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    かけはし2018年3月5日号

世界の憲法と地政学の散策 D


「大国ロシア」との緊張と共存

フィンランドの場合

たじま よしお


 フィンランドは世界で最初(一九○七年)に、女性が選挙権・被選挙権を獲得し、この年の選挙で世界初の女性の議員が選ばれています。そして議員総数の三分の一を女性の議員が占めています。選挙権年齢は一九七二年に二〇歳から一八歳に引き下げられ、一九七六年には被選挙権を一八歳まで引き下げています。このような社会はどのようにして形成されてきたのでしょうか。

フィンランド
の歴史を読む
フィンランドには、旧石器時代から人が居住し、やがて、南には農業や航海を生業とするフイン人が居住し、北方にはトナカイの放牧をするサーミ人が生活を営むようになりました。フィンランドは、西にボスニア湾を挟んでスウェーデンと、東に南北に伸びた国境線の向こうには広大なロシアの平原が広がっています。フィンランドは、その両国との綱引きに翻弄されながらも、独立をかちとってきた歴史を有しています。
一一五五年にスウェーデン王エーリク九世が、北方十字軍の名のもとフィンランドを征服しますが(その後、一六八年もかかって)一三二三年になってようやく支配が完了したのでした。従ってフィンランドの政体(組織形態)法はスウェーデンの政体法と同じでした。その後、一七二一年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲されます。さらには一八○九年には現フィンランド領土は、全面的にロシアへ割譲されたのです。しかし、ロシア帝国のアレクサンドル一世は、それまでのフィンランドの政体法を維持したままの編入で好しとすることを、認めたのでした。
このあたりに、フィンランドの歴史の特殊性があるのではないかと思われます。その後、ロシア帝国からロシア語が強制されるなどして、フィンランド人の不満はたかまり、やがて自治権を獲得してゆき一九一七年のロシア革命の情勢に乗じて独立宣言し、一九一九年にフィンランド共和国憲法を制定したのでした。

大統領の役割
そして「権限」
フィンランドの政治 選挙制度は比例代表制の一院制で、議員定数は二○○人です。前回の国政選挙では投票率六七・九%で、フィンランド中央党が第一党ですが二三・一%を獲得し五一議席となっています。第二党は国民連合党、五○議席、第三党はフィンランド社会民主党で四五議席ですが、大統領はこの第三党が擁立したタルヤ・ハロネンさんが務めております。なお、有権者が二万人の署名を添えれば、市民独自の大統領の候補者を立てることができます。
大統領は、議会での決定事項を拒否する権限がありますが、議会はその大統領の決定を覆すこともできます。一九八九年に欧州評議会加盟以後、大統領の権限は徐々に首相へと移され象徴的な存在となっています。しかし、首相あるいは与党と野党の対立が激しくなり、首相が議会解散を意図した場合、首相はその解散の理由を大統領に報告し、大統領は議会の意見をよく聞いた上で解散の可否を決定するのです。
国民の直接選挙で選ばれた学識経験豊かな大統領に決定がゆだねられます。しかしどんなに立派な人でも、一度権力を手にすれば、自分や身内の利益のために濫用したくなる誘惑に駆られるのが世の常ですから、極力権限はせばめておく。また、なにか不測の事態が生じて議会では収拾できないようなことになった時には、以前のように大統領に権限をもたせて収束させる、担保みたいな存在なのでしょうか。

労働組合への
「強制加入」
労使関係についてはネオ・コーポラティズムが採用されています。この制度では、労働者は強制的に労働組合に加入させられ、その代わり政府が社会保障政策を充実させることと引き換えに、労働組合が賃上げ要求を抑制するというものです。それと同時に、労働組合の交渉力が経営者にとって無視しがたいほど強力で、労働組合の経営参加が制度的に保障されるため、企業経営やマクロ経済を圧迫するほどの賃上げ要求を控えるようになる、ということです。国際連合の幸福度調査によると(二○一六年)世界第四位となっていますから、ネオ・コーポラティズムは労働者の幸せのために作用しているのかもしれません。
失業率は一九九四年には一六・六%でしたが、年々改善されて二○一二年には七・七%となっています。一方で、ロシアやバルト三国から流入する女性労働者も増えて、特に売春などの性産業に従事する女性の存在も問題となっているようです。

