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    かけはし2018.年1月22日号

世界の憲法と地政学の散策 C


反独裁の不屈の闘いの中から

大韓民国の場合

たじま よしお

民衆が勝ち
とった成果
 
 世界保健機関による世界各国の自殺率の報告(二○一五年、一八三カ国対象)によると、韓国の自殺率は世界で四番目です。そして、国際連合の持続可能開発ソリューションネットワーク(データーはギャラップ社)による調査(二○一六年、一五七ヶ国対象)による世界幸福度指数は、韓国は五八位となっています。 こうした数字をみてどう感じるかは人それぞれだと思いますが、長年在日韓国・朝鮮の皆さんと交流してきた者として一つ感想を述べたいとおもいます。朝鮮半島の人々が秀吉の軍勢に蹂躙され、近代になっては日本帝国の植民地とされ、中国大陸の帝政とも闘いながら、そのどちらの政治・文化にも屈服することなく、独自の歴史を刻んできた不撓不屈の精神を、私はそれらの苦渋の滲む指数に感じるのです。 
 大韓民国憲法の第一共和国憲法から第六共和国憲法への革命的な変革は、折々に立ちはだかる独裁的政権に対して身を挺して闘う労働者、学生、市民らによって、その屋台骨を揺るがしてきました。そして、一昨年一一月のパク・クネを退陣に追いやったロウソク革命に日本から駆けつけた多くの仲間たちの胸には、それら共和国憲法の推移・革命性が教典として刻み込まれているのだと思います。

李承晩の第一
共和国憲法


 植民地支配からの解放後の朝鮮半島は南北がそれぞれ米軍・ソ連軍に占領されていたために、結局は国連主導の下、南側だけで総選挙が行われ、一九四八年五月三一日に初代国会が開催され、第一共和国憲法が制定されました。憲法草案の作成は、当時唯一の韓国人憲法学者であったとされるユジノの案を中心に進められたと言われています。
草案では当初、両院制議会、議院内閣制といった統治形態が考えられていたが、国会における審議の過程で最終的には、単院制議会、内閣制度を加味した大統領中心制へと変更されました。そして、違憲審査を行う憲法委員会制度、統制的要素をもった経済体制などの内容の憲法となっていました。
一九五四年に現職大統領の三選禁止を解除する附則の追加、国務総理の廃止を含む改正(第二次改正)が行われましたが、これらはいずれもおもに李承晩政権の続行のための改正であり、手続的にも問題の多いものでした。こうした体制への不満は次第に膨らみ、一九六○年、不正選挙に対する学生らの反対デモに抗し切れず、李承晩は退陣に追い込まれました(四・一九革命)。

4・19革命と
第二共和国


四・一九革命後、主席国務委員許政(ホジョン)を首班とする過渡政府がつくられました。国会では六月に憲法改正が決議され(第三次改正)、ここに第二共和国憲法が成立し、戦後の韓国憲法史上唯一、議院内閣制となったのです。そしてドイツに類似した憲法裁判所の設置や基本権保障の強化など、李承晩政権下での政治的腐敗を一掃するための大規模な体制変更を意図したものでした。
八月にはこの憲法の下で張勉(チャンミョン)を国務総理とする内閣が誕生し、議会の両院制も名実ともに整いました。また、同年一一月には、それまでの不正政治の清算として、反民主的行為処罰のための遡及立法を可能にするための憲法改正も行われました(第四次改正)。しかし、民主化を目指した第二共和国は、経済的には戦後最悪といわれる状態にあり、新たな国家建設は進展しませんでした。

朴独裁の下で
の第三共和国


一九六一年には、混乱した国内状況と、朝鮮半島統一問題において韓国が守勢に置かれていることを危惧した朴正煕ら少壮軍人が、革命六公約を掲げ、軍事政府を樹立し、ここに韓国の軍事政権が始まることとなったのです。軍事政府は、国家再建非常措置法を制定、交付し、基本権を制限するとともに、国家権力を国家再建最高会議に統合し、憲法裁判所の機能を停止するなど、非常事態の名の下に第二共和国憲法の効力を制限したのです。
そして、革命公約に基づいて、政権移譲するために新憲法も準備し、一九六二年、最高会議議院および民間人学者、専門家からなる憲法審議委員会で作成された要綱を最高会議で議決し、国民投票を経て確定しました(第五次改正)。
これが第三共和国憲法です。再び大統領中心制となったのと、単院制議会、法院による違憲審査権の行使、経済・科学審議会議と国家安全保障会議の設置などが新憲法の特色でした。この憲法の下で朴正煕は大統領に選出され、その後一九六九年には、大統領の三期継続在任を認める第六次改正が行われました。

