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    かけはし2018年2月5日号

加熱したインド亜大陸に吹く涼風の流れ


ネパール

議会選で共産主義者が地すべり的勝利

深刻な貧困に苦しむ国の一つで
草の根の支持テコに新たな闘い

ファルーク・タリク

 二〇一七年一一月二六日と一二月七日の二回で行われたネパール民主共和国連邦議会選で、共産主義者が地滑り的な勝利を収めた。定数二七五に対し、選挙は、一六五議席は小選挙区制で、残り一一〇議席は比例代表制で行われた。ファルーク・タリクが、選挙結果公表後、二〇一七年一二月一三日から一七日にかけ四日間ネパールを訪れ、以下を伝える。

新選挙制度が
会議派を圧迫


 ネパール共産党(統一マルクス・レーニン主義、UML)は小選挙区で八〇議席を獲得、他方彼らの左翼戦線の相方であるCPN(毛沢東主義センター)は三六議席を獲得した。政権党であったネパール会議派(NC)は二三議席しか獲得できなかった。共産主義者は、合計で一六五議席中一一六議席を得た。ネパール南部のマドヘスを基盤とする二つの政党、ラストリア・ジャナタ党―ネパール(RJPN)とサンギヤ・サマジュバディ・フォーラム(SSF)は、協力して二一議席を確保した。そして他の小政党が残り五議席を得た。
 比例部分では、UMLの得票率は三三・二五%、他方会議派が三二・七八%で二番手に着けた。CPNは一三・六六%となった。
 議会定数二七五中、全体では、左翼連合が一七四議席を確保、(CPN―UMLが一二一、諸毛派が五三)、NCが六三議席、RJPNが一七議席、そしてSSFが一六議席となった。
 共産主義者が統一し、UMLに有利な形で六対四方式の下に共同候補者リストを形成する中、会議派は小選挙区制で勝ち目のない結末を迎えた。それは主に、新しい二〇一五年憲法の下での、一対一レースだったのだ。この憲法は、過去の議員の行動とは異なる、共産主義派を利する形の違いを作っていた。その過去では、二〇〇八年と二〇一三年の選挙において、主要三政党が互いに競争していた。
 新たに制定された七州でもまた、UMLの大勝が見られた。七州中六州がUMLにより勝ち取られ、新州政権の形成プロセスが進行中だ。
 ネパールの主な二政党、UMLとCPNは選挙に先立ち、連合を形成するだけではなく、六ヵ月以内に統一した共産党形成のために合同することも決定していた。これが一つの選挙連合だけではなく統一への拘束力ある取り決めへと二つの政党を向かわせているがゆえに、この決定は人びとから非常な十分さをもって承認された。
 共産主義者によるこの歴史的な勝利の後、カトマンズの街頭では祝勝行動が諸々起きた。これは、南アジアのもっとも貧困に打ちのめされている国であるネパールで、共産主義者がほぼ三分の二の多数を確保する初めてのことだった。UMLとCPNは、一九九四年以後数回権力の内部にいたことがあったが、それは常に短期のことであり、連立の一部として、であった。安定した強力な政府に向けたUMLの訴えは、対立するイデオロギーを抱える弱体な連立政権に疲れを覚えていたネパールの民衆内部に、極めて大きな効き目をもたらした。ネパール会議派もまた、彼らの親インド政党という印象の点で一つの教訓を教えられた。

インドの経済
封鎖は逆効果


 二〇一五年九月のインドによる経済封鎖は、ネパールの大衆からは極めてよく思い出された。彼らは、インドからの供給がほとんど止められた後、乗り物のための石油をもってくるために、何キロメートルもの列を作らなければならなかったのだ。
 これは、マドヘスのコミュニティが憲法上の諸権利という問題に関し抗議に立ち上がった後に起きた。マドヘスのコミュニティは、主にネパールのテライ地域にあり、最初のネパール憲法内に得ていた諸権利に不満を覚えていた。封鎖は、石油だけではなく、医薬品や地震の救援物資の輸入までをも締め付けた。マドヘス諸政党の統一戦線は一つの州、ならびに現在の選挙期間中に全投票の約一〇%しか獲得できなかった。
 ネパール会議派指導者は、選挙キャンペーンの中で、左翼連合の勝利は権力をもつ全体主義体制をもたらすだろう、世界の一党体制と年を経た共産主義は悲惨な形で破綻を遂げた、と語った。しかしこれらの議論は、全体としての公衆の心を動かすことはできなかった。この三〇年間、CPN―UMLは自らをある種の民主的勢力へと変えてきていたのだ。有権者は、その勝利は共産主義者による一党支配に導くだろう、とは説き伏せられなかった。UMLを名付け得るとすればせいぜい、左翼社会民主主義者となるだろう。彼らは、その規約の中で多党システムに適応した。

