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    かけはし2016.年10月24日号

カナダ政府の対応に問題あり


寄稿

世界社会フォーラム(WSF)2016モントリオール報告(2)

ユダヤ人団体の圧力に屈服


寺本 勉(ATTAC関西)

モントリオールの街を歩いて


 モントリオール(フランス語ではモンレアル)は、セントローレンス川に沿って位置するケベック州最大の都市で、四〇〇万近い人口を持つ。先に述べたように、フランス系カナダ人が大半の街だが、「南」からの移民が多い多民族都市でもある。特に旧フランス植民地であったマグレブ地域(北アフリカ)やハイチなどからの移民が目立つ。泊まっていたホテルでも、清掃や朝食を担当していたのはラテンアメリカ出身者だった。旧市街地近くにはチャイナタウンもあり、中華料理店などが軒を並べていた。
 街はフランス風に「番地+通りの名前」で住所表示がされていて、通りの両側に偶数、奇数が割り振られている。どんな小さな路地にも名前がついている。旧フランス植民地のチュニジアでも、同様の住所表示だった。建物には必ず番地が表示されていて、とてもわかりやすい。
 泊まったホテルは「カルチェ・ラタン」地区・サンドニ通りにあり、名前も「カルチェ・ラタン」。入口が二階にあり、階段を登って中に入る。残念ながらエレベーターがないため、狭い階段を上り下りしなければならない。朝食は完全なコンチネンタル・スタイルで、パンとコーヒー、ジュースのみ。一週間ずっとこの同じ朝食というのはちょっとしんどいな、というのが正直なところだった。
 サンドニ通りにはケベック大学モントリオール校があり、通りの両側には飲食店が並んでいる。カフェが歩道にもテーブルを出していて、若者たちで一杯である。寿司バーも何軒かある。メニューを見ながら注文してみて、寿司が出てくるのを期待半分、不安半分で待ったが、それなりに美味しい!でも、少し高い!
 WSF会場には特設のフードコートがなかったため、ランチは街に出て食べることになる。
 食べてみたのは、カフェでサンドイッチ・スープ(またはサラダ)・コーヒーのセット、中華街で料理一品・ワンタンスープ・春巻きのランチセット、ショッピングセンター地下のフードコートで白飯の上に豚肉炒め・野菜炒めを載せたプレートなど。カナダのソウルフードと言われるプーティン(フライドポテトにグレイビーソースと粒状のチーズカードをかけたもの)にもトライしてみたが、レストランの店員が「ヘルシーじゃないよ!」と忠告してくれた通りだった。
 どのレストランでも、量が半端じゃなく多いので、注文する際には注意が必要だ。WSFで一緒になった日本在住のアメリカ出身者によれば「この量を見て北米に帰って来たことを実感する」とのこと。いずれも一〇ドル(800円)前後だが、それ以外に消費税一四%とチップ最低一五%が必要だ。寿司バーでカード精算したときには、暗証番号入力の後で、画面にチップの金額が「一五%」「二〇%」「二五%」のどれかを選ぶようになっていて、チップは必ず取るという姿勢に感心(?)した。

「南」の参加者70%にビザ拒否


 今回のWSFをめぐって、「北」での開催にともなうと思われる問題がいくつか発生した。カナダ政府による一部参加者へのビザ発給拒否、ユダヤ人団体によるカナダ政府などへの圧力などである。
 ビザ発給問題は、WSFが始まる前から明らかになり始め、オープニングマーチで抗議のパフォーマンスが行われたことは既に述べた。私が受け取った抗議ビラによれば、ビザ発給を拒否された参加者は、イラン、パレスチナ、ネパール、トーゴ、マリ、エクアドルなど数百人にのぼり、グローバル・サウス=「南」の国々からの代表のうち七〇%にあたるとのことだった。
 ATTACでも、セネガル、トーゴのメンバーがカナダ入国を拒否された。ATTACは両名の入国拒否について、「世界社会フォーラムへの参加は、カナダへの入国を認めるのに十分な理由ではないとされたからだ。これは、世界社会フォーラムに対する侮蔑であり、また『経済状況』が芳しくないと判断された国の出身者に対して不法滞在の疑いをかけるものである」「ATTACグループが身元保証人となり、十分な滞在費用を所持していることがカナダ政府の担当官にも明らかだったにも関わらずである。もはや非常に裕福な人々しか国際的イベントに参加するなということであろうか」と抗議声明を出した。
 また、八月一二日には、モントリオール中心部にあるカナダ政府パスポートセンター前で、ビザ発給拒否に対する抗議行動が行われた。急きょ呼びかけられた中で約一〇〇人が集まり、ケニアやガーナの代表が入国拒否を強く非難するアピールを行い、入国できなかった人の姿を歩道上にマークして、カナダ政府に抗議の声を上げた。

