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イタリア                       かけはし2003.2.24号より

共産主義再建党(PRC)国際会議が示した欧州左翼分化のプロセス

フランソワ・ベルカマン


 反グローバリゼーション運動の広がりと、その先頭に立つ革命的左翼の躍進という新しい情勢のもとで、ヨーロッパ左翼勢力の大きな再編成が始まっている。その核となっているのが、九一年に旧イタリア共産党(PCI)から左へ分裂し第四インターナショナルなどの革命的左翼を受け入れた共産主義再建党(PRC)である。そのPRCが、欧州各国共産党と革命的左翼諸党の国際会議を開催した。


 ヨーロッパ社会フォーラムの直前(二〇〇二年十一月五日から六日)に、イタリアの共産主義再建党(PRC)は二日間にわたる会議を組織した。議題は、EUと戦争の問題、社会的市民的権利の問題、経済的展望、政治的オルタナティブ、そしてヨーロッパ政党の提案であった。
 この目的のために、PRCは「ヨーロッパ左翼オルタナティブに関する討論に向けたPRCの提起」と題する文書を提出した。この文書には、次の四つの章にわたって、討論されるべき問題が論じられていた。すなわち、「平和なヨーロッパについて」、「経済的、社会的、環境的権利を備えたヨーロッパについて」、「民主的ヨーロッパについて」、「ヨーロッパの左翼オルタナティブ」の四つの章である。
 伝統的共産党主流の多数の組織が会議に出席した。フランスからはフランス共産党(PCF)、ポルトガルからはポルトガル共産党(PCP)、スペインからはスペイン共産党(PCE)、イスキエルダ・ウニダ(統一左翼=IU)とエスケラ・ウニダ・イ・アルテルナティヴァ・カタルニア、ギリシャからはギリシア共産党(KKE)、シナスピスモス(KKEから分裂)およびDikki(PASOKの「ナショナリスト左派」から分裂)、ドイツからは民主的社会主義党(PDS)とドイツ共産党(DKP)、オーストリアからは共産党(KP)、ルクセンブルグからはラ・ゴーシュ、オランダからは社会党(毛沢東/マルクスレーニン主義派)、チェコ共和国からはボヘミアおよびモラビア共産党、キプロスからはAKEL、そして最後にイスラエル共産党である。これらの組織の一部は、ヨーロッパ反資本主義左翼会議の会議にも出席したことを付け加えておくべきだろう。PRC(会員)、ラ・ゴーシュ(会員)、ドイツ社会党(参加)、IUおよびDKP(ゲスト)である。
 また、急進的左翼の広範な組織が参加した。ブロコ・デ・エスケルダ(「左翼ブロック」、ポルトガル)、革命的共産主義者同盟(フランス)、社会主義連盟(イングランド)と社会主義労働者党(英国)、スコットランド社会党(スコットランド)、赤と緑の連合(デンマーク)である。この議題と参加組織の顔ぶれは、まったく異例である。歴史上初めて、伝統的共産党諸組織が、新しいヨーロッパ左翼オルタナティブ党の展望に関する政治的文書に基づいて急進的左翼と論争することに同意したのである。
 このような状況でイニシアティブを取ることができたのは、PRC以外になかった。PRCは、この「左翼オルタナティブ」内部に存在する二つの潮流の間の仲介者(彼らの言葉によれば「架け橋」)の役割を担った。一九九一年に旧イタリア共産党(PCI)の崩壊から生まれた分裂少数派は、一九九三〜九五年の大闘争とプロディ政権の経験を通じて、二つの分裂という犠牲を払って、PCIの遺産から脱却することに成功した。その後、ジェノアの闘いとヨーロッパ最強の「諸運動の運動」の登場が、「再建党」の真の再建をもたらした(二〇〇二年四月大会)。
 この再建は、新しい党綱領(およびベルティノッティの談話プログラム)に反映している。この綱領は、スターリニズム(トリアッチ主義の右翼的側面を含む)と手を切ったものである。同時に、内部再組織化によって急進的潮流(たとえば、「バンディエラ・ロッサ」の同志たち)が党指導部に参加することが可能になった。PRCのこの政治的変身は、伝統的共産党内の分化を進行させる決定的要因の一つとなった。
 一種の三角形が出現した。他の二つの極となったのは、フランス共産党(PCF)とKKEである。PCFは政府への参加を含めて社会自由主義を支持している。KKEはスターリニズムの遺産と社会的運動に対する共産党の支配に執着しており、闘争の社会的急進化を「向こう見ずな」反帝国主義(親ミロシェビッチ、親サダム・フセイン)に結びつけ、グローバルな正義を求める運動が体現している新しい急進主義を拒否している。
 PRCの急進的進化は、党指導部が急進的左翼に対して新しいアプローチを採用するまでに至っている。急進的左翼は未だまったく少数派に過ぎないが、社会的運動の中では非常に活動的で、選挙においては前進を遂げている
 フランスの選挙の結果に対して、PRCの新聞は次のようにコメントした。「これらの選挙は、ヨーロッパと世界の中道左派の歴史を決定的に閉じるものであった。(中略)フランスでは、イタリアやヨーロッパと同じように、再建が日程に上っている」。
