| 陳獨秀 (1879―1942) かけはし2004.10.18号 |
|
(東京大学大学院総合文化研究科教授・日本陳独秀研究会会長) |
(1)略歴 陳独秀とはいかなる人物か?
中国共産党の創設者で、中国トロツキスト運動の総帥でもあった陳独秀 に対する関心が中国で強まっている。今年九月には、中国の研究者を招いて日本陳独秀
研究会のシンポジウムが行われた。日本陳独秀 研究会会長で東大大学院教授の佐々木力さんから、陳独秀 の思想の意義について論稿を寄せていただいた。
現代中国において、彼は、第一次世界大戦直後の一九一九年五月四日に北京で起こったヴェルサイユ条約反対の急進的民主化の「五四運動」の総司令として果たした本質的役割によって、何より「ミスター・デモクラシー」(徳莫克拉西先生)として知られている。当時、陳は北京大学文科学長であった。北京大学の地位を得る以前、彼は一九一五年以降『新青年』(La
Nouvel Jeunesse)を刊行することで、新文化運動を指導していた。その運動が急進化し深化するや、彼は北京大学を辞し、同僚である李大
とともに、ロシア十月革命とマルクス主義思想から多くを学んだ。一九二〇年夏までに陳はマルクス主義を受け入れ、同年十一月には中国共産党を創党した。のちに、彼はその初代総書記に就任した。この意味で、彼は中国共産主義の創始者であった。彼は一九二五―二七年の労働者革命期間中、共産党を総書記の資格で指導した。しかし、革命的蜂起が最終的に、一九二七年四月十二日上海での蒋介石のクーデターによって敗北させられるや、自らの意思で総書記を辞任した。国民党と共産党との国共合作政策が不可能であることを悟ったがゆえであった。
スターリンとブハーリンによって指導されていたコミンテルンの日和見主義的政策を批判していた左翼反対派のレフ・トロツキイの重要文書を読んだ陳は、一九二九年、今度はトロツキストになり、その結果、直ちにいかなる正当な手順を経ることなく、共産党を追放されてしまった。一九三一年五月、中国共産党左翼反対派の統一組織が創設され、陳はその書記職に就いた。一九三二年十月、彼はトロツキズムの廉(かど)で蒋介石に逮捕され、日中戦争が勃発した一九三七年夏まで監獄にあった。南京の獄舎から釈放されたのち、陳は国民党・共産党・トロツキイ派の間の日本帝国主義の侵攻に抗する民族民主統一戦線を呼びかけた。陳は三〇年代末のソ連邦における大粛清を知って、プロレタリア民主主義を擁護し、社会主義は民主主義なしには不可能である旨を訴えながら、一九四二年五月二十七日に逝去した。
要するに、陳独秀 は、近代中国において三つの偉大な注目すべき生――ブルジョワ民主主義運動の最高指導者、中国共産党の創党者、最後に中国トロツキスト運動の指導者――を生きたのであった。かかる偉大な生のひとつだけでも生きられると誰が想像できるだろうか?
(2)中華人民共和国における陳独秀復権とその中途挫折
陳独秀 は「中国のトロツキイ」と呼ばれるのが妥当で、第二次世界大戦前のトロツキスト運動においてトロツキイ自身の次に枢要な人物であったと捉えられる。事実、彼とトロツキイは、同年の一八七九年に生まれ、トロツキイが年少の支持者によって「じいさん」と呼ばれたように、陳はトロツキイによって「中国のじいさん」と呼ばれた。けれども、毛沢東も周恩来も陳によって多大な影響を与えられたにもかかわらず、中華人民共和国の毛沢東支配下の数十年間、陳は単純に存在しないものとして扱われた。そのうえ、上海並びに他の大都市で活動していたトロツキスト及びシンパサイザーは、一九五二年十二月、「反革命罪」の廉で、実際には毛の親密な同盟者であったスターリンへの「誕生祝い」として、原則として全員が逮捕された。弾圧されたトロツキストの精確な数は不明であるが、約四百名が逮捕されたものと考えられ、そのうちの幾人か、たとえば、陳の弟子の鄭超麟は、毛の獄中に一九五二年から七九年までの二十七年間、拘禁されていた。鄭は蒋介石の獄中にも七年間いたので、総計三十四年間獄舎にいたことになる。これは、フランスの革命家オーギュスト・ブランキの獄中記録よりも長い。鄭は一九七九年監獄から釈放された時、将来もトロツキズムへの強固な信念を保持する旨の宣言を公的にしたと言われている。一九〇一年生まれの鄭は、一九九八年八月一日上海で九十七歳をもって亡くなった。彼は「ペテロのような殉教者の精神」をもって今日記憶されている。
しかしながら、一九七八年十二月に採用された小平(彼は鄭超麟の弟分であったことがある)政治路線に沿って、陳独秀 研究会が中華人民共和国において一九八九年に結成を認可された。かつてトロツキスト革命家として活動した少なからざる老人たちが、その研究会で活躍した。その第六回目の学術研討会が、陳の後期思想、すなわちトロツキスト期に関しての最初の会議として、二〇〇一年五月に浙江省温州で開催され、さらに、陳の逝去後六十周年を記念した第七回学術研討会が、二〇〇二年五月、南京で開催された。
私は日本におけるトロツキズムの代表的研究者として、それらの双方に招待され、二〇〇二年五月二十七日、南京会議において、日本人同志とともに、中国の陳独秀