義務教育にも
「留年制度」
フィンランドの学校は週休二日制であり、教師は大学院卒が基本となっています。授業時間も日本よりかなり少なく、また「総合的な学習」に相当する時間は日本より多い。近年、日本で批判されている「ゆとり教育」に一見似ていますが、家庭学習を重視し宿題が比較的多く、成績別教育により成績下位者への支援態勢が特に手厚くなっています。
制度的にも教育内容や教授方法への教育行政の指示が少なく、分権化が進んでいること、義務教育にも留年制度があること、小学校から大学まで多くの学校で学費が無料であることなどの違いがある。大学はすべて国立で無料であり、受験戦争はフランスや日本ほど厳しくはありませんが、フィンランドの教育水準は世界トップで、生徒は競争による相対評価ではなく、達成度によって評価されるといわれています。
ただし、これは学力の違いを無視した平等教育ではなく、実際には高校入学は中学の成績に基づいて振り分けが行われているのです。また、中学校の教育に特筆されるのは三分の一の(成績の低い)生徒が特別学級に振り分けられるか、補習授業を受けていることです。このように学力による差別化および、低学力の生徒に対する個別の教育により落ちこぼれを学校ぐるみで防ぐ制度がフィンランドの教育の特徴であるということです。
フィンランドには義務教育にも留年があるといいます。「留年」というのは日本で言うなら「落第」ということで、屈辱以外のなにものでもありません。しかし留年も個々の生徒の選択肢の一つであり、個性であるというふうに家族も社会全体も受け止めてくれるなら、こんな楽しい学校生活はないと思います。
私は幼い頃から絵を描くのが好きで、気が付いたら絵描きになっていました。音楽はあまり好きではなく成績も良くありませんでした。しかし、ラップやレゲエそれにポップミュージックやジャズが好きで演歌・歌謡曲などを聞くということはありません。
もうすぐ八〇歳になるというのに、「もしかしたら自分には音楽の才能があり新しいジャンルを切り開いていたかも知れない」それなのに「この子は絵を描くのが好きなんだから、音楽に興味がないのは仕方ない」というふうに片付けられてしまったのではないか。なにも英才教育を望むわけではありませんが、「仕方ない」と片付けるのではなく、一定の水準までまわりが総力をあげて引き上げてくれたら選択肢はぐんと増えて、進むべき道が見えてくるのです。
学校生活は個々の人生を決めるさまざまな分岐点・選択肢をつくってくれるかけがえのない存在です。出来る子、出来ない子を振り分けることについても振り分けられた子が、そこを快適な居場所として受け止められることが大切です。日本のように差別意識が貫徹した社会では、とても受け入れがたい制度であるとおもいます。その差別意識の根底には天皇制が横たわっていると思いますが、別の項で触れることにします。フィンランドのことについて、できればそこで永年生活してきた人のお話を聞いたりして、もっともっと学習したいと思います。

書評

茶谷誠一 NHK出版 1600円+税

『象徴天皇制の成立』

昭和天皇と宮中の「葛藤」

「立憲君主制」とは言えぬ
戦後憲法の「象徴天皇制」

 
形成と変化
のプロセス
 二〇一六年八月のビデオメッセージを通した天皇明仁の強い意志による「生前退位」の実現は、あらためて戦後の象徴天皇制について、どのように規定すべきかという問題を私たちに提示している。
 もちろん天皇が個人の意思で政治を動かしたのは戦後にあっても、これが初めてではない。戦後憲法の下で「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第4条)とされた昭和天皇裕仁は、「沖縄メッセージ」(1947年)などの意思表示において、きわめて重要な政治的役割を果たした。これらの事実に関し、私たちは主に豊下楢彦の『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』(岩波新書、1996年)や『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008年)によって、知ることとなった。
 そして最初に書いた「第二の玉音放送」というべき「生前退位」メッセージと、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の成立である。昭和天皇に比べて「新憲法」の下での「象徴天皇」の役割を果たすことに忠実であると考えられてきた明仁が、自らの意思を新しい法律にまで実現(しかも共産党までふくんだ事実上の全会一致によって)していったことは、私たちにとっても衝撃であった。
 戦後の象徴天皇制がどのような国際的・国内的政治の枠組みにおいて形成され、変容してきたのか、戦後の裕仁天皇と明仁天皇の下で、それがどのように変わり、新しい「代替わり」と「特例法」体制の下で、またどのような展開をみせようとしているのか。こうしたことを考える上で読んでいただきたいのがここで取り上げる茶谷誠一著「象徴天皇制の成立―昭和天皇と宮中の『葛藤』」(NHK出版)である。
 
