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    かけはし2016.年10月31日号

いつまで待てばいいんだ!


映画紹介

監督パトリシオ・グスマン/チリ・フランス・キューバ合作 1975年制作


『チリの闘い』

第1部「ブルジョワジーの叛乱」第2部「クーデター」第3部「民衆の力」3部作

 「どうなのかなぁ?」。一カ月ほどまえに新聞掲載された映画「チリの闘い」を見てそう思った。
 「チリの闘い」は、初めて選挙で権力を握った(と思っていた)チリのアジェンデ人民連合政権が、一九七三年九月一一日に護憲派の将軍とみられていたピノチェト率いる国軍のクーデターで崩壊するまでの半年を記録した三部作のドキュメント。第一部「ブルジョワジーの叛乱」、第二部「クーデター」、第三部「民衆の力」という構成。

「教訓」をどう
つかみとるのか
僕の本棚からは『チリの革命と反革命』(大月書店、1975年11月)という本が覗いている。その本の裏表紙にはこんな宣伝文句。
「『歴史はわれわれのものであり、それをつくるのは人民である』――ファシスト軍部の銃弾にたおれたアジェンデ大統領はその直前、国民に語りかけた。チリ革命は一時的には悲劇に終わったとはいえ、その現代の新しい型の革命への挑戦は、世界の発達した資本主義国、発展途上国の革命に限りない教訓をもたらしている。今日もたたかいつづけるチリ人民の壮大な闘争は、かならずや現代史に不滅の光を放ちつづけるだろう」。
「歴史はわれわれのもの」ではなく「階級闘争のもの」だろう? という軽い反発と、事実関係はデータを含めて論じているが、その記述からはまったく「教訓」をくみ取ることのできない本と同じように、この映画についてのいくつかの映画評やコメントを読んでも観ようという気がしなかった。
とはいえドキュメントなのでそれなりの価値はあるだろうということで、空いている時間を見つけて映画を見に行くことにした。
その前に、すこし理論武装(この言葉はこの映画を観た後でますます意味を持ちます)をしておいた方がいいだろうということで、古書店で『チリの悲劇 破産したもう一つの人民戦線〈増補〉』(柘植書房、1977年5月)を買って読み始めた。
この本は、アジェンデ人民連合政権を「人民戦線」と規定している。
この本の解説によると、「人民戦線とは、ブルジョア社会の支配体制がその深部において同様にさらされるとき、客観的にその支配体制を救う役割をになって成立するプロレタリアートの改良主義的指導部と自由主義的ブルジョアジーとのブロックである」(『チリの悲劇』8頁)。
「人民連合綱領は確かに幾多の“社会主義的”プランを含んでいた。しかし例えば主要企業の国有化計画をとってみても、“チリは国有化をいそぎすぎた”という一般ジャーナリズムの『定説』とはうらはらに、それが多くのあいまいさと欠落を含んでいた」(『チリの悲劇』9頁)。
とのこと。

労働者の闘いと
アジェンデ政権
本書に収録されている論文「アジェンデは後退するが、労働者は前進する」(ジェリー・フォーリー)のタイトル通り、本のなかでは、ブルジョアジーと軍部の挑発を実力で粉砕しようとする労働者の抵抗(それはコルドンという労組住民地域共闘に結実していく)に対して、中産階級や自由主義ブルジョアジーを敵の側に追いやってしまう挑発行為は慎むべきだとして抑えつけるアジェンデとそれを支えるチリ社会党右派、チリ共産党とその影響下にあるCUT(チリ中央統一労働組合)の動きを鋭く批判している。
しかしアジェンデ人民連合政府については、左派ポピュリズムの悲劇的な末路とピノチェトによる新自由主義推進があいまって、一部にはなにか神話的な象徴に祭り上げられてしまっているのではないか、という懸念もあった。
早めに到着した映画館のロビーに掲示されていたいくつかの雑誌や新聞の映画評も「悲劇の大統領アジェンデ」、「民衆の希望をクーデターで粉砕したピノチェトとCIA」的な臭いばかりするものだった。

