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    かけはし2016.年6月27日号

日本軍「慰安婦」少女像ともに


少女像を載せバイクで旅行

ロシア、フィンランドなど世界の日本大使館を訪れる


 

 小さな少女像は痛んでいます。異郷万里、ロシアの原野のとある場所です。首は傷み、脚も壊れました。顔は傷だらけです。1人の男が傍らで少女像を見守っています。この2人は1台のオートバイに頼ってロシアを初めとするアジア・ヨーロッパなど52カ国(の日本大使館)を回る旅程を続けています。今や中間地点を通過している旅程を紙面で紹介します。(「ハンギョレ21」編集部)
「終日、雨が降っています。向かい風が吹いています。服はビショビショになります。反対車線から自転車旅行者が過ぎて行きます。あいさつを交わすとUターンしてきます。『何をしているのか』と聞いてきます…。私の方に吹いてくる向かい風は自動車旅行者の背中を押してくれると思うと、風を裂いて走るのも悪くはありません。旅行は頭や心だけでやるのではないのかと思います。少なくとも少女像との今回の旅行は『お尻』でやっています」。
「オンドンイ(尻)でやっている旅行」という言葉が出てくるというものです。イ・ホチョルさん(36、仮名)が自分のオートバイに「慰安婦ハルモニ(おばあさん)」を乗せて韓国を旅立ってから、いつの間にか2カ月が過ぎた。彼は3月20日に江原道東海港から船でロシア・ウラジオストクに向けて出発した。
彼はロシアをはじめとするヨーロッパ、中央アジア地域50カ国余の現地の日本大使館を訪れ、小さな少女像が日本大使館を注視する様子を写真に収めている。ソウル鍾路区中学洞の駐韓日本大使館の通りの向かい側にある「平和の少女像」とそっくりの姿だ。過去の戦争犯罪の責任を度外視している日本政府の反人権態度を、被害者たちの象徴である「少女像」は全世界のどこでも座視することはできない、という事実を知らせるためだ。

3月に東海からロシアに出発


最初の旅程は釜山にある日本国総領事館から始まった。日本政府が自国に批判的な態度を取っている外国人に入国拒否を取るケースを心配し、顔が明らかになる写真を撮るときには「人形のマスク」をかぶった。そのようにして世界の日本大使館を訪れる人形のマスクと少女像の「モーターサイクル・ダイアリー」が始まった。身に帯びたのは最小限の旅費とオートバイ1台、簡易テント、それと少女像を入れるためのプラスチックのケースだけだ。
最初の訪問地ロシアからして苦難の行軍が始まった。厳しい暴雪が吹きつのった。氷上でオートバイは途方に暮れた。電話も通じないシベリアの奥地で何日か足止めを余儀なくされたこともあった。弱り目にたたり目で、ロシアの高速道路のどまん中でパスポートとカネの入ったカバンをなくしてしまもした。彼は自らのフェイスブック(facebook.com/kakusimask)に旅程を几帳面に記録している。
「シベリアの道路事情は、それほど良くありません。非舗装もまだ残っており、見かけは舗装の非舗装も多いです。少女の行く道はまだ遠く険しいです。最初の目的地モスクワはまだまだ遠いばかりです。その時まで少女がしっかり耐えてくれれば、と願っています」。
小さな少女像にとっても、やり遂げるのがたやすくはない旅程です。イさんのオートバイが凍りついた道で倒れるたびに、少女の像も頭、足首などが壊れた。少女像が座っていたイスはバラバラになった。少女が耐えぬくには大変な旅程のようです。暴雪でやむをえず休息している間、少女の治療をしました。安全と健康を最善にしていきます」。
予想移動距離だけでも実に4万5千q。だが、がんばった。出発から25日ぶりの4月12日、遂に最初の目的地モスクワの日本大使館に到着した。「きょうはロシアのバイカー仲間の家で終日お世話になりました。一面識もない私を、共にバイク乗りという理由だけでねぐらと食事を提供してくれる友人たち! シベリアは肥沃ではないけれども人々は温かいです」。