シオニスト団体との「衝突」

 WSFモントリオールでは、BDSキャンペーン(B-Boycott ボイコット、D=Divestment 投資の撤収、S=Sanctions 制裁を組み合わせたもので、二〇〇五年から始められた)にかかわる「イスラエルのアパルトヘイトに立ち向かって:BDSの役割と目標」ほか三〇を超えるパレスチナ連帯のワークショップが開かれた。また、パレスチナ連帯をテーマにしたコンバージェンス・アセンブリやグランド・カンファレンスもいくつか行われた。
一方で、北米のユダヤ人団体の一部(ユダヤ人防衛同盟、イスラエル・ユダヤ人問題センターなど)は、WSFに反ユダヤ主義を疑われる催しが含まれている、特にBDSキャンペーンが反ユダヤ主義につながる可能性をもつとして、カナダ政府やケベック州政府、モントリオール市などに公的支援をやめるよう圧力をかけていた。BDSキャンペーンに対してこれほど強く反発するのは、イスラエルにとってBDSがじわじわと脅威を与えているからと思われる。しかし、BDSはイスラエルに国際法を守らせ、その犯罪行為の責任をとらせるとともに、パレスチナ人の基本的人権を尊重させることが目標であり、イスラエル市民を標的にするものでないことは言うまでもない。
こうしたユダヤ人団体の圧力によって、カナダ政府はWSFのHPから政府のロゴを外し、モントリオール市長が「BDSには反対だ」と言明するなどの事態を生んだ。さらに、彼らはパレスチナ連帯やBDSのワークショップなどに対してピケを張ると予告し、実際にパレスチナ関連のワークショップが集中的に開かれている会場近くで宣伝・示威行動が行われ、WSF参加者とにらみあう事態になったのである。
私は、シオニスト団体とWSF参加者(パレスチナ連帯運動の活動家ら)が警官隊をはさんで対峙した現場にたまたま居合わせた。八月一〇日昼過ぎ、次のワークショップ会場へ向かっていると、突然一〇台以上のパトカーがサイレンを鳴らして集まってきた。
何事かと思って近寄ってみると、歩道に黄色のチラシが散乱している。そして、一〇人ほどの警官をはさんで、二つの集団が対峙しているのが見えた。一方には、何本かのイスラエル国旗を持ったグループがいて、少年も含まれていた。もう一方は、パレスチナ連帯のTシャツを着た青年などWSF参加者と思われる集団である。この現場は、パレスチナ連帯のワークショップが多く開催されている会場から少し離れた歩道上で、予告通りにユダヤ人団体が抗議行動を試みたが、事前に警戒していたWSF参加者に阻止されたようだった。
この際、ユダヤ人団体が配布しようとしたチラシには、「テロリストの顔」と大書した上にKKK(クー・クラックス・クラン)団員とパレスチナ人らしい写真(GAZAという文字は後から写真を修正したものか?)を並べて、「不寛容はすべての人種の人々に害を与える」「イスラエルは平和を望む」と書かれていた。
イスラエルに関連して起きたもうひとつの問題は、WSFに並行して開かれた国会議員のフォーラムにイスラエル国会(クセネト)のアラブ系議員であるバセル・ガタス議員が招待され、「イスラエルのボイコットを呼びかけた」ことがイスラエル国内で問題とされ、制裁を科そうとする動きが出たことである。彼はキリスト教信者のアラブ人で、「国民民主連合」と呼ばれることもあるバラド党から、二〇一五年総選挙でジョイント・リスト(注)の候補者となり、当選した。
(注)ジョイント・リストは、二〇一五年選挙で一〇%強の得票を獲得し、クセネトの中に一三議席(定数120)を有する選挙連合。リストを構成する政党は、ハダシュ(イスラエル共産党など左翼の連合体)、アラブ統一リスト(2009年の選挙では、中央選管によって政党としての立候補を禁止されたが、最高裁でその決定は取り消された)、バラド(自らを「イスラエルにおけるパレスチナ人のための民主主義的進歩的国民政党」と規定)、タール(アラブ系政党で、アラブ統一リストとともに合同リストで選挙に臨んだこともある)の四つ。イスラエル国内には約二〇%の「非ユダヤ人」が居住していて、その多くはアラブ人。

