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    かけはし2018年5月28日号

68年5月の反乱から50年


フランス

反資本主義新党(NPA)機関紙特集

「3月22日運動」の位置と意味

『ランティ・カピタリスト』2018年3月22日号



 「三月二二日」というのは、活動家、とりわけ急進的左翼の活動家、の記憶に残る象徴的な日付だ。一九六八年春のこの日、(パリ大学の)ナンテール校の学生グループが、「もはやまったく有効とはなりえないこれまでの抗議のやり方ときっぱり手を切る」ために、「討論」と「行動」を呼びかけるアピールを発した。実際に、このアピールを受けて、ナンテール校でさまざまなイニシアチブが組織化され、それらは異議申し立ての実験室へと転化した。このアピールに署名した人々の中には、一九六八年の五月から六月の反乱の将来の推進者の名前が連ねられている。以上の経過からして、「三月二二日運動」は五月〜六月の運動の先駆けとみなされるものである。三月二二日に戻ると、本号の記事では、それがいかに青天の霹靂(せいてんのへきれき)の出来事とは無縁のものだったのかという点を理解してもらうよう試みた。それは、社会の諸闘争、とりわけ労働現場における闘争の再高揚、ならびに国内的、国際的な既存の体制に対する一つの世代全体による再検討、という全般的な情勢の一環なのである。

膨大な数となって

異議を申し立てる青年の登場

ローラン・リバール

 一九六八年の「出来事」は、一九六八年五月の二〇周年に際して出版されたエリヴェ・アモンとパトリック・ロトマンの有名な著作の題名に示されているように、ひとつの新しい「世代」の成熟の結果であるとしばしばみなされてきた。
 このような見方が限界をもつことは明らかだ。なぜなら、それは、一九六八年春にフランスを吹き抜けた反抗の波を青年の蜂起のみに切り縮めようとするものであるからである。そのような捉え方は、この国がかつてそれまで経験したことのない最大のゼネストによって刻印されたこの大衆運動のすべての側面を捉えようとしないものである。それにもかかわらず、この考え方は、一九六〇年代の新しい重要な点としてフランスでも全世界でも青年が社会運動において完全に当事者として出現したことをはっきりと示しているかぎりにおいては、ひとつの興味深い点を提起しているのだ。

ベビー・ブーム
世代の特性とは
六八年の異議申し立てのこの世代の特性とはどのようなものなのだろうか? まず第一の事実は、それが第二次大戦後の「ベビー・ブーム」から生まれた膨大な数の人々から成る世代だということである。一九六八年、フランスの全人口のうちの三三・八%は二〇歳未満だった。これは、フランスにおいて青年に特別な地位を与えることとなった。次に、留意すべきは、この世代が、「黄金の三〇年間」(戦後の高度経済成長の時期)がもたらした社会構造の強力な大激動という状況の中で育ったといういうことである。フランス社会のこの急激な変動は、この世代に新たな特性を、たとえば、新たな大衆的規模のキリスト教離れを、付与することになった。これは、深く伝統的状態にとどまっていたこの国の状況から青年の世代を決別させることとなった。こうして、青年は、老将軍(ド・ゴール)によって統治されている国、教会と軍隊と道徳的秩序の重圧で押しつぶされている国、の中で自らの場を見出すことが困難であるという状況のもとに置かれていたのだった。この重圧がとても強力で、ドゴール主義のもとにあった国家は、学生が大学都市地区への立ち入りを禁止することによって、若い市民のモラルを監視するのが自らの責務だとまで考えて、大学の女子寮への男性の出入りを禁止しさえしていた。
高度経済成長は余りにも急激だったので社会構造がそれに追いついていなかった。このことによって引き起こされたこの世代に固有の病気は、フランスに特有のものではなかった。当時、それは、世界の青年を特徴づけるものだったのである。全世界の青年は、国の枠外にそのまなざしを向けていたのであり、ボブ・ディランからローリング・ストーンズにいたる世界的に同じ音楽文化の中に身を置いていた。これらの青年は、異議申し立てという特徴をはっきりと示していた。これらの新しい世代は、現代という時代の息吹を保持していた。この息吹とは、実は、ロシア革命が推進して来た影響力によって培われた進歩的な波の一環だった。その当時、ロシア革命からまだわずか半世紀しか隔たっていなかったのである。それは、植民地支配に反対する革命の影響と結びついていた。植民地革命は、ベトナム戦争を媒介として、その当時、フランスの家庭に大量に普及しつつあったテレビの画面上に毎晩出現していた。