新憲法下で女性
の挑戦と新議会


 議会と国家評議会に対する第一回選挙には、七五の地区の内三二の地区で総計で四一人の女性候補者が挑戦した。それらの中の一八人の女性が議会に、残りは国家評議会に挑戦している。制限のない議席争いである小選挙区での女性の当選者は五人だけだった。
 ネパール憲法は、議会への女性の代表比率を最低三三%と定め、それは定数二七五の議会では九一人の女性を意味している。五人しか当選していない中で、残りの八六人は、憲法にかなう形で総選挙を有効とするために、比例制を通して選出されると思われる。

UMLを第一党
に導いた指導部


 UMLは、一三歳で共産主義運動に加わったKP・シャルマ・オリに率いられている。「ベンガルのナクサルバリ貧農運動の父」として知られたインドの共産主義指導者であるチャル・マジュムダルに鼓舞され、彼は一九七〇年から一九八四年までの連続一四年間を牢獄で過ごした。彼は一九九一年に初めて、次いで一九九四年と同九九年に議員に選出された。彼は二〇〇八年総選挙では毛派に敗北したが、同一三年と一七年には楽勝を果たした。そして過去二一年の中で重要な省庁の職に就き、二〇一五年一〇月からはネパール首相でもあった。
 彼は、会議派と連携するために毛派が左翼連合政府を捨てた後、二〇一六年八月に辞任した。そしてプラチャンダとして知られる毛派の指導者、プシュパ・カマル・ダルが首相に選出された。しかしながらプラチャンダは今回の選挙前に、左翼連合形成を選択し、小選挙区で三六議席、比例で約一三%を得た。

共産主義者の
略史について

 ネパールの共産主義者は伝統的な共産主義者ではない。CPN・UMLは、ソ連邦崩壊の否定的な作用を実感する中、ネパール共産党(マルクス主義)とネパール共産党(マルクスレーニン主義)の統一を通して、一九九一年に形成された。この党は、今回の地滑り的勝利の前に、四つの政府を率いてきた。UMLは、反社会主義の大々的な宣伝が行われていた一九九四年に、九ヵ月間という短期だが、選挙を通じて初めて権力を引き受けた時、国際的に多くの人を驚かせた。多くはこの勝利を、「国王の下で共産主義者が統治にあたっている」として無視した。 右翼台頭というこの現代、ネパールが、さまざまな色合いの共産主義政党が国の有権者多数の積み重なる支持を誇っている、相当な規模をもつ国である――たとえそれが残っているただ一つの国であるとしても――ことを知るのは、喜ばしいことだ。
しかしこれは、CPN・UMLとCPNの場合、たまたまの地滑り的勝利ではない。彼らが労働者階級の大衆的支持を確保し、維持し、打ち固め、奮い起こすことができたということには、この地域における他の共産主義政党とは異なる、ネパール人との接触に基づく何年もの懸命な奮闘を要した。インドで一九四九年に形成された共産党ネパールは、国外の亡命政党であることから、ネパールのあらゆる部分に相当な存在感をもつ政党へと、発展の局面をさまざまに通過してきた。それはその隊列内部での分裂を何十も経験してきた。そして共産主義運動内部のさまざまな国際潮流と連携してきた。しかしながら、共産主義者を自認しているさまざまな分派とグループ内部での統一に対する衝動は、常に彼らの戦略の中心にあった。
毛沢東主義から左翼社会民主主義イデオロギーまで、武装闘争から議会主義まで、戦争から和平まで、さまざまな形態をとるネパールの共産主義者は、変わることなく共産主義者として認められてきた。共産主義者としてのこのアイデンティティは、彼らの隊列内部では極めて強力であり、十分な根拠に基づいている。この用語は、彼らには否定的な作用をまったくもたらさなかった。それは常に票を獲得する用語だったのだ。
UMLとCPNの先人たちは、もっとも困難な環境の中で生き、切り抜けること、そして彼らへの支持をそのまま保つことを常に学んできた。一九六〇年代―一九八〇年代 、全政党が禁止される中で、彼らは何とか王命に合わせて仕事をすることができた。彼らは、議会への代わりとして設立されたパンチャヤッツ(注)を通して活動し、彼らの考えを広めようと挑んだ。彼らの主な内部論争は、大衆内部での彼ら自身の名称に対する知名度をいかに高めるか、だった。
王制と議会制の間の、また主要なブルジョア政党間の一〇年の長さをもった漂流は、共産主義者のさまざまな再編によって彼らに利をもたらす形で、極めて巧みに操縦された。彼らは一つに味方し、他に反対した。しかしながら彼らのほとんどは、牢に入ることをいとわなかった。そして多くが何年もを獄中で費やした。

