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    かけはし2016.年10月10日号

地方政府と中央政府が全面対決


働き方改革と労働運動


遠藤一郎さん(全国一般全国協特別執行委員)に聞く(上)

「経済がすべて」の思考に貫かれた攻撃


  安倍政権は参院選勝利を受け、「一億総活躍プラン」「働き方改革」を大々的に打ち出し、人々の取り込みに一層力を入れている。目玉として、同一労働同一賃金や長時間労働抑制を力説、果ては「日本から非正規という言葉をなくしたい」とまでぶち上げ、あたかも人々が生きやすい社会をめざしているかのような印象の振りまきに躍起だ。今年の最低賃金引き上げでは率先して旗を振り、最終的に全国加重平均で二五円という過去最高の引き上げ幅になったが、これも先の二つの構想の呼び水として計算に入れられていると思われる。しかしこの政権が実際に実行している政策が、上記印象とは正反対の方向で進んでいることも紛れもない事実だ。派遣法改悪の強行があり、今臨時国会では八時間労働制の解体に道を開く労基法改悪案成立をめざしている。不当解雇でも金銭支払いで認めてしまう制度導入のもくろみも加えられる。安倍政権が真に狙っているものは何か、そこに対し労働者はどのような闘いを準備すべきか、この秋の労基法改悪阻止の闘いや最低賃金引き上げの確実な実現に向けた闘いを含め、全国一般全国協特別執行委員の遠藤一郎さんに聞いた。(文責・神谷)

労働力を総動員し流動化させる

――「一億総活躍プラン」とセットになって「働き方改革」なるものがやにわにメディアを賑わしている。中味がはっきりしていない段階で「働き方改革」という名前だけが一人歩きする、何か選挙の連呼に似たいかがわしさが漂うが、私はそもそも、この「働き方」という表現そのものに非常な違和感がある。労働者が直面する問題は基本的に経営側の「働かせ方」が原因だ。要するに問題は経営側にあるのだ。ところが「働き方」改革となるとそこが微妙にぼかされ、あたかも労働者に働き方を変える自由があるかのように、責任の所在が労働者側に移されているように聞こえる。その意味で「働き方改革」はまず直感的に、非常な要警戒構想だと受け止めている。まずこの構想をどう考えるか、から始めたい。

遠藤 その直感は正しい。何よりも、「一億総活躍プラン」にしろ、「働き方改革」にしろその目的はあくまで経済活性化、経済成長底上げ、人々の暮らしでも尊厳ある労働でもない。そこは何度でも強調したい点だ。
その上で「働き方改革」の前提にある「一億総活躍プラン」を貫く発想を確認しておきたい。それは、人口減少趨勢に伴う労働力減少への強い危機感だ。昨年一一月二六日に「一億総活躍国民会議」がプランの概要を公表し、そこにはプラン概要を図の形でまとめたものが付けられているが、その標題は「一億総活躍社会は少子高齢化に直面したわが国経済活性化策」とそのものズバリだ。
その下で政策メニューが二つの大枠でくくられている。うち一つは二〇二一年度GDP六〇〇兆円、という根拠ゼロの目標。いわゆる新三本の矢の一つだが、当然これをまじめに受け取る者は誰もいない。要するにほとんど無意味なものだ。問題はもう一つの大枠。そのくくりの標題も、「経済成長の隘路の根本:少子高齢化による労働供給減、将来に対する不安・悲観」とこれもそのものズバリだ(上記プラン概要では「労働力」という用語が意識的に排除され、すべて「労働」という曖昧な用語で変えられている。このプランのある種の印象操作と強いイデオロギー性をうかがわせる一例だ:神谷)。
そしてこのくくりが最終的に収斂する目標が、「介護離職ゼロ」と並んで「希望出生率一・八」であることに注意が必要だ。新三本の矢の二つ、しかも第一の矢に比べればそれなりに具体性がある二つとも、労働力確保で共通性がある。後者は特にそのための「産めよ増やせよ」が文脈上明らかで、それ自体が重要な批判点だ。同時に「一億総活躍」を貫くものを如実に示すものとしてしっかり押さえたい。
こう見てくれば、「一億総活躍」とは端的に、今使える労働力の総駆りだし、総動員と言っていい。出生率一・八が現実化したとしても、それが労働力として実際に稼動可能になるまでは一定の時間がかかり、その間の労働力は依然不足する。その間どうするか。こうして、女性、高齢者、外国人の総動員に向け、法整備を含めた政策メニューが準備されているということだ。
女性に対しては諸々の育児支援や育児休業給付金期間延長、いわゆる一三〇万円の壁解体など、高齢者に対しては六五歳以上への雇用保険延長、雇用延長企業への助成金など、外国人に関しては技能実習生受け入れ業種拡大や、特区を利用した家事労働外国人受け入れなど、とにかく人々を労働に駆りだす条件整備には貪欲だ。総活躍と聞こえはいいが、働く者が実際に何を望んでいるかを知ろうとする努力すらそこにはなく、働く者の主体性や意思は視野の外だ。
そしてこのかり出した労働力総体に対して「働き方改革」を行う。ではそれは何か。
それに関し安倍は「日本から非正規という言葉をなくす」と言った。いみじくも「言葉をなくす」という表現が実に巧妙だが、非正規労働者が直面している不安定で劣悪な諸条件という過酷な現実をなくすとは言っていないのだ。つまりこの豪語の裏の意味は、結局は正規をなくす、非正規と言われている労働のあり方を当たり前にするということ以外ではない。
実際この改革にあたっては、長期的に安定した雇用を保証する、という労働社会のあり方は古い、という議論が背景になっている。技術革新の急速化が求める事業の連続的変容に見合った素早い労働力移動が時代の要請であり、長期安定雇用システムがその移動の障害になっている、との議論だ。安倍政権の労働政策では最初から労働力の流動化がテーマだった。その点で今回の「働き方改革」はそのバージョンアップとも言える。長期安定とは職場を変わらないことだとして日本的終身雇用をやり玉に挙げ、それを労働者が「企業に頼る」生き方だとまで言う。