教育構造にも
根本的な変化
この六八年世代はまた、教育構造の根本的な変化によっても形成されたのである。教育の構造的な変化によって、新しい社会層が中等教育や高等教育を受けることが可能となった。一九六六年から一九七〇年までの期間に、同じ歳のクラスの中で大学入学資格取得者(バカロレア)の割合は、一二・五%から二〇・一%に変わった。その当時、失業者が五〇万人未満で、一四歳から若者が労働市場に入って来るこの国で、工場は、しばしば中等教育を受けた新しい労働者世代の登場を受け入れることとなった。この若い労働者世代は、テイラー・システムの労働編成が要求する労働作業の任務に対して自分たちの資格の方がそれを上回っているとしばしば感じていただけに、工場生活を定めるこまごまとした余計な規則はより受け入れがたいものであった。
教育の大衆化によってまた、新しい社会層の大学への入学が可能になり、学生数は一〇年間で三倍になった。こうして、大学の世界は、移民労働力が詰め込まれたスラム街とほとんど同じように、一九六四年にナンテールに創設された新しい学部が象徴する急激な拡張を経験した。この学生という新青年層は、ナンテールの「プチブルジョア」という痛烈な皮肉とはおよそほど遠い存在であって、多くの場合、庶民であり、庶民層の出身者であったので、六〇年代のフランスが、低賃金と長時間労働であったということを十分に知ることができる立場にあった。これらの学生層はまた、庶民階級の人々がいぜんとしてほとんど新しい「消費社会」とは無縁であるという点を十分に知りうる立場にもあった。フランスの家庭の二世帯のうちの一世帯しか電気洗濯機を持たず、四世帯のうちの一世帯しか電気冷蔵庫を所有していなかったからである。これらの学生たちは、一九六四年に出版されたブルデューとパスロンの共著『遺産相続人――学生と文化』(藤原書店、一九九七年)の中に、自分たちの時代の宣言を、しばしば見出していたのであり、社会的平等を求める強い願望の持ち主であった。一九六八年四月にコーン・バンディが言わなければならなかったように、これらの学生は、自分たちが「後にはいずれ労働者と農民を搾取する将来の企業幹部になる」だろうとする強迫観念しか抱いていなかった。

 

反権威の文化
も身にまとう
最後の点としては、六八年世代が同時に、それ以前の世代とは明白に区別される反権威の同じ文化をしばしば共有していたという点がある。これは、アルジェリア戦争に反対する闘争の中で築き上げられたものであった。それは、とりわけその当時、全面的な困難に直面していた改良主義組織に対する根強いためらいの感情を表現していた。その中でもとりわけUNEF(全国学生共済組合、フランス全学連とも呼ばれる)は衰退していた。フランス共産党の学生組織であるUEC(「共産主義学生同盟」)が経験していたさまざまな困難がそのことを象徴していた。共産主義学生同盟は、一九六〇年代に、長い一連の危機と分裂を経験していた。この分裂によって、新しい革命派の組織の誕生が可能になった。ひとつは、共産主義者同盟(LC、後のLCR)の前身となったJCR(革命的共産主義青年同盟)で、もうひとつがUJC(ml)(共産主義青年連盟マルクス・レーニン主義派)である。後者は後に「プロレタリア左派」を生み出すことになる。これらの革命派の新しい組織は、その当時、とても活発に活動してはいたものの、その支持者はより限られた存在でしかなかった。ナンテール分校はその当時、革命派の拠点だとみなされていたが、一九六八年三月当時、おそらくその活動家の人数は一三〇人から一四〇人でしかなく、それも多くのグループに分裂していた。三月二二日運動を誕生させた新しい息吹は、伝統的青年組織のこうした困難な状態の中に位置づけて捉えられなければならないが、同時に、一九六八年二月に出現したCAL(高校生行動委員会)との関連の中でも位置づけられなければならない。この運動は、その当時、高校を支配していた兵営のような精神に反対して闘う運動であった。

ゼネストへの予兆

労働者の急進的スト(67年〜68年)

パトリック・ルモール


一九六七年―一九六八年は、五月の闘争の爆発の以前であったのだが、工場における争議の発展の場となっていた。とりわけ注目すべき点は、その闘いの中で青年世代が占めた中心的位置である。