毛沢東主義諸派
分裂と新たな道


毛沢東主義の諸派は、一九九六年から二〇〇六年までの一〇年間の武装闘争期間中、政府や国王と交渉しつつ、警察や公共の建物や個人に対する武装攻撃の組み合わせを使った。交渉拒絶ということは彼らの戦略の辞書には書かれていなかった。常に危機からの出口を見つける準備ができていたUML指導部がそうだった。
二〇〇八年議会選後に勝利を収めたのは、国王の執政を廃絶するという毛沢東派の決意だった。その時の選挙で毛沢東派は驚くことに、会議派に続く第二の政党として現れた。これは、大衆運動と選挙という組になった戦略を通して国王を取り除いた、ネパールにとっての偉大な勝利だった。
国王の執政を廃絶した後、主要な挑戦課題は、どれほど小さかろうと全コミュニティの基本的権利すべてを保証できると思われる、新憲法を起草することだった。この挑戦課題を満たすために、何年もの交渉が求められ、さまざまな政権が犠牲に供された。
二〇〇八年―二〇一三年の野党や共産主義者の仲間を同伴した諸連合政権を通して権力にあった時期にも、毛沢東派の分裂は続いた。彼らは「革命」の道をめぐって鋭く分裂していた。一つの分派は二〇一三年の選挙のボイコットを主唱したが、それは悲惨な破綻に終わった戦略だった。しかしながらその打撃は、大衆的支持の重要な部分をUMLに奪われ、以前彼らが確保していた第二党の位置から第三党として現れる形で具体化した。
プラチャンダのカリスマ的指導部の下にあった毛沢東派諸派は、連合や連携形成の分野ではさまざまな突然のUターンを行った。しかしながらCPNによるもっとも賢明な時を得た動きは、二〇一七年選挙に先立ってUMLとの選挙連合を作り、二つの政党の合同プロセスを始めると決定したことだった。この動きが行われなかったとすれば、彼らは今回の選挙でひどい敗北を喫していたと思われる。現在の選挙制度の中での三方向レースという政治シナリオは、会議派に利をもたらし、こうしておそらくは別の型の連携を基礎とした、もう一つの不安定な政権を有力にしたと思われる。

ボイコット克服
新憲法制定実現

 二〇一五年には、九〇%の議会支持に基づき憲法の受け入れが実現した。マドヘスの諸政党による一年間続いたボイコット、およびネパールに対するインドによる経済封鎖に対する闘いは、ネパールの圧倒的多数により良好に展開された。彼らは、ボイコットを主唱した人びとと合意する形で一定の憲法修正を行うことで、マドヘスの諸政党を主流政治に引き戻すことに成功した。

いま真の挑戦が
始まっている


共産主義者連合の地滑り的勝利は南アジア地域における建設的な発展だ。それは、インド亜大陸という加熱した地域に吹いた、さわやかな涼風の流れのように見える。今や真の挑戦が始まっている。圧倒的勝利は巨大な期待を諸々高めることになった。改良が日程に上っている。しかし、資本主義下での改良は、永続的な性格を決してもち得ない。長期に続く資本主義の道は、動揺への、また共産主義イデオロギーに対する大衆的支持を失う道だ。彼らは議会の道の上で、資本主義と封建社会の残存要素の廃絶に進まなければならない。彼らは、そうしたいと思う場合に、それを最良の形でいかに行うかを知っている。(二〇一七年一二月二三日)

▼筆者は、アワミ労働者党の元書記長、現在は同党の全国スポークスパーソン。
(注)パンチャヤッツは、たとえばインドで村や町のレベルで利用された地方組織のシステム。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年一月号)



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