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反戦運動の「断絶」の根拠と「継承」の可能性をさぐる(中) |
| WORLD PEACE NOWをめぐる論争によせて |
湾岸戦争と「国連平和協力法案」
一九九〇年代の反戦運動は、言うまでもなく一九九〇年八月のイラクのクウェート侵攻と、それにともなうアメリカ・父ブッシュ政権の「砂漠の楯」作戦発動=サウジアラビア・クウェート国境地帯への二十万人の米軍配備によって引き起こされた「湾岸危機」を出発点としている。この時、海部政権の下で自民党の実権を握っていた小沢一郎幹事長らの自民党執行部は、自衛隊海外派兵のための「国連平和協力法案」を国会に提出した。だが結局九〇年秋の臨時国会で廃案となった。
当時の国会内の力関係は、一九八九年七月の参院選での「与野党逆転」をもたらした土井・社会党の躍進によって、自民党政権の基盤は安定性を欠くものになっていた。しかし重要なことは、この湾岸危機と「国連平和協力法案」の上程を通じて、ポスト冷戦後の「国際貢献」論の土台が作られたことであった。
当時、私は次のように述べた。
「『平和協力法』の廃案は、社会党や共産党の言うように、『国民の勝利』であり自民党政権にとって重大な打撃であったのだろうか。外見上は確かに法案が廃案になったのだから海部政権の敗北である。/だが同時に見ておかなければならないことは、マルタ体制下における『国際的秩序維持』のために、日本がいかなる『国際的協力・貢献』を果たすべきなのか、という議論が野党・マスコミを含めて共通の土台に設定されたという事実そのものの中にある」(平井「国連平和協力法案反対闘争の中間総括――敵の弱点と人民の闘いの問題点」、本紙90年11月26日号)。
実際、「国連平和協力法案」の廃案は、自・公・民社三党による「国際平和協力に関する合意覚書」とセットであった。同合意覚書は「今国会の審議の過程で各党が一致したことはわが国の国連に対する協力が資金や物資だけではなく人的な協力も必要であるということである」「そのため自衛隊とは別個に、国連の平和維持活動に協力する組織をつくることとする」「この組織は、国連の平和維持活動に対する協力及び国連決議に関連して人道的な救援活動に対する協力を行うものとする」とされていた。
公明党は、この新しい組織が「自衛隊とは別個に」つくられるものなのだから、自衛隊海外派兵の可能性は排除されていると主張したが、自民党はこの新協力組織は「自衛隊の参加を排除するものではない」と解釈した。そして、まさにこの三党合意の線に沿って「新協力組織」ではなく自衛隊そのものの海外派兵がPKOの名で始まることになったのである。
後に、民主党に移行することになる「ニューウエーブ」勢力の主張もあって社会党も「国連平和協力隊」構想を「国連平和協力法案」に対置したが、この「平和協力隊」も「国際秩序の維持」への「日本の貢献」という共通の土台に立っており、かつ「国連平和維持活動」への参加を前提としたものだったのだから、自・公・民社三党合意との本質的な相違はなかった。
「社会党の反対運動は先述したように『国連中心の平和外交』と『国連の平和維持活動への協力隊の創設』を骨子としたものであって、現行の自衛隊がそのまま部隊として派遣されることのみに限定して反対するという限界を持つものだった。この論理は支配階級の側からする『それでは日本はどのように国際貢献を果たすのか』という主張に十全に対抗しえないものである。社会党が不断に『自公民合意』の線に取り込まれ、分解を余儀なくされる要因はそこにあり、『戦後平和憲法』のみを金科玉条として固守して抵抗の根拠とする論理の弱さもそこにある」(本紙前掲論文)。私はこのように批判した。
一方、当時の共産党は「国連中心主義」の観点から、この湾岸危機に対してイラクのクウェート侵攻に対する「制裁」の徹底化を最も強力に主張し、「大国」が経済制裁に穴を開けている、と批判し続けた。この主張が、結局のところ「国連」の名によるイラクへの軍事的「制裁」=父ブッシュの湾岸戦争を正当化するものになっていったことは明らかだった(実際、日本共産党は湾岸戦争を「帝国主義の侵略戦争」と規定することに反対した)。
「中東にヒト・カネ・モノを送るな」
他方、社会党・共産党から独立した左翼や市民運動の側はどうだったのか。たとえば一九九〇年六月に行われたシンポジウムを出発点として形成され、われわれも参加していた「反安保連絡会」について見ておこう。「反安保連絡会」は「中東にヒト・カネ・モノを送るな」というスローガンを掲げていた。このスローガンは支配的風潮としての「国際貢献」論への批判を意識したものだったが、サダム・フセイン政権によるクウェート侵攻への態度についてはいかなる評価もふくんではいなかった。
また「ヒト・カネ・モノを送るな」というスローガンについてもその意味・内容が十分に深められたものではなかった。それは単純な「内政干渉」反対の論理を内包していた。「アラブのことはアラブの人びとにまかせよ」という提起も現れた。この主張は、イラクのサダム・フセイン独裁体制のクウェート侵攻についての批判的分析を放棄するものであり、アメリカ帝国主義の新たな世界秩序形成の論理と、その中で日米安保体制がどのように再編成されようとしているのかを捉えることを困難にさせるものであった。
その弱点をついた形で、当時の新聞「連帯」(現代通信社、一九七〇年代に「人民の力」派から分裂した旧「レーニン主義学生同盟」グループ)は「ヒト・モノ・カネを出すことが問題なのではない。国際社会に依存して経済大国となっている日本は、むしろ最大限の還元をはかるべきである。問題は軍事力によっては平和の