暴雪に遭い少女像が壊れても


ロシアの大陸を過ぎた後、本格的に日本大使館を訪れる旅程が始まった。1週間ばかりでフィンランド・ヘルシンキ、ラトビア・リガ、エストニア・ターリン、リトアニア・ビルニュス、ポーランド・ワルシャワ、チェコ・プラハの日本大使館を訪れた。北欧に向かう旅程あたりから、ギリギリだった経費が圧迫し始めた。野宿はいつものことだった。だが現地の野宿者たちに、前もって押さえておいた場所が「奪われ」なければ幸いというものだった。どうにもならない日、激しい雨が降りつける時は高速道路の休憩所の片隅にこっそりとテントを張り休息をとった。
「雨が降っています。しばし休憩所で休みます。北欧に行きます。ドイツも物価が30%上がったのに、北欧は2倍なんですね…。既に準備した資金はすべて使い、ひょっとして病気になったりケガをしたり急なことが生じたら帰る飛行機の切符用の非常金として準備しています。まさに今が非常事態なので、この非常金を使ってもいいでしょうか。『旅行の初めのころの紛失事件さえなかったら、豊かではないまでも不足することはなかっただろう』という思いがします。どんな協力でもいいです。ひょっとしてヨーロッパに弟妹が暮らしているだとかして1日だけ泊めてくださってもいいです〜。北欧2カ国には行かず他の国に行こうが悩んでいるところです。ガソリン価格と、必ずや乗らなければならないフェリーのチケットが最大の悩みです」。
そのようにしてスロバキア・ブラチスラバ、オーストリア・ウィーンを経てフランス・パリの日本大使館にも到着しました。パリでは少女像を置いて日本大使館を撮影する過程で大使館の警備員に制止されることもあった。「制裁が起き始めた。衝突する必要はないので道の向かい側から撮影しなければなりません」。
旅程は止まっていない。船にオートバイを載せて英国に向かった。「小数点の位置まで計算して支出をしているが、腹を決めて『英国に行こう』と港に来てみると…。ユーロではなくポンドを使うんですね〜。何日か苦労しなければなりません」。
英国ロンドンでは巨大で古風な日本大使館の建物の上に日章旗がなびいていた。アイルランド・ダブリンを経てスペイン・マドリードに到着した。ここの日本大使館は高圧的な壁を備えていた。再び大使館の警備員と写真撮影をめぐって、いささかの衝突があった。スイスからイタリアに越えて来る道で「高速道路排気量制限」にひっかかり罰金30ユーロを払った。前もってスイスの高速道路通行証を購入するのだが、40フランかかった。25日分の食費にあたるカネだ。「旅行とはそんなものだが、それにしてもきょうはいささか疲れ果てる」、そんな1日だった。
少女像との旅行は孤独なことだけではなかった。ロシアで、しばし少女像を失ってしまった時、イルクーツク・ローシャというロシアの友人は、自分のことのように八方、手を尽くして少女像を探してくれた。エストニア・ターリンで弁当を買って持たせてくれた韓国人旅行者、燃料がとぼしくなったオートバイを見て近くのガソリン・スタンドで油を買ってくれて何も言わずに去って行ったバイカー、偶然に会って、いつでもわが家に泊まれと言って連絡先をくれた「アレックセイ」という友達もいた。
「ある田舎で荷物運びを手伝い、オートバイの油を1度入れてくれと言ったところ食事まで用意してくれた農夫の方々、スペイン・セビリアではペンキ塗りのアルバイトをしたら100ユーロと宿所と食事まで用意してくれた人々のように、言葉もできずにさまざまな人々から助けをもらって、ここまで来ました」。

「きょうも安全に行く」

 彼は5月17日現在ポルトガル・リスボン、モロッコ・ラバトを経てスイス・ベルンの日本大使館をしまいとしてバルカン半島に向かっていた。これ以降、ウクライナ、カザフスタン、キルギスタン、モンゴルを経て、中国を今回の50余カ国を目標とする「第1次の旅程」の終着地と考えている。計画通りに日程を終えることができるかはオートバイの具合と資金の状況によりけりだ。「今、私はスロバニアを出発します。きょうも安全にやっていきます!」。(「ハンギョレ21」第1113号、5月30日付、ホン・ソッチェ記者)