闘いの方針めぐ
る激しい論争
映画館のチケットカウンターには、CIAに支援されたチリ空軍爆撃機の爆撃直前のアジェンデの最期の演説の一節「歴史は人民のものである」というメッセージが書かれたステッカーが売っていたが、もちろん買わない。
しかしいつもの癖で映画のパンフレットは事前に購入して、上映までのあいだにぱらぱらとめくる。
「おや?思ったより人民連合政府内部の亀裂がでているな」、「第三部はコルドンが中心かぁ。そっちはけっこう期待できるかな」という感じがした。
太田昌国さんや廣瀬純さんなど、鋭い批評視点を持つ人たちも、けっこう前向きなコメントをしている。
「まあ映画パンフのコメントだから“ヨイショ”もあるしね」、とつぶやきながら、一〇人ほどの観客とともに席に着き、八八分の映画を観おわった。
……。
圧巻だった。
圧巻だったのは、最期のクーデターのシーンでもなく、そこに流れるアジェンデの演説でもなく、「アジェンデを守るのは民衆だ」と叫ぶ巨万の人民のデモでもなく、アジェンデ人民連合の階級協調路線を批判する政権内の社会党左派のアルタミラノやMAPU(人民統一行動運動)や在外勢力のMIR(革命的左翼運動)の演説や隊列ではない。ブルジョアジーの攻勢に抗して工場と街頭を占拠してバリケードを築き警察と対峙したコルドンの労働者の闘争ですら圧巻ではない。
圧巻だったのは、その工場占拠(国有化要求)闘争を巡って行われた工場内での会議における労働者の演説だ。
CUTから派遣された活動家が、労働者の闘争を容認しつつ、国有化は難しい、ましてや外国資本の工場の占拠は「パリクラブ」を挑発することになり、チリ経済に大きな打撃を与えるなどと説得する。

確信に満ちた
労働者の演説
映画のパンフレットではそのシーンをこう描いている。
「全工場国有化をめぐって慎重議論を唱えるCUTの指導者(そして平静を保てと言い続けるアジェンデ)に対し、労働者の代表たちは彼らの態度を『妥協』ととらえ、苛立ちを隠さない」(パンフ55頁)。
だがスクリーンに登場するこの労働者が表現していたのは「苛立ち」ではない。職場から地域までを完全に組織し、いつでも資本家やファシストと実力でやり合うことができるという「自信」である。
労働者の国有化要求に対して、それをなだめようと派遣されたCUT活動家の発言の「自信のなさ」に比べて(ドキュメントにしてよくこんなピッタリの人物がいたな、と感心するくらいの自信のなさで、はまり役だった)、この労働者の発言は自信に満ちていた。
彼はこう発言している(うろ覚えご容赦)
「われわれはアジェンデに言われたように、下から上まで(職場の労組から地域のコルドンまで、という意味だろう)すべて組織した。だがアジェンデやあなたたちはまだ待てという。いつまで待てばいいのか。われわれがいま対峙しているのはファシストやブルジョアジーではなく、CUTの官僚であり人民連合政府の官僚だ。いったいいつまで官僚的なんだ」。
この演説はかなり長い。まるで映画のセリフのようだ。そう、ケン・ローチの『大地と自由』のなかで農地を社会化(共有化)するかどうかを巡って村民会議で紛糾し、社会化を阻止しようとする共産党系活動家や地域の地主などを圧倒した革命派の村民の演説のようだ。
しかしこの労働者の演説は、作り物ではない。演説の後に巻き起こる拍手も演出ではない。僕も思わず拍手。
この労働者の発言を聞けただけでも、この映画を観た甲斐があった。おそらくこの労働者は、ピノチェト軍部のクーデターに対して、コルドンをあげて工場防衛の戦闘で命を落としているだろう(労働者の組織的な武装闘争はCUTなどの指揮命令もなく自発的、絶望的、英雄的に戦われた)。

見逃すには余り
にも惜しい映画
映画のパンフレットのなかで太田昌国さんが最後にこう書いている。
「『チリの闘い』の画面に見入りながら、私はしきりに、現在の日本の政治・社会状況と重ね合わせていた。……見逃すには、あまりに惜しい映画だ」。
まったくその通り。
これに付け加えるとすれば、「アジェンデは後退するが、労働者は前進する当時のチリ革命情勢を理解せずに見るには、あまりに惜しい映画だ」ということだ。
残念なことに、エンジンがかかったのが遅かった。もう関東圏の上映で第一部「ブルジョワジーの叛乱」を観ることはできそうにない。第一部ではアジェンデ人民連合政府から「ファシスト」呼ばわりされた鉱山労働者のストが登場するようだ。第三部「民衆の力」は、コルドンの闘いがメインになるみたいだ。
見逃すには、あまりに惜しい映画だ。(稲垣 豊)

