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    かけはし2016.年7月11日号

歴史的真相調査含む特別法が必要


見掛けだけの韓国人被爆被害者支援法

綿密な実態調査 被爆者の子女被害認定

 米国バラク・オバマ大統領の「歴史的な」広島訪問は、韓国人原爆被害者たちにとって自らの袋小路状態の立場を世の中に知らせる絶好の機会だと考えられた。訪問予定日の5月27日午前、韓国側の訪問団と日本の支援団体関係者らが広島平和公園内の韓国人被爆犠牲者慰霊碑の前で「米国大統領は責任を認めろ」と要求した。
シム・ジンテ韓国原爆被害者協会陝川支部長とハン・ジョンスン韓国原爆2世患友会名誉会長ら韓国側訪問団と日本の支援団体関係者らが共に集まり慰霊碑に献花し、オバマ大統領に米国の責任を認めることを要求した。韓国訪問団は前日、ソウル鍾路区の米国大使館前で記者会見を行っており、夜遅くに大阪・関西空港に到着したものの、調査を理由として入国管理局に拘留されるという苦衷を味わったという。
やはりアクシデントはなかった。オバマ大統領との面談は実現されなかった。彼の演説の中で、韓国の被害者についてたった1度だけ言及したことが、そのすべてだったが、それだけでも極めて異例なことと報道された。米国大統領が韓国人原爆被害者の要求に応える言動を示してくれるだろうとは最初から期待しがたかった。

オバマ大統領の広島訪問


「歴史的な」広島訪問が米国の対アジア戦略の一環である米日共助の誇示であり、これに加えて退任を前にした大統領の「自分の政治」だったことは誰もが知っている秘密だ。偉大な人物として残ろうと国家の基調に反逆を企てるほどに大胆な人物であったならば、そもそもその地位に昇ることもできなかっただろう。
オバマと安倍、かつての戦争当事国の国家元首大統領と首相という者たちが原爆の被害現場を訪れ、脈絡もなしに「核兵器のない世の中」を宣言するとは。侵略と原爆投下の張本人が一体、別の国の人間だったのか錯覚するほどだ。このような無責任なありようを、偽りの平和主義と言わずして他にどう表現するべきなのか。日本の全国被爆者青年同盟などは今回のオバマ大統領の訪問は、むしろ「あらずもがな」だったとして強く批判した。
米国大統領の一挙手一投足に耳目が集中している間、それからちょうど1週間前に大韓民国国会を通過した特別法案は、それほど注目されなかった。「韓国人原子爆弾被害者支援のための特別法案(対案)」が、広島と長崎に原爆が投下されてから71年ぶりの今年5月19日、国会本会議で可決された。それまで「原爆被害者およびその子女のための特別法推進連帯会議」など、さまざまな市民社会勢力が10年余、粘り強く国会を圧迫し世論に訴えてきた努力が遂に実を結んだのだ。ところで、なぜ法案がその姿なのだろうか。
原爆被害者支援法案が国内で初めて制定されたからと祝杯をあげるには余りにも内容が不充分で失望する。この法案は人間の体に例えるならば、それこそ骨組みだけが備わった、というレベルだ。それもがっしりした骨組みではなく大まかにつないだように見える。
保健福祉部(省)長官所属の委員会設置、韓国人原爆被害者の実態調査、医療支援、それに追悼墓域および慰霊塔の造成など主要骨子などを羅列しているだけで、体系的な事業進行のための論理的連携性や法の執行を推進していく細部の項目は備えられていない。
「実態調査」の条項だけ見たとしても、単純に資料の収集や調査、報告書の作成だけが明示されており、委員会に「登録」した被害者に局限された形式的な調査と報告にとどまる公算が大きい。あまりにも安価な処理方式ではないか。釜馬民主抗争(注)補償法の前轍を踏もうというのか。
キチンとした真相糾明のための行政的・財政的要件を具備しないまま、政権の広報レベルで急いで法律を制定した結果、釜馬民主抗争の真実や歴史的価値を明らかにするどころか、被害者の一部に対する賠償・補償ならびに名誉回復の問題に縮小され、民主主義精神の生き生きとした源泉を枯渇させはしなかったか。

