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ドイツ                        かけはし2004.09.27号

深まりを見せる社民党と労働組合運動との亀裂(下)

新自由主義政策に対する抵抗が発展している


「眠れる巨人」労組機構の危機

 シュレーダーは、賃金引き下げ政策に代わる政策はない、と絶えず繰り返している。彼にとって、それは国が受け入れなければならないグローバリゼーションの制約の一つなのである。
 彼の政府の綱領の第二の要点は、ドイツの政治への軍事の再導入である。シュレーダーは、これを彼の最も重要な政治的使命であると述べている。ベーベル、シューマッハーおよびウィリー・ブラントの党の首相の何という堕落であろうか!
 口が重いながら、組合指導部は再軍備と戦争に向かうこの道を受け入れている。彼らはドイツ労働組合主義のアイデンティティの重要な要素を不必要に放棄したのである。ヴェル・ディのトップであるフランク・ブシルスケは緑の党のメンバーであるが、彼を唯一の例外として、他はすべてSPDのメンバーである。
 ドイツの資本主義的統一以降、東ドイツと西ドイツの労働者の間には賃金と労働時間の深刻な不平等が存在した。ベルリンの街頭で賃金や労働時間が決定されるというようなグロテスクなことが行われている。
 IGメタルがついにあえて三十五時間労働を要求する闘いを開始したという事実は、それが成功しなかったとしても、一定の勇気の証拠である。西側出身の職員に支配されている官僚内部で長い論争が行われ、それは分派闘争に発展した。労働時間短縮を要求するストライキは、見せしめ的な敗北をきっした。ストライキ中に東側のIGメタルは多くの戦術的誤りを犯したが、三週間のストライキの後、組合のトップは何の投票もなしに、マスコミに対してストライキは終わったと発表した。
 この前に、組合職員の一部と、とりわけ西側工場の労働評議会のトップのすべて(特に自動車部門)は、組合に対してまったく裏切り的な宣言を発表して東側のストライキに間接的に影響を与えた。
 ストライキの後、IGメタルは強烈な分派闘争を経験し、反対派の二人の指導者ユルゲン・ペーターとベルトルド・ブーバーを指導部に選ぶことによって終わったが、それは指導部が緊張を緩和できるようにするためである。社会民主主義のこの部門の大きなプライドは依然として労働者運動の方に向いているが、敗北したストライキは、ドイツの組合権力がもはや大した値打ちがないことをくっきりと示した。
 長い間、危機のときでさえ組合員数を減らしたことがないために「眠れる巨人」と呼ばれているDGB(ドイツ労働総同盟)に、亀裂が生じ始めている。組合の方向感覚消失は頂点に達したように思われる。

