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    かけはし2016.年12月5日号

福島原発事故から振り
かえるたたかいの歴史


元東京電力労働者に聞く @

  東京電力はどのような会社であったのか、その労務政策、東京電力労組はどのような組合なのか。東電労組(御用組合)が多数を握る中で、全東電活動者会議や電力公害研究会を作り、会社による差別賃金など反労働者政策、脱原発、公害反対(火力発電所建設反対)などを課題にしながら闘ってきた東京電力内での労働者の闘いと福島原発事故についての考えを、元東京電力労働者に聞いた。(編集部)

1964年に
入社して――

――いつ入社しましたか。

 一九六四年、新東京火力発電所。今問題になっている豊洲にありました。最新鋭の発電所ではありませんでした。出来た当初は東洋一とか言われた。社員の数は全体で五〇〇人ぐらいいました。その時は四二万kW、現在は一〇〇万?を二台運転するのに、三〇人(6人×5組)ぐらいで、一日三交代で二四時間稼働していた。事務方や補修などが増えるから実際はもう少し増えるでしょう。一九六〇年代の火力発電所はオートメーションが進んでいないので人はいっぱいいた。出来た当時はもっと人員が多かった。

――東京電力に入ろうとしたきっかけは?

 六〇年代ぐらいの東京電力は就職戦線でいけば、いい会社ということではなかった。当時は銀行や証券の金融関係、石油関係。クラスのトップクラスはそういう所に行きました。公務員とか電力会社はレベルの上の方ではなかった。いろんな会社が高度経済成長で拡大していく時期だった。設備を増大していった。就職難ということはなかった。中学生は金の卵で地方から上京してきた。売り手市場で自分の希望する所に入れた。

――どういう仕事をされていましたか。

 電気を作る発電部門と補修部門、設備を効率よく動かす技術部門(重油等を検査する部門を含む)、事務方があり、私は発電部門に入った。発電の中に、電気とタービンとボイラーと三つに分かれていた。私はボイラーだった。お湯を作りタービンで発電機を回して電気を作る。現場では小さな安全設備でもその裏には感電死を含め、死亡事故があった。私が、働くようになった時点でも、まだまだ危険個所が沢山あった。今は全部オートメーションでやっているが、安全は労働者の犠牲の上にあるのは、今も変わりないと思う。

木川田社長
の時代とは


――木川田が社長・会長になってから東京電力が現在の労務体質であるとか原発にシフトしていくとか、今の東京電力のあり方を作った。そのへんのことはどうですか。

 私が入った頃はちょうど木川田が社長になった頃だった。電力会社は基本的に営業がない。今はいろんな電力会社ができて、売らなければならないが。地域独占で原価主義。原価は保証されて、地域の人は地域の電力会社からしか電気が買えない。競争がないからコストパフォーマンスがそんなに厳しくない。原油を買って電気を作れば会社としては成り立った。原油が上がれば電気料金を上げればいい。労働争議で人件費が上がってもそれを電気料金に上乗せすればいい。そういう意味での労務管理とか営業とかコストの削減とか、そういう意識は木川田が来る前は余りない会社だった。木川田が社長になって、コストの削減とか労務管理とかを他の企業と同じようにやるべきだという考えになった。(注1)

――電産型賃金とよく言われますが。戦後すぐの時期、産別会議・電産があってそれをつぶすために、電力会社を九つに分割した。国鉄の分割・民営化が国労つぶしであったように左派運動をつぶすことだった。そうしたことを職場で感じたことはありましたか。

 私が入った時は同盟系の東京電力労組になっていた。移行期のイザコザみたいのは残っていなかった。東京電力として確立していたし、労働組合としても確立していた。私たちがまともな労働組合にしようということで、職場内でやっていたということは、当然前の電産の遺産、そういう流れを経験しているので、労使一体型の労働組合運動に対抗していこうというのがあった。だいたい社会党系の人たちが地域で議員をやっていたりして残っていた。東京電力のいろんな地域に残っていた。(注2)

まともな労働
組合めざして


――東電労組という労組の中で、部署によってはまともな労働組合をめざす組合員がいたということですか。

 新東京火力発電所というのはたまたまそういう人が集まっていた。入った頃、職場の中で、組合役員選挙があり選挙に出た。圧倒的少数で負けてはいたが職場の中でグループが作られていた。職場の中で、現行の労働組合に異議を唱える人がいた。その人たちといっしょに、まともな労働組合を作ろうとやった。最初の頃はうまくいけば一人ぐらい組合役員に当選した。五〇〇人の社員が全部組合員でした。左派活動家は十数人でした。選挙に出れば投票してくれる人は何人かいた。最終的にどんどん厳しくなった。票を分析すると誰が投票したかみんな分かってしまう。そういうふうにしてだんだんつぶされていった。(注3)(つづく)