強制による労働力移動が本音

―まったく納得できない。そもそも長期安定雇用に関する事実認識が出発点から歪んでいる。職場を変わらない、一つの職場しか経験していないというような労働者が、日本の労働者の圧倒的多数だったわけではない。事実を直視すれば、日本の雇用制度は少しも移動を妨げてなどいなかった。中小企業では転職はごく普通。私自身金属機械関係の職場をいくつも動いてきた。そのことで職能を広げ、望む条件を探してきた。それが当たり前のことだった。
企業にまるまる頼ることなど危なすぎる、などということは労働者自身十分に分かっている。だから自分の生活を守るために、納得できる働き方を得るために労働者は主体的に行動してきた。労働組合に団結することはそのもっとも重要な手段だが、転職もまた紛れもなくその一つだった。大体高度成長期、大企業でも一定数の労働者は動いていたはずだ。私が社会に出た七〇年代初頭では、大企業工場労働者の新規採用者の三年後定着率は三分の一程度、と言われていたという記憶がある。
しかもそれは、長期安定雇用という社会全体としての規範の中で行われていたことなのだ。私自身、何度職場を変わろうが、そこでの雇用は常に期限に定めのない直接雇用としての労働契約だ。それが社会の常識であり、逆にその規範があったからこそ、労働者は職場移動に踏み切ることができたとも言える。
長期安定雇用が労働者の移動を妨げている、などという議論は御都合主義的に事実をねじ曲げた虚構、まさにためにする議論と言う以外ない。移動してほしければ、労働者を求める雇用主が好条件を提示すればいいだけのことだ。