読書案内

清水雅彦著 高文研 1200円+税

『憲法を変えて「戦争のボタン」を押しますか』

―自民党憲法改正草案の問題点

立憲主義無視のご都合草案
平易な問いかけで鋭く批判


「押しつけ」論
のウソを暴く
 今年七月に行われた参院選の結果、改憲勢力が発議に必要な三分の二を超えたことで、自民党の悲願である改憲へのステップに、いっそう拍車がかかっている。この一〇月中にも、憲法審査会による議論再開の動きも報道されている。
 自民党は二〇〇五年、「新憲法草案」を作成したが、二〇一二年四月には「日本国憲法改正草案」(以下・改憲草案)を発表した。この改憲草案を的確に批判したのが本書である。
 文体は「ですます調」。現行憲法と改憲草案を各章ごとに分け、上下二段で比較しながら、解説を加えている。各頁の下には脚注を付し、関連する内容を紹介しながら、本文を補強している。全編を通して「憲法の初心者にも理解できるように、やさしく説明」する姿勢に貫かれた構成だ。
 たとえば、改憲派の常とう句である「押しつけ憲法論」については、こう反論している。天皇中心主義の明治憲法から現憲法へ、日本の敗戦によって大きな転換があった。実は現憲法も「明治憲法の改正手続き」によって形式的には改正されたものであり、その前文のさらに前は「朕」で始まる「上諭」が記載されている。この連続性について、押しつけ憲法論者はどう評価するのか。
 また元号は、「皇帝の生死は、時間をも支配する」という古来の発想であり、その使用は日本独自のものではない。改憲草案では「天皇を国家元首に」と謳い、皇位継承時の元号制定を明記している。しかし現代のような国際化時代に元号は不便極まりない。世界には通用しない年号である。それをわざわざ憲法で規定する必要があるのか。脚注では、日本の祝日がほぼ天皇制に基づいて制定されていることを紹介している。さらに「君が代」や在特会、メディアについても言及している。

立憲主義の
要点は何か
さて、このかんの反安保法制の運動のなかで語られてきた「憲法は権力を縛るもの」という主張には、根拠がある。「人類の歴史は、政治の面においては権力の乱用を抑えて、より多くの国民の利益に役立つようにするための、闘争の歴史であった。その闘争の一つの成果は、憲法に従って政治をしなければならないという原則、つまり立憲主義です」。「その要点は、憲法がはっきりと認めていることがらについて、憲法がはっきりと認めている方法でしか、権力者は政治を行なうことができないということです」(杉原泰雄/憲法読本・第4版/岩波書店)。立憲主義を無視し、「その他の法律で規定」することを多用する憲法は、憲法の名に値しないのだ。自民党草案は、明治憲法の復活をめざすような天皇主義、国家主義、人権抑圧、首相権限の強化を打ち出すとんでもない代物である。
前文から第一一章まで。問いかけ式のソフトな言い方できっぱりと批判する。自民党の都合で塗り固められた草案の成立を絶対に許さないという、著者の強い意志が行間からにじみ出ている。それは、これまでの自民党政権の無法ぶりに対する、世論と市民運動への期待、そして社会正義への確信に根差した固い決意でもあろう。

広く人々に訴え
改憲阻止しよう
「お試し改憲」などと評される策動もある。国の最高法規について「お試し」とは軽々しい呼び方だが、改憲の本丸である「9条」には手をつけず、野党と国民の合意を得やすい「参議院の合区」「教育の無償化」そして「緊急事態条項」の導入を、とりあえずはめざすというものである。緊急事態条項などは、他国からの武力攻撃とともに、地震などの大規模な災害時にも適用され、基本的人権を制限する強権法である。これこそ悪名高きナチスの全権委任法ではないかと、本稿筆者は考えている。
一国の首相・安倍晋三は、法学部出身とは思えないレベルの低い詭弁を繰り返して国民を欺き、改憲へのこの機会を逃すまいとしている。いっぽうで自民党憲法改正推進本部は、ひどすぎるこの改憲案を一度は封印しても、とにかく憲法審査会の議論を始めたいという、苦渋の方針転換を強いられている。
いずれにしても、憲法審査会での議決を経て、衆参両院で発議。いよいよ国民投票が始まる。それは「有効投票の過半数」というハードルの低さである。早ければ来春にも実施される。この「小出し改憲」の繰り返しのために、支持率の高い安倍の首相任期延長が、党内では喫緊の課題として浮上しているわけだ。
自民党の悪政と草案の多くの問題点を、本書をおおいに活用して広く宣伝し、改憲派の野望を粉砕していこうではないか。  (S)


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