから。植民地主義の問題だ。基地はどこにもいらないと思う。しかし、基地が必要と考えるのであれば基地を引き取ってほしい」。
女性団体協議会の伊良波さん「被害者の恐怖、遺族の方の悲しみ、虚しさを思うと胸が張り裂けそうだ。私たちがもっと頑張っていれば事件を防ぐことができていたのではないか。次の被害者を出してはならない」。
那覇ブロッコリーの本永さん「やんばるにオスプレイがいつも飛んでいる。沖縄戦の被害を想起しよう。沖縄に米軍はいらない。自衛隊もいらない」。
わんから市民の会の長堂さん「大学で非常勤の仕事をしているが、学生たちに接すると思いのほか多いのが『基地は必要』との答え。くらしの中で基地のことが語られていない。学校で基地のことが教えられていない。見直しが必要だ」。
ジェンダー問題を考える会の安次嶺さん「由美子ちゃん事件を思い出してチムグリサンになる。恩納村の死体遺棄現場の花束の数々は被害者の涙、女性の涙、ウチナーンチュの涙」。
最後に声明文を採択し、全員で蝶の絵と「すべての基地・軍隊の撤退を!」とのプラカードを掲げてアピールした。

6.11読谷村:恨の碑建立から10年

李煕子さんを迎えて

総会・追悼会に150人


二〇〇六年読谷村に「恨(ハン)の碑」がつくられて今年で一〇年になる。六月一一日、沖縄戦に朝鮮半島から動員された軍属部隊「特設水上勤務隊」の姜仁昌(カン・インチャン)さんの四女カン・シニョンさんと連れ合いのウ・ドヨンさん、そして太平洋戦争犠牲者補償協議会の李煕子(イ・ヒジャ)代表を韓国から招いて、沖縄恨の碑の会総会と追悼会が行われた。参加者は約一五〇人。
はじめに李煕子さんが「次世代に継承するために」と題して講演した。一〇年間の歩みを記録した写真をスライドで詳しく紹介しながら、沖縄戦に動員され犠牲となった朝鮮人軍人軍属の存在を歴史的事実として残し慰霊するために「恨の碑」を韓国と沖縄に建てることに全力を傾けた姜仁昌さんを「決してあきらめない人」と讃えた。
そして「私たちが努力すればいくらでも友だちになれるし、世代と国境をこえて友情を分かちあえる身近な関係であることを心で感じた」との姜仁昌さんの言葉を紹介し、「姜仁昌氏がこの場に来ることができていればどれだけ喜んだことか、それを思うととても残念だ。みなさんのおかげで碑ができた。次世代に伝えていくのがこれからの課題だ」と述べた。
そのあとカン・シニョンさんは「父は沖縄に来たがっていた。その願いは叶わなかったが、今日この場に来てとてもうれしい。これからも関心を持ち続けてほしい」と話した。沖縄恨の碑の会から、一〇周年に合わせて発刊された姜仁昌さんの証言集『恨をかかえて―ハラボジの証言』が紹介された。(問い合わせ先=hannohinokai@gmail.com)  
総会では、平和の礎に沖縄戦で犠牲になった朝鮮人の刻銘作業を進めようとの訴えも行なわれた。総会のあと、恨の碑の前で追悼会が行なわれた。ユ・ヨンジャさん、知花昌一さん、佐々木弘文さんの三人による読経から始まった追悼会は、折からの大雨のため、会場を再び読谷村文化センターに移し、普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会、平良修さん、金城実さん、劇団石(トル)のキム・ギガンさん、海勢頭豊さんが次々とトーク、歌、踊りを披露し、会場は大いに盛り上がった。午後七時前、五時間以上の長丁場の日程を終えた。

阿嘉島の戦争
遺跡をめぐる
翌一二日は韓国からの参加者を含め一五人が阿嘉島へフェリーで渡り、垣花武一さんの案内で姜仁昌さんと韓国人軍属の足跡をたどるフィールドワークを行なった。現場訪問に先立ち、沖縄戦当時一五歳の垣花武一さんは日本軍本部付きの義勇隊として身をもって体験した阿嘉島での戦争の実相を証言した。垣花さんの証言の要約は次の通り。

