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    かけはし2016.年12月12日号

原則的な職場活動と
反原発への取り組み


元東京電力労働者に聞く A



まっとうな
組合をめざし

――労使一体派との対立点はなんでしたか。

 木川田が社長になっても、電産型の生活給が残っていた。年功序列と家族給(子供手当)があり、まったく平社員でいても給料は一定程度上がっていく。

――一二職級、つまり差別賃金体系を導入して、組合に反抗するような人に対してはずっと低いままにし、職場支配を強めたといいますが。

 そのへんはあったけど、それでも賃金はある程度上がっていきました。手当も職級によって違ってきますが特に高度成長期は基本給のベースアップが大きかった。それがだんだんきいてくる。職級による定昇ですから、その割合が大きくなりベースアップ分が少なくなる。会社の査定が大きくなってきて、会社のいうことを聞く人間を作っていった。
組合と会社の交渉で組合が妥協していくことに、それはおかしいのではないかと日常的に対立していた。春闘での闘い方、我々はもっとストライキをやって闘え。要求に対してすぐ妥協する。それはおかしいのではないか。職場の討議を経て、スト権だって確立しているのだから、やればいいじゃないか。それこそまっとうな労働組合としてやろうとそういう対立だった。能力給みたいのものがいろんな形でやられてくる。そういうことに一つ一つ反論していった。組合役選とか組合討議とかそういう場でわれわれは主張していった。組合機関紙とは別個に自分たちの主張を書いた機関紙みたいなものを出していた。会社の中では配れないので、職場組合員に郵送で送っていた。(注4)

――一九七〇年代初頭、日産追浜工場や日野自動車、ゼネ石、石川播磨造船所などで同盟系多数組合と戦闘的少数派組合の対立が激しくなり、門前ビラまきなどで同盟系組合員が出てきて暴力的には排除することが起きました。東電ではどうでしたか。

 職場で孤立していじめられるようなことはなかった。職場では、私たちの活動に対する一定の理解はあったと思います。「けど投票はできないよ」と言った状況ですね。たまに投票してくれる人がいたけど、会社から圧力かけられて転勤だとかそういうことでいなくなっちゃうとかした。仕事で完全に干されることはなかった。主流の仕事にはつけないとかそういうことはあった。今の学校でいういじめというところまでやられたことはない。忘年会とか社員旅行だとかはいっしょにやっていた。ただし、昇進とか賃金ではかなり差別されました。ただ、常に監視されているような緊張感はありましたね。また、一〜二人とか本当に少数の職場の人では、厳しい差別攻撃があったのも事実です。
まっとうな要求を掲げて活動していたので気持ち的にはわれわれのことを理解していた。東電労組・御用組合の要求と比べればわれわれの言っていることの方がまっとうなので否定するものではなくむしろ共感を得ていた。

企業内教育と労
務管理について


――労務管理の一環として、自衛隊に体験入隊させるということがあったそうですが。また、東電学園を作って会社のための人材育成をしていたようですが。

 私も東電学園の出なんです。中卒の人たちを三年間、高校と同じように昼間の勉強もできたし、寮もあり給料も出た。最初は配電系技術者が不足していた。それを専門に養成することで始まった。火力発電、最後は原子力科も作られた(当初は高卒の資格は取れませんでしたが、後には、通信教育と合わせ高卒の資格も取れるようになりました)。自前で社員を育成していく。当時は大手企業が自前で学校を運営していた。社会とか国語とか英語とか一般科目も授業としてあった。会社に忠誠を誓うというような教育は私のいる時代には基本的にはなかった。
自衛隊の体験入隊も当時企業の研修として、自衛隊が受け入れるという制度があった。行った人たちはエリート的な人たちだっただろう。それも三泊四日、その程度だった。別に隠れてやっていたわけではないので知っていました。自衛隊は宣伝のためだろうし、どんな教育をしていたのか具体的には知らない。行った人は数としてもそんなに多くなかった。活動者会議として反対したことはなかった。

民社・同盟系の
イデオロギー活動

――民社党の研究会があって、そこに全員ローテーションで参加させ、会社が手当まで含めて全部もって民社・同盟系のイデオロギー教育をした。そうしたことを知っていますか。

 社会党から分裂して民社党ができた。東電労組としては民社党支持で、同盟のなかでいけば電力は大きな存在だったから、民社党の資金源だった。会社がそんなに露骨にできたのか。昔はできたのかも知れませんが私はそうした研修は知らない。東京電力は研修の多い会社でしたので、会社の研修に民社党系の講師を呼んできたのはあったかもしれません。
木川田イズムは民社党にも通じている。民社党の委員長にもなった佐々木良作は、電産本部の初代書記長、兼闘争副委員長だった。彼が資本側と真っ向対立して電産型賃金を作った。それが右転換して民社党を作っていった。そういう経過がある。電産の運動としては、全電力(全九電、電産中国、全北電)として継続されました。最後は総評、同盟が合併して連合になる。その時点で全電力も電産中国も解散していく。われわれもみんな定年になり、活動者会議の運動もなくなってしまった。

