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激動の韓国現代史に脈打つ悪法            かけはし2004.10.25号

ウリ党の代替法を許さず国家保安法の完全廃止を


大韓民国政府樹
立とともに制定

 現在、国家保安法の改廃問題をめぐってブルジョア諸政党が極めてかまびすしい。まるで生死の決断を下すかのようだ。だがこれは完全に詐欺だ。この詐欺劇の主犯は、開かれたウリ党の代替立法の主張だ。そもそもどんな内容の代替立法を行うというのか五里霧中だが、北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)を敵、または利敵団体だと考える見方を捨てないかぎり、国家保安法の精神は、そのまま生きているのだ。
 国家保安法の制定や改定は激動の韓国現代史といつも脈を通じてきた。今日まで国家保安法は全部で12回の制定、廃止改定、改定を経てきた。その中で注意深く見なければならないのは、最初に制定された国家保安法(48年12月1日)、韓国(朝鮮)戦争ぼっ発直前の国家保安法(49年12月19日)、従前の国家保安法を廃止し新たに制定した国家保安法(58年12月26日)、4・19革命に続いた国家保安法(60年6月10日)、5・16クーデターに伴った反共法の制定(61年7月3日)と国家保安法の改定(62年9月24日)、チョン・ドゥファンの12・12クーデターに伴った国家保安法の全面改定と反共法の廃止(国家保安法に統合、80年12月31日)、憲法裁判所の限定合憲決定によって改定された国家保安法がある。
 国家保安法の変遷を見ると、独裁政権の危機のたびごとに暴力的危機縫合の物理力によっていつも先導的位置を占めていたし、今日まで依然としてその位置を守っている。

4・19革命を期
に刑の上向調整

 48年8月15日に大韓民国政府が樹立された後、10番目の法律として制定されたのが国家保安法だ。当時の法律は、わずか6条で構成された極めて簡便なものだった。その処罰する罪や刑罰も、反国家団体の結成や重要施設の破壊を目的とする犯罪団体の構成をした場合には最高刑が無期懲役または10年以下の懲役に処するようにし、もっとも「弱い」意味の国家保安法だった。
 だが南朝鮮労働党の活動が高まり4・3(済州)抗争や麗順(麗水・順天)抗争そして全国各地の大規模抗争が継続されると、49年12月19日の第1次改定を通じて、刑罰を上向調整して死刑に処するようにし、その裁判も3審を否定して単審(第11条)にしたばかりでなく、思想転向工作所である補導所を新設し、補導拘禁ができるようにした(第12条)。こうして補導所に拘禁されていた人々は以後、反共組織である「補導連盟」に義務的に加入させられるが、皮肉なことにこれらの人々は左翼分子だとして後に国軍によって虐殺されるところとなる。
 当時の「国際連合朝鮮委員団」の報告によれば、この国家保安法の施行によって49年の1年間だけで11万8621人が検挙されたり投獄され、同年9〜10月に132の政党・社会団体が解体されたという。さらには労働組合活動が国家保安法によって断罪されていたのは、もちろんだ。
 韓国戦争当時に国家保安法は猛威をふるい、反国家団体である北韓政権下で賦役をした人々は、すべて国家保安法によって処罰され(第3条)、戦争後もその数はすべて推量できないほどだった。
 韓国戦争後、イ・スンマン(李承晩)政権は政権維持が極めて困難になり54年11月29日、かの有名な、いわゆる四捨五入改憲を行って再任の道を開いたが、チョ・ボンアム( 奉岩)の進歩党勢力によってすぐさま反撃を受けることになる。
 この巨大な野党勢力を弾圧するためにチョ・ボンアムらを北傀政権に同調する勢力として追い立て国家保安法違反の嫌疑で死刑にした後、すぐさま58年12月26日、従前の国家保安法を廃止し、新たに制定した国家保安法を成立させる。
 この荒唐な法律は現在の国家保安法の原型を示しているうえ、金品授受・便宜提供(第9条、第21条)、国家機密探知(第11条)、情報収集(第12条)、約束・協議・宣伝など(第17条)、往来・潜入・かくまいなど(第19条)、就任・入隊・被選(第20条)、名誉棄損(第22条)、参考人拘引規定(第34条)など最も広範囲に表現の自由を抑圧する規定をおいており、その刑量もまた実に殺伐としている然るべき罪は死刑・無期懲役または10年以上の刑に処するようにしている。
 この中で一般人に最も抑圧的だったのは第17条第5項の「虚偽の事実を流布し人心を惑乱させ敵を利するようにした者」と、第22条の「大統領、国会議長、大法院(最高裁)長」に対する名誉棄損を国家保安法によって罰しようとして、マッコリを飲みながら語った話をも処罰するというものだった。いわゆるマッコリ保安法が誕生するに至ったのだ。
 以上のように探ってみた諸規定は以後、60年4・19革命によって誕生したチャン・ミョン(張勉)政権下で大部分が削除されるが(その後、「反共法」として復活)、悪名高い「不告知罪」が、このとき新設された。
パク・チョンヒ
政権下の反共法

