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    かけはし2018.年1月15日号

辺野古に行こう 作るな新基地


12.2

辺野古実が集会

名護市長選に勝利を!

大城悟さんが現地報告


 一二月二日午後六時半から、東京・文京区民センターで「辺野古に行こう!新基地建設阻止―名護市長選勝利―12・2集会」が辺野古への基地建設を許さない実行委の主催で開かれた。
 中村利也さん(辺野古実)が主催者あいさつをし、大城悟さん(沖縄平和運動センター事務局長)が沖縄の闘いの報告と名護市長選勝利への訴えを行った。
 ?辺野古新基地建設阻止の取り組み。政府はできるところから工事を着工している。K9護岸、K1、N5護岸、石材の海上輸送、キャンプ・シュワブゲートから資材搬入続く。二〇一四年七月から作業が再開されたが三年ぐらい計画が遅れている。大型構造物のケーソンは計画通りにいっていない。海上輸送も時間がかかる。奥港を使っての輸送に対して県が許可したのに、住民が反対し、県は見直しをしようとしている。なかなか簡単にいかない。
 数の力で圧倒して止めるしかない。連日となると厳しいので三〇〇〜四〇〇人と集中日を作っている。今日の第一土曜日は一〇〇〇人が集まった。
 ?オスプレイ・CH53墜落。事故率が一番高い。佐賀空港利用の自衛隊のオスプレイ購入・配備計画もうまくいっていない。
 ?山城議長ら三人の裁判。検察の求刑一二月四日、判決来年三月一四日予定。
 ?宮古島、八重山(石垣)への自衛隊地対艦ミサイル部隊配備問題。トランプ米大統領のアジア歴訪の中で、中国との共存関係が目立った。そんな中で自衛隊の南西シフトは意味があるのか。沖縄は基地だらけだ。
 ?名護市長選、県知事選勝利へ。稲嶺市政は基地交付金を受けなくても、財政・基金を増やした。福祉や教育に力を入れて、市民から大きな支持を得ている。基地にノーをはっきりいっているからこその支持でもある。稲嶺市長にエールを。市長選に圧勝し、知事選のスタートにしたい。アベをやっつけよう!

首都圏各地と
沖縄を結んで
次に、地域からと課題から連帯発言が行われた。沖縄と東京北部を結ぶ集い実行委、沖縄の闘いと連帯する東京東部集会実行委、地域共闘交流会、辺野古に基地はいらない?三鷹、日野市の今と未来を考える会、島ぐるみ会議と神奈川を結ぶ会。各地での宣伝活動、集会・講演会そして沖縄現地への派遣活動など多彩な活動を報告した。
沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志、「BPOがMXテレビに今月中に意見書を出すので、MXテレビがどう対応するのか注視している。来年一月一一日、一周年行動を行う」。警視庁機動隊の沖縄への派遣中止を求める住民監査請求実行委、「東京都が裁判の打ち切りを求めたが、裁判長は実質審理に入る裁判日程を決めた。警視庁機動隊が沖縄で何をしたかを明らかにしていきたい」。
宮古島基地建設反対の訴え、「一〇月三〇日、住民にほとんど説明もないままに基地建設の工事を始めた。六〜八日で説得活動、県道でのアピール行動をやっている。孤立していないことを伝えよう。励ましあって共に闘おう」。一二月六日、高里さん講演会の紹介、シンガーソングライターの海勢頭豊さんが飛び入りで歌とジュゴン裁判について報告し、会場を大いに盛り上げた。最後に辺野古実が辺野古ツアーへの参加を訴えた。(M)

