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    かけはし2016.年8月1日号

「世直し」の旗は不滅


7.17

三里塚反対同盟50年集会

農業破壊の開発許さない

「大義」のために闘い続ける



体を張った闘い
で民衆を鼓舞
 七月一七日、三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人・柳川秀夫)は、文京シビックセンターで「三里塚闘争50年の集い7・17東京集会」を行い、一五五人が参加した。
 一九六六年七月四日、政府は三里塚農民に事前に知らせず、突然三里塚の地に空港を建設することを閣議決定した。三里塚農民は空港反対同盟を結成し体を張った闘いを展開した。民主主義とは何かという問題を全国に突き付け、多くの労働者・学生・市民が三里塚に駆けつけた。集会は、五〇年に及ぶ農民・人民の闘いの成果、教訓を確認し、さらに現在の第三滑走路建設計画も含め、今後の方向性に向けて発言が行われた。
 会場には三里塚闘争の歴史をふり返る写真パネル、「天皇への直訴状」など貴重な資料が展示されている。集会冒頭には「抵抗の大地」(一九七一年強制代執行阻止闘争の記録)が上映された。

女性・老人・若
者たちと三里塚
前半の司会は山崎宏さん(横堀地区)。
柳川秀夫さん(代表世話人)は、「巨大開発で空港がどんどん大きくなっていく。政府がいくら謝ったとしても、この課題は解決できない。世直しというむしろ旗を掲げて闘ってきたが、それは本質的には革命だ」と主催者あいさつ(発言要旨別掲)。
石井紀子さん(成田市川上・農業)は、東峰十字路事件(一九七一年九月一六日)で地元の青年たちが不当逮捕され、裁判支援のために家族会を結成。家族会の手紙などを紹介しながら、「三里塚の中で、ものすごく華々しく燃えた若い女たちの闘い」を語った(発言要旨別掲)。
東峰裁判支援コンサート(一九八五年五月)で三里塚の女性たちを知り、女性たちを撮った島田恵さん(映画監督)も登壇し、「自分の原点は三里塚にあった」と語った。
平野靖識さん(東峰地区/三里塚らっきょう工場)は、一九六九年三月に三里塚闘争に参加し、その成果としての「有機農法、農的価値を掲げた地球的課題の実験村」を取り上げた。「第三滑走路計画が問題となっているが、農業基盤が弱くなり、農業後継者がいないなかで反対運動の困難性がある」と指摘した(発言要旨別掲)。 
加瀬勉さん(大地共有委員会[U]代表)は、亡くなった反対同盟員と支援、獄中闘争を闘いぬいた管制塔占拠の同志に対して「インターナショナル」を歌って敬意を表した。闘争を前進させるために@農民の主体性の確立と民主主義A社会党、共産党、中核派などの「政党公害」の総括B社会変革と結びついた三里塚闘争の発展などを強調した(発言要旨別掲)。
大森武徳さん(続・木の根物語プロジェクト)のメッセージ「木の根ペンションへの思い。二〇一六・七、吉日」が紹介された。

参加者が語る
それぞれの思い
後半の司会は辻和夫さん(田んぼくらぶ)。
発言は、清井礼司弁護士、鎌田慧さん(ルポライター)、高見圭司さん(スペース21)、関西・三里塚闘争に連帯する会、代島治彦監督、羽田空港増便問題を考える会、中川憲一さん(元管制塔被告団)、田んぼくらぶから行われた。
閉会あいさつで柳川さんは、今後も「世直しで頑張っていこう」と訴える。最後は、参加者全員の団結ガンバローで締めくくった。        (Y)

柳川秀夫さんの発言から

民主主義とは何かを
根源的に問う闘い


「シンポジウムの中で反対同盟は、『児孫のために自由を律す』という提案をした。巨大開発のように限りなく拡大することがみんなの発展だという考え方に対してメスを入れた。このことが三里塚闘争の原点としてある。まだ課題のままで進展はない。三里塚闘争が解決すべく、発信する課題がある。『腹八分目』というものさしをもって、抱えた課題に対して考えていかなければならない。
第三滑走路建設の問題だが、東部落が計画案の中に入っている。二〇数軒ぐらい住んでいるが、誰も反対はしない。五〇年前は、部落で空港反対で立ち上がったが、そうじゃない。これは東部落だけの問題ではなくて、日本の農村の共同体含めた崩壊状況がある。こういう状況があって滑走路の問題を迎えている。
結局、民主主義の問題だ。多数決というのは、大勢が賛成したからいいことだと言い切れないのが、三里塚闘争の中で感じたことだ。 第三滑走路にしても東部落は誰も反対しないが、周辺においても、ほぼ成田市も含めてみんな賛成だ。国は、自分から滑走路を作ると言わない。第三滑走路は、地元の人が求めるから作るんだと、彼らの言い方はズルイ。多数決で物事を処理することは、基本的に見直していかないとだめだ」。

