イタリア かけはし1999.1.25号より

プローディ政権崩壊と共産主義再建党の分裂

「オリーブの木連合」の新自由主義予算案を拒否した革命派の闘い

 98年10月9日、2年半にわたって政権の座にあった中道左派連合「オリーブの木」プローディ政権が崩壊し、10月21日、プローディ政権の与党第一党である左翼民主党のダレーマ書記長を首相とする新政権が成立した。プローディ政権を崩壊させたのは、同政権に閣外協力してきた共産主義再建党が第四インター派を中心とする党内左派の闘いによって、全国政治委員会で予算案に反対することを決定したことであった。

 われわれの同志であり、共産主義再建党の全国指導部の一員であるリビオ・マイタンが、共産主義再建党の分裂とプローディ政府の崩壊の後のイタリア政治情勢について分析した。
 周知のように、イタリアでは1996年以来、プローディ中道左派政権(オリーブの木連合)が成立してきた。しかし、この政権の2年半の実績は、選挙を通じて表明された人民大衆の期待(とりわけ南部で深刻な失業問題に対する真剣な取り組み)を裏切るものであり、ヨーロッパの多くの社会民主党政権と同様に、資本主導の現在のヨーロッパ統合過程を推進するために、こうした大衆の要求に背を向けることであった。
 こうした人民大衆の不満は、共産主義再建党という水路を通して、昨年十月に爆発した。失業対策などがまったく不十分な1999年度政府予算案の議会での採択をめぐって、共産主義再建党が、全国政治委員会を開催し、プローディ政権への閣外支持を撤回し、政府予算案に賛成投票を投じないという決定を下したのであった。
 この路線転換に反対し、政府支持の継続を主張する、もとソ連派のコスッタ党委員長らは、少数派になり、全国政治委員会で敗北すると、分裂に訴えて新しいグループを結成した。この過程で、ベルティノッティ党書記長を中心とする多数派は、このコスッタ派と対抗するために、党内最左派(リビオ・マイタンらのトロツキスト派を中心とする潮流)とブロックを組まざるを得なかった。


 【ローマ発】リビオ・マイタンはときの人である。彼は、ファウスト・ベルティノッティ共産主義再建党書記長が十月四日の同党全国政治委員会で絶対多数を獲得するのを可能にし、ロマノ・プローディ中道左派政権への共産主義再建党の(閣外からの)信任を撤回させた同党少数派の指導者だからである。
 イタリアとヨーロッパのトロツキズム運動の歴史的人物であるリビオ・マイタンの人物像やインタビューが、これまで彼の立場にあまり大きな関心を示してこなかった新聞やマスコミの中で数多く登場している。プローディ政府を倒したのは「トロツキスト」である、と新聞は憤慨しているのである。
 しかしながら、マイタンに率いられたこの勢力は、トロツキスト出身者やマルコ・フェランドに代表されるもうひとつのトロツキスト潮流出身者に所属している人々だけに完全に限られているわけではない。そしてこの勢力は、けっしてベルティノッティを支持したいと考えてきたわけではないのである。そうしている間にも、共産主義再建党は、その委員長アルマンド・コスッタのイニシアチブでその歴史上最も深刻な分裂を経験した。
 コスッタ委員長は、共産主義再建党の国会議員団の多数派であったが、プローディ政府を救うことができず、同政府は下院でわずか一票差で信任を得ることができず、敗れた。彼は、新党(イタリア共産主義者連合)を結成する意向を表明した。というのも、イタリアで戦後初めての「左翼」政府を崩壊させた責任者であるベルティノッティを有権者が罰するだろうとコスッタは確信しているからである。
 共産主義再建党は、1991年にイタリア共産党が左翼民主党に転換したときに生まれた。そして、コスッタの側近の考えでは、最近の事態の中でトロツキストが演じた役割がこの共産主義再建党内で「その歴史的起源にもとづく変化」が生まれたとする考えを固めさせることになった。これに答えざるを得なかったベルティノッティは、「トロツキストという非難が今なお侮辱的意味をもち続けているとすれば、それはスターリニズムがまだ死んでいないことを意味する」と宣言した。
 この回答は、コスッタの経歴を思い起こさせないわけにはいかなかった。彼は、エンリコ・ベルリンゲルに反対して、ブレジネフのソ連と緊密な結びつきを守った旧イタリア共産党の「ソ連派」指導者の一人だったからである。
 現時点では、中道左派が前大統領のフランチェスコ・コシガの中道派の支持を得て新政府を――プローディを首班とするのかそれともプローディ以外の人物が首班になるのかに関わりなく――形成することができるのか、それとも議会が解散されるのか、を言うことはできない。
 共産主義再建党指導者であるリビオは二つの出来事を分けるように促している。「一方には、政府危機がある。それについての『そうなったのはベルティノッティのせいである』という現在の解釈は、少なくとも不十分であり、一面的である。この危機は実際には、イタリアの政治的枠組みの深刻な不安定さと、左翼民主党、旧キリスト教民主党の人民党、緑の党、中道派の小さな小組識を結集した『オリーブの木』連合の内部矛盾を反映している。他方には、共産主義再建党の全国政治委員会の決定とそれがもたらした亀裂がある」。
 共産主義再建党はその指導集団の中の三分の一を失い、その十二万人の支持者のうちの10%から20%が一部の都市と地域(特にトリノとトスカーナ州)とともにコスッタについていくだろう。一年間の激しい政治闘争と機構の間の争いによって揺さぶられてきた党に対して、今回の分裂が与える志気阻喪の影響については、10月17日の再建党の全国デモが決定的なテストとなるだろう。ベルティノッティは10万人の参加者を見込んでいる(1)。