左翼の覚醒とATTACの挑戦

 しかし、二〇〇三年は、残りの組合左派の覚醒の年でもあった。彼らは何年も惨めな存在であった。組合を動かそうと精力的に努力してきた組織された政治的左派グループが存在したが、大きな成功を収めたことはなかった。協約をめぐる団体交渉の文脈の中で、警告ストライキが行われた。イニシアティブを取るのは常にこの左派であった。
 しかし、イタリアやフランスやギリシャや、英国においてさえ知られているような種類の職場での自立的活動は、ドイツではパレルモの雪よりまれであった。連邦共同ネットワークである「労働組合左派のネットワーク」は個人の討論サークルであり、事態を前進させる意志さえ見られなかった。
 年金の部分的民営化を目指す法律に関する議会討論の時期に、初めて独立左派が組織した抗議集会が行われた。IGメタルの元ナンバー2のウォルター・リースターが提出した年金法を、阻止することはできなかった。しかし、左翼によるこれらのイニシアティブは、労働組合左派の新しいローカル・グループが形成される結果をもたらした。二〇〇四年春の団体交渉の時期には、一九七〇年代以来初めて、労働組合左派が姿を現し、独立した展望を提起し、独自のパンフレットを発行した。
 二〇〇三年、特に、有名な「アジェンダ二〇一〇」を発表した三月十三日の首相演説の後に、この長い間で初めて、非政治化していた下部からの批判的反応が見られた。仕事の安定とより良い賃金をもたらす人間の声を持った資本主義のために党が働くことを望んだがゆえに常にSPDに投票してきた人々が、反逆し始めた。SPD党員として留まってきた人々が、大量に党を離れた。ヘルムート・シュミットの時代には党は依然として百万人の党員を抱えていた。二十年間に、この数字は六十三万人に減少した。二〇〇三年だけで五万人近くが離党した。
 現党員の多くが、それを認めることを恥じている。世論調査によると、今SPDに投票するという有権者は三〇%を下回る。ドルトムント地区はSPDの伝統的な牙城であるが、今や、旧東ドイツ全体よりも多くの党員を抱えている。少し前から、SPDはすべての選挙で負け続け、世論調査会社は賃金労働者の間で党の信頼が深刻に失われていると語っている。
 二〇〇三年五月に、SPD労働組合指導部は最後に一回、昔のように政府の政策に反対して抗議運動を組織しようとした。しかし今回は、複数の都市で組織された集会とデモは九万人しか結集できなかった。数日後、DGB(ドイツ労働総同盟)のトップであるテオ・ソマーは、「夏休み」を発表したが、この表現は今や流行語の仲間入りをしている。
 歴史はもう一つの道を取った。ATTACドイツの夏期大学の枠組みの中で、職場の独立左翼や労働組合のカードルが、十一月一日にベルリンで全国デモストレーションを行う呼びかけを決定した。同時に、政府の決定とハーツ法に関する国会での議論に反対する政治ストライキが行われた。
 形式的には、これらのストライキは、憲法に保証された契約上の自治を保障する要求として打ち出されたが、実際にはSPDと政府に反対するストライキであった。下部組合員は大衆的にベルリンのデモに動員された。デモの十日前には、「上からの」指令なしの、しかし指導部のある種の加担をともなった組合動員をわれわれは経験した。結果は、赤と緑の政府の政策に反対するベルリンでの抗議デモへの十万人を超える結集となった。
 ヨーロッパ社会フォーラムの時期に、ヨーロッパ行動日が計画され、四月二日と三日がこのために設定された。二〇〇三年五月の動員や、十一月のベルリンをはるかに上回る動員が必要なことはだれにも明らかであった。欧州社会フォーラムは初めて、ヴェル・ディの組合指導者フランク・ブシルスケに会った。彼は、組合と社会的運動の新しい連合に賛成であると語った。
 このような言葉が労働組合運動のトップの口から聞かれたのは、この二十年来初めてのことである。自由な討論の時期が始まったのである。長年この中で活動してきたものたちは、政治的雰囲気のこの変化を理解し評価している。
 二〇〇四年四月三日のデモ直前の週末に、ヴェル・ディ左派の設立会議が行われた。左翼小グループのセクト主義的企てではない、組合指導部から簡単には軽視されない、反対派潮流が公衆の前に立ったのである。

新しい歴史が作り出されている

 社会民主主義に代わる政治的オルタナティブの問題を論じた二つの再編成が、現在新聞に取り上げられている。一つはベルリンにおけるものであり、もう一つは北ババリアにおけるものである。これらの二つの傾向は、最初に公衆の前に登場するという利点をつかんでいるとしても(議論の余地はあるが)、彼らだけではないし、必ずしも最も興味深い提案であるわけでもない。いずれにしても、いたるところで状況は動いている。
 おそらく、われわれは労働組合運動と社会民主主義の百五十年間の結婚生活の最終的な危機の中で生きているのである。英国の状況とは違って、この結婚は常に政治的なものであった。SPDと組合の間の構造的組織的関係にもかかわらず、そこには政治的独立性が存在していた。そこから、労働組合の党としてではなく、自立的労働者党としてのSPDの発展がもたらされた。
 今や、SPDと労働組合の間の政治的きずなは、解消の過程にあり、その結果は数百万の頭脳と心に影響を与えることになるだろう。そして、左翼は、新たな形態の大衆的政治に対処することが必要になるだろう。これは過去何十年もの間、決して有り得なかったことである。
 四月三日のベルリン、ケルンおよびシュツットガルトにおける大規模なデモは、このことの小さな兆候であった。それらは「上から」の組織化と「下から」の大いに自立的な動員の弁証法的統一の現れであった。
 過去においては多くの動員を阻止し押し戻していた労働組合官僚が、横に押しやられている。歴史が作られつつある。
 一方、何十年にわたってSPDにしがみついてきて、今、孤児になったように感じている専従者たちを、われわれは排撃しないようにすべきである。分化の過程は、労働組合運動を通じて、遅かれ早かれ具体的条件に従って進行する。ドイツにおいても国際的にも、労働組合運動は非失業者および失業者の労働者階級に対する大規模な攻撃をはね返すという巨大な任務に直面して、目覚めようとしている。同時に、世界中の人々が、ドイツの労働者運動がドイツ資本による「世界権力の掌握」を失敗させることを望んでいる。そこには歴史的次元の二つの任務が存在している。
 闘争の結果がどうなるかは誰にもわからない。社会民主主義との決別の途上で、もし資本および政府との必要な対決を避けようとすれば、労働組合運動はもちろん敗北することもあり得る。その結果は米国型労働運動になるだろう。左翼の任務は、そのような発展の道を阻止することである。巨大な統一連合、弱者との強い連帯の原理に基づいた労働協約団体交渉、立場と潮流の複数主義の保証の維持――労働組合主義のこのアイディアは必要な努力に十分値する。