垣花武一さん
の証言を聞く
一〇・一〇空襲で那覇は廃墟になり、二年生で在籍していた開南中から阿嘉に帰ってきた。家は日本軍一四人が占拠、家族八人は裏部屋に押し込められた。阿嘉島に駐屯した日本軍は約九〇〇人。特攻隊の基地をつくるためだった。住民は一〇〇戸四〇〇人ほど。住民の食糧がないところに、突然の日本軍の駐留で島は困窮したが、住民は日本国民としての義務を果たそうと努力した。兵舎作りも住民が総動員でやった。カツオ工場やカツオ船もすべて取り上げられた。
その後朝鮮人女性七人がやってきて「南風荘」と呼ばれた慰安所に入った。一九四五年二月に日本軍九〇〇人のうち七〇〇人が沖縄本島に移動し、朝鮮の女性七人も一緒に去って行った。入れ替わりに、階級のない軍隊が島に入ってきた。兵隊の肩にはワッペン。武器なし。無言。朝鮮人軍属だった。
一九四五年三月二六日、米軍が前の浜に上陸。特攻艇は二三日からの米軍の砲爆撃でほとんど破壊されていた。日本軍も朝鮮人軍属も住民もみんな山に逃げた。兵士や朝鮮人軍属を連れて投降する日本軍兵士もいた。朝鮮人軍夫は山に入ると仕事がない。その中、何人かは逃亡。秘密の暴露を怖れた軍により、逃亡やポケットに米粒があったなどの理由で、七人が殺されるのを見た。住民一〇人が見ている。朝鮮人軍夫に穴を掘らせ埋めた。生き残った朝鮮の人に聞いたところによると、一二人が処刑されたという。戦後処刑場を掘ると、電線で縛られて白骨化した遺骨もあった。
阿嘉島の戦争は飢えとの戦い。そしてそれは日本軍との戦い。アメリカ軍はいない。相手は日本軍。食糧をめぐって兵隊同士が殺しし合いもした。兵隊は住民民のものを取り上げる。ツワブキは唯一の食糧。最後の命綱だった。
六月にはいって餓死が広がっていくと野田隊長は全員を集め「好きに行動してよい」旨の発言をした。みんな逃げた。住民四〇〇人のうち大半が逃げ、監禁壕に入れられていた朝鮮人軍属も逃げてアメリカの捕虜になった。残ったのは一〇〇人ほど。八・二三の降伏式が阿嘉島での戦争の終わり。私と私の家族もこのとき山を下りた。朝鮮人軍夫も一五人いた。多分組長クラスだろう。日本軍の朝鮮の人々に対する態度はまるで奴隷扱い。木で殴るのをみんなが見ている。食糧でも差別。

 

雨の中のフィ
ールドワーク
雨の中車に分乗してのフィールドワークで垣花さんは次のように説明した。
@前の浜。米軍上陸地。一九四五年三月二六日午前八時四分、米陸軍七〇〇人が水陸両用戦車に乗って上陸した。沖縄戦の地上戦の始まり。この時住民五人が米軍によって殺され、足が悪く避難せず家にとどまった後藤さん夫婦が一時保護されたあと家に帰された。夜、山から集落に下りてきた日本軍は二人をスパイと決めつけ山中の日本軍陣地に連行して拷問を加え残忍な方法で殺した。
A朝鮮人軍属監禁壕跡。一九四五年五月下旬、阿嘉島中岳の中腹に縦横各二m、長さ一五mほどの竪穴二カ所を朝鮮人軍属に掘らせ、そこに各二五人合わせて五〇人の朝鮮人軍属を入れ上から牢屋の格子状のものを置いて監禁した。見張りは現地召集の防衛隊員。食事はシーチキン缶に入った雑炊、一日に一杯だけ。中岳頂上付近の日本軍司令部からの行き来に毎日見た。朝鮮人は髭ぼうぼう髪ぼうぼうで、毎日のように餓死者が出た。
Bアリラン峠。集落からニシバマ(北浜)に通じる峠道。重いバッテリーを担いで海上挺進戦隊の日本兵が行き来したが、峠の上で一休みした。戦隊にひとりの朝鮮出身の若者がいて「アリラン」をみんなに教えた。上官がいるときは軍歌を歌ったが、いないときはみんなで安里屋ユンタやアリランを歌った。集落の外れの慰安所からも朝鮮の女性が峠にでて来て、峠に生えているノビルを摘んで塩漬けにして食べたという。
Cニシバマ(北浜)の特攻艇秘匿壕跡。慶良間諸島の海上挺進戦隊の特攻艇は、渡嘉敷島に一〇〇隻、座間味島に一〇〇隻、慶留間・阿嘉島に一〇〇隻配備された。ニシバマには三〇隻が一〇の秘匿壕に配備された。レールが海浜の途中まで敷かれていた。特攻艇は厚さ二分五厘(約七・五ミリ)のベニヤ板で、長さ五m、幅一・八mの船にしたもの。二五〇キロ爆弾を積むと重さが一・五トンにもなる。朝鮮人軍属の仕事は、この船を海に浮かべる作業。三〇人がかりで運び海の中に胸まで浸かって船を浮かべる重労働。
D慶留間島の特攻艇秘匿壕跡。三〇隻配備された。海上挺進戦隊第一中隊のこの基地から慶良間の沖縄戦で唯一特攻艇が出撃した。四隻に二〇人乗った。一隻に五人。おそらく爆弾を積むことはできなかったのではないか。二隻は沈没、二隻は沖縄本島に着いたが、沖縄本島南部の与座岳の戦闘でみんな死んだ。また、ひとつの壕内で兵士たちの自爆もあった。
E日本軍慰安所「南風荘」跡。集落の外れの民家二軒が慰安所として使われた。もともとの住民は追い出された。「南風荘」の看板が掛かっていたのは向かって左側の家。ひとつの家には朝鮮の女性四人、もうひとつの家には女性三人と男の慰安所管理人が住んだ。色白で背が高くきれいな女性たち。年齢は一七、八歳から二〇歳過ぎ、最高齢でも三〇歳ぐらいに見えた。沖縄本島に渡った朝鮮人女性七人は戦争で六人が死にひとりだけ生き残ったと聞いた。

 


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