闘争力の回復
と新たな高揚
労働者階級は、一九五八年のクーデターによって弱体化させられていて、一九六三年三月になってようやく元気を取り戻した。この時、賃上げを求め、人員整理に反対する炭鉱労働者のストライキが起こった。それに炭坑の職員が続き、時として炭坑の管理職層さえもが闘争に参加し、類を見ない幅広い連帯の支援を受けた。この炭坑ストは、ドゴールによる軍隊の動員が試みられたにもかかわらず、一カ月間続いた。ストライキによる労働損失日数は、一九五八年が一一四万日だったのに対して、この年には約六〇〇万日に達した。一九六五年の選挙での中断期の後、一九六六年には闘争は再び激しく、荒々しい形で高揚した(ストによる労働損失日数は二五〇万日)。ルドンやマンスでは、バリケードが構築された。一九六六年五月一七日は、一九五八年以来、最も重要な行動日が組織された。この時、長年来はじめて、CGT(労働総同盟)とCFDT(民主労働連盟)による統一した呼びかけが発せられた。

激しい争議が
各地で次々と
一九六七年、こうした局地的で激しい争議が発展し、ストライキによる損失日数は四五〇万日になった。とても象徴的な闘いとなったのは、人造繊維工場のローディアセタの争議だった。そこではストライキ労働者が工場占拠を再開したのだった。ストライキは、この年の二月にブザンソンで(三〇〇〇人の労働者)始まった。組合は、操業短縮に反対して月曜日からストライキに突入すると宣言していた。その前の土曜日から、勤務を終えて帰宅する作業班が、月曜日を待たずにストライキを開始し、工場を占拠した。ストライキは、リヨン・ヴェーズ、ペアジュ・ルシロンへと広がった。ストは五週間続いた。地域におけるこうした占拠は、強力な全国的連帯運動を引き起こし、地区レベルでも、大学の支持委員会によって、本当に沸騰状態が生まれた。最初の要求は操業短縮の拒否というものだったが、スト終結の協約は賃上げが想定されていた。この回答を労働者の一部は拒否し、工場の前にバリケードを築いた。機動憲兵隊が介入した。職場復帰は過半数ぎりぎりでかろうじて可決された。こうした残念な結果になったにもかかわらず、ローディアセタのストライキは一九六八年に先立つ闘争の基本的経験をなすものとなった。
サン・ナザールでは、造船所の月給取り労働者が、賃上げを要求し、得意先の上司への特典の提供に反対して六三日間ストライキを行った。この時代、労働者には時間給が支払われていて、月給取りは経営者と協調する者とみなされていた。月給取りのこうしたストライキは目新しいものだった。ストライキ参加者はデモを組織したが、地域の人々の支持は大きかった。三〇〇〇人の女性が街頭に出て、支援委員会が食糧を配布した。床屋たちがストライキ労働者のために一日、「無料の髭剃り」サービスを行った。
ロレーヌ地方の鉄鉱山、ベルリエでも占拠を伴うストライキが起きた。ダッソーでは、労働者が「タム・タム」と呼んでいた不意打ちストが行われた。これは、一定の日数、一時間ごとに五分間のストを行い、職場内で即興のオーケストラがともに行進するデモが行われた。

サヴィエム社
の象徴的闘争
一九六七年五月一七日、社会保障に対する労働組合団体の管理をなくそうとする政令案に反対する、CGT、CFDT、FO(労働者の力――フランスの労働組合ナショナルセンターのひとつ)、FEN(全国教員組合連合)による、職種間の垣根を超えた横断的な統一ゼネストは、実に大衆的なデモの機会となった。政令は八月二七日に採択される予定だったが、この決定が一年以上も遅れたことが多くの人々の記憶に今なお残っている。
三月、人種差別的な攻撃を受けて、(カリブ海にある海外県の)グアドループで三日間にわたって次々と暴動が起こった。五月二五日には、賃上げを求める建設労働者のデモ隊に警官隊が発砲し、五人の死者と百人余りの負傷者が出た。この反乱の運動は、三日間にわたって続き、数十人の死者を出した(最も確かな見積もりでは死者は八七人)。
一〇月、ルマンの町では、農民、次にルノーの労働者、そして最後にはジュモン・シュナイダーやガレンツァー・シュピッツェルやオーミック社の労働者が三度にわたって次々と立ち上がり、激しいデモがこの町に燃え広がった。デモ隊は、町の中心街へと向かい、CRS(共和国保安隊)の非常線を突破し、県庁舎を攻撃した。
一九六八年一月二三日には、カーンの町が闘いを引き継いだ。賃上げの実現と労働組合の権利の尊重を求めて、一時間のストライキがサヴィエム社(四〇〇〇人の労働者)で呼びかけられた。主として青年労働者から成る活動家(約五〇〇人)が、組合を経由することなく、工場内で隊列を組んでデモ行進すると、それ以外の労働者もその隊伍に引き寄せられていった。夜を通して、占拠とピケとストライキが行われた。強権主義的な工場管理体制が非難を浴びた。翌日、サヴィエム社のデモは、同じく無期限ストに投入したジェジェール社やソノラル社のストライキ労働者と出会った。警官隊が攻撃し、衝突は激しいものになった。一月二七日、連帯ストに入った別の工場(ムリネックス、SMN)の労働者もデモに加わった。手助けするためにやって来た数百人の学生も加わった青年労働者たちの隊列は、労働組合が組織した防衛隊のラインからはみ出し、県庁舎に肉薄し、その中への突入を試みた。社長室、県庁舎、銀行では窓ガラスは割られてもはやなくなってしまった。この暴動の夜には二〇〇人以上が負傷した。一月三〇日には、ストライキは地域の金属企業全体に広がり、ストライキ労働者は一万五〇〇〇人に達した。
二月二日、ストライキ投票では、五〇二票がストライキの続行を支持し、二七二票が企業内の行動を支持した。労働組合は、投票者数が少なすぎると判断して、職場復帰を決定した。職場復帰が五日の月曜日に行われたが、職場復帰の指令を出すものは誰もいず、三〇〇〇人の労働者が再び職場を離れ、工場内をデモ行進して、行ってしまった!