研究会の姉妹組織として、日本陳独秀 研究会を創立した。陳は現在、中国知識人の間で尊敬されるべき人物と見なされており、社会主義的民主主義の象徴になっている。事実、陳独秀
についての数十もの好著が一九八九年以降出版されている。今や、陳にかつて貼られた「右翼日和見主義者」や「漢奸」(非国民)といったレッテルは使用しないように奨励されている。また『陳独秀
事典』や『陳独秀 全集』の刊行が準備されている。しかし、共産党に率いられている中国政府は、依然として反対派に対する抑圧的政策を持続させており、われわれは過度の楽天的展望を抱くことはできない。たとえば、トロツキストは政治的に活動することを許されてはいない。そして何よりも悲しむべきことに、先述の中心的研究組織、陳独秀
研究会は、二〇〇三年十一月、中国当局により突然解散命令を受けてしまった。
当面、この全国組織の復活は望みがたいけれども、地方での研究会活動は活発に行なわれ続けており、現代中国にとっての社会主義的民主主義の旗手としての陳の重要さはいささかも減じていない。今こそ日中の陳独秀
研究者は、連帯の絆を固めなければならないのである。いずれにせよ、ドイッチャーの周知のトロツキイ伝三部作の中国語訳(「先知三部曲」として知られる)の一九九八年の出版や、トロツキイ自伝『わが生涯』中国語訳書の二〇〇三年の公刊はよき兆候である。陳独秀
の研究が各地でたゆみなく続行されているのが何よりの励みである。
(3)陳独秀と第四インターナショナル
つぎに、陳独秀 がどのようにトロツキスト自身によって見られてきたのかについて考察してみよう。これまで彼は一九三七年八月に南京の監獄から釈放された後、トロツキスト運動から離脱したものと思われていた。たとえば、一九三八年九月三日に読まれた「第四インターナショナル創設大会覚書」において、ピエール・ナヴィルは「書記局を構成していたメンバーの多くがその後、第四インターナショナルを止めた、たとえば、陳独秀
である」と述べている。だが、これは真実ではない。近年知られるようになった文書は、陳がトロツキスト運動、それから第四インターナショナルをその創設後、支持し続けていたことを明らかにしている。もっとも、陳と上海に拠点を置く第四インターナショナル中国支部の一定のメンバー、とくに彭述之(1896―1983)、との間の内訌(ないこう)は存在していたのであるが。
近年の文書によって明らかになった事実とは以下のとおりである。
一九三八年六月二十五日、メキシコからトロツキイは、フランク・グラス(中国名、李福仁 1901―1987)を介して陳独秀
に書信を送った。グラスは南アフリカ国籍のジャーナリストであり、トロツキスト運動の上海における支持者であった。その書簡は、陳が身の安全のために中国を去り、アメリカに出国すべきことを示唆していた。トロツキイのために、当時四川省江津にいた陳独秀
と直接会見するように、グラスによって依頼された上海のトロツキスト活動家陳其昌(1901―1942)は四川省への長旅を試み、前記書簡の中のトロツキイの示唆、並びに「中国のじいさん」の政治的立場について陳独秀
自身と討議した。
一九三九年一月十九日付のグラスのトロツキイへの報告によれば、「陳同志は、中国を出国しアメリカに出向くというクラックス〔トロツキイの暗号名〕の提案を非常に好意的に受けとめた」、陳本人は蒋介石の国民党政府が彼の中国出国を不許可にするであろうと考えてはいたものの。さらに重要なこととして、陳独秀
は、一九三八年十一月三日、トロツキイ宛に「政治声明」を綴り、陳其昌にそれをグラスにもってゆかせ、さらにその英語訳をトロツキイ宛送付するように依頼した。それは、陳の中国における抗日統一戦線結成のための「民族民主闘争」を呼びかけ、かつ上海のトロツキスト・グループの「セクト主義的」立場を批判する立場を明らかにしたものであった。
グラスはまたトロツキイ宛に、陳の「政治声明」は、「陳の第四インターナショナル支持に関して存在していたあらゆる疑念をも払拭するものである」と書いている。「陳は彼が保持している中国支部に関する貧しい意見にもかかわらず、自らをわれわれの一部と考えているし、また、このことを陳は、上海の同志〔陳其昌〕との会話の中で非常に明確に述べた」。すなわち、第四インターナショナル創設以降も、陳はトロツキスト運動を公然と支持し続けたわけである。「国際社会主義」の支持を謳った、死の十四日先立つ一九四二年五月十三日に草されたまさしく最後の論考「被抑圧民族の前途」が示しているように、陳は同一の政治的立場を本質的に維持したものと考えられる。
重要なことに、一九三九年三月十一日、トロツキイは、一九三八年十一月三日の陳の「政治声明」に言及して、「彼の声明の本質は私には正しいように思われる」と書いている。そして、鄭超麟は、一九八〇年の長編「陳独秀
とトロツキイ派」の中で、「組織の面からも理論の面からも、陳独秀 は死にいたるまでずっとトロツキイ派であった」と結論づけている。私自身、鄭の結論は正しいと考える。さらなる証拠は、第四インターナショナル国際書記局に陳独秀
が南京監獄収監中トロツキスト運動を離脱したと報告したのは彭述之と彼の同僚たちであり、政治的対抗関係からであったことを示唆しているのである。
