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    かけはし2016.年11月28日号

戦後革命期から68年反乱へ


読書案内

トロツキー研究所編集・発行 柘植書房新社刊 2500円
『トロツキー研究』68号

〈特集〉マンデル没後20年(下)

理論・イデオロ
ギーをめぐり


 昨年に没後二〇年を迎えた戦後の第四インターナショナルの指導者であり、著名なマルクス主義経済学者でもあったエルネスト・マンデルの業績を振り返る『トロツキー研究』の特集が前号(67号)に続いて、68号でも(下)として発行された。今号の内容は「理論とイデオロギーをめぐってマンデルがさまざまな機会に行なった論争的論文を集めている」(特集解題より)。
 今号には、マンデルが戦後のさまざまな時期にあって第四インターナショナルを代表する立場からどのような理論的論争を展開し、それを通じてマルクス主義・トロツキー主義の地平をどのように拡大していったかを検証し得る重要な論文が掲載されている。「第二次世界大戦後のユダヤ人問題に関するテーゼ案」(一九四七年)、「ジャン・ポール・サルトルへの手紙」(一九五三年)、「マルクス主義的帝国主義論とその批判者たち」(一九五五年)、「新資本主義下における労働者」(一九六八年)、「アルチュセール、党、階級」(一九八二年)の五本だ。

ユダヤ人問題と
イスラエル国家


一九四七年の「第二次世界大戦後のユダヤ人問題に関するテーゼ案」は、一九四八年のイスラエルの建国一年前、マンデル二四歳の時に書かれた。「テーゼ案」は、シオニズムの反動性を徹底的に明らかにしている。「ユダヤ人とアラブ人との団結のいかなる可能性も、何よりもまず、あらゆる人種主義的なイデオロギーと実践とをユダヤ人の側で根絶する道に沿って進まなければならない」と。
テーゼ案は「パレスチナへのユダヤ人の移住が続いていることがユダヤ人労働者とアラブ人労働者との間の亀裂を広げ、イギリス帝国主義の立場を強化し」ていると指摘する。そして「第四インターナショナルは、ユダヤ人避難民に対してパレスチナに移住しないよう説得するために全力を尽くさなければならない」「ユダヤ人の移住問題に関するその具体的なプロパガンダでは、アラブ人住民の主権から出発しなければならない。アラブ人住民だけがパレスチナへの移住に関してユダヤ人に門戸を開くべきか閉じるべきかを決定する権利を有する」と述べる。
一九四七年一月一日の日付のあるこのテーゼ案は、一九四八年五月のイスラエル建国宣言に始まる第一次中東戦争と今日に至る泥沼の戦乱と悲劇を、明白な形で言い当てているというべきだ。

論争で問わ
れた課題は


一九五三年の「サルトルへの手紙」は、冷戦期の初期において、支配階級と右翼によるフランス共産党への攻撃に対して、哲学者のジャン・ポール・サルトルがフランス共産党を擁護する論陣を張りつつ、返す刀でトロツキストを、スターリニストによる批判と同じ論理で中傷してきたことに対する反論である。
サルトルは当時、フランス共産党のスターリニスト指導部に対する「同伴者知識人」としてトロツキストを批判したのだった。マンデルはサルトルの立場を批判して次のように述べた。「あなたによれば、労働者階級は、フランス共産党に従わないことによって、一つの集団的まとまりとしては『解体されている』のであって、『大衆とはまさに否定された階級』である」と。後にサルトルは、ほぼマンデルと同様の立場からフランス共産党を批判するようになるのだが、この当時の論争を「なかったこと」のように取り扱うのは誤りだろう。
一九五五年の「マルクス主義的帝国主義論とその批判者たち」は、第二次大戦後の資本主義の変化によって、マルクス主義的階級闘争論や国家論が過去のものになったという近代経済学派の主張を批判したものである。
マンデルは「現代の民主主義国家は一つの階級の支配の道具ではなく、それなりに独立した機構であり、さまざまな『圧力集団』の影響力を相互に中和させることに従事している」というガルブレイスとロンドン・スクール・オブ・エコノミーの「ケインズ学派」を批判する。かれらケインズ学派の学者たちは「寡占」トラストの影響力を認めつつ、それに対抗する労組、農協、中小資本家の団体である商工会議所などによって大資本の主導権が「中和」されていると主張する。
マンデルは戦後の「高度経済成長」時代に一世を風靡した「資本主義の変化」「混合経済論」に対して「以上のことは、経済と国家そのものの中でますます絶対的で露骨なものになる独占トラストの支配圏という枠内で生じている」と批判している。