――一九七〇年代初めから原発建設をめぐり、地元住民と対立が激しくなりました。東電内の活動家たちも原発問題を勉強しながら、反対の立場を明らかにしていきました。原発反対運動への取り組みは? 四日市ぜんそく、川崎や都内での大気汚染公害なども問題になりました。電力公害研究会を作り活動したとありますが。(注5)

 公害問題。「電力と公害」という研究会を作っていろいろ提言した。そこには私は参加していないが、グループとして東電活動者会議という枠の中でやっていた。それに関わっていた人たちは知識もちゃんと持っていて勉強もしてやっていた。優秀な人たちだった。当時の亜硫酸ガス、窒素ガスによる光化学スモッグ。一番大きかったのは四日市公害という形で最初知ったわけです。火力発電所は特に発生源として大きかった。石炭から重油に代わってきた。重油にも硫黄分の違いでABCがある。一般はC重油をたいているが光化学スモッグ予報が出ると硫黄分の少ないA重油を使うようにした。今は硫黄酸化物、亜硫酸ガスを除去する装置がある。当時は石炭を燃やした粉じんを九〇%除去する除塵装置はあったが、他はない。そこで現場労働者の責任で「電力と公害」のような形で始めた。
総評系の全電力労組が九州と中国、一九六八年に北海道に全北電ができた。レッドパージがあって、一九五一年に九電力に分割され、一九五六年に電産労組が解体する。共産党の人たちも表に出てこなかったけど、電力の中で運動はやっていた。機関紙の発行だとか組合選挙に出るとかそういうことはやらなかったが、それなりに運動としては残っていた。共産党系の人たちは昇給差別で裁判を起こし、和解(実質的に勝訴)した、ということもあった。

反原発への
取り組みは


――電産中国はどうして残ったのですか。

 電産としては「二七年争議」に敗北し。一九五四年に電労が結成され、運動として衰退する中、一九五六年に解散に向かいました。中国電力では電労が「電産組合員については、個人ごとに資格審査をして、電労の加入資格を決める」と言う「活動家パージ」を行ったため、これに反発し、少数派組合として残りました。当時の関係者は「良心を売り、信条をじゅうりんされてもなお統一を潔しとしなければならないとは考えない」との言葉を残しています。その後、電力の中で思想、信条等の自由に対する圧力に反発から、一九五九年に九州電労から全九電が、一九六八年には北海道電労から全北電が少数派組合を結成しました。これに、全九州検針人集金人労働組合が加わり、四労組約四〇〇〇人が全電力として活動しました。
東京電力の電産の影響力は、良く解らないこともありますが、社会党系の市会議員とか党員が残っていて、各職場でそれなりに影響力があった。新東京火力の前に古い千住火力などがあった。そういう所ではかなりの勢力を持っていた。だけど、私が入った頃は廃止になってしまっていた。それでみんなバラバラにされてしまった。そういう人たちが新東京に来ていっしょにやってくれた。その後に作られた新しい火力発電所にはそういう影響力はまったくなかった。

――反原発運動についてはどうでしたか。

 全電力としては、原発は危険性が高いということで運動方針とし反対していた。原発がものすごい勢いで計画されて、福島第二とか柏崎・刈羽とか作られていく。その頃、「朝までテレビ」で原発論争をやっていた。政府は安全性とか核廃棄物の処理とかそういうことについてはよく分からない段階で踏み切っている。すごい論争にもなっていた。われわれも社会的な盛り上がりの中で勉強して反対していった。

――二〇一一年三月一一日東日本大震災、そして東京電力・福島第一原発事故が起きました。この原発事故についてどう思いましたか。

 私自身の反省があるんですけど、原子力発電所を維持するためには、夜間電力の需要拡大が必要でした。原発は次の定期検査があるまで動かしたら止めない。一〇〇万kWの運転をしたら、変動させない。火力発電所とか水力発電所で需要変動に対応させる。夜間は需要がずっと落ち込む。夜間電力の需要を増やすため、使い方を含めて提案営業した。私なんかもそのグループに入っていた。原子力発電を維持するためにはそういう方向でやっていかないと経営的に苦しいということでやっていた。
政府や電力会社が安全神話を作った。そのために、一般の人や夜間電力に関係する人を、原子力発電所や関連施設の見学等に連れて行った。電力会社全体では、かなりの数になったでしょうね。福島第一原発ができた時期には原発安全論争もかなり下火になっていました。下北半島に新しい原発を建設中(現在は止まっている)だったり、核燃サイクルということで六ケ所村に再処理工場(一回もまともに動かなかったが)を作ったり、着実に原発体制は進んでいた。その時に爆発事故が起きた。それはまさしく原子物理学者の高木仁三郎さんや星野さんが言っていた通りになった。正直あんな大事故が起きるなんて私の想像も超えていた。      (つづく)