同志リビオ・マイタンへのインタビュー

共産主義再建党は、どうして、どのように分裂したか

――再建党で何が起こったのか?

 ベルティノッティとコスッタとの間の相違は、1996年のプローディ政府成立後に展開すべき政策をめぐる二人の指導者の間の違いであったが、当初、これについて何らの説明もなされなかった。コスッタ委員長は、たとえ公然たるやり方で自らの立場を定式化しなかったとしても、議会会期の終りまでプローディ政府を支持し続けたいと望んでいたのに対して、ベルティノッティ書記長はそうはけっして言わなかった。
 共産主義再建党のこの書記長にとって戦術的作戦が重要だったのであり、こうした戦術的作戦を行っているかぎり、ベルティノッティは1996年4月の選挙から生まれた多数派と決別するという責任を取らないでいることができていた。
 ところがある時点から急に、ベルティノッティ書記長は総括を引き出す必要があると感じ始めた。しかも現実はきわめて明確なものとして立ち現れている。任期半ばを過ぎる2年半が経ったのに、公式統計が示すところでは、失業がますます増え、勤労階層を含む人々の間で窮乏化もまた深まっている。
 それはまずい事態である。なぜなら、人々は、失業をなくしてしまうことを望んでいなかったとしても、少なくとも失業の減少に向かって前進することを望んでいたからである。そして、限られたものではあるが、最近のさまざまな社会の爆発的出来事もまた、ベルティノッティ書記長をプローディ政府との閣外協力撤回の方向へと押しやることになった。

――この1998年11月から1999年5月までの期間に予定される選挙の開催を妨げることになる「空白の半年」(2)の見通しは、今回の決定に際して問題となり得たのだろうか?

 ベルティノッティは、「空白の半年間」が重要な要素であったということをきっぱりと否定している。しかも、コスッタによれば、選挙を実施すれば確実に右翼が勝利することになる。それに対してベルティノッティは「この主張こそ現政府の破産を示すのに最もふさわしい自白である」とコスッタに反論した。だれも選挙結果をあらかじめ決定することはできないし、いずれにしてもそれを考慮することが決定的だとは思われない。
 概して次のような「推理小説的」解釈は退けなければならない。すなわち、ベルティノッティは以前、ダレーマ左翼民主党書記長に反対してプローディとあいまいな関係を結んでいたのだが、いまでは、多数派の中の第一党=左翼民主党の指導者に脅威を与える役割を果たしているプローディ首相に反対してダレーマを支援しているにすぎない、といった類の推理は退ける必要がある。

――ベルティノッティは常に、左翼民主党と協定を追求すると一貫して述べている。これについてどう思うか?