闘争の新たな
発展回路出現
ルドンでは、労働組合の代表が三〇サンチームの賃上げをめぐって、市役所で経営者と交渉していた三月一一日、青年労働者が、パリ=カンペル間の鉄道を封鎖し、CRS(共和国保安隊)と激しく衝突した。それに続く一カ月、別のストライキが金属、銀行、エール・アンテルで発展した。地域規模までになった地区のデモは、ペイ・ドゥ・ロワール、ノール・パ・ドゥ・カレー、ブルターニュなどへという形でさらに拡大した。
これらすべてのデモは、組合の公式のイニシアチブを通じては表現されない戦闘性が存在していることを立証していた。それはたえず拡大し続けたが、一〇年間で大量の労働者を雇用するようになっていた工場で産み出されたものだった(失業者は三〇万人だった)。その当時、われわれは、フランスで工業労働者の割合が最大になる時代に入っていたのである。人口の三五%が工業労働者だった。これは、一九七〇年代末まで発展し続けることになる労働者の闘争の新しいサイクルを切り開いた。青年はその中で闘争形態の決定において推進役となるひとつの役割を果たした。これら青年たちは、多くの場合、熟練労働者ではなく、管理者層の耐え難い権限に従わされていて、ほとんど組合に組織されていず、闘争の経験を有していなかった。労働組合指導部は、この活動家たちをあまりコントロールすることができていなかったし、青年活動家たちも組合指導部を認めていなかったが、それはその数十年間ではじめての事態だった。
青年労働者たちは、学生のバリケードの反響を受けて、一九六八年の五月から六月のストライキを開始する上でも、それが作り出した闘争形態という点でも、重要な役割を果たしたのだが、労働組合指導部、とりわけ、CGTやフランス共産党の指導部に取って代わるオルタナティブの勢力を形成することはできなかった。

政治秩序の根本的見直しへ

「3月22日運動」を生んだもの

パトリック・ルモール

 

 一九六〇年代の青年の運動の全世界的な類似性は、第二次世界大戦後に確立された政治秩序を全面的に見直そうとする機運に対応するものだった。一九六八年五月と六月に特別な役割を果たした「三月二二日運動」は、反帝国主義の急進化と、爆発的なものとなっていた大学のモラル的秩序に対する拒絶とが結びつくことから生まれた。

ベトナム戦争
反対をバネに
一九六五年のベトナム戦争は、世界秩序に反対する要求をさらに高める大きな役割を果たした。ベトナム革命は、世界と「社会主義」のためだけの闘いとの間の分断を拒否した。共産主義の脅威の名の下に貧しい農民国に対して世界最強の国によって展開された戦争は、犯された残虐行為や投入されたその膨大な物量を前にして人々の憤激を結集させただけでなく、東西への世界の分割の正当性をその土台から掘り崩すものとなった。アメリカ、日本、西ドイツ……などにおけるこの戦争に反対する大衆動員は広く共感を呼び、その反響は、アルジェリア戦争に反対する伝統をもつフランスにも広がっていった。一九六八年一月のテト攻勢は、前衛的青年層の関心と活動を一挙に高めることになった。ブリュッセルで、ベルリンで……ヨーロッパ中で、デモがこの急進化の時期を画するものとなっていた。