原注 ディース・グライスは金属労働者でケルン地区の労働組合活動家。国際社会主義左翼(ISL、第四インターナショナルドイツ支部の二つの公式部分の一つ。もう一つはRSB、革命的社会主義者同盟)の指導部のメンバーで、月刊誌「SOZ(社会主義新聞)」の協力者。(IV誌04年5・6月号)



追悼 同志リビオ・マイタン

半世紀以上にわたる第四インターナショナルの国際指導部

反ファシズムレジスタンスの闘士

 戦後の第四インターナショナルで五十年以上にわたって国際指導部の任にあたっていたイタリアの同志リビオ・マイタンが、九月十六日にローマで病死した。八十一歳だった。
 一九二三年四月に生まれた同志リビオ・マイタンは、第二次大戦中にムソリーニ独裁体制とナチスドイツの占領に対する反ファシスト・レジスタンス闘争に参加し、社会党青年組織の指導部になった。戦後の一九四七年、彼は第四インターナショナルに結集することになった。一九五一年にインターナショナルの指導部に選出されたリビオ・マイタンはトロツキスト運動が最も孤立し、困難だった時代から、故エルネスト・マンデルらとともに第四インターナショナルを一貫して指導した。
 彼は老年になっても、第四インターナショナル統一書記局ビューローの一員として闘争の第一線から去ることはなかった。またイタリア共産党主流派の社会民主主義的転換と左翼民主党への解消に抗して一九九一年に結成された共産主義再建党(PRC)に合流し、第四インターナショナル潮流としての「バンディエラ・ロッサ(赤旗)」グループを指導した彼は、同党全国政治委員をつとめる党内左派の代表的人格となり、スターリニズムを克服したPRC総体の左翼化と発展、急進的青年同志の獲得に重要な役割を果たした。
 リビオ・マイタン同志は、昨年開かれた第四インターナショナル第十五回世界大会でも開会あいさつを行っただけではなく、各議案についても積極的に発言した。

リビオとの出会い、率直な人柄

 私がリビオ・マイタン同志に初めて会ったのは、一九八八年にアムステルダムで開かれた第四インターナショナルの国際学校に参加した時である。彼の講演や討論での発言は、実に率直かつ熱情に満ちたものであり、だれにもすぐ質問したり、議論をふっかける気さくな人柄に、強い印象を受けた。リビオは孫の世代の若い同志からもしたわれていた。茶目っ気の多い老人だった彼は、サッカーのユニフォームを着てボールを蹴りながら会議室に登場し、満場の爆笑を買ったこともある。
 一九九〇年代に入ってから、第四インターナショナルの国際執行委員会などに参加するたびに、彼は私をつかまえて日本の情勢や組織の状況について討論をした。会議での私のつたない発言にも、つねににこやかにうなずいてくれたことが、どれだけ励ましになったことか。
 何年か前、国際執行委員会に参加して彼といっしょに食事をしていた時、「実はいま自伝を書いているんだ」と話してくれたことがある。昨年の世界大会で、出版されたばかりのその分厚い自伝を購入することができた。この時に交わした会話が、彼との最後の思い出となった。
 第二次大戦下の反ファシズム・レジスタンスの時代から、二十一世紀初頭の反グローバリゼーション運動の時代までを献身的な革命家、第四インターナショナリストとして闘い抜いた同志リビオ・マイタンの生涯に心からの敬意を贈る。なお本紙では、イタリア情勢に関する彼の論文を多数訳載しているが、それ以外にも邦訳論文としては『トロツキー研究』27号「グラムシとイタリア共産主義」(98年10月)に掲載された「グラムシの革命的マルクス主義」がある。
 (9月17日 平井純一)                  


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