 そうは彼は言っていない。彼が言っているのはまったく単純に、閣外協力の取消しが共通の民主的、社会的要求をめぐって将来に協力し合うことを妨げるものではないということにすぎない。これは私には妥当であると思われる。
 ――ベルティノッティと共産主義再建党内の左派部分との間の一致とはどのような性格のものなのか?  その展望とあなたの不安材料は何か?

 コスッタは、ベルティノッティ=マイタンの同盟が1996年の共産主義再建党の大会多数派からの決別を意味するのであり、それはある種、無原則的な同盟である、と主張している。それとは正反対に、一九九六年の大会は会期の最後までプローディ政府を支持し続けるという決定を行っていないのである。選挙キャンペーンの中で、われわれはプローディ政府の成立を認めるが、後は具体的な証拠にもとづいて政府に対する態度を判断していくということを確認していた。
 私の意見では、2年半の間、共産主義再建党の多数派は、政府の政策がわれわれの立場とは対立するときでさえ、大会から託された任務を尊重することなく、政府を支持し続けたのだ。
 しかも、全体的に言うと、前大会多数派が新しい問題や異なった情勢に直面してもなぜ変わらなかったのか私には分からない。これは、政治闘争における分派主義的概念を反映するものである。多元主義とは、部分的な一致によっては乗り越えられない異なるさまざまな政治的諸傾向の存在を意味するが、このことは政治的協定に際して全面的一致に至ることとは矛盾しないのである。

――ベルティノッティとのこの一致は持続するのだろうか?

 その展望についてわれわれはまだ論議していない。それでも、ベルティノッティはいまのところ、自分の発言内容をより急進的なものにし、1996年の選挙までの時期に自らが力説していた点を再発見せざるを得なくなっている。その点については、たとえばすでに週35時間労働の問題について見ることができる。
 彼は、失業の増加によって労働時間を削減せざるを得ないし、もはや2001年1月1日(議会では、けっして現在からではなく、政府の法案が想定している緩衝期)まで待つというのは満足できないことを認めた。この方向へと彼を追いやっているのは、イデオロギー的配慮ではなく、現実なのである。
 私について言うと、長期失業者の集会に対して「諸君は、2001年まで待たなければならない」と宣言する勇気をもつものはだれもいないだろうと、長い間断言し続けてきたのである。
 さらに、コソボへのNATOの軍事介入について、ベルティノッティは国連を美化しようとはしていない。帝国主義的侵略は、たとえそれが国連によって保証されているとしても、その本質に変わりはない、と彼は断言している。これは私にとって十分に意味のあることだと思われた。
 ――コスッタは自分の新党を結成した。この選択は、イタリア共産党を離れて共産主義再建党を結成し、左翼民主党の民主リベラル的な偏向に反対するという彼が下した決定を見直させるものではなかろうか?

 それは少し言い過ぎだが、共産主義再建党と左翼民主党との間の余地は非常に限られている。コスッタは、1995年に自分たちが共産主義再建党を出発させた後に、共産党員の統一を試みて失敗したが、この作戦を再び繰り返そうと試みている。そして、彼は、自分がファミアーノ・クルチアネッリ(このような潮流の指導者で、その後、左翼民主党に統合された)ではないと言っているけれども、彼は同じ問題に直面することになるだろう。
 なぜなら、この余地はないからである。確かに、彼は圧力グループの小さな作戦を実現することができるだろうが、これは、彼のような人間にとって相当につらいことである。しかも、いわゆる非常にプラグマティックなコスッタのような人物が政府を救うのに成功しなかったのである。
 彼には正確な計画がなかったと思う。全国政治委員会の前に、ベルティノッティとこの点について討論したが、彼も同意見だった。だから、われわれは分裂の可能性を想定していなかったのである。

――分裂は共産主義再建党内にどのような結果をもたらすのか?