どうなる原爆被害者支援法


直接的な被ばく者世代が亡くなっている中で立ち遅れた医療の支援を、それさえも制限的に提供し、せいぜい追悼公園でも作るという特別法であるならば実に遺憾なことだ。だが実際に決定的な問題点は別の所にある。法案内容がお粗末なことだけが問題ならば、一応は法の制定を喜んでから今後、法案を補完し改正する手続きを踏めばよいことだ。問題は内容よりも、その見方にある。
この法案には原発被害者の子女が「被害者」の範囲に含まれていない。これは単に今後、補完すればよいという付加的事案ではない。韓国人原爆被害者問題をわが社会が解決しなければならない最大の理由は、それが我々の現在と未来に影響を及ぼす核心的主題を貫通するからだ。
韓国人原爆被害者問題は基本的に少数者の人権問題だ。これらの人々は植民統治の最も暗い陰の中であえいだ後で他国に放出されたのであり、未曽有の災難に遭いながらいかなる助けの手もなしに故国に再び放出され、かげった人生を続けなければならなかった。
少数者中の少数者であるこれらの人々の問題は、それにもかかわらず通常の意味での「過去史」としてのみ扱われては困るし難しい。彼らは経済的貧困だけではなく、病にかかった体までを子孫に伝えるという苦痛を味わってきた。核の放射能による遺伝病こそが原爆被害者問題の核心で、この問題をわが社会全体の運命と直結した事案に格上げさせる。
遺伝病を度外視するのは、この懸案を被爆者第1世代の不幸へと縮小するものであり、これはオバマと安倍の見かけだけのよい反核平和主義に正確に応えるものだ。彼らは平和の名によって酷い過去を急いで縫合し、各自の国益を謀ることに障害にならないことを願う。日本に侵略され、米国の原爆によって被害に遭った韓国人たちが、なぜ彼らの歪曲された論理に便乗しなければならないのか。
原爆被害者の苦痛は、我々すべてを強くおしつけている現在的苦痛であることを直視しなければならない。核は世代を跳び越えて人類の生命を脅かす絶対悪だ。従って核兵器だけではなく核発電所(原発)およびその付近の海水淡水化、超高圧送電塔は結局は一つ穴のむじなであることを認識する「脱核」の展望が必要だ。
米国の大統領と日本の首相が広島を一緒に訪れた翌日、釜山の民主公園では韓国原爆2世患友会初代会長キム・ヒョンニュル(1970〜2005)の11周忌追悼式が、つつましく行われた。故キム・ヒョンニュル会長が我々に依然として強い響きをもって迫りくるのは、韓国人原爆被害者問題を個人的不幸を超え、歴史的であり政治的な問題として認識したからであり、さらに進んで普遍的問題へと高揚させたからだ。彼は被害当事者であると同時に1人の立派な人権運動家だった。まだ核の危険性についての社会的警戒感が不在だった時代に、彼は核を人間の尊厳性自体に対する深刻な挑戦として認識した先覚者だった。
キム・ヒョンニュルは2005年5月29日にこの世を去る直前まで、同年6月の臨時国会への上程を目標として仮称「韓国原子爆弾被害者と原子爆弾2世患友などの真相糾明および名誉回復のための特別法制定」案の主要内容および条文の目次を準備した。その制定案の請願書に、彼は生前に苦悩し闘争していたすべてのことを集約した。彼が死をも辞さず立法化しようとしていた特別法案は、2016年の特別法案とは、まるで格が違った。

被害者無視し過去には頬かむり


キム・ヒョンニュルの特別法案は、優先的に放射能と遺伝の関連性についての調査が必ず含まれる実態調査を要求した。韓国政府は遺伝病の有無を科学的に立証することができないという米国や日本政府の立場に無責任にもたれかかり、現実には目をつぶってきた。だがキム・ヒョンニュルは粘り強く要求し、国家人権委員会が実施した経緯のある「原爆被害者2世の基礎現況および健康実態調査」の結果がある。2005年2月14日、国家人権委員会の公式発表によれば、原爆被害者の子女たちは一般人より数十倍も発病率が高かった。もちろんこの実態調査は制限的だったけれども、それが責任逃れの理由にはなりえない。万が一にも国家がこのような結果を肯定しないのならば、放射能が遺伝病をひきおこさないことを国家自らが科学的に証明して然るべきだろう。
キム・ヒョンニュルの特別法案は、医療の支援を実態調査の後に引きのばしてはダメだという点も同時に強調した。被爆者たちの健康は綿密な調査と法的攻防を待つほど余裕はないので、いわゆる「先ず治療、後に糾明」の解法が遅滞なく適用されなければならないというのだ。キム・ヒョンニュルは、原発被害者に対するすべての責任を当事者や家族に押しつけるのは決して正しくはない、と考えた。彼はこれを「国家の職務放棄」と厳しく批判した。原爆被害者は単に社会福祉的観点から救護を訴えるのではなく、歴史的負債に対する正当な権利を要求しなければならない、と考えた。
医療の支援において、まず可能なのは既存の病院施設を利用した定期健康診断と治療の支援だ。政府の意志さえあれば、これはすぐにでも施行が可能だ。そのような後で、より根本的かつ体系的な医療支援のために、広島や長崎の赤十字原爆病院のような国立原爆専門病院の設立を要求した。医療支援の次には生活支援を要求した。ここには特別手当、保健手当、生活手当が含まれるが、生存1世たちの期待寿命は長くなく、2世たちの年齢も次第に高齢化する点を考慮し、2世を中心とした生活支援の必要性を強調した。
最終的には歴史的真相調査や記念事業を要求した。彼は人間の尊厳性がこれ以上、踏みにじられないためには反人倫的犯罪や、それが生じた惨状が後孫に永遠に記憶されなければならないとの趣旨で、「韓国のヒロシマ」とも呼ばれる慶尚南道陝川に「韓国原爆被害者の人権と平和のための博物館」の設立を主張した。キム・ヒョンニュルは陝川の博物館・記念館で、資料収集や展示の範囲を超えて国内外のさまざまな反戦・反核平和運動の諸勢力が相互の連帯を模索する日を夢見た。これを通じて「核」という絶対悪を存立可能にしたすべての貪欲やウソ、そして人間軽視の風潮をこの世の中からなくすことができると固く信じた。

被害者の苦痛を無視するな

 だが現実は亡者が慟哭するほどだ。自民族を被害者として糊塗したり、原爆投下の責任を核兵器のせいに帰する間違った反核平和主義が依然として大手を振ってまかり通っている。米国と日本は自国の利益のために言い繕うけれども、韓国の特別法はなぜ韓国人原爆被害者の受け継がれる苦痛をあえて無視するのか厳しく問う必要がある。故キム・ヒョンニュル会長が10年ほど前に準備していた特別法案は今も未来進行形だ。(「ハンギョレ21」第1116号、16年6月20日付、チョン・ジンソン釜山教大・社会教育科教授)
注 パク・チョンヒ政権末期の1979年10月16〜20日にかけて、釜山や馬山を中心にして展開された市民・学生による反政府示威・暴動。


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