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    かけはし2016.年8月15日号

追悼 塩川喜信さん


多彩で柔軟な問題意識 辛抱強さ

国富 建治

 

 七月三〇日午前五時一〇分、日本トロツキズム運動創生期の中心メンバーであり、一九五八年から五九年にかけて、日教組の勤評反対闘争に連帯する闘いや、警職法反対闘争を担った学生たちの戦闘的大衆運動を全学連委員長として牽引した塩川喜信さんが入院先の日本医大多摩永山病院で肺炎のため亡くなった。八一歳だった。
私が塩川さんと最後にお会いしたのは、昨年末に吉祥寺のロシア料理店で行ったトロツキー研究所の忘年会の席上だった。大分、体力的には衰えていると言っていたが、快活さと皮肉を込めた饒舌さは、まだ健在だった。帰宅方向が一緒だったため、中央線の電車の中でおしゃべりしたのが、塩川さんとの最後の会話となった。

全学連委員長として


塩川さんは一九三五年東京で生まれた。塩川さんが所長を務めていたトロツキー研究所が発行している『トロツキー研究』の五〇号(二〇〇七年六月)、五一号(二〇〇七年一二月)に上下に分けて収録された塩川さんとのインタビューによれば、彼も多くの子どもたちと同様に、一五年戦争の終わりの一〇年間を「軍国少年」として過ごした。父親は塩川さんが四歳の時に亡くなっている。「戦死」ではなく山の遭難事故によるものだ。
塩川さんは、戦後、成蹊中学・高校を経て一九五四年に東京大学文Uに入学した。東大時代の同期、学友には作家の大江健三郎、柴田翔、哲学者の広松渉、さらに社会学者の折原浩などがいたという。
塩川さんが学生運動に関わるようになったのは二年生になってからだそうだが、一九五六年の砂川闘争の時には東京都学連の執行委員として参加している。すでに共産党に入党していた塩川さんは、一九五五年の共産党六全協以後の党内闘争、一九五六年のフルシチョフによるスターリン批判、ハンガリーの労働者の蜂起のソ連軍戦車による圧殺などを契機とした共産党内の分解と混乱の中で、「別党」コースを意識的に選択し、西京司を中心とした「日本革命的共産主義者同盟」に参加することになった。
塩川さんは、一九五八〜五九年の勤評反対闘争、五九年の警職法改悪反対闘争などの戦闘的学生運動を指導し、一九五八年一二月の全学連第一三回大会で委員長に就任することになった。前掲のインタビューによれば全学連の委員長(塩川さん)と書記長(土屋さん)は革共同、二人の副委員長はブントだったという(「反帝反スタ」の黒田派=革共同全国委は、当時の学生運動の中では少数派だった)。
安保闘争の後、第四インター派(JRCL)の指導部となった塩川さんは、一九六三年頃にJRCLから離れる。組織活動から離れた塩川さんは、その後、東大大学院を経て、一九六六年には東大助手に採用された(専攻は農業経済学)。
彼はその後、東大闘争を助手共闘の一員として闘い、さらに東大闘争の事実上の終焉以後も臨職闘争を長期にわたって闘うことになった。塩川さんは前記『トロツキー研究』誌のインタビューの中で「東大闘争から臨職闘争に参加したのは、今までの僕の人生の一ページとして大きかった。……その後のいろいろな運動とのかかわりで眺めると、すごく大事な考え方を学んだと思う」と述べている。

東大闘争のなかで


私自身は、革共同(第四インター派)指導部としての塩川さんのことは知らない。一九七〇年頃の『情況』誌などで東大助手共闘の活動家としての塩川さんの論文などを読んだ記憶があり、その人が元第四インター指導部だったということは聞いたような気もするが、定かではない。
したがって塩川さんの追悼に欠かすことのできない、一九六〇年を前後する創生期のトロツキスト組織の指導部としての塩川さんの役割、彼が当時の革共同を離れることになった事情については書くことができない。私はそのあたりについては敢えて聞こうとはしなかったし、塩川さんも話そうとはしなかった。ただし、それは「どうでもよい」ということではなく、それを知る、私よりも年長の同志、あるいは元同志に聞くしかない。
しかし、後に一九九〇年に、トロツキー死後五〇年シンポジウムを開催した時、塩川さんがその代表としての役割を自ら担い、その後に結成されたトロツキー研究所の所長を引き受けていただいたことからも、彼を狭い意味での「トロツキスト」として性格づけることはできないものの、スターリニズムの犯罪をえぐりだし、ロシア革命のもう一つの可能性を追求する上で、トロツキーの提起した理論的・実践的諸課題を今日的に再評価することの必要性については、基本的に同意していたことは間違いないだろう。そうでない限り、トロツキー研究所の所長を長期にわたって引き受け続けていただくことなどありえないからだ。