 大衆運動の中でよりも機関の中で活動していた人々は、今日、コスッタの側に移った。党の独自の影響力は変わらないだろう。にもかかわらず、情勢を分析するには待たねばならないだろう。だが、当面、プローディ政府成立前の位置、すなわち、イタリア社会の最も急進的な部門を代表する位置にまで党を戻せるかどうかということが、決定的に重要である。

――イタリアのマスコミは、かつてないほどマイタンとトロツキストについて報道しているが。

 労働運動の再編がイタリアで進行しているので、われわれはある役割を果たしているのである。われわれの観点からすると、それは疑う余地のない、まったくあり得ることである。多くの新聞が、政府打倒にトロツキストが決定的役割を果たしたと書いている。これは、形式的には逆説的だが、本当であった。彼らは、イタリアの政治的枠組みの極度の不安定性を特別に確認しているにすぎないのだろう。
 (1)コスッタやマスコミの中傷キャンペーンにもかかわらず、共産主義再建党が呼びかけた10月17日のローマでのデモは大成功をおさめ、10万人から15万人が参加し(警察発表7万人、再建党発表20万人)、そこには多くの青年が結集した。
 (2)共和国大統領は、任期の最後の6ヵ月間、議会を解散できない。オスカル・ルイジ・スカルファロ大統領の任期は来年五月までであるが、大統領がそれよりも前に辞任すれば、この任期満了日前に選挙が可能になるだろう。しかし、大部分の評論家は、1999年6月のヨーロッパ議会選挙の前に、議会選挙がなく、スカルファロ大統領と中道左派政党が議会解散を望んでいないとみている。
(第四インター・フランス支部LCR機関紙『ルージュ』(98年10月15日号)