 パク・チョンヒ政権は国家保安法に、さして手を出していない。62年9月24日の改定を通じて、有罪判決を受けた者が刑の執行を終了したり、執行を受けないことに確定した時から5年以内に国家保安法に再び違反した場合には法定刑の最高を「死刑」とする極悪無道な改革をしただけで(この規定は現行法令に、そのまま残っており、ただ憲法裁判所の決定によって讃揚・鼓舞罪と不告知罪だけは例外としているにすぎない)、さしたる改悪はしなかった。
 だが、パク・チョンヒとは何者なのか、マッコリ保安法の代名詞ではないか。61年5・16クーデター以後、すぐさま7・3反共法を制定する。ここに一切の核心を盛り切ってだ。讃揚・鼓舞(第4条)、会合・通信(第5条)、脱出・潜入(第6条)、便宜提供(第7条)などに付け加え、報償規定(第10条)を追加し、捜査機関の機関員らが反共法違反の事犯に対する捜査に並々ならぬ魅力を感じることとなった。
 拷問を通じて反共法違反の事犯を仕立てれば、それによって彼らには昇進とカネとがついて回るというのに、いったいだれがこれを拒むこどできるだろうか。
 この時代の最高のエピソードがある。家屋撤去に抗議している撤去民が「この野郎、キム・イルソンよりもひどい奴らだ」と言ったのを北傀集団を讃揚・鼓舞し反共法第4条に違反したとして起訴したのだ(結論的には無罪判決となった。70年8月31日、宣告70度1486判決)。
 この時代は緊急措置の時代だった。国家保安法のようなものは、取るに足らない法律の中のひとつだった。恐れるところを知らない権力を振り回していたパク・チョンヒ政権下で数多くのスパイが量産され、刑場の露と消えていった。マスコミで広く知られた事件だけでも73年10月16日のチェ・ジョンキル他殺事件、74年2月15日の鬱陵島スパイ団事件、74年4月の民青学連事件(1024人を取り調べ後、180人拘束)と人革党再建事件で23人が拘束され8人が死刑となる惨劇が繰り広げられた事件、75年11月22日の在日同胞留学生スパイ団事件で21人が拘束、79年4月16日のクリスチャン・アカデミー事件でキム・セギュン教授ら6人が国家保安法などによって拘束、79年10月の南民戦事件など数えきれないほどだった。

チョン・ドゥファ
ン政権下の大弾圧

 チョン・ドゥファン政権は12・12軍事クーデターを通じて政権をさん奪(実際にチョン・ドゥファンは大法院から軍事反乱・内乱罪などで無期懲役を宣告された)した後、超憲法的機構である国家保衛立法会議を通じて反共法と国家保安法を統合した国家保安法を80年12月31日に制定公布する(この点について大法院はチョン・ドゥファンの軍事反乱と内乱罪を認定しながらも、当時の憲法付則に国家保衛立法会議の根拠の規定があるとの理由で、この国家保安法は有効だと主張している。大法院91年12月24日、宣告91度2419判決など参照)。
 チョン・ドゥファン政権下で国家保安法によって処罰された人は1512人と伝えられており、大部分は労働運動や民衆運動をしている団体に集中し、特に国家保安法第7条の讃揚・鼓舞、利敵表現物所持、利敵団体構成の嫌疑に偏重しており、86年と87年に最高潮に達した。