注は「東京電力と木川田」電力公害研究会作成の資料を参考にした。
(注1) 木川田が社長と会長を長年務めたことにより、東電カラーが作られた。
 木川田一隆が一九六一年七月に社長に就任して一〇年間、その後会長としいて五年余の院政を続けた。木川田は原発推進を行った。木村守江(当時自民党衆院議員)が「福島の大熊、双葉あたりに将来有望な産業を誘致したい」と持ちかけたら、木川田は「原子力発電所はどうか」と答えた。一九六四年一二月一日、原子力発電準備委員会を発足、一九六五年一二月には原子力開発体制の強化、原子力部の新設、東電原子力開発研究所の開設、福島原子力建設準備事務所を設置。
 そして、彼は労働組合つぶしを積極的に行った。木川田は社長就任直後、電産関東の本部書記長を務め、東電労組との統一後新潟支部の副委員長になっていた、石橋一男氏を突然懲戒解雇にした。その理由は「新入社員に対して反企業的組合教育を行った」「不法なビラはりを行った」など、組合執行委員としてのあたりまえの活動をあげている。組合の役員選挙に対する会社側の介入は露骨になり、本部常任委員会は右派が多数を占めた。一九六二年には、地区労と原水協を脱退していないのは、本店支部と東京火力支部のみになった。
 「これからの東電の労働者は次第に管理的労働傾向に進んでいく」と主張し、「人間能力開発委員会」を設置。臨時工からの社員化見直しが提案され、一九六二年以降中止された。
 検定制度の導入と一二職級にも階層化された定昇制度によって、思想信条による差別を公然化、これに従わない労働者は定年まで最下層に捨て置かれ、生活が成り立たないような体制をしいた。
 電気メーターの検針を臨時職種とし、集金業務の請負化、守衛も委託化、請負業者から派遣に代えた。基幹的管理業務だけを社員業務とし、その他高度な能力を持つ専門職、さらに雇用の柔軟な労働者の必要性を強調した。
(注2) 東電労組に対抗して、左派活動家が活動。東電労組が労使一体化して、反労働者的になっていくのに対抗し、全東電活動者会議を決定して闘いを行った。全東電活動者会議は一九七二年一月、電力労働運動の「資本からの完全な独立」「組合民主主義の確立」「労働者の生活と権利を守る」闘う先進的な活動家を持って組織し、発足した。東京火力支部、神奈川支部、千葉支部、埼玉支部、都内支部を置いた。
(注3) 東電労組について。
 学歴のない者にとって、同盟系組合運動への奉仕が有効かつ確かな出世への道。職制組合より脱皮し、職制予備軍組合となる。彼らの左派排除はいっそうなりふりかまわぬものになった。
 会社は自民、民社党へ政治献金を行う。東電組合員への思想教育としてほぼ全員に民社研へ出張させ、費用は手当までつけて一切会社が出した。

11.23

オール板橋行動 講演の集い

市民と野党の統一候補を


保守の牙城を
崩そうと一八〇人
一一月二一日、成増アクトホールで、「市民と野党の統一候補を板橋から」をスローガンに講演集会が開かれた。東京都一一区(板橋)は安部晋三の腰巾着、下村博文が七期を務める、東京でも指折りの保守の牙城でもある。前回の衆議院選挙では、共産党、民主党、維新の会、革新無所属候補が立ち、三万から五万票と票を分け合い、下村博文の一一万票に及ばなかった。しかし、野党統一候補が成立すれば勝利の可能性は充分にある。

杉尾秀哉議員が
長野の経験を報告
集会は民進党長野選挙区で、初当選した杉尾秀哉氏が統一候補の意義を語り、自己の選挙経験を踏まえた話を力強く語った。
長野選挙区では、市民の後押しが三党合意を作り、統一候補を作ったこと、「選挙に行こうよ!」という投票率をあげる運動が自民党に対決出来ること。また今回の安倍政権の集団的自衛権の強行採決を糾弾し、今後の自衛隊派遣が如何に危険であるかに触れながら、安倍政権のマスコミへの圧力、マスコミの自主規制問題を報告した。
最後に「選挙は勝たなければ意味がない!」と次の選挙への決意を語った。

野党統一候補の
成立こそ勝利の鍵
次に法政大学教授、山口二郎氏が題材「政治危機と私たちの選択」を講演した。
内容はトランプ選挙も含み、多義にわたり、@アベ化する世界とイヤな時代。A日本の危機的現状。B日本政治の課題。を軸に、野党側の選挙敗北の原因を「安保法制反対運動を選挙につなげられない」問題。野党としての魅力がなく、「改憲阻止というメッセージの消極性」「安倍自民党政権の手のひらで踊らされている」原発問題への曖昧さ、等の問題を挙げた。
また、各地の選挙で弊害となることが目立つ連合、特に原発問題に絡む電気労連等の問題については「産別組合としての運動を強める必要」の重要性を提起した。山口氏は豊富なレジュメを用意しての発言であり、今後の政治に関わろう、という決意ある講演であった。
講演会の参加者は一八〇人。東京土建板橋支部、九条の会などの参加者が多く、本当の意味での「無党派の市民参加」には課題の残る集会であったが、「野党統一候補」に向けた意義のある講演集会であった。また板橋では「チエンジ国政!板橋の会」が作られ、多くの賛同者が募集されている。必ずや、次の衆議院選の重要選挙区になることは間違いがない。
教育反動化、歴史修正主義の先兵、戦争大好きな下村博文を何としても板橋から叩き出そう!(「板橋の正義」)。



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