追悼 福富節男

しなやかに貫いた反権力の姿勢

自由を最高の価値として

思想に対する暴力と脅迫に
融和的であってはならない


戦争の時代を
生きぬいて
 ベトナムに平和を!市民連合や市民の意見30の会などで活動されていた数学者の福富節男さんが一二月一八日に亡くなられた。九八歳の高齢だった。
 福富節男さんは一九一九年一〇月三一日に、当時日本領だった「南樺太」(サハリン)で生まれた。第一高等学校受験のために初めて上京したのが、一九三六年二月二六日、つまり陸軍青年将校によるクーデターが勃発した日だったという。
 福富さんは、一高を経て東京帝大の数学科に入り「数学者」としての道を歩み始めた。太平洋戦争の中で、卒業間近に地元樺太の砲兵部隊に入営したが、数学科で学んだ経歴を評価され、米軍暗号を解読する任務にたずさわるためにフィリピンに派遣された。フィリピンでの戦争の激化の中で、福富さんは日本に戻る最後の飛行機に乗って、なんとか生き延びることができたという。

ベトナム反戦と
反権力の作法
戦後、東大に戻った福富さんは、その後日大で教員としての道を歩むことになった。しかし一九六〇年代のはじめ、日大の理事会が教員を増やさないままで応用数学科の増設を強行しようとしたことに一人で反対し、日大を追われて東京農工大に研究者・教育者として移ることになった。この時代、アメリカによるベトナム侵略戦争が激化する中で、学者・研究者の間でもベトナム戦争に反対する声が広がっていった。福富さんは「ベトナム問題に関わる数学者懇談会(ベト数懇)」を立ち上げるとともに小田実さんや吉川勇一さんらのベトナムに平和を!市民連合(べ平連)の活動を担うことになった。
福富さんの活動は、一九七〇年代になって、さらに三里塚闘争や天皇制反対の運動にも広がっていく。福富さんはべ平連の解散以後「市民の意見30の会」「市民意見広告運動」へと活動を継続し、自立した市民の運動としての筋を貫き続けた。その姿勢は、警察・権力との関係でも妙になれ合ったりしない、という形で示された。それはあくまでもデモを自立した人びとの意思の表現として捉えていくことへのこだわりでもあった。

パレードじゃ
ない!デモだ
福富さんはデモをパレードと言い換えることが嫌いだった。「わたしは観兵式、閲兵が第一義で大相撲優勝パレード、ミス東京パレードなどと使われるパレードより、証明、表示、実演を意味するデモンストレーションという言葉のほうが好きだ。警察官がデモを『示威行進』としたのが誤りで、『示意』なのだ」(福富節男『デモと自由と好奇心と』第三書館)。
この姿勢は、警察のデモ規制に対して、妥協することなく筋を通すこととしても示されていた。

三里塚闘争
をめぐって
三里塚闘争での、われわれに対する中核派によるテロに対して最も厳しい批判を貫いたのも福富さんだった。「思想に対する肉体的暴力と脅迫に対して宥和的であってはならぬというのは、半世紀前の世界の、日本の人民の歴史の教訓ではなかろうか。自分たちの見解だけが『正義』であり、『真理』であるとして、人民の上におおいかぶさろうとする幼稚な傲慢さを認めてたまるか。まず多くの声による包囲をうみ出すことが必要だと思う」(福富「思想に対する肉体的暴力と脅迫には、宥和的であってはならない」前掲書)。
福富さんは、『世界革命』や『かけはし』への文章や座談会の依頼についても快く引き受けてくださり、メッセージも書いていただいた。私が今、覚えているのは、一九九六年だったと思うが、当時七六歳か七七歳だった福富さんが「最後のデモ届け」と言って、代々木公園から出発する市民のデモ申請のために代々木警察署に行くとき、つきあってくれと私に声をかけたことだ。
デモ申請が終わった後、福富さんは、当時、港区三田から代々木署に近い渋谷区初台に引っ越したばかりの新時代社を見せてくれと私に頼んだ。そこで新時代社に案内したら、お茶を一杯飲んで、「どうもありがとう」と帰っていったことがある。あれはいったい何だったんだろう。多分、福富さんらしい好奇心からだと思う。