それゆえ、ナヴィルの一九三八年の声明は正しくなく、また、中国トロツキスト運動内部の相違に起因するものだったのである。陳の後期思想は、以前よりも、もっと真剣に検討されるべきであり、トロツキズムの枠内にあったと見なされうるのである。社会主義の民主主義的側面を強調し、複数主義的な政治的観点を擁護する今日の社会主義イデオロギーの立場からは、なおさらであろう。
前述のように、中国において陳は「ミスター・デモクラシー」として記憶されている。明確に、彼の民主主義は、アメリカ合州国のジョージュ・ブッシュ大統領の資本主義的原理主義のリベラル・デモクラシーとはまったく異なる。陳が、ブルジョワ民主主義者として、中国共産主義の創始者として、そして最後にトロツキストとして、全生涯を賭けて擁護したのは、被抑圧民族と被抑圧階級に依拠した根元的な反資本主義的・反帝国主義的民主主義であった。
一九四〇年の一書簡で述べられた彼の信念によれば、「科学・近代民主制・社会主義は、人類を制する天才的三大発明であり、いたって貴重とすべきである」。たしかに、近代市民社会は、「科学と民主主義」という前二者を受け入れたが、最後は未だである。「科学と民主主義」と調和した社会主義社会を構築することは、未来のわれわれ自身の課題でなければならない。陳の思想は、二十一世紀において、東アジアにおいてのみならず、世界的規模で復権させられねばならない。彼が将来、中華人民共和国において全面的に復権させられるなら、彼は第四番目の偉大な生を与えられるであろう。それゆえ結局、私は、陳独秀
を「根元的民主主義の永久革命者」と称するのである。
(本稿の仏文は、Imprecor, No 483 (juillet 2003), pp. 33-35; 中文〔沈石訳〕は馬克思主義研究促進会出版『通訊』第6期(2004年1月)、pp.
1-2に出版されている。)
参考文献
(1) Leon Trotsky on China, Introduction by Peng Shu-tse, ed.
by Les Evans and Russell Block (New York/London: Pathfinder,
1976).
(2) Gregor Benton, China,s Urban Revolutionaries: Explorations
in the History of Chinese Trotskyism, 1921-1952 (Atlantic Highlands:
Humanities Press, 1996).
(3) 陳独秀 の後期著作については、Chen Duxiu,s Last Articles and Letters, 1937-1942,
ed. and tr. by G. Benton (Richmond: Curzon, 1998) を参照。中文著作については、任建樹・張統模・呉信忠編『陳独秀
著作選 』全3巻(上海人民出版社、1993)が現在最良の著作集である。次をも見よ。Cahiers L始 Trotsky,
No 15 (septembre, 1983) &Peter Kuhfus, `Chen Duxiu and Leon Trotsky:
New Light on Their RelationshipaChina Quarterly, June 1985, No.
102, pp. 253-276.
(4) 陳独秀 の二人のトロツキスト弟子の自伝が出版されている。鄭超麟『初期中国共産党群像――トロツキスト鄭超麟回憶録』全二巻・長堀祐造・三好伸清・緒形康訳(平凡社・東洋文庫、2003);An
Oppositionist for Life: Memoirs of the Chinese Revlotionary Zheng
Chaolin, ed. and tr. by G. Benton (Atlantic Highlands: Humanities
Press, 1997), また、王凡西『中国トロツキスト回想録』矢吹晋訳(柘植書房,1979);Wang Fan-hsi,
Memoirs of a Chinese Revolutionary, tr. with an introduction
by G. Benton (New York: Columbia University Press, 1991); Wang
Fanxi, La marche de Wang: M姉ires d’un r思olutionnaire chinois
(Paris: La Br残he-PEC, 1987). 残念なことに、リーズで事実上の亡命生活を送っていた王凡西(一九〇七年生)は二〇〇二年一二月三〇日に亡くなった。
(5) 横山宏章『陳独秀 』(朝日選書230, 1983).
(6) 拙稿「吉野作造と陳独秀 」『みすず』No. 493(2002年4月)、pp. 13-25.
(7) 拙稿「復権する陳独秀 の後期思想」『思想』No. 939(2002年7月)、pp. 98-115.
(8) 拙稿「中国で進む陳独秀 復権」『毎日新聞』2002年7月10日夕刊、p. 6.
(9) 『トロツキー研究』No. 39(2002年冬)特集「中国革命と陳独秀 」
|