新資本主義
下の労働者

 一九六八年に執筆された「新資本主義下における労働者」は、一九六〇年代後半の青年・学生の急進化の背景となった資本主義の変化を「新資本主義」という言葉で特徴づけ、「プロレタリアートの同質性の増大」「知的労働者のプロレタリア化と労働者階級の潜在的能力」「二つの基本的問題T 資本と労働との対立関係」「二つの基本的問題U イデオロギー支配」「植民地革命と国際主義」「新しい永続革命の時代」という項目を立てて鋭く分析している。
この論文は私にとってとても思い出深いものである。同論文は一九七〇年に刊行された『第四インターナショナル』誌第7号に訳載された。私は一九六九年の安保・沖縄「一〇・一一月決戦」で逮捕・起訴されていたが、拘置所に差し入れられたこの論文を読んで、大いに感激した。
当時大学二年生だった私は、獄中で学生運動がプロレタリアートの階級闘争とどのような関係を持ちうるかについて、いろいろ考えあぐねていたのだが、この「新資本主義下における労働者」を読んで、その一つひとつの分析に納得してしまったのである。つまり、戦後の資本主義の発展と変化、そして矛盾がいわば「存在論」的に学生とその運動のあり方をプロレタリアートの階級闘争の一翼へと結びつけざるを得ないと、私は考えたのだった。
戦後的技術革新と高度成長の「幸福な資本主義」の時代が過去のものとなり、グローバル資本主義の危機の深まりを通じて、「プレカリアート」化した学生を取り巻く社会的・経済的環境は激変した。青年・学生たちの貧困の拡大のなかで、青年・学生たちの闘いの政治的・社会的表現はどのような形をとっていくのかについての実践的・理論的模索が続いている。われわれはそのための作業を共に担っていかなければならない。
最後に、連載中のヤン・ウィレム・ストゥーチェの「マンデル伝」の六回目について。今回の連載で一九五〇年代後半から一九六〇年代初頭にかけた、第四インターナショナルのかなりハチャメチャな分派闘争と分裂のプロセス、ミシェル・パブロが中心になったアルジェリア革命連帯運動の中での武器製造や贋金問題とパブロの逮捕、さらには独自の極左主義的分派の結成に至ったアルゼンチン出身のポサダスという男のメチャクチャさなど、一九五〇年代後半から六〇年代にかけた孤立の中での第四インターナショナルの実態がリアルに浮かび上がってくる。
「読み物」としては面白いが、あまりにも曲者だらけの波乱万丈の連続にびっくりせざるをえない。
(平井純一)

11.15

大阪で戦争法違憲訴訟

第1回口頭弁論

 【大阪】口頭弁論(六月八日に提訴した訴訟の関連)は一一月一五日、大阪地裁の大法廷を傍聴人で満席にして開かれた。原告四人(中一人は欠席で陳述書のみ)と訴訟代理人(冠木克彦弁護士)の意見陳述が行われた。
陳述した原告は現在九一歳、陸軍に入隊し中国戦線に参加し、敗戦後も上官の命令で一九四八年まで中国に残留した経験のある人。敗戦の年は小学校五年生で、疎開でお母さんと広島市の実家に帰る途中、超満員の市電の中にいて、爆心からわずか七五〇メートルの地点で被曝した人。一九四四年の夏、お父さんが招集され一瞬にして家族が離散し、苦しい戦後を生き抜いた人。女学校に入学した年、外回りからの空襲(千葉市)で逃げ場を失った人がゴム人形のような死体になり、たくさん放置されたままになったという記憶を持っている人。四人はそれぞれの体験から、平和を守り政府の選択に違憲の判断をしてほしいと訴えた。
冠木克彦弁護士は、政府が閣議決定の内容をそのまま法制化し、国会の多数決をもって立法による違憲行為を行ったやり方は、行政機関と立法機関によるソフトクーデターだ、したがって三権の中の司法機関は違憲立法審査権をもって、憲法秩序を防御する機関でなければいけないと述べた。
また、一一月二〇日から南スーダンに「駆け付け警護」の任務を付与され派遣さる自衛隊に関して、「自衛隊員が海外武力行使に関係して死亡した場合、その自衛官の平和的生存権は侵害されると考えられる。戦争と平和という事柄の性質上、平和的生存権というのは一律な平和によって保障される。したがって、日本にいる私たちも人口分の一であったとしても慰謝料の請求権を有する」と、原告に請求適格性があることを主張した。