歴史観に磨き
をかけねば!
福富さんと最後にお会いしたのは、二〇一五年九月に日本教育会館で行われた故吉川勇一さんとの「お別れの会」の席上だった。その時、車いすに乗っていた福富さんは、言葉を出すこともかなり大変だったが、私があいさつした時、笑顔を返していただいたのを覚えている。
私が持っている福富さんの著書『デモと自由と好奇心と』は福富さんから献本として頂いたものだが、一九九一年一二月刊の同書には福富さんの筆跡で「柳条湖から六十年、盧溝橋から五四年、真珠湾から五十年」という添え書きがある。それからさらに二六年以上経った今、私たちはより切迫した歴史感覚を持って安倍政権に対峙しなければならない。
福富さん、本当にありがとうございました。(国富建治)

コラム

「恩返し」か「裏切り」か

 何年ぶりかでプロ野球の日本シリーズをテレビで観戦した。入院中で消灯時間を挟んでこの時間帯は、テレビを見て時間をつぶすしかないせいでもあった。圧巻だったのが、ソフトバンクが三連勝し、その後DeNAが二連勝した第六戦。もしこの試合でソフトバンクが負ければ、優勝確実と言われていたソフトバンク・ホークスも崖っぷちに立ち、勢いはDeNAに傾くだろうというのがスポーツ紙の評価であった。そしてその第六戦は九回一死までDeNAがリードし、横浜球場は興奮のるつぼと化していた。
 私が横浜ベイスターズのファンになった一九七〇年代後半は、DeNAでも横浜・ベイスターズでもなく、球団名は大洋ホエールズで、メイン球場も川崎にあった。この当時、大洋球団には秋山、土井バッテリーというレジェンドは存在してはいず、甲子園で活躍したシュートを武器とするカミソリ・平松投手が孤軍奮闘していた時代である。毎年九月の末から一〇月になると優勝と関係のない大洋のホーム試合はほとんど消化試合となり、JRや私鉄の川崎駅前の郵便局の窓口には、巨人―大洋戦以外のチケットが無料贈呈の札のもとに置かれていた。つまり球場までの往復二〇〇円のバスチケットを買うと試合はタダで見られたのである。無料であったが外野席はいつも二組か三組のアベックが座っている程度で、内野席もビールや酒のコップを持った観客がまばらに居るだけであった。それこそ雨でも降り出すと観客はゼロという惨状。鮮明に覚えているのは、売れ残っている弁当は試合が始まるとどれも一五〇円であった。私は必ず最後に弁当を買って帰った。
 その後、大洋は球場を横浜に移し、横浜ベイスターズとなり、スーパーカートリオやマシンガン打線などの個性派が登場し、ついに権藤監督のもとで大魔神・佐々木投手が活躍し、一九九八年にペナントレース・日本選手権を制した。この時が横浜ベイスターズの人気のピークであった。
 人気の下降が続く中、二〇一〇年には当時の主力選手であった内川聖一外野手がフリーエージェントでソフトバンクに転出し、二〇一一年には村田修一内野手が巨人に転出した。残った個性派は番長・三浦投手だけとなった。そして内川も村田も横浜を去る時、「優勝を争える球団で野球をやりたい」と言っていたのが印象に残っている。五月の連休まで首位争いをし、夏のオールスター戦以降は消化試合。これが例年のパターンであった。こうして人気を失った横浜ベイスターズは二〇一一年、DeNAに身売りしたのである。
 その内川が第六戦の九回一死に、ホームランで同点にし、延長一一回には四死球を選び逆転のランナーとしてホームベースを踏んだ。
 翌日、二〇〇七年に私鉄のバス運転手を定年退職し、九州の大分に帰った友人が見舞いに来た。「見たか、内川選手の恩返し」と私に言い放った。内川も大分出身であったので、おそらくは彼流の「照れ隠し」であったのであろう。彼とはかつて川崎球場に通い、ともに弁当を買った仲であった。九州に帰って一〇年、孫もソフトバンクファンであるというから、「横浜ファン」であった過去を捨てるのも当然か。
(12月10日)(武)



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