石井紀子さんの発言から

東峰不当弾圧はね
返した女性の闘い


「東峰十字路事件で権力は、威信をかけて、とにかく犯人を上げるということで、地元の若い青年たちがほとんど引っ張られた。地元の青年は逃げも隠れもできないので、その場にいた人も、いない人も、ほとんど引っ張られました。
東峰裁判に入って月に一回裁判の傍聴にいっていた。いよいよ求刑が迫ってくるということでほんとに遅ればせながら、家族会を結成することにしたんです(一九八四年九月二二日)。二年間、家族会と心を寄せる女たち、という周辺の女たち、三十人でずーっと活動していた時の記録です。後ろに写真がありますけど、貴重な記録なので、後で見てください。女たちはやりたいことはやりましょう、楽しくやりましょう、そういう感じが多かったので、だからみんなも続いたと思うんですね。
寄せ書きがあります。これだけの女たちが集まって、協力してきたのです。日比谷公会堂では反対同盟主催だったんですが、家族会は劇をやるということで、集団劇で、これも仕事が終わってから稽古をして、がんばったいい思い出です。
判決は、皆さん執行猶予がつき、急遽、喜んで勝利集会となった。この時期の思い出は、ほんとに私たちの心の中で宝物のように輝いています」。

平野靖識さんの発言から

共生委員会の形成
―その問題点とは?


「シンポ・円卓会議の合意事項で共生委員会を作った。今後、いかなる状況のもとでも強制的手段を使わない、地元とのコンセンサスがなければ二期工事は進めないという合意があって、その合意のもとに、それがきちんと守られているかどうかを監視する機関として共生委員会が設けられた。われわれの仲間もそこに入っていった。そこには運輸省、県、空港公団からも来ていた。この共生委員会は、しっかり機能すれば、その後の平行滑走路も強行建設・開港もできなかったんだろうと思います。でもそこに入っていった我々の仲間たちは、まるめこまれちゃったかな、変節としか言いようがない。今では第三滑走路建設を推進する地元のメンバーになっている。これはとても残念なことだ。
かつては農民は空港に反対したが、今は農業基盤が弱くなり、農業後継者がいない。土地を高く売りたいという地域性がある。つまり地域力が低下している。有機農法などは、北総地域全体の地域作りのエンジンにはなりきれていない。それが第三滑走路の取りざたされている現状を許してしまっている。でも三里塚物産は、引き継いでもいいよという後継者も出てくれて、これからもう少し三里塚を楽しみながら生きていこうかなと思っています」。

加瀬勉さんの講演から

社会・政治変革と
国際主義めざして

 「空港建設の国策に反対する農民を、あるいは支援に対して国賊であると言われた。日本から出ていけと言われた。代執行の時、権力は農民と支援を何人殺してもかまわないと上から命令されているんだと言っていた。われわれは生きるために、そこで生活をしていくために、生死をかけて闘いをすることを余儀なくされた。命をかけて闘った。三里塚闘争の規模は、その広さ、深さから内乱的闘争であったと確信している。
シンポジウムに対して強制収用を撤回させる、二五〇〇b滑走路を解放させて農場を作る、この二点は絶対に譲らないという方針だった。ところが共生委員会ができ『闘争は終結した』と石毛博道たち青年行動隊が公然と言い出した。現在、第三滑走路を実現する会を作って活動している。痛恨の極みだ。やはりシンポジウム・円卓会議の評価をきちっとやるということが、必要だ。
管制塔闘争は、権力を震撼させた。戦術的には大勝利だった。政治的地平を切り開いた。反対同盟は、政府とのいろんな窓口を探した。その結果、組織的には反対同盟の幹部が辞任した。組織をひとつにして、敵に攻め込むことにならなかった。党派もバラバラだ。前衛党の問題だが、なかなかうまくできない。
中核派のかつての現闘の岸宏一は、三里塚現闘の最高責任者だった。それが『革共同政治局の敗北』を出版した。その観点は、中核派は三里塚闘争を政治的に利用してきただけなんだと言っている。それに対して現在の中核派は、いろんな文書で『岸は権力が新左翼の中に送り込んだ戦後最大のスパイであった』と書いてある。スパイを現闘団のキャップにしてきた中核派の政治責任はどうなんだ。それを一言も書いていない。
反対闘争を前進させるには、農民が権力に対して主体性をきちっと持つ。統一戦線に対して主体性をきちっと持つ。上位下達ではなく、反対同盟内部の徹底した民主にもとづいた論議がなければ闘争は発展しない。「裏切り者」「脱落者」などと、わが党以外はだめだというのではだめだ。傲慢な政党は多かった。今でも続いている。これを「政党公害」と言っている。克服しなければならない政治課題だ。われわれが望む政治団体、政党をどのように建設するかが重要な課題として残った。
農民闘争は経済闘争だ。しかし、三里塚闘争は、もう一つの側面である社会変革にむけた政治運動、国際主義と結びついていた。三里塚闘争を担った活動家が全国に散らばって闘えば、日本を変革できると思っていた。だがなかなか難しい。そのために今後も頑張っていきたい」。


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