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韓国は、いま                    かけはし2003.5.26号より

4・20鉄道スト回避-裏切りか、予想外の善戦か、相反する2つの評価(上)

イ・チョンヒ(鉄道解雇者、韓国労働理論政策研究所・教育委員長)



スト撤回をめぐる対立と激しい論戦

 「今回の合意は『ストライキ闘争』を通じて鉄道組合員らの力を動員してみもせずに、執行部が自ら妥協と屈従の道を選択したという点で巨大な敗北だった」(「合意案否決闘争委員会」結成についての提案文から。キム・サンノ鉄道労組京畿―山線駅支部長)。
 「鉄道労組が『ゼネスト』の背水の陣を敷いて団協(団体協約)闘争を勝利へとまとめあげたことによって、今後の他の事業場の賃団協(賃金・団体交渉)にも肯定的な影響を受けるものと期待できるばかりか、全産業の事業場にまん延している損害賠償・仮差し押さえなど山積みした労働諸懸案の解決にも少なからぬ弾みとなるものと期待される」(民主労総『労働と世界』の解説記事から)。
 4・20鉄道労組のスト撤回をめぐって数多くの評価が舞っている。「労組上層部官僚の背信だ」。「違う。勝利した闘争だ」。「外注・下請け化を事実上、認めた」。「違う。持ち越した課題にすぎない」。「違う。施設、運営の分離を事実上、認めた」。「違う。これもまた未完の闘争課題として残したのだ」などなど。
 このような状況に分け入って論争を展開するのは難しい。鉄道で15年以上も活動してきたが、私はすでに闘争の主役ではないからだ。今回のストライキにおいて私はエキストラだった。ちらっと登場して通りすぎていくエキストラ。私は今回の闘争で単に解雇者の1人としてハンスト籠城に参加した。私が労働力の提供を拒否すると言ったとき打撃を受けているのは政府や鉄道庁ではなく、私が属している研究所や教育団体だった。そしてスト籠城の場や状況室をのぞきながら気をもんだ。そういうわけで中途半端な話をするのには慎重にならざるをえなかった。「いったいどこから、そんなたわごとを言うのか」というお叱りを受けかねなかったからだ。

どうして心配しないわけがあろうか

 私は心配な思いを隠せない。鉄道労組の活動家たちや幹部たちは2つのグループに分かれた。合意案を肯定する側と否定する側、執行部を擁護または肯定する側と否定する側が鮮明に分かれたのだ。ここに感情まで傷ついて非難する様相なのだから、どうして心配の先立たないわけがあろうか。鉄道闘争はいまなお進行中なのに、今回は戦列を再整備するのにどのぐらいの時間が必要なことか、昨年のようにストの後遺症や選挙の後遺症によって分裂し、現場を蚕食されることはないのか、心配しないわけにはいかない。

この1年間の闘争を振り返ると

 この辺で、この1年間を振り返ってみなければならないようだ。すべての事件には流れがあるものであり、その流れの中で判断しなければ飛躍や歪曲が後追いをするものだからだ。
 02年のスト闘争後、鉄道現場は持続的な構造調整の攻撃や弾圧に苦しめられた。組合はスト収拾の過程で指導力を失い、社側の反撃に耐えられなかった。現場の活動家たちは新たな現場組織の建設をめぐって1年間ずっと対立し、力を結集できなかった。その結果、ソチャン地方本部が御用組織に持っていかれ、テチャン地方本部は2回の投票の末にかろうじて守りきった。民主労総加入をめぐる賛反投票は辛うじて可決され、03年の争議行為の賛反投票は51%の組合員が投票し、57%が賛成した。御用組織の連中は「未来開拓連帯」という組織に結集し、鉄道庁の後押しを得ている。鉄道民主労組が、渦まく雨嵐の中で翻弄されている姿が見てとれた。この時1つの闘争が転機を作った。スセク地区の不当配転反対闘争において鉄道の活動家たちは自信感を手にした。本組はこの相当の成果を受けて仮差し押さえに対抗する規定順守闘争を展開し、これを通じて闘争の戦列を再整備した。そして「ノ・ムヒョン政権初期が闘争のチャンスだ」との判断のもと、4・20ストライキ闘争の方針を確定した。

単独で旗を立てる困難な状況の中で

 03年の鉄道スト闘争は単独で戦線を立てなければならない難しさがあった。いつからか単位事業場の闘争は所属連盟の責任であるだけで、全体の運動の援護はしないようにする風潮が定着していた。鉄道ストは、それ自体で全国的な闘争戦線が作られていくものだが、今回のスト計画ほど関心を集められないことは、かつてなかった。日本の鉄道労組は民営化反対闘争の時に3750万人の署名をともに組織した総評の援護があった。
 ソウル本部が戦列を再整備したのは、それでも幸いなことだった。ソウル本部は精力的にスト闘争を組織し、本組執行部に力を与えた。その結果、鉄道労組は4・20スト前夜までに京釜線側と首都圏電車側は完全にマヒさせられる破壊力を持てるようになった。そのほかには全体的に昨年の動員能力の半分程度と評価できた。相当数の機関士支部長らは今年も動揺し続けていたし、自分の都合や雰囲気によって組合の闘争指針を履行した。
 彼らは闘争基金を募金した後、そのまま保管していて、説得を受けてやっと組合に納付した。車両側は、これまでと変わらぬ主力部隊、だが4・20スト撤回によって最も失望した状態にあり心配だ。士気によって生きもし死にもする労働組合運動において主力部隊の肩ががっくりしているというのは尋常ではない。駅務側の動力低下、施設側は4千余人中150人の参加、これがストを構え進軍していた鉄道労働者部隊の戦列だった。