維新憲法と
独裁権限強化


朴正煕体制の下一九七二年七月四日、南北共同声明が発表され、朝鮮半島の自主的平和的統一の実現に向けて南北調節委員会が作られることになりました。この南北の接触は、それぞれの体制の強化につながる側面をもつことになりました。
一○月一七日、朴正煕大統領は、南北対話の積極的な展開と周辺情勢の急変する事態に対処する体制改革の必要性を理由にして、二カ月間憲法の一部の条項の効力を停止する非常戒厳を宣布して、国会を解散し、政党および政治活動を禁止し、平和統一を指向する憲法改正の公示を宣言しました。この改正案は、非常国務会議で議決、国民投票を経て確定されました(第七次改正)。
これが第四共和国憲法、いわゆる「維新憲法」です。大統領権限が強化され、内政においては反体制的言論に対処するため緊急措置や非常戒厳が頻繁に出され、社会は混乱し、一九七九年一○月二六日朴正煕は暗殺されました。そして、統一主体国民会議の大統領補選によって崔圭夏が大統領となったのです。

全斗煥独裁の
第五共和国


崔圭夏は大統領就任とともに改憲の意向を示し、意見の統一の調整にてまどりましたが、憲法改正の機運は高まり、改正作業はすすめられました。しかし、一方で、軍内部で全斗煥ら新たな勢力が実権を握り、社会では学生の民主化デモが激化して、大統領はついに軍の要求にもとづき戒厳令を宣布するにいたりました。一九八○年五月一八日には軍が学生による大規模なデモを鎮圧しようとして流血事件となり(光州事件)、憲政は中断される事態となりました。
五月三一日、非常戒厳下の戒厳業務のために国家保衛非常対策委員会の設置が定められ、八月一六日には崔圭夏大統領が辞任、統一主体国民会議は後任として全斗煥を選出しました。他方、一九八○年三月に作られた憲法改正審議委員会では、国会案や各界各種の案を参照して要綱が作成され、国務会議で議決されたのち、一○月に国民投票を経て確定されました(第八次改正)。
この憲法は維新憲法と比べ、大統領権限は制限され、大統領選挙は選挙人団による間接選挙で七年の単任制とされました。また基本権に対する法律の留保がなくなり、プライバシーの保護、環境権、幸福追求権などの新しい基本権条項が盛り込まれました。

民主化進めた
第六共和国


第五共和国時代には、大統領の間接選挙制が改憲論議の中心になっていました。この議論は全斗煥政権のそもそもの正当性の問題と深く関わっていて、国民全体を巻き込んだ民主化要求に発展していったのです。一九八七年、全斗煥の後任に指名された盧泰愚は、ついに国民の要求を入れて、大統領直接選挙制を含む多方面の民主化を示し、第九次改正案は民主正義党と統一民主党の両案を摺り合わせてつくられ、与野党合意のもとで決議され、国民投票を経て確定しました。
これが第六共和国憲法で、大統領については直選制のほか、五年単位制とし、国会解散権を削除するなど、その権限を制限するとともに、国会権限を相対的に強化しました。また第二共和国で規定されながら日の目を見なかった憲法裁判所が復活し、韓国は民主化の時代を迎えることになりました。(世界憲法集 大韓民国編 国分典子解説文を参照)

12.29〜1.4

山谷越年越冬闘争

仲間たちにふりかかる
様々な課題に取り組む


1週間にわたる
闘いのスタート
 一二月二九日から、一月四日の早朝まで、今年も山谷越年越冬闘争が行われた。
 事前に三回の実行委員会が行われ、日雇労働・白手帳の問題、オリンピックに伴う再開発と排除の問題、生活保護の問題、施設の問題、などのテーマに取り組む越年にしていこうと話し合った。
 一二月二九日正午に山谷労働者福祉会館に集合した仲間たちは、城北労働福祉センター前へと物資を運び込み、テントの設営に入る。三時すぎより夕食の準備を行い、センター前の路上を拠点として約一週間の越年闘争が始まった。