フォーラムの運営・進行の実際


WSFの主会場は、フランス語系のケベック大学モントリオール校(UQAM)および英語系のマギル大学のキャンパスだった。大学がフランス語系と英語系に分かれているのがケベックらしい。UQAMはいくつかのキャンパスが隣接しているが、それぞれは地下の通路でつながっている。
九日のオープニングマーチとオープニングセレモニーで始まったWSFは、一〇日から一二日までの三日間が討論にあてられ、次のような時間帯でワークショップなどが行われた。
@午前(9時〜11時半)ワークショップなど、参加各団体が自主的に企画した比較的小規模の集まりが市内の大学や公共施設などを会場にして数多く開かれる。
Aランチタイム(11時半〜13時)
B午後(13時〜15時半)午前と同じで、各団体による企画が目白押し。プログラム掲載の会場が変わったり、キャンセルされたり、日程変更されたりすることもあって、「北」でやってもやっぱりWSFだな、と感じる瞬間だ。ただ、今回はプログラムがきっちりした冊子になっていて、しかも登録のときに必ず入手できた。いままでのWSFでは、プログラムを確保できるかどうか、その日になってみないとわからないこともあったので、その点は画期的なのだが、その関係か原稿締め切りが結構早めで、その後の変更が反映されていないとのこと。加えて、ワークショップの内容紹介が原稿の書かれた言語でしか表記されておらず(これまでは英語・フランス語・スペイン語などが併記されていた)、フランス語のわからない私などは英語表記のワークショップから探すことになってしまった。
Cコンバージェンス・アセンブリ(16時〜18時)「集約集会」とでも訳したらいいのだろうか。さまざまな課題について、その課題に取り組む参加団体が連携して、具体的な行動などを決めていく場として設定されていた。
Dグランド・カンファレンス(18時〜20時)「大きな集会」のことで、有名な活動家などを招いて、比較的大きな会場で講演会のような形で実施。プログラムには、バーニー・サンダースが来る予定になっていた集会もあったが、結局は来なかった。
E文化的行事(20時〜)音楽や劇、舞踊、パフォーマンスなど。
これ以外に、参加各団体によるブース(キヨスク)が市内あちこちの公園などに設けられていた。ある公園では、若者によるプログラムも行われていた。
これらの討論を受けて、一三日には「提案の広場」が行われた。この「提案の広場」は新しい試みで、三日間の討論を具体的な行動提起にまで結びつけようというもの。午前中は、分野ごとの討論、午後に午前中の討論や各分野の「集約会議」(コンバージェンス・アセンブリー)からの報告・行動提起というスケジュールで、私は参加しなかったのだが、雨の中多くの人々が集まり、テントの中で熱心な討論を繰り広げたとのことだった。(続く)

コラム

茶毒蛾騒動記

 とんでもない生き物に取りつかれてしまった。緑のカーテンとして育てていた白の侘び助の鉢植えに、こともあろうに茶毒蛾が卵を産み付けていたのだ。未だかつてなかったことで、全く気がつかなかった。
 侘び助の葉二、三枚が葉脈だけを残してきれいに食べつくされ、網の目ようになっていた。一瞬、不吉な予感が走った。ジョウロの先で少し揺らしてみた。ゾロゾロと二、三〇匹の小さな毛虫がいっせいにぶら下がった。異様な光景だった。椿やサザンカにつく茶毒蛾の毛虫だ。見るのは初めてだった。
 これまで悩まされてきたのはクチナシの青虫だ。これがとてつもなくデカくなる。大人の親指くらいの大きさになる。緑色で小さな時は、見つけるのが困難だ。真っ黒のデカいフンがバラバラと落ちることで気がつく。四、五匹もいれば、クチナシの鉢植えくらいはあっという間に丸坊主になってしまう。割箸で捕殺し放置しておけば、その日のうちに蛾が綺麗に片づけてくれる。これも蛾の幼虫である。
 茶毒蛾は毒蛾界最強の危険な生物であり、触れてはならない。という程度の認識しかなかった。もちろん見たこともない。一センチにも満たない黄色の細い毛虫が二、三〇匹集団で糸を引いて垂れ下がっている光景は異様としか言いようがない。
 思わずジョウロの先端で毛虫を叩き落とし、大量の水で芝の方に押し流した。とりあえず毛虫を侘び助から引き離して野垂れ死にさせれば、後は蛾が何とかしてくれるだろうと思っていた。ところが、この私の対応が最も取ってはならない最悪の行動だった。毛虫を拡散させることは危険この上ない行為であったのだ。しかもこの毒毛虫を蛾が片づけてくれるという保証はどこにもない。
 何故か。この毛虫の目に見える体毛は毒針ではない。目には見えない〇・一ミリの毒針毛が一匹で五〇〜六〇〇万本あり、身を守るために空中に放つと言われている。この毒針毛に刺されると激しい痒みが止まらず腫れあがる。市販薬は効果がなく皮膚科で治療を受けなければならない。
 さらに危険なのは、毛虫が死んでも、毒針毛は空中に拡散し続け毒性を発揮し続けることだ。目、口、鼻、耳などにも侵入することがあるという。衣服に付着すれば洗濯機で洗っても洗い落すことはできない。この毒針毛はタンパク質なので五〇度以上の熱湯でその毒性を消滅させることはできる。さらに恐ろしいことには、この毒性にはアナフィキラシーがあり、二度目、三度目と症状がより重くなることだ。しかも毛虫は年二回発生する。
 私は蛾については全く知識がないので茶毒蛾と他の蛾を区別することは出来ない。蛾は何処にでもいる。一匹の蛾が部屋の中に飛び込んで来れば、私はそれこそパニックになってしまうだろう。うかつに窓を開けることもできない。茶毒蛾自身も大量の毒針を持っているからだ。
 私の誤った行動によってベランダの半分が危険な空間になってしまった。生活の中の癒しの空間の半分が危険地帯に変わってしまったのだ。いつになったら終止符を打てるのかも分からない。
 何ということをしてしまったのだろうか。私は後悔に苛まれている。一知半解、無知による軽率な行動が如何に危険で、無残な結果を生んでしまったのか改めて思い知らされた。     (灘)



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