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ジェノバ・サミットとの闘いが示したもの(中)       かけはし2001.11.12号より

階級闘争の新しい時代が始まった

新しいインターナショナルが問われている

 真の突破は、国際的機関に対する大衆的デモがグローバル化した資本主義の「機能」を麻痺させることができるという「発見」であった。先行的な指標が存在した。一九九七年六月に、「失業、不安定雇用、排除に反対するヨーロッパ行進」の五万人のデモ参加者がEUサミットが行われていたアムステルダムの街路を埋めた。
 この会議のほとんど全面的な失敗、無法な警察の暴力、欧州労働組合連合の完全な怠慢が、突然世界的な出来事になった。CNNがこれを世界中に放送したためである。グローバリゼーション団体に対する最初の象徴的な「勝利」は、OECDのパリ本部の「平和的」包囲であった。この後、フランス政府はMAIの放棄を余儀なくされた。
 シアトルでの闘い以降、グローバル化した政治的枠組みに「挑戦する」新しい意識は、攻勢的気分、戦闘的決意、すなわち政治的確信の蓄積のプロセスと活動家の関与をふたたび活性化させた。インターネットを通じて、これらの気分は全世界的規模で急速に広がった。
 同時に、地方的および全国的イニシアティブが強化され増大し、いまだ細分化され分散的である運動のカードルを、「グローバル」な出来事のたびに相互に結集させた。
 青年の急進化の開始と、劇的な衰退の中にあった労働組合運動の間の結合が始まったのはアメリカであった。一九九五年に、青年の集団が労働運動の再組織化の支援に向かった。シアトルは、突然天から降ってきたわけではないのである。
 前シアトル的時期が存在した。小規模の分散的作業を通じて運動を「構築」し、資本主義のグローバリゼーションの力が多数のイニシアティブに求心的力学を作用させるまで待つことが必要であった。すでに、大胆なイニシアティブが国際的な規模で広範な人々の注意を引き付けていた。
 いくつか例を挙げよう。一九八九年パリのフランス革命記念日の目覚ましい内容。ここでは第三世界の負債の免除が要求された。これはその後ベルギーのCADTMに引き継がれた。一九九四年以降の新サパティスタ運動と国際会議、トービン税に関する「ル・モンド・ディプロマティーク」のイニシアティブ。これはすぐに重要な組織であるATTACフランスの形成をもたらした。
 複数のそれほど目覚ましくはない努力が土台を準備した。最初に、知的な作成作業(分析、議論、対案の作成)が存在した。これが運動に確固とした基礎を与え、活動家の自信をもたらし、メディアにおける権威を確立し、最終的に新自由主義の支持者に対する攻勢的な気分を作り出した。新自由主義を支持する潮流は、大学、メディア、学校、および伝統的な労働運動の教育プログラムにおいて支配的であったことを忘れてはならない。シアトル以前に、広範で、多元的で、質の高いこの作業を通じて、「運動」は世論の中に、新自由主義的思想の持ち主に対して以前は「禁じられていた」論争を挑む十分強力な潮流を作り出していた。
 この流れの際立った点は、(当時も、また今も)二極的であって、たとえば社会民主主義のような中間の潮流の参加がないことである。社会党(および政権に参加した共産党)は、依然として失った時間を取り戻すことができず遅れをとっており、実際、運動の外部にいる。
 この最初の「文化的」勝利は、活動家の間に攻勢の力学を確立するために少なからざる役割を果たした。これは特にフランスにあてはまり、「左翼」知識人が重要な知的潮流に再参加している。
 基礎には、労働者の闘争が存在する。一九九五年冬のジュペ政権に対するストライキ運動である。次に、「ミクロ社会学的」世代的要因が存在する。脱政治、脱イデオロギー、脱動員の二十年間は、青年から公共的分野への関心を奪い、彼らのエネルギーを私的な、あるいは商業的な分野に向かわせた。
 このようにして、運動は「六八年世代」の薄い層のおかげで始まった。運動はその関与の仕方を一新したが、それはそれまで知られていた革命的組織の枠組みより「ゆるやかな」組織的枠組みの中で行われた。この「第二のチャンス」をつかむために、彼らは経験と知識を働かせたのである。
 この陽気で制約的でない枠組みの中で、人類が直面する焦眉の課題に重点をおき、実践的提案を理論的分析的論争と結合させることにより、若い世代との結合、世界的規模での新しい青年の急進化の開始が起こったのであった。
 ある敵意を持つメディアの表現を借りれば「非均質で混乱した」運動のこの真に脆弱な統一の力学は、ほかに説明のしようがない。ジェノバ社会フォーラムが、最も完全な例である。
 最後に、「シアトル」の前に、キャンペーン、会議、国際機関の会議の外部でのデモなどの活動の成長があった。「国際的な運動」は、ますます多くの国で組織を確立しながら、「ローカル」な協会や組織の参加の増加を推進し、活動的な「国際的な」核の間の結合を強化した。
 「(新自由主義的または資本主義的)グローバリゼーションに反対する運動」は、まさに独自のやりかたで、独自の活動と独自の方法に従って組織化された。これを証明するのが、ポルトアレグレの世界社会フォーラム(二〇〇一年一、二月)およびダボスにおける世界経済フォーラムであった。
 「ポルトアレグレ」は、シアトルと同等のものを組織的レベルで表現した。しかし、これはケルン(一九九九年六月)、バンコク(二〇〇〇年二月)、ジュネーブ(二〇〇〇年六月)と加速的に連続する大きな会議がなければ、決して起こらなかったであろう。この途中に、最初の社会運動と労働組合運動の真の結合(重要な労働組合が参加しているATTACフランス、「農民の道」、韓国民主労総)が始まった。
 これらの三つの要因が、シアトルで起こった移行、すなわち意見の潮流から現実的な政治的目的を目指して闘うことのできる運動への移行のために十分な力をもたらした。しかし、われわれの成功は、敵の弱さ、敵が保有する圧倒的な物質的力にもかかわらずその弱さのせいでもあったことを隠すべきではない。
 三つの超大国(米国、欧州連合、日本)の間の矛盾は、ソ連崩壊以後、いっそう制約のない発展をしている。現在の形の資本主義のグローバリゼーションは、広範な規制緩和(自由化)と金融資本の比重と移ろいやすさの増大のために、固有の不安定性を持っている。この文脈では、巨大資本の国際的組織は住民の間で信頼されておらず、半世紀にわたって取ってきた非常に反社会的な政策に関する責任があると思われている。この点では、最近、ブッシュ政権の一面的な国際政策とIMFおよび世界銀行の資本家的観点から見て非効率的な体制の問題が加わった。
 ジェノバでは完全に新しいことが存在した。すなわち、政治的対立が具体的内容を失ったことである。G7の議題はまったく価値を失い、目的は「会議を維持する」ことであり、要するに自分たちを世界の指導部として押し付けるためにメディアを最大限にひきつけることであった。大勢のデモ参加者がこのことを批判した。政治的に問われていたことは巨大であった。すなわち、世論に対して勝利することであった。