指導の責任を避けることはできない

 スト闘争を組織するうえで委員長が示した態度は大きな力となった。「組合は犠牲者補償基金を追加して策定する余力はない。だから自信のない幹部は、いま辞退せよ」(鉄道労組中執会議でのチョン・ファンギュ鉄道労組委員長の発言)。「委員長が最も闘争の意志が強く、幹部らはこれについていっているという状況だ」(鉄道労組某中央幹部の言)。
 このような委員長の態度は知らず知らずに幹部や組合員らに伝染した。鉄道労組が譲歩交渉をしないだろうということ、5大懸案について一括妥結の態度を堅持するだろうということ、解雇者の復職や構造改革など最大の焦点課題を労使政委員会に委ねはしないだろうとの信頼を抱かせた。
 だがストを組織する能力において、そして隊伍を指揮する能力において鉄道労組は失望気味だ。4・20スト前夜において、特に合意案が導き出された後、もたらされた混乱において鉄道労組が示した指導力は期待以下のものだった。鉄道労組中執の状況掌握および処理能力はスト闘争を前提にしたとき、腰の定まったものではなかった。
 このような指導力や判断力で政権と正面戦をやったなら、その勝算は極めて見込みのないものだっただろうと判断する。ひとたび粉々になったら数年はかかる回復期に、鉄道はすでに構造調整の攻撃や自由化攻撃に揺らいでしまっていただろう。解雇者たちは現場に戻れず、生涯を耐える覚悟をしなければならないというのは副次的、枝葉的な問題にすぎなくなっただろう。
 事実がこうであるのに「ストライキは労働者の学校であるのに、その学校の門を閉めた」式に図式的な評価をすることに私は同意できない。94年に一敗地に塗れた指導部として私は「指導部であるなら闘争の勝利のために最善を尽くすべきであり、指導力のない指導部は組合員にとって災いだ」といつも考えている。身を捧げ闘うからと言って指導力の責任を避けることはできない。一度の失敗が闘争を台無しにするとき「それは、あり得ること」だと糊塗してもいけない。労働者たちは失敗を通じて成長するけれども、決定的な一回の敗北は運動を一時期ずっと後退させもする。

スト回避で修羅場に変わった現場

 個人であれ組織であれ、その力量はスト闘争の際、劇的に表れる。全面激突、迫力満点の鉄道スト闘争は特に、そうだ。ストの破壊力は国全体を揺るがし、状況は劇的に反転するが、指導部はいかなる判断、いかなる指針を下すのか右往左往させられる。相当の判断力、瞬発力、経験を持てなかったなら手遅れとなって騒ぐか(94年のスト)、おじけづいて状況に押されて一方的に回軍するか(02年のスト)、状況を把握さえできず燃える火に油を注ぐか(03年のスト撤回の過程)するのだ。
 状況室、交渉場、籠城現場、地方拠点の疎通は完璧に断絶した。これが03年、高麗大(で籠城していた労組員らの)混乱の主原因だった。組合員は興奮し、本組や地方本部、そして現場の幹部たちの間には誤解が増幅された。合意案は互いに異なって理解した人々によって正反対に扇動された。指導力はマヒし、熱を帯びた人であればだれもが、ひとことずつ吐き出さないわけにはいかなかった。現場の幹部も組合員も、そしていわゆる連帯闘争のために隊伍に参加していた人々も。このような状況を収拾しようとする人々は目につかず、気分のままに、帯びた熱のままにひたすらまくしたてる現場で、私は力が抜けてしまった。そして鉄道民主労組運動の実力はこんなものかという自責の念におそわれた。
 少なくとも鉄道労組のスト状況室であれば、その人員は20人ぐらい必要だったはずだ。そうして互いに役割分担をし、最も適切な判断と指針とを即刻作り出す体制とを備えていなければならなかった。連絡を専担する人々は連絡を専らにし、状況を整理し判断できる最小限の会議体制を持っているべきだった。そればかりか直ちに出動できる機動力のある別働隊を所属ごとに数人ずつは確保し、非常待機させなければならなかった。スト籠城現場や、まだストに参加できなかった鉄道の現場には、状況室の統制を受ける連絡および指揮の責任者が地方本部の支部ごとに複数で指定されていなければならなかった。01年の鉄道労組総選挙状況室や02年の発電労組ストの状況室と比較するとき、そして指導部の全員会議体で稼働される00年共闘本部の状況室と比較するとき、鉄道労組03年の状況室は88年のスト状況室よりも、はるかに寒心にたえないレベルだった。
 このような現実は鉄道庁長が合意書の調印を拒否し逃げ去ってしまったとき、それから再び現れてハンコを押すときまで、全く改善されなかった。改善どころか疲労しきった幹部たちは放心状態で、何をすべきかの思案さえつかない無政府状態がずっと続いた。この点を鉄道労組の指導部は反省しなければならない。そして、その混乱した様について組合員らに謝罪し、しっかりするよう努力しなければならない。
 断言するが高麗大での混乱の原因は合意案のせいではなかった。スト撤回の過程で表れた指導力や意思疎通の不在、そしてこれを収拾できない状況掌握能力の不在が、その原因だった。すでに熱を帯びたストの隊伍の耳に合意案の内容がキチンと聞こえるわけがなかったのだ。(つづく)(「労働者の力」第30号、03年5月5日付、イ・チョンヒ、鉄道解雇者、韓国労働理論政策研究所・教育委員長)
 注 「労働情報」第622・3号(03年5月1日付)の速報「韓国鉄道労組勝利」によれば労使合意書の要旨は次のとおり。1、機関士1人乗務中止、2、1500人の不足人員補充、3.解雇者45人の復職、4.損賠・仮差し押さえ取り下げ、5.民営化撤回、施設と運営(維持保守含める)の分離による公共性ある対案を模索する。


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