憲法裁判所の登
場と国保法改定

 87年の6月(民主化)抗争によって憲法が改正されるとともに憲法裁判所が設立された。この憲法裁判所は以後、一定の役割を果たすことになるが、国家保安法についての判断を前後して保守的な色彩を余すところなくさらけ出すこととなる。
 憲法裁判所は90年4月2日付の宣告80憲仮113決定によって「国家保安法第7条第1項および第5項(80年12月31日、法律第3318号)は各その所定行為が国家の存立・安全を危うくしたり、自由民主的基本秩序に危害を与える場合に適用されるというものなので、このような解釈の下に、憲法に違反するものではない」と決定を下して以降、一貫してこのような立場を堅持している。このような憲法裁判所の英明(?)な指示を受けて、国家保安法のほとんどすべての条文に「国家の存立・安全と自由民主主義の基本秩序に危険」という文章が挿入されたのが改定のすべてだ。いや、まだある。第7条第1項に国家の変乱を宣伝・扇動した者を追加し、反国家団体である北韓を前提としていない組織に対しても利敵団体性を認定するようにする規定を新設した。これによって国際社会主義者グループ(IS)などが利敵団体として処罰されたケースがある。
 それにもかかわらず、国家保安法の危険性は完全に除去されたと言い張っているのが、まさに憲法裁判所と大法院の態度だ。そうして以前と何ら変わることなく、やみくもに処罰している。大法院は韓総連(韓国大学総学生会連合)代議員大会の資料集を所持していたのが国家保安法上の利敵表現物所持罪だとして処罰するとともに、「今日、北韓に同調する勢力が増えていき、統一戦線の形成が憂慮される状況であることを直視するとき、体制守護のために許容と寛容には限界がある」と親切な説明を付け加えている(04年8月30日、宣告04度3212判決)。

完全廃止こそ文
明国家への道

 以上、見てきたように国家保安法は独裁政権の民衆運動や労働運動弾圧の道具としてその実力を遺憾なく発揮してきており、その悪法性は到底、語り尽くせないほどだ。わが国最高の保守集団である大法院は、最初から国家保安法の存在理由を、次のように説明している。
 「歴史的に優越であることが証明された自由民主主義と市場経済の憲法体制を譲歩して北韓が主張する理念や要求にそのまま付き従えない以上、そして北韓が直接的、間接的にわが体制を転覆させようと試図する可能性がある以上、一方的な武装解除はなまじ軽々であってはならない」。
 彼らによれば、すべての思想の自由は体制転覆防止の下で審査させれるべきであって、主敵たる北韓の観点と結びつくかが審査されなければならない。そして、市場経済を信奉しない限り、これはすべて国家保安法違反となる。このような国が、あえて自由民主主義だと勇敢にも叫んでいるのだから、寒心に耐えないと言わざるをえない。
 国家保安法は代替できるものではなく、完全に廃止されなければならない。これが文明国家というものなのだ。(「労働者の力」第63号、04年9月24日付、パク・フン/金属産業連盟法律センター/弁護士)

国家保安法上
の利敵表現物

 家族、私有財産および国家の起源/家族の起源/甲午農民戦争/講座哲学/鋼鉄はいかに鍛えられたか/殻を脱けて1巻/ゲオルグ・ルカーチ―生涯と思想/経済学・哲学手稿/共産党宣言/国家と革命/キム・イルソン思想批判/花を売る少女/労働の歴史/緑豆書評1/錆付いた解放区2、3、4、5/再びグラムシへ/再び書く韓国現代史1、2、3/錨は上がった(上、下)/ドイツ・イデオロギー/聞け、歴史の叫びを/ボルシェビキ革命史/レーニン/ローザ・ルクセンブルクの思想と実践/ルードウィッヒ・フェイエルバッハとドイツ古典哲学の終末/矛盾論/矛盾論解説/ムリム派天皇/何をなすべきか/民衆と知識人/民衆の海/眺めるわが歴史第2巻/北韓訪問記―分断を跳び越えて/ブレヒト研究/人間が暮らしていました/実践論/実践文学/アリラン(ニムウェルズ)/実学派とチョン・タサン/マグマ/ある青年労働者の生と死/オモニ/五賊/偶像と理想/理性と革命/1歩前進2歩後退/資本主義の発展研究/資本主義の一般的危機論と国家独占資本主義論/自由からの逃避/自主のひもを口にくわえ水色のチマなびかせて/死を超え、時代の痛みを超えて/中国の赤い星/引き裂かれた山河/チェ・ゲバラ/哲学エッセイ/哲学の貧困/青春頌歌/コミンテルンと世界革命1、2/太白山脈、上・下/8億人との対話/ペタゴジー/フランス革命史3部作/韓国近現代史/韓国共産主義運動史1、2、3/韓国共産主義運動の起源/韓国経済の展開過程/韓国労働運動史/韓国社会の階級研究/現代チョソンマル(朝鮮語)/労働の夜明け/パルチザンの娘/資本論2、3/眠らない南の島/済州民衆抗争1、2/解放戦後史の認識(「労働者の力」第62号より)


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