 ジェノバでの闘い以降、暴力の問題は、メディアにおいても運動内部の論争においても普遍的な問題となった。その理由は明らかである。シアトルでは、米国政府は法外に残忍な攻撃を大衆的な非暴力的不服従運動に対して加えることを決定した。非暴力的不服従は非常に有効であることが証明された。WTOの会議は単に行われたに過ぎない(そして超大国間の内部対立のために失敗に終わった)。そのとき以来、支配階級は起こった問題の次元を把握し始めている。
 体制的不安定、政治的正当性の欠如、労働階級に対する社会的支配の衰退を経験した支配階級の側は、いまや広範な社会的爆発、都市の決起、地方の農民の反乱、などの可能性を考慮に入れている。シアトルは彼らにとって非常に不快な驚きであった。即時的な反応は、通常の「信頼できる」対話者の存在しない「とらえどころがない」ように見える運動を圧殺しようすることであった。
 彼らの戦略体系は、二つの要素を組み合わせることにより短期間に運動を混乱させることであった。政治的に急進的な潮流を(暴力的部分に限らず)すべて犯罪者扱いすること、および協力者の潮流を募ることであった。そのイメージは旧来の労働組合や政治的労働運動の指導者のイメージである。
 しかし、「階級協調」が機能するには、急進化の進行を破壊し、多くの場合運動を開始し指導する反資本主義潮流を追い出すことが準備として必要である。支配的新自由主義の政治的反転なしには、また確固とした穏健派潮流が存在しなければ、これは困難である。
 したがって、一般化するのは残虐化である。プラハでの暴力は、明らかに例外的な場合であった(スターリニスト官僚制に由来する国家機構が漸進的対応を知らなかったから、また地元の労働運動の参加が弱かったからであったとしても)。
 ニースでは、ジョスパン政権は非常に慎重であった。シェンゲン協定を延期し、労働組合官僚を信頼した。他方では、イエーテボリは欧州連合内で準備された最初の試みであった。デモは大衆的で平和的で、「ブラックブロック」の暴力は隔離され許容された。まさにその前夜、運動を犯罪者扱いするキャンペーンがヨーロッパ中で開始され、数週間続いた。
 ヨーロッパの支配階級がアメリカ政府といっしょになってジェノバのために準備したことは、この文脈に沿っている。ベルルスコーニ政権がそれを適用したのである。したがって、ジェノバは、国家暴力によって運動を服従させようとする真の試みとなった。それはヨーロッパの、特にフランス、ドイツ、英国、および五月にベルルスコーニが勝利するまでのイタリアの社会民主主義体制が準備した計画であった。
 この計画をベルルスコーニに帰することは、彼を認めすぎることになろう。ナポリにおけるデモのときにEUの戦術的計画を開始し、ジェノバの舞台けいこを行ったのはイタリア社会民主主義(社会民主党、左翼民主党、旧共産党)であったからである。
 彼らは種々の抑圧装置のトップの首をすげかえ、彼らの腹心を配置することで、適切な手段を手に入れた。また、対抗サミットの組織者であるGSF(ジェノバ社会フォーラム)との予備的会談を一切拒否した。彼らはG7会議の象徴的意味を膨らませた。
 ベルルスコーニはこれらをすべて贈り物として受け取った。彼が行ったことは、GSFとの和解のマヌーバーを導入することで、GSFの内部矛盾を利用し、運動の分裂を試み、または規律を課そうとしたことであった。これには外務大臣ルジエロによる融和的な談話がともなっている。彼は「われわれは第三世界の支援という目的では一致している、ただし手段では一致していない」と語った。最終結果は周知のとおりである。ベルルスコーニはEUが練り上げた暴力的戦略を適用し、選択的なテロと拷問を追加した。