ストがない日
は一日もない
一九六七年にまでさかのぼると、大学の場では、政府は、大学入試に選抜制度を導入しようとする攻撃に出ていて(この当時、すでに現在問題になっているような「選抜」がすでに試みられていたのだ!)、役立つ学生はそれに応じた指導をするが、そうでない学生は排除しようというのであった。一一月九日、UNEF(全国学生共済組合)は、正式の休み明けに際して、選抜に反対するデモを呼びかけた。五〇〇〇人の学生が機動隊と対決した。学部の階段教室でストのない日はなかった。大学事務所の占拠が発展した。ナンテール校では、一万人の学生が一週間のゼネストに突入し、要求書を作成した。寮などがある大学内では、学生たちはこれまでの規則を廃止し、寮への男女の出入りの自由や政治的自由を実現していった。ナンテール校では緊張が高まり、一月二九日、学部長が弾圧に反対するビラやポスターなどを撤去するために警官隊を呼んだ。ビラやポスターなどが大学のベンチや敷石や床から撤去された。
三月二〇日に、CVN(アメリカ帝国主義に反対し、ベトナム人民の勝利を目指す全国ベトナム委員会)によって組織されたデモ隊、三〇〇人がアメリカン・エクスプレス社の本社を襲撃したのは、急進化が一貫して高まり続けていたこうした情勢のもとにおいてだった。ナンテール校の学生でJCR(革命的共産主義青年同盟)のメンバーであるザビエル・ラングラッドを含む六人の活動家が逮捕された。それに対する反撃として、三月二二日、活動家たちは大学の中央放送室を占拠し、内部の壁にスローガンをかきつけた。六〇〇人から七〇〇人の学生たちの総会は、尋問されている学生の釈放を要求した。その日、学部の本部がある大学塔の最上階を占拠するとの決定がなされ、「そこでは、占拠した一五〇人の学生のうちの一四二人が、二九日の金曜日に授業に代わって、『反帝国主義の闘争』、『学生と労働者の闘争』、『民衆の民主主義における学生の闘争』、『大学と批判的大学』をテーマとした討論会を開くと決議した」(1)。学部長は二日間、授業を停止し、五〇〇人の学生が、無人のキャンパスでCRS(共和国治安隊)に監視されながら討論会に参加した。「三月二二日運動」が誕生した。翌週、四月二日の新しい行動日が、ドイツSDS(社会主義学生同盟)の代表が参加して、闘われた。一二〇〇人の学生が、「チェ、チェ、ゲバラ!」、「ホー、ホー、チミン!」と叫んでデモ行進した。

直接民主主義
の大衆的運動
学部では、政治的表現の全面的な自由が勝ち取られた。「そこでは、『路線』の一致が行動の前提条件にされることはなかった。互いに譲歩し合い、討論の出発点である共通の政治的経験を基礎にして、無党派の多くの学生やいくつかのグループ(とりわけ、アナーキストとJCR)が参加する大衆的規模の運動が形成された。この運動の中では、活動家たちは、直接民主主義を経験した。いつものお決まりのグループ間の衝突に対しては『無党派の学生層』から非難を受けることになるので、その結果、グループ相互間の境界線が溶解していき、『前衛』層の活動家の影響範囲が大きく拡大することになった」(2)。「三月二二日運動」は、毛沢東主義派からは一〇〇%反動的なものだと非難された。毛沢東主義派によれば、「三月二二日運動」は、「人民に奉仕する」という正しい道を学生が歩むのを回避させるものだ、というのだ。「三月二二日運動」はまた、ランベール派や「労働者の闘争派」の前身であった組織の活動家からも無視されたが、JCRからは支持された(もっとも、JCRのメンバーの中には、当初、ためらうものが一部にはいた)。この運動は、その後、闘争の重要な政治的推進力となっていく。
三月二七日、「三月二二日運動」のダニエル・コーンバンディが取り調べを受けた。衝突と事件が拡大した。五月一日のCGT(労働総同盟)の(メーデーの)大規模なデモの後、五月二日には、この十年間ではじめて、大学の閉鎖が決定され、八人の学生が大学の懲罰委員会に召喚された。
それで、三月二二日運動はナンテールの拠点を去り、ソルボンヌ校に移った。ナンテール校と同じように、論争と討論グループが次々と中庭や階段教室に出現した。それは、ソルボンヌに機動隊が導入されて、何百人もの学生が逮捕されるまで続いた。最初の抗議デモがただちに始まり、カルチェ・ラタン街で警官隊と対決した。バリケードの夜を生み出す闘争サイクルの口火が切られた。

注記
(1)ダニエル・ベンサイド/アンリ・ヴェーべル 「最後のリハーサルとしての六八年五月」(Daniel Bensaid et Henri Weber, Mai 68, une reptetition generale)
(2) 同右書。


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