注4 電力職場の実態。会社、組合のしめつけがきびしいなかで、事業所の前での公然としたビラ入れが困難な(処分の対象になる)なかで、活動家から出されるビラは、各個人への郵送にたよらざるをえない。しかし、この個人宛に出され、郵送されたビラさえ、労務課に封筒ごと提出させられるのである。
新入社員が半強制的に入れられる独身寮の場合はこの種のビラと思われる郵便物がくると管理人が一括して労務へ提出してしまうのでその網の目をくぐるため差出人の名前を変えバラバラに出すことになる。
ところが管理人があやしいとにらむと、その手紙を寮生の郵便受けに入れずに直接寮生を呼びつけ「この手紙の差出人を知っているか」たずねて「知らない」場合には「知らない人から来た手紙ならこの場で封を切っていいですネ」といって管理人が勝手に封を切り、中味がビラであると「あなたは、このようなものを読む必要はありませんネ」と言って、没収、労務課に提出してしまう。また社宅に入っている人たちに郵送された手紙も、某火力の場合は、郵便受けから抜きとられ、一括して労務課に提出されていることが最近知られるようになった。その発端は、ある主任が自分の点数かせぎのために、その差出人をつきとめようと努力し、自分の奥さんまでも使って探索する過程でバレてしまったのだ。
注5 電力公害研究会は、一九六〇年代の四日市ぜんそくや水俣病、昭和電工水銀汚染事件など全国的規模で高まった反公害闘争の盛り上がりのなかで、大気汚染の元凶である火力発電所反対闘争に取り組んだ。一九七〇年七月、「公害は犯罪だ!」東京電力を告発する! というチラシ三万部を作り東京圏で配った。

コラム

個 人 宅 配

 COOP(生活協同組合)の個人宅配サービス(個配)を利用し始めてから二年以上が過ぎた。思えば、最悪のコースで襲来した台風の対策ですっかり腰を痛めてしまった。当時私はギックリ腰であったが、さらにそれを悪化させてしまったのだ。連れ合いもまた圧迫骨折をしていた。
 日々の食材を手に入れることも困難な時であり、やむを得ず個配を利用することにした。食材に限らず、必要な物は自分の目で確かめて買うのがベストなのは言うまでもない。
 カタログで必要な物を選定しマークシートにチェックを入れる。それを配達してくれる人に手渡せば、一週間後に届けてくれる。その繰り返しである。
 カタログで商品の写真と簡単な説明だけで品定めをするのはなかなか困難な作業であった。商品の多様さや種類の多さなどは限定されており、情報量も少なく、店頭に並ぶべくもない。カタログでは、あまりにも多くの情報を掲載すれば、選定する側が疲れてしまう。
 当初は失敗も多かった。特に食料品関係は想定していた物ではなくガッカリする時も多々あった。他方、トイレットペーパーなどのカサだかい日用品や酒、ビール、米などの重量級については重宝した。またスーパーなどの店頭では販売されていない物で良品があり、視野が広がることもあった。
 現在では、私は多分ベテランクラスになっていると思うが、失敗の教訓もあり想定外のケースは少なくなってきた。
 配達員は固定されており、不良品やサイズがあわなかったりする商品は交換、返品OKというのもそれなりの安心感を生んでいる。電話一本で急ぎ交換に来てくれる。
 最近、カタログの中に京都産の万願寺とうがらしを見かけた。店頭ではなかなか見かけないものだ。いわゆる甘唐辛子だ。以前、どこだったか忘れてしまったが、居酒屋の大鉢料理で食べ、気に入ったことを思い出した。
 さっそくその味を思い出しながら、薄揚げと一緒に醤油ベースで甘味を加えて煮てみた。最初にしてはそれなりにうまくいった。ワタを取るという一手間は必要だ。
 夏の季節物だが、箸休めや酒の肴にも良く合う。梅のらっきょう酢漬け、長芋のワサビ漬けに続く一品に加えることにした。食のマンネリ化を避ける新たな一品が生まれた。個配の成果があったと言うものだ。 (灘)

 

 


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