トロツキー死後50年シンポ


私が初めて塩川さんの顔を見たのは、一九八五年にいいだももさんや広松渉さんたちを中心にして東大を主会場に開かれた社会主義理論フォーラムの場だった。私はその時はまだ理論フォーラムの幾つかの分科会の一参加者だった。私の記憶にあるのはその時、ある分科会で塩川さんがアダム・スミスの『諸国民の富』に言及した報告をしたことである。
塩川さんとの本格的つきあいは、先述した一九九〇年の「トロツキー暗殺五〇年シンポ」の時からだった。私はそのとき、新宿の喫茶店「滝沢」で、シンポジウムを開催したいという意向と、ぜひ塩川さんにその呼びかけ代表になっていただけないかという話をした。もちろん一九八九年に「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧の旧「社会主義」権力がなだれをうって崩壊し、「社会主義の消滅と資本主義の勝利」が呼号されていた状況に、どう立ち向かっていくのかということが、私たちの問題意識だった。
私のその時の話に、塩川さんはにこやかに同意していただいた。塩川さんはもちろん決して、形だけの「呼びかけ代表」ではなく、さまざまな方面に働きかけ、党派問題をふくむややこしい問題にも原則的に対処し、「トロツキー死後五〇年シンポジウム」を成功させることができた。塩川さんの娘さんたちもシンポジウムの受付を引き受けてくれるなど、文字通り「家族ぐるみ」の取り組みだった。

フォ―ラム90以後


一九九〇年代から現在に至る塩川さんの活動は、一九九〇年代の「フォーラム90」事務局長としての活動に始まった。さまざまな傾向の、一くせも二くせもある、わがままで一筋縄ではいかない人びとの集まりとも言うべき「フォーラム90」の活動を、ともかくも一〇年にわたって継続できたのは、塩川事務局長の明るさ、率直さ、辛抱強さぬきにはありえなかっただろう。その後、塩川さんは二度にわたってガン手術を受けたが、その都度、活動に復帰して重責を果たしつづけた。
また、ネットメディア「ちきゅう座」運営委員長としての新しい活動分野の開拓、塩川全学連委員長時代の盟友・土屋源太郎さんが中心になった「伊達判決を生かす会」の活動など、彼の問題関心は実に広範囲にわたっていた。
オープンな人柄、多様な問題意識、責任感――こうした塩川さんの活動スタイルは、まさに身についたものだった。片手をあげて「よっ、元気か」と笑みを浮かべる塩川さんにもう会えないということが、なかなか実感としてわいてこないのが現実である。
(八月七日)

研究ノート@

極東解放革命と統一朝鮮革命 (下)

われわれは朝鮮革命をどう考えていたか

歴史的検証に向けたレジュメ


日本支部の主張の変化

 一九七三年あたりから、金日成官僚体制打倒をいわなくなる。
その理由は以下の理由ではないかと推測される。
@任務の第一は帝国主義との闘いであり、韓国における朴打倒闘争の発展こそが南北統一の鍵を握っている。韓国の反政府闘争のきわめて厳しい弾圧下での闘争との連帯。在日における民団民主化闘争の進展とそれとの連携。政治犯救援運動、入管体制との闘い。
一九七二年秋の韓国で非常戒厳令によって、憲法を停止し、維新体制を築いた。七三年金大中事件の発生、七四年民青学連事件、金芝河への死刑求刑。在日政治犯の急増。七九年朴暗殺、八〇年光州蜂起、八五年米文化センター放火、八七年人民抗争。民主化宣言。八八年総選挙、ソウルオリンピック。
Aソ連・東欧や中国のように、官僚制に反対する運動が北朝鮮においてはまったく見えなかった。具体的連帯運動を作る基盤がなかった。
B日本支部第六回大会によって、旧来の急進主義からの決別、全人民の多数派へ。総評青年協の奪権と全学連の再建。新たな青年同盟の結成へ。ベトナム・インドシナ連帯委員会から、アジア青年会議の結成。このように、現にある職場の労働者の要求をどう実現していくかに、集中するようになり、綱領的考え方が後景化したかのかもしれない。
C一九七五年ベトナムの完全勝利。米帝打倒のいけいけどんどん的気分がより助長された。