無責任な沈黙

光州蜂起で倒れた人たちの追悼歌が流れる5・18式典

 1981年、ファン・ソギョンとキム・ジョンニュル、光州地域の歌手のグループは5月18日をそのままやりすごすことはできなかった。前年に繰り広げられた抗争を記憶しつつ、歌劇を創作した。「ニムのための行進曲」は、その歌劇に挿入された曲だった。戒厳軍に射殺された市民軍のスポークスパースン、ユン・サンウォンと夜学を運営していて死亡した労働運動家パク・キスンの霊魂結婚式に限定された曲だった。2人は恋人同士だった。歌詞は当時、ソウル西大門拘置所に収監されたペク・キワンの詩「メッピナリ」の一部を借用し、ファン・ソギョンが付けた。曲は翌年の1982年にユン・サンウォン、パク・キスンの遺骸を合葬する霊魂結婚式で初めて公開された。粗悪なテープに録音された歌は、またたくまに広がっていった。5・18を象徴する歌となった。

あなたの悔しさ
を私は分かります
今年の5・18記念式で「ニムのための行進曲」の斉唱についての国家報勲処の立場が出てきた。一緒に歌うにせよ、歌わないにせよ、各自の判断で、だった。記念式に出席したファン・ギョアン国務総理(首相)をはじめとする政府側の人々は合唱になって流れ出る「ニムのための行進曲」を歌わなかった。頑なにつぐんだ口は開くことがなかった。
後になって、抗争当時の戒厳司令官だったチョン・ドゥファンは語った。「私は発砲命令をしてはいない」。彼らの沈黙と彼の言葉との間隙は、ほとんどなかった。抗争の最後の夜明け、旧全南道庁の屋上にあった大型スピーカーから光州市内に響きわたっていた「光州市民の皆さん、戒厳軍が進駐してきているので、市民の皆さんは道庁に集まってください」。声の主人公パク・ヨンスンさんは尚武台の営倉に引っぱっていかれ、厳しい拷問を受けて服役し、6カ月ぶりに刑の執行停止によって釈放された。その日、彼女は最後の放送をした後、放送内容が書かれたメモを飲みこんだ。その放送を聞いていた人々は、あるいは死に、あるいは生き残った。
5・18のオモニ(母)たちが、セウォル号のオモニたちを抱きよせながら語った。「あなたがたの悔しさ、うらめしさを私は分かります」。痛哭を抱いた者たちが互い慰めた。だが口をつぐんだ者たちと口を開いた者、彼らは5・18光州で死んだ者、生き残った者たちの傷の痛みが何であるのか分かることができない。4歳の男の子の首を貫通した銃傷、遺体を家に持ってきても死んだということを隠さなければならなかった人々の悲惨さを理解することができない。射殺され暗埋葬された非武装民間人や国立顕忠院に暗葬された鎮圧警察官や軍人死亡者を見る苦しみもない。
彼らが沈黙したり、口を動かしたりする理由は一緒だ。責任をとらない歴史は繰り返されからだ。あの年の5月20日、「全南毎日新聞」の記者たちは社長に辞表を出す。「我々は見た。人間が犬を引っ張るように引っ張られて行き、死んでいくのを両の眼でしっかりと見た。だが新聞には、ただの1行も載らなかった。このことに我々は恥ずかしくて筆を置く」。銃剣はびこる時代にも沈黙が恥ずかしくてペンを置いた記者たちがいた。36年の歳月が流れ、歌うことなきこの政府の沈黙は、いかなる恥ずかしさなのだろうか。歌さえ歌うことのできない所で、歌は主語だ。そうすることによって死んだ者が先頭を歩んだ道、生き残った者たちはそれに従って行かなければならないのではなかろうか、目覚めて叫ぶ熱いときの声によって!

ニムのための
行進曲が広がる
「愛も名誉も名も残さずに/生涯を歩もうとした熱い誓い/同志は行方知らず、旗だけがなぶき/新しい世の来るまで揺らぐまじ/歳月は流れても山河は抱く/目覚めて叫ぶときの声/先に行くから残りし者は続け/アプソソ ナガニ サン ジャヨ タルラ」(「ハンギョレ21」第1113号、16年5月30日付、「ノーサンキュー」欄、パク・チン・クサン人権センター常任活動家)
注 ニム。(民謡、詩などで)君、恋人の意。


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