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    かけはし2016.年10月10日号

政府は沖縄の民意を尊重せよ


9.28


日比谷野音で二五〇〇人が結集

辺野古・高江工事強行許すな

9・16不当判決に抗議する


政府は沖縄を
侮辱するな
九月二八日午後六時半から、東京・日比谷野外音楽堂で「翁長知事への提訴 辺野古の工事再開 高江の工事強行を許さない! 9・28日本政府による沖縄への弾圧を許さない集会」が主催:「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会で開かれ、二五〇〇人が集まった。
野平晋作さん(ピースボート共同代表)が「九月二六日の臨時国会で安倍首相が所信表明演説で、任務を遂行する海上保安官、警察官、自衛隊員に対して敬意を表わすとして、一斉に拍手した。暴力的に基地建設をしていることに対する敬意であり、これは沖縄を侮辱する行為だ」とまず批判した。そして、基地建設阻止のためにあらゆる手段で闘うと表明し、「沖縄県民の民意尊重と、基地の押し付け撤回を求める全国統一署名」を開始すると主催者あいさつをした。

今や高江は
無法地帯だ
次に、大城悟さん(沖縄平和運動センター事務局長)が沖縄からの訴えを行った。
「高江、厳しい闘いが続いている。参院選直後の七月二二日から高江で工事を始めた。N1ゲートで阻止のテントや車が排除されたことに悔しく、悲しい思いをした。すでに六カ所のヘリパッドのうち二カ所が完成している。残り四カ所の建設が全国から機動隊を動員して強行されている。機動隊を全国から五〇〇人、沖縄から三〇〇人動員。闘う側は二五〇人〜三五〇人。排除されながらもがんばっている。四カ所のうち二カ所でヘリパッドの形ができている。ヘリパッドのHとGには陸路で運べないので、自衛隊のCH47ヘリ二機を投入して搬入をしている。民間地上空を飛行している。日米軍事優先の安倍政治を許してはならない」。
「高江は無法地帯だ。作業員を警察車両が運んでいる。警察は一〇メートル間隔で検問を行い、三〜四時間も違法な規制をしている。大型ダンプを二〜三台の機動隊車両が守って走っている。警察のやりたい放題だ。本来なら、沖縄の公安委員会が警察庁に要請してから、動くものだがすでに、要請前から警察庁は出動に向けて準備してきた。決してあきらめることはない。水・土曜に集中しながら三五〇人が集まっている。辺野古から一時間半かかる。朝三時に起きて六時にたどりつく。簡単に資材を入れることができない、また日によっては入れられないこともある。現地・高江に結集してやんばるの森を守っていこう」。
「希少種の繁殖期が来年の三月から六月にやってくる。そうなると工事ができないので、今年いっぱいか延びて一月までが本当の勝負だ。工事のためにやんばるの森で違法な伐採が行われている。沖縄の未来を踏みつぶす基地建設を許さない」。
「9・16辺野古埋立て違法確認訴訟判決は司法と官邸が判決を書いたのだろう。どうしても納得できない。沖縄県は上告して闘っている。翁長知事を支援して必ず高裁判決をひっくり返す行動をとっていく。判決によって運動が止まることはない。翁長知事はあらゆる方法を使って基地建設を止めていく、と表明している。高江を終わらせて、辺野古に向かうだろう。辺野古での基地建設準備は二年余り経っているがボーリング調査さえ終わっていない。三年は工事が遅れている。命をかけて止めていく。辺野古が作られると沖縄の未来はつぶされる。普天間基地機能を止めることもできた。高江・辺野古に来てください。大きな世論をつくろう。勝利するまであきらめない」。