遠藤 確かに中小企業の現状はその通りだ。われわれの労働組合でも、職場に転職歴のある労働者は少なくない。だから日本の労働者の圧倒的多数が中小企業で働いていることを考えれば、これまでの日本的終身雇用と言われた労働社会が労働力移動のない社会、という言い方はまったくのねつ造という指摘はその通りだ。
もちろん、主要大企業や公務職場を中心に作られた典型的な終身雇用の制度がどの程度の労働者をカバーしていたのか、という問題はある。しかし年功システムを含んだ賃金構造や社会保険や税控除の仕組みだとか、それらは基本的に先の典型的な終身雇用システムにならう形で、日本の労働社会の基礎モデルになっている。だから中小企業であっても、たとえば退職金制度など条件面での優劣はあるとしても、大枠としては日本的終身雇用なのだ。
それが、労働者が職場を移動したとしても適用された。それが社会モデルという意味だ。われわれが考える労働力移動とは、そういう条件を前提に労働者が自分の意志で移動するということであり、労働者にとってそこに問題はない。したがって事実としても、相当規模の労働力移動は行われていた。
そう見てくれば、事実をねじ曲げてまで日本的終身雇用を攻撃する側が問題にしていることは、われわれが考えるような労働力移動ではないことが分かる。つまり、労働者の意志によらない移動、この間ますます拡大してきたリストラによる移動、強制による移動ということだ。それを摩擦なくもっと自由にやるために、長期的安定雇用を基礎に置く労働社会から、長期的雇用の保証がない、処遇の不安定化が当たり前の労働社会に変えよう、それを社会の規範的モデルにしよう、これが「働き方改革」の核心だ。
正規、非正規という言葉はなるほど意味をなくすだろうが、労働者にとってはたまったものではない。それが、自由な選択が可能、多様で自由な働き方、という美辞麗句で飾り立てられている。

「同一労働同一賃金」の実像は

――冗談ではない。労働者がどこで働こうが長期に安定的に雇用を保障されることを望むのは当たり前の要求であり、資本主義の歴史を貫いて世界共通だ。半年後どこでどのような仕事に就き、誰と共に働くのか、あるいはそもそも職があるのか皆目見当が付かないような社会では、生活設計どころでないだけでなく、地域社会を主体的に作り上げる市民になることさえできない。たとえば実際今短期の有期契約であちこちの職場を移動している非正規の労働者は、選挙権を行使できる条件にあるのだろうか。長期安定雇用は、民主的で平等な社会を公言するならば、いやしくも人を雇おうとする者が課される最低限の社会的な義務だ。

遠藤 われわれにとってはその通りだが、彼らにはそもそも労働者の権利、尊厳などというものは頭の中にない。すべてが経済成長で占められている。
たとえば、後で触れる労政審改革に関し七月二六日に最初の検討会が行われたが、そこでの議論はひどいものだ。労政審が大きな議論、彼らに言わせれば経済政策の議論ということだが、それをやっていない、労使は個別利害を超えた意見を、労使合意しなくても公益・政治が決める、まとめる段では譲ってもらわないと、(労働者)委員はそれができる適切な委員を、何かというとILOが持ち出されているがILOがどれほどえらいのか、労使委員が同数でなければいけないとどこに書いてあるのか、などといった趣旨の発言のオンパレードなのだ。果ては、どんな効用を期待しているのか理解できないが、AI(人工頭脳)を委員に入れては、などとまで発言されている。
さらに今度の同一労働同一賃金という議論でも、女性差別をなくそう、企業規模別格差、地域間格差というようなものをなくそう、という議論にはなっていない。賃金のそうした差別的あり方、労働の価値が基軸になって賃金が比較されるのではないあり方、それが当たり前という現実をどう克服するか、労働者運動が歴史的にずっと問題にしてきたそのことの議論に入る気は全然ない。安倍の最賃引き上げ論に地域間格差への問題意識が皆無であることが典型だ。
結局議論は、非正規と正規のいわゆる賃金格差が今六割だが欧州では八割だ、そこにゆっくりもってゆく、という方向に収斂している。一方で財界は、生産性の向上抜きに、企業の収益性向上抜きに非正規を引き上げることなどできない、だからもし成長しないで同じ条件であれば、非正規をあげるのならば正規を下げろとしかならない、と強硬だ。だから、今正規・非正規賃金格差が一〇対六であれば全体を八にして均す、それに向けて一定のガイドラインを作って、企業も受け入れ可能な枠組みを作ってやる、指導する、というような話だ。本来われわれが求めてきた同一労働同一賃金とは、理念、思想がまったく違う。
だから、総動員して確保した労働力を全体として不安定化する中で賃金を平等化ではなく平準化する、それが今回の構想の本質だ。そしてその平準化のために、労働力移動をもっと自由に、その束縛になっている解雇規制を外し解雇自由な社会にする、という全体構成だ。   (つづく)


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