 一般に、出席し討論に参加した諸党は、持っている意見は堅固で、矛盾は強かったにも関わらず、論争には関与しなかった。反資本主義左翼会議とは異なり、伝統的共産党にとってはこの種の論争は習慣を外れていたのである。
 討論への参加は、どれも非常によく似たものだった。PRCへの「敬意」、自分たちの分析と活動の紹介、二〇〇四年六月のヨーロッパ選挙共通候補者リストと左翼オルタナティブのヨーロッパ政党の二つの提案に対する言葉の上での同意が表明された。しかし、PRCが作成した文書は、政治的合意の基礎となることを想定したものだったが、この文書については事実上無視された。
 二日目、唯一「論争的」だったのは、複数主義的左翼の政府に関するLCRとPCFの間の論争だった。われわれの観点は周知のとおりである。すなわち、情勢の力学は、戦争政治と制度的構造としてのEUによる新自由的攻勢によって決定されている。政治的キャンペーン、社会的動員、EUと手を切ったもう一つのヨーロッパのための闘いによって、この力学に急進的に対抗することが必要である、というものである。
 これにはオルタナティブ・プログラムが前提になる。それはEUを危機に投げ込むような社会的、民主的なオルタナティブ・プログラムである。そこにはともに行動するための空間が確かに存在し、焦点を中心に結集することができる。政治的テストとなるのは、政府の問題である。社会自由主義的プログラムに基づいて社会民主主義が支配する政府に参加することは、被搾取・被抑圧階級に全面的に有利な綱領を通じてこの攻勢と勢力を打ち破ることを追求する総合的な戦略とは両立しない。
 会場の緊張はかなり高まった。これは前例のない場面であった。しかし、全面衝突は起こらなかった。反対に、PCFの代表は、LCRに対して一つ一つ反論し、ユ路線とジョスパン政権でのPCFの経験を擁護し、かつ将来のためのいくつかの修正を行った。
 労働者運動および社会的運動の力学は、ヨーロッパ社会民主主義を推進力とする社会自由主義的左翼と反資本主義的オルタナティブを擁護する急進的左翼への分化を非常に明確に示している。しかし、これが問題の結論のすべてではない。
 グローバルな正義を求める運動の登場は、社会の分析、政治路線、組織化の方法、現場での行動の仕方に深い影響を及ぼしている。この運動が世界中で登場し、何百万もの若者や若くはない人々が街頭を埋め、何十万もの人々が「新たな」組織の建設にかかわることによって、すべての政党は挑戦状をたたきつけられたのである。労働者運動や社会的運動の広範な再組織化が進行している。
 今日、社会民主主義諸政党は、政府から追い出された後(英国やドイツでは政権にとどまっているとしても)困難の中にあり、野党として立て直そうとしているが、新自由主義的綱領を放棄してはいない。しかし、具体的要求をめぐって彼らと統一行動を取ることを除外すべきではない。
 「穏健派」共産党にとっては、新たな「中道左派」の出現を準備することへの誘惑は非常に強い。スペインのIUで進んでいるのはこれである。ギリシャ(PASOKとシナスピスモス)でもこれが起こらないとは言えない。テストはこれからも続き、ますます厳しくなる政治情勢の中で、社会的動員、大衆的ストライキ、市民やエコロジストの闘いなどの圧力の下でテストされるだろう。社会自由主義的左翼と急進的左翼の間の鮮明な分化のプロセスは、これらの新しい経験の光の中で深化するだろう。私たちは共産党の行動を注意深く追跡する必要がある。
 他方では、政党と社会的運動の関係は、「諸運動の運動」の力、その動員や政治的可能性の影響を受ける。この力はヨーロッパでは国によって非常に不均等である。この側面の一つとして、新しい世代が政治的領域を(再)獲得したことがある。これによって政党は、最も基本的な機能、すなわち選挙の候補者リストを提出するだけの役割に追いやられる可能性がある。
 「運動」の活動家たちは運動自体を「政治的実体」(イタリア人の言い方に従えば「政治的主体」)とみなし、自分たちの投票や意見を既成の政党にゆだねようとはしない。これは、多くの場合小さなセクト主義的な、「革命的政党」あるいは革命的政党の核にもあてはまる。この新しい「主体的」状況に対応することができる複数主義的反資本主義「党」の建設に取り組むには、新しいアプローチが必要である。
 PRCの(ヨーロッパの重心を構成する国における)経験は非常に興味深い。すなわち、社会的運動と対等の位置を占めている党が、ヘゲモニーや操作を求めなかった。ヨーロッパ社会フォーラム(ESF)をめぐる同党の活動や「百万人デモ」での活動は、模範的な立派なものであった。
 これは共産党だけでなく革命的左翼にとっても挑戦課題である。PRCがヨーロッパ党への道を歩み始めたとしても、そこにはこれから対応しなければならない多くの困難な領域が残されている。コペンハーゲンにおけるヨーロッパ反資本主義左翼会議(二〇〇二年十二月)は次の段階となるであろう。(「インターナショナルビューポイント」02年12月)

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