北朝鮮経済の危機

 一九七〇年はじめまでは、北朝鮮の方が韓国よりも経済的には進んでいた。日本の植民地支配時代において、北に工業の中心をおき、南は農業という構造が作られていた。韓国は一九六五年の日韓条件締結によって、日本資本の導入によって、七〇年代ハンガンの奇跡といわれる経済成長をとげ、北朝鮮との関係を逆転させた。
北朝鮮は、中ソ対立にほんろうされながら、この二大国の経済援助にたよって経済政策を進めてきた。この両国の援助が小さくなれば、経済危機に陥らざるをえなかった。その危機打開のために、七〇年代に入り、日本からの借款など、西側からの資本の導入をはかった。しかし、プラントの導入をしても、それを運用できるだけの基盤が形成されていなかった。そしてオイルショックなどが追い打ちをかけ、債務不履行に陥った。日本との正常な経済関係を築くことができなかった。そして、ソ連・東欧の崩壊は、北朝鮮を決定的には破綻に追い込んだ。
北朝鮮での電力や重化学工場の機械は一九五〇年代にソ連からの援助による機械を動かしてきたが、部品がなく、どうにもならなくなっている。基礎から全部立て直さないとだめになっている。
八〇年一〇月、一〇年ぶりに開かれた第六回党大会によって、公式に後継者を発表。
九一年金正日、人民軍最高司令官に就任。金日成と交代。
九三年金正日、国防委員長就任。
九四年金日成死去。この後三年間、喪に服す。
二〇〇万人ともいわれる餓死者がでる。まわりの諸国による援助によって、かろうじて成立している国家。

金日成体制
分析の欠落

 一九七〇〜八〇年代、金日成体制の分析の論文はほとんどなかった。
一九八三年一〇月ラングーン事件 ラングーン爆殺事件と米日韓反革命共同体制―労働者国家北部朝鮮に対する一切の反革命的敵対粉砕せよ(「世界革命」83年11月28日)
一九八七年 大韓航空機爆破事件 日韓両政府の反革命キャンペーンと対決を(「世界革命」87年12年14日)
このように、当時のわれわれは、金日成体制に対する分析がなおざりになり、北朝鮮の支配体制下で何が起こっているのか、どうして、こうした反人民的・反革命的犯罪行為をみぬく、糾弾することができなかったのか。
一九八八年、綱村要が再建グループへと分裂した。かわって八〇年代日韓連帯闘争世代の若い高松竜二の登場。韓国独裁打倒と反帝国主義。北への言及はなし。「韓国はいま」のハンギョレ新聞の翻訳による北朝鮮分析。
一九九五年 荒沢峻の登場。旧来の第四インター・マルクス主義とは別個のところから分析。金日成・金正日を儒教思想による王朝的支配。現実に北の内部でどのようなことが起こっているのか、また、その歴史はどうだったのか――こうした見直しをおこなっていった。しかし、いまだ統一的・トータルな分析があるわけではない。右翼排外主義との闘いと北の民主化・人権擁護などをどう闘っていくのか。

労働者国家の内部分析


われわれにも、堕落した労働者国家問題を考える契機はあった。
一九七九年のベトナムによるカンボジア侵攻・ポルポト打倒の戦争。中国のベトナム侵攻。七九年のアフガニスタンに対するソ連軍の侵攻。後者をめぐってはソ連の侵攻を支持するかどうかで、国際的に意見が分かれた。日本支部の内部でも、いままでの世界的二重権力状況というところから、労働者国家の問題をとらえていくことが、軍事力学的すぎたのではないか。もっと、内部的な分析が必要であるとの意見もだされた。
ソ連・東欧の崩壊がなぜ、政治革命ではなく、西欧との合流にむかったのか。これをめぐっても、マンデルは八九年の東欧の民主化闘争が政治革命に発展するという予測・期待をしていた。しかし、現実はそうならなかった。サマリーは官僚体制下の労働者たちの階級的自立が解体していたこと、八〇年代の経済的停滞の進行で、ソ連邦に対して何の望みも見いだせず、西側の豊かさを求めた。堕落した労働者国家における労働者の自立的あり方がいかに大切か総括している。ポーランド連帯の闘いの挫折と権力奪取そして、西側への合流。

 七〇―八〇年代に、北朝鮮はすばらしい国、貧乏人も税金もない国。そうした論評などが雑誌「世界」、小田実、社会党関係者などによって数多く流された。しかし、八〇年代に後半から、在日帰国者の北朝鮮へ親族訪問が可能になり、北朝鮮が人権侵害や経済的いきずまりなどの情報が流れ始めた。一九八四年、「凍土の共和国」の出版など。情報を丹念に集め、分析していれば、かなり北朝鮮の実状がわかったはず。当時、「統一日報」を定期購読していた。

 われわれは何から始めるのか。
民衆の北東アジアをめざす闘いの一環としての北朝鮮問題。
米日(韓)の軍事態勢解体。日米韓安保との闘い
資本の新自由主義・グローバリゼーションに反対する闘い。
中国の位置の決定的な浮上――北朝鮮の生命線をにぎっている。
韓国、香港、台湾(フィリピン)

 北朝鮮民主化のための人権擁護の運動。食糧・医療など支援の運動。拉致問題の解決。脱北者への支援。在日帰国者への支援。
(滝山五郎)



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