 帝国主義指導部と、これに対決する大衆運動との間の政治的闘争で、このような直接的なグローバル化した透明性が存在したことはかってなかったことである。
 批判的傾向という段階から、敵の高度に象徴的な目的に対する大衆的動員の運動への移行は、これを一つの効果的な要因に転化させた。メディアに注目されていた会議の機能を妨害する目的をもった大衆的不服従は目新しかった。これは抑圧装置の行動に依存した、限定された対決を意味していた。
 シアトルで、この戦術の有効性が示された。これは現代資本主義が十年にわたってわれわれに教え込んできた思慮に基づいている。活動は、メディアが取り上げる程度にによってのみ「事実」となる。活動、面白いアイディア、大衆的デモは、「事件」をともなった場合にのみ取り上げる価値がある。われわれはシニカルな民主主義の下で生活しており、投票は関係ないという感覚が広範に広がっている。
 政権についた政党は、選挙運動中に約束したこととは反対のことをする。そして、そこには権力乱用とその恣意的な性格がある。セルビアの将軍は合法的に誘拐され、ハーグの国際法廷の前に引き出された。しかし、イスラエルは米国の支持を受けて、国連が採択した決議を公然と無視しすることができ、パレスチナ人の若者を殺しつづけている。
 このことはグローバルに意識され始めているが、まったく耐えがたいことである。ここには緊急性が存在し、行動の義務がある。破壊マシン、地球の脅威、人類存在の危機、第三世界における耐えがたい残虐、全面的な社会不安、難民や移民の窮状を止めなければならない。
 このようなグローバルな文脈の中で、若者は抵抗し抗議するために立ち上がった。本来反権威主義的である若者は、くだらないゲームのルールを踏み越えることををためらわず、禁止された公共スペースを占拠し、民主主義を実践し、勝利し「世界を変える」ために闘う。
 この完全に正当な若者の急進主義とはまったく別の、もう一つのことがある。それは運動全体と世論に対して政治的道義的責任がある組織が行う暴力的戦術の問題である。どんな潮流のどんな戦術についても同じであるが、それは政治的討論にかけられ、判断されなければならない。
 われわれはアナーキストを「ブラックブロック」と比べようとは思わない。ブラックブロックのやり方(覆面、コマンドによる作戦、みさかいのない破壊)が警察に手を貸すものであるとしても、黒い集団を極右ファシストに浸透された警察の手先とするアプローチはとらない。われわれはこの問題をつぎの原則から出発して検討する。すなわち、われわれの運動は、労働人民大衆の自発的活動を通じた解放を目標とし、その活発な参加を促し、自らの隊伍に民主主義を適用する。
 われわれは、大衆行動にとって代わる、あるいはひどい場合にはデモ参加者を襲撃するために参加者大衆を防壁として使用する少数者による暴力に反対する。われわれは、このような目的でわれわれを利用しようとする不適切な干渉からは、われわれのデモ隊の部分を引き上げるであろう。
 しかし、「暴力的部分」の排除や、運動の穏健な翼といっしょになって彼らを非難することによっては問題は解決しないであろう(穏健派は最悪の敵との「対話」の候補者である)。問題はもっと大きい。問題は、闘って勝ちたいと望んでいる急進的な若者に、抑圧装置に対するエスカレートする暴力的な闘争の連続の代わりに、革命的社会主義的戦略への確信を持たせることである。 (つづく)


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