リビオ・マイタンら共産主義再建党全国政治委員二十四人の宣言

【編集部――共産主義再建党全国政治委員会は338人の委員によって構成されており、そのうち6人が欠席していた。採決は4つの動議をめぐって行われた。第一号動議は、CGIL(イタリア労働総同盟)の少数派労働組合指導者、ジアン・ポオロ・パッタによって提出されたものであり、予算案が不十分であり、その改善のために闘わなければならないと説明し、党内で持ち上がっている政治的諸問題をめぐる論争を大会に差し戻す一方で、党の議員団に対して予算案に支持票を投じるよう求めるものであった。これは、全国政治委員会で5票(1.5パーセント)の支持を得た。
 第4号動議(ベルティノッティその他)が188票(56.62パーセント)を、第3号動議(コスッタその他)が112票(33.73.73パーセント)を、第二号動議(フェランドその他)は24票(7.22パーセント)を獲得した。
 以下に紹介するのは、24人の全国政治委員(マイタンその他)の宣言の抜粋である。この24人の全国政治委員は、前大会(1996年12月)で少数派の代表として選ばれた人々であり、今回の全国政治委員会ではベルティノッティ動議へ支持票を投じた】。
『インプレコール』(98年11月号)
 2年間の多数派政府への参加についてわれわれが引き出した否定的、批判的収支決算にもかかわらず、われわれ(24人)はベルティノッティ動議に支持票を投じた。なぜなら、その動議が、予算案に対するアプローチと予算案の内容について明確であいまいさの余地のない判断を表明するとともに、中道左派政権と決裂して野党に戻って、われわれの政治的計画のオルタナティブとしての側面を再び展開する諸条件を作り出すという結論を引き出しているからである。
 (中略)……われわれは、政治の転換のために2年間にわたって闘ってきた。われわれは、この闘いに参加したすべての人々に、この機会を利用して提起されている政治的選択を全体として支持するよう促すものである。わが党のイニシアチブと計画を再び推進するためにこのような選択から出発しなければならない。
 われわれの側としては、党が直面するであろう諸困難やすさまじい圧力に直面してすべての責任を引き受けなければならない。政府との間のこの決裂は、セクト主義的撤退とも、左翼全体が経験しつつある諸困難と危機に対する万能薬であるとも、解釈することはできないだろう。逆に必要とされているのは、党が参加している人民大衆の活動のいっさいの潜在的能力を発揮させることである。
 この決裂は、具体的な闘争に向けて他の左翼勢力との社会的、政治的同盟を建設することを断念することではけっしてなく、社会的分野での運動、大衆の闘争とキャンペーンを活性化するための手段となり得る。野党に回ることによって、左翼の統一的関係を労働者と人民大衆の内容と利益が優先されるようなものとしてに常に維持できるようになる。そこに、労働運動が必要とする野党、わが国に新しい局面を切り開くことのできる唯一の党、が生まれる。
 イタリアとヨーロッパで社会的争議を再度推進するために、正面対決から物質的利益を受ける社会的内容、社会運動、社会勢力を指し示すことを通じて右翼に対して有効な闘いを展開するために、イタリアの左翼民主党やヨーロッパにおける社会民主党勢力に対抗してすべての領域で左翼内部と労働運動内部でのヘゲモニー獲得への挑戦を再開するために、このようなやり方で反資本主義的オルタナティブの諸条件を再建することによって支配階級のブロックに取って代わる社会的ブロックを再結集する推進的要素に再びなるために(中略)……。
 発生しつつある景気後退は、雇用と労働者の成果に対する経営者の攻撃を激化させる。週三十五時間労働の法律の即時制定を要求し、その早期実施のために闘うことによって、そうした攻撃に対して適切な政策を対置しなければならない(国際的観点をも含めて)。党の構造およびあらゆるレベルの指導集団を転換し、党を再び活性化するためには、われわれは政府との決別から出発しなければならない(中略)……。
 これらの任務を達成する上で、党の統一は貴重な手だてである。とりわけ意見の違いの表明においても党建設においても、不可能な「総合」を要求するのではなく、自身の責任を引受けることによって、さらに党内で民主主義と政治的多元主義の適切な実践を再び推進することによって、党の統一を防衛することができる。今日、われわれが行う選択から出発して、われわれの戦略的展望を再び定めることを目指す大会準備のコースを立案しなければならない……(略)。