ジュゴン保護勧告を
無視し続ける政府
照屋寛徳さん(社民党衆院議員)、糸数慶子さん(参議院議員、沖縄の風)が駆けつけ、大城さんと三人で手を大きく掲げて、闘う意志を現わした。
続いて、三村昭彦さん(ジュゴン保護キャンペーンセンター)がIUCN世界自然保護会議の報告を行った。
「九月一日〜一〇日、ハワイで第六回世界自然保護会議が開かれた。今までジュゴン保護の三度の勧告が出されている。さらに、辺野古基地建設のために一七〇〇万トンもの土砂を沖縄県外から運び込むことに対して、侵略的外来種問題があり到底許せない。持ち込み反対の決議に対して、日米両政府は棄権した。日本政府にとってハードルが高いものであり、計画変更をせまるものだ」。
次に、平和フォーラム、全労協、安保破棄中央実行委が連帯のあいさつを行った。白藤博行さん(専修大学教授)が「不作為違法確認訴訟」判決について、分かりやすく批判する講演を行った。
「九月一六日の判決は民主主義・地方自治をあざ笑うようものだ。法治国家が泣く。@仲井眞前知事の埋立て承認処分が適法かどうかでやった。県知事には裁量権があり、正しい判断をした。違法ではない。これを取り消したから違法だ、という論法だ。A国防・外交は国の専権事項。責任ある立場に沖縄県にはない。口を出すな。B基地負担の軽減になるのだから、沖縄の民意に反しない。とんでもない認識だ。C最初に司法に行くのでなく、国地方係争処理委員会で話し合うとしていたのに、国はこれを無視して協議に応じなかった。沖縄の自治の問題は日本の自治の問題で、生き死にの問題でもある。法律家として最後まで闘う」。
集会アピールを採択し、団結ガンバローを行い、銀座・東京駅方面に向けてデモ行進を行った。沖縄・全国署名を成功させよう。    (M)

コラム

 小林多喜二と七沢温泉(前編)

 ひょんなことからあの小林多喜二が、神奈川県厚木市東丹沢山麓にひっそりと佇む七沢温泉に、ひと月ほど逗留し小説「オルグ」を執筆したとの話を耳にした。逗留したのは一九三一年三月中旬。その一月に治安維持法と不敬罪のかどで起訴され収監されていた豊多摩刑務所から保釈出獄した直後のことである。
 当時、多喜二の名はプロレタリア文学の旗手として、文壇書肆を越えて広く世間に知られていた。日本初の普通選挙直後、官憲の手によってくだされた左翼活動家への3・15大弾圧と暴虐の限りを尽くす凄まじい拷問の実態を暴いた「一九二八年三月十五日」(1928・8)を全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』(11月・12月号)へ発表したのを皮切りに、「東倶知安行」(1928・9)、「蟹工船」(1929・3)、「不在地主」(1929・9)、「工場細胞」(1930・2)を執筆、矢継ぎ早に各誌に発表した。北洋漁業の実態を労働者群像として描いた代表作「蟹工船」は発禁処分になったのにも関わらす半年あまりで単行本三万五〇〇〇部を売りつくしたという。いわばまさに時代の寵児であったと断言できる。
 まだ、地下に潜行していたわけではないが、特高から見れば多喜二はお上に楯突く要監視対象のプロレタリア作家、そして共産主義者のひとりであったのに違いない。その多喜二がよくひと月も七沢温泉にこもって小説を書けたことが不思議に思えてならなかった。さて、それなら自分の目でその温泉とやらを確かめなければ気持がおさまらないボク。早速お盆休みを利用して、「工場細胞 オルグ」の二作品が収録された青木文庫を鞄にしのばせ小田急線の客となったのである。
 多喜二が逗留したのは「福元館」というひなびた旅館の離れだった。厚木駅からバスで三〇分の山あい。バス停から旅館まで長い坂道が続く。この道を多喜二が歩いてやってきたのか、円タクに乗ってきたかは分からない。三月中旬というから、道端にはスイセンやアザミの花が咲きはじめていたのだろうか。同じ道をそんな感慨に耽りながら、汗を拭き拭き十五分ほど歩くと福元館に到着した。来意を告げ、玄関を上がると多喜二の色紙や関連する書籍が売られていた。確かに「多喜二ゆかりの宿」だけのことはある。部屋に案内される途中、女中さんに多喜二が過ごした離れの見学をお願いした。
 旅館で求めた小冊子『七沢温泉と多喜二 蠣崎澄子』に、その縁が詳述されている。論考には、多喜二逗留を知る当館の長女初子さんが自費出版された『あんなこと こんなこと』の一節が次ぎのように引用されており興味深い。「女学校を出て家に居りましたその頃
(中略)こんな唄を風呂場で歌っている人がいました。女中さんに聞きますと、離れの小林様です。(中略)大分過ぎて小説家の小林多喜二という人だと、聞いたのですが(後略)」。こんな唄とは、「折ればよかった遠慮が過ぎた」で終わる大正、昭和初期のころ流行ったブラームス原曲の「折ればよかった」(高野辰之作詞)だった。初子さん一八歳、多喜二二七歳のことである。特高の目から逃れひと月も逗留できたその訳は、彼を守り続けた人たちの存在があってこその出来事だった。〈続く〉(雨)


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