一〇〇〇人超
える原告団へ
法廷で、冠木弁護士の陳述が始まろうとしたとき、被告側代理人の一人(報告会での説明によると、彼らは司法検事)が、ぼそぼそと発言しました。マイクを使わず言うので、何を言っているのか聞き取れず、傍聴席からもっと大きな声で、と抗議があり、裁判長がマイクの近くで、と注意をする一幕も。要するに、彼らが言っていたのは、六月の時点での訴状では駆け付け警護に言及していないので、冠木弁護士の意見陳述の中のその部分の削除を要求したということ。
この点については、次回公判までに訴状に追加する書面を提出することで一件落着し、陳述書は裁判長の判断で、第1分類(主張)に入れるということになった。証拠は第2分類、その他は第3分類に入るそうで、陳述書は正当な扱いをされたということになる。
報告会では、一一月二一日(月)に提訴する第二次訴訟の原告をあわせ、一〇〇〇人を超える原告団になるとの報告があった。次回は、来年二月二二日(水)午後三時。(T・T)

コラム

小林多喜二と七沢温泉(後編)

 旅装を解き、浴衣に着替え、多喜二が浸かった温泉で手足を伸ばす。「泉質は無色透明なアルカリ性単純泉。pH値9〜10。源泉二十三度」。脱衣所に掲げられた泉質証明のとおり、加熱された湯は温めながら柔らかで、ぬるぬる感が強く、まったりと肌を包んでくれる。この湯が多喜二の、投獄の疲れや拷問の傷を優しく癒してくれたのだと思うと、しみじみ感じ入るものがあった。今では露天風呂が設けられ、夕暮れ時、蝉時雨を聴きながら湯船に浸かるというこの上ない贅沢なひとときを味わうことができた。
 夕食は大広間の宴会場に山海のお膳が用意されていた。宿泊客はボクのほか五組くらい。家族連れもいるが、みんなおとなしく、もくもくと箸を進めている。大きなお世話だが、酒を注文する人も少ないようだ。そんな中、ボクはサービスの一合酒を呑み干し、地元黄金井酒造の冷酒「盛升」一本を所望。旨い。料理を口に運びながら、きれのある地酒に酔いしれていると、いつの間にか周りは、一人減り二人減りして、静かさばかりが増すばかり。時間はまだ七時過ぎと早すぎるくらいだが、ひとり宴会はお開きと相成った。
 部屋に戻り、延べられた布団に寝ころびながら文庫本を鞄から取り出す。ここ福元館の離れで、多喜二が「ノート稿」から完成させた小説「オルグ」が収録された青木文庫である。印紙が貼られた奥付の発行日を見ると一九七二年一○月一日第一版一六刷発行とあるから、買い求めたのは多喜二に強く傾倒していた中学か高校時代のころだろう。定価は二○○円だった。
 日に焼け、茶色く変色した頁をめくり、しばし活字を目で追う。前著「工場細胞」の続編ともいうべき作品で、故郷小樽の製缶工場がその舞台である。内容はタイトル通り、資本の横暴、ペテン、そして特高の弾圧と対峙し、組合の組織化、全協日本金属労働組合加盟を進める工場細胞の姿をいきいきと描いたものだ。工場内の様子や労働者の動き、工場内に響きわる機械音などが、行間から飛び出してくるような表現力に改めて圧倒された。
 早朝、ひと風呂浴びあたりを散策。朝食後、旅館の女将に鍵を開けてもらい多喜二が過ごした離れを見学させてもらうことにした。離れは、旅館と道路を隔てた高台にあり、石段脇の壁には、多喜二ゆかりの七沢を知らせ歴史と文学を広める会・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟神奈川県本部§A名による「小林多喜二 滞在の離れ」と刻まれた解説板が設置されていた。そして多喜二ゆかりの建物で唯一現存するものである旨が記されていた。
 離れは三畳、六畳、廊下奥の便所を挟んで八畳間からなる一軒家で多喜二は入口から続く二部屋を仕事場にしていた。前述した『七沢温泉と多喜二』によれば、一九一九年(大正八)、宮大工が釘一本使わず建てた頑丈な造りで、関東大震災にもびくともしなかったという。また、多喜二は縁側に机を置き、外を警戒しながら執筆を続け、危険を感じたときは便所に原稿を投げ捨てたという逸話も添えられている。
 ボクは六畳間に寝ころび、この部屋で多喜二が吸ったと同じ空気を胸一杯に吸い込んだ。明日もまた彼を慕う来訪者がこの玄関をくぐり、同じ振る舞いをすると思うとうれしくなった。   (雨)

 

 




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