「トロツキストのせいで政府が倒れた」

イタリア・マスコミの大騒ぎ

 共産主義再建党内の対立と政府危機が発生する中で、トロツキストとトロツキズムがイタリアの新聞やラジオ・テレビにおいてさえ格好の話題となった。共産主義再建党でベルティノッティ党書記長とコスッタ委員長とが決裂した後、前の全国党大会で左翼少数派の代表として全国政治委員会の中で選出された48人の委員(15%)の意見が、再建党の全国政治委員会の中で最終的な決定権を握る可能性が生まれたからである。
 これによってきわめて緊張した事態が数日間続き、そのためにマスコミはありとあらゆる憶測を流した。だが実際には、これらの48人のうちのどの委員もコスッタ路線を支持しないことは最初から明白だったのである。
 この国の最も有名な日刊紙、『コッリエレ・デッラ・セーラ』、『ラ・レプブリカ』、『ラ・スタンパ』、『イル・メッサッジェロ』、『ウニタ』および地域で流通している日刊紙は、ほとんど場合、非常に短絡でときとして明らかに空想の産物でしかない数多くのルポルタージュや写真や論評を発表した。リビオ・マイタンとマルコ・フェランドが何度もインタビューを受けた。
 すでに、9月24日に『ラ・スタンパ』紙は「教授とトロツキストたち」という題名の記事を発表した。そこにはとりわけ「少なくともソ連と中国の堕落という問題に関しては――これは決して小さな問題ではない――トロツキストたちの方が正しかった」と書かれていた。
 共産主義再建党全国政治委員会が開催される当日の10月3日、『コッリエレ・デッラ・セーラ』は「トロツキーとマイタン教授の『アイスピッケル』」と題する記事を掲載した。いくつかの週刊誌もトロツキストとその役割について論評した。
 ベルティノッティ=マイタンの同盟を支持することによってそれまでのベルティノッティ=コスッタの同盟を放棄したとしてベルティノッティを非難したコスッタのインタビューは、マスコミのトロツキストへの関心をよりいっそうかきたてることにしかならなかった。
 全国政治委員会で採択が行われた翌日、新聞は「ベルティノッティは、トロツキストの票で勝った」という見出しをつけた。一介の「老教授」がどうして政府を転覆することができたのだろうか?
 ローマのある日刊紙は次のように書いた。「政府危機は、(全国政治委員会の採決投票のときに)『第四』と叫びながら議長に近づいていったトロツキスト、フラヴィア・ダンジェリに似た様相を呈している」。(いささか皮肉なことには偶然の一致で、ベルティノッティ案は第四号動議と呼ばれていた)。
 10月15日の『コッリエレ・デッラ・セーラ』の週刊増刊号は、「プローディを倒した男、リビオ・マイタン。トロツキーからベルティノツキー」という見出しのルポルタージュを掲載した。
 翌日には、『ラ・レプブリカ』増刊号は同じく、「最後の革命派――この革命派は時々復活する トロツキスト、政府打倒に決定的役割」と題するルポルタージュを載せた。それと同じ日に、「トロツキー世代」と題する論文が、最も広範な読者層をもつ雑誌『パノラマ』に登場した。そこではとりわけ、一九九八年夏のデンマークで革命派の青年キャンプが組織されたことが述べられていた。
 10月7日の下院での投票に際しては、共産主義再建党の3人の議員がトロツキストの役割を演じ、「トロツキスト的ユートピア」の立場に立っていると報じられた。極右の国民同盟のフィニ総裁は、政府が非常に弱体なので、その命運は「時代遅れの」第四インターナショナルに属する22人のトロツキストにかかっている、と説明した。分裂後の公けの場における最初の発言で、コスッタは再び、ベルティノッティはトロツキストのおかげで勝ったのだとして、再びベルティノッティを非難した。
 ベルティノッティはこの問題を避けて通るようなことはしなかった。全国政治委員会での彼の結語は、原則の本当の確認を含むものであり、次のように述べている。「われわれは全員の活動を必要としている。とりわけ、自らの歴史によって、自らの特性によって、労働運動への自らの貢献によってわれわれの間で基本的役割を果たしている人々の活動を必要としている」。
 10月6日は、彼は、日刊『ラ・レプブリカ』紙上で次のように宣言した。「現在、われわれはトロツキストのおかげで勝利したと言われている。…このことは、われわれが自らの政治的国際性を証明したことを意味する。なぜなら、この思想潮流はヨーロッパの他の地域においてずっと以前から創造的エネルギーの担い手であり続けてきたからである」。
 最後に、『コッリエレ・デッラ・セーラ』紙とのインタビューの中で、ベルティノッティは、別の文化、別の人々に、イタリア共産主義運動の異なるさまざまな伝統全体に開かれていなければならないとする考えを改めて展開した後、次のように付け加えた。「政治闘争を展開しなければならないのはこれらの諸伝統のうちのひとつ、すなわち、スターリニズムの伝統に対してだけである、と個人的には思っている」。
 同紙の記者が質問した。「今日の1998年の時点でですか?」と。これに対して彼は「そうです。こっけいに思われるかも知れませんが、もし1998年においてまだトロツキズムという非難が不名誉なものであるとみなされているとすれば、スターリニズムはまだ存在しているのです」と答えた。
 高い視聴率をもつ放送番組の中で、コスッタの主要な仲間の一人、マルコ・リッツォは、もう一度、ベルティノッティの勝利がトロツキストのおかげだとほのめかした。そうするとこの番組の討論を司会していたジャーナリストが「それでも、スターリニズムよりもトロツキズムの方がましである」と切り返した。
(『インプレコール』98年11月号)