余りにも甘すぎ
る「平成」評価
 著者の茶谷は一九七一年生まれの比較的「若手」の研究者で『昭和戦前期の宮中勢力と政治』、『昭和天皇側近たちの戦争』、『牧野伸顕』(以上、いずれも吉川弘文館)、『宮中から見た日本近代史』(ちくま新書)などの著書がある。あらかじめ言っておくと、本書は、米軍占領期から、戦犯法廷、新憲法とサンフランシスコ講和条約・日米安保条約(第一次)に至るまでの米占領軍と日本政府、そして昭和天皇を中心にした宮中勢力、そして占領軍自身のマッカーサー司令部とGS(民政局)という三者ないし四者のせめぎあいを軸に、戦後の天皇制が、「象徴天皇制」としてどのように形成され、変容しながら展開していったのか、という過程をきわめて詳細に描き出している。そして、このせめぎあいを通じて戦後憲法の下での「象徴天皇制」の機能が具体化していくプロセスが丁寧な資料の解読を通じて読み取ることができる。
したがって「昭和天皇」と「平成天皇」との間での「象徴」機能の変化などについては、直接に踏み込んでいるわけではない。なお著者は「国民主権」を明記した戦後の日本国憲法は国家形態的に言えば「共和制」国家に属すると分類している。憲法学者の榎原猛の説を支持する著者は、日本国憲法は「国民主権」を明記している点で国制上は「共和制国家」であり、その上で「象徴」としての天皇が国政上の権限を有していないという点で、「象徴君主保持国会制的間接民主国」という規定をしている。この点は、国王が国政に関して聞く権利を有するイギリスなどの「立憲君主制」ではない、というのが著者の規定である。
しかし昭和天皇はこうした「立憲君主制」ではない日本国憲法での「象徴規定」について最後まで理解することはなかったし、歴代自民党政権も「象徴天皇制についてイギリス流立憲君主制を含む広義の『議会主義的君主制』と解釈し、天皇を『国家元首』として位置づけ、政治外交問題の内奏も継続されていく」と述べる。
一方、現在の天皇についてはどうか。茶谷の立場は「『君主制の社会的機能』を代表する皇室の慈恵主義において、昭和天皇時代には戦前からの伝統の継続として『上からの仁慈の施し』という側面が強いのに対し、明仁天皇の平成流では、『国民』とのより『対等』な視線での思いやりの施しという面がにじみでてくるようになる」との積極評価になる。
こうした本書の「平成天皇制」評価については、同意できないが、戦後天皇制の在り方の歴史的変遷と今後について論議する上で、役に立つ著作であることは確かだ。   (国富建治)
(この書評原稿は、昨年「反天皇制運動Alert」に掲載したものの再録です)

コラム

「核抜き、本土並み」

 一月下旬、高校時代の同級生が「昨日、小笠原の父島から帰って来た」と言って珍味・海亀の肉をお土産に訪ねて来てくれた。彼は長い間、石油会社に勤めていたが、退職後、再就職先として再び石油会社に勤務した。しかも後輩が上司である島嶼部。
 仕事の内容は東京支社が管理する範囲が仕事エリアで、ほとんどは伊豆諸島とのこと。多くのタンカーは、島嶼に石油などを運ぶ際、直接岸壁に船体を横付けせず、港の外に設置されているシーバス埠頭から貯蓄タンクと結ばれている配管を通して石油を送る。危険を避けるためだそうだ。この配管が油のカスで詰まっていないか、メーターが正しく作動しているかを点検するのが仕事らしい。異常が発見されると支社に連絡し、技術者を呼ぶのだという。
 そのため彼は毎月のように伊豆諸島のどこかの島に出かける。そのせいかお土産は決まって「くさや」。海亀の肉ははじめて。彼は酒を飲むと必ず愚痴ることは彼のキャリアの中に瀬戸内海や沖縄の石垣、宮古島などの先島諸島がなく、長崎や鹿児島が二回もあり、五島列島や奄美大島には数えきれない程通ったという話に行き着く。
 その彼が、今回持って来た本は南山大学の真崎翔氏が書いた『核密約から沖縄問題へ』というタイトル。副題は「小笠原返還の政治史」となっている(名古屋大学出版会刊)。内容を尋ねると「返還前の小笠原の父島と硫黄島には核が配備されており、旧ソ連に日本と沖縄が攻撃された場合、それに対する出撃拠点としての米軍基地を残し、形だけ自衛隊基地を置き、表面的に小笠原諸島は日本に復帰し、戦後の占領時代は終ったと印象付けるためであり、その密約は四年後に進められた沖縄返還のための予行演習、実験であったのではないか。読む限り、小笠原での密約は『沖縄返還』に踏襲された」。
 「硫黄島には返還後も“核”は存在し続けたため、旧島民の帰還も許されず、遺骨収集作業も遅らされた。それが『核抜き』の実態だ」。「沖縄の辺野古新基地に反対する人たちは、是非この本を読むべき。辺野古新基地はベトナム戦争後、残っている弾薬と化学兵器を使うための基地建設ではないか。是非一読すべきだ。また、小笠原にも一度は行くべきだ。沖縄と同じ様な気候で、かつ本土にはない雰囲気がある。海を見ながら一杯やり、一眠りすれば小笠原に着く。たった二四時間の旅行だ」。
(武)


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