多くの仲間たち
に支えられて
食材はすべてカンパで戴いたもの、野菜は三里塚などから、モツなど肉は芝浦と横浜の屠場労組からのカンパ、魚は水産加工会社の方が同業者に声をかけて集めてくれたもの。
これらを使って朝晩の食事を作り、餅つきではモツ煮を作ってモツ雑煮にする。かまどで炊くメシと汁物はかなりおいしいと評判だ。
夕食後には各地へパトロールが行われ、寝場所のない仲間がセンター前へと集い、一月一日は隅田川、二日には上野公園で餅つきが行われ、多くの仲間が集まった。大晦日にはセンター前で恒例の「さすらい姉妹」のお芝居、その後には年越しそば。その後、今年も山本太郎参議院議員が雨宮処凛さんと共に参加してくれ、布団敷きなどを手伝ってくれた。

越年には多くの
仲間が合流した
今年は東京都の越年期の山谷対策では、メインの宿泊施設の宿泊のなぎさ寮がなくなり、さざなみ苑、銀扇閣、やまて寮、そして山谷のドヤのみで対応した。利用者の減少によるものだが、それでもセンター前での越年には多くの労働者が合流し、飯場などでの賃金不払いの実態など様々な経験をつたえてくれた。
野宿の仲間、ドヤに住む仲間、各地から支援に参加してくれた人々、多くの仲間と共に汗を流した一週間の闘いもあっという間に終わり、一月四日の早朝にはセンター前のかたずけを行い撤収を完了した。
その後、台東区福祉事務所に生活保護の集団申請を行った。(板)

宮古島、陸自ミサイル部隊新基
地建設工事の開始を許さない

住民たちが下地宮古島市長に要請

 11月10日、ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会は陸自新基地建設工事の開始に抗議すると共に、下地宮古島市長へ「沖縄防衛局に対し工事の中止を求めるよう」要請、1〜3についての市長の回答と面談を求めました。

2017年11月10日

宮古島市長下地敏彦様

ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会(五十音順)

てぃだぬふぁ島の子の平和な未来をつくる会 共同代表 石嶺香織 楚南有香子
平和を祈る宮古キリスト者の会 共同代表 尾毛佳靖子 瑞慶山道弘
みやこ九条の会 共同代表 仲宗根将二 下地 学 長浜幸男 尾毛佳靖子
宮古島・命の水・自衛隊配備を考える会 代表 岸本邦弘
宮古島ピースアクション実行委員会 代表 清水早子
市議有志 上里 樹 友利光徳
野原住民有志 仲里盛繁
個人有志

沖縄防衛局へ陸自ミサイル基地建設工事の中止を求める要請

旧千代田カントリークラブにおいて陸上自衛隊のミサイル新基地建設の工事が10月30日から始められたことに対して強く抗議するとともに、宮古島市長に対し、沖縄防衛局へ工事の中止を求めるように要請する。
また、以下についての市長の回答と面談を求める。

1.市長の受入判断はまだ示されていない
市長はこれまで「配置計画が関係法令等と照らして適合しているかどうか見た上で判断する」と言ってきた。判断の時期については「具体的な配備計画にもとづく個々の施設等が提示されてから」と6月定例会で答弁している。配備計画が市民に示されないままに工事が始められているが、市長は受入判断をしたのか。したのであれば受入判断の根拠は何か。
2.防衛省による市への具体的な配備計画の提示はなく、市民に対する説明がまだ行われていない
市長は6月定例会で「正式に施設建設等にかかる書類が提出された時に、市民への説明をするよう申し入れをしております。」と答弁しているが、工事が始まっているのにも関わらず、防衛省による市民への説明はいまだにない。説明がないままの工事の中止を求める。
3.地下水審議会や環境アセスメントなど、環境に対する影響の調査が全くされていない
沖縄県は沖縄防衛局に対して自主的な環境アセスメントの実施を求めたが、防衛局から実施するという回答はなかった。また、地下水審議会の委員3名が、大規模な基地建設による地下水への影響を危惧し、施設の詳細な全体図の提示及び環境アセスメントを実施し、その結果に基づいて審議会を開催することを要請したが、市は審議会を開催しなかった。市長は、どのようにして自然環境と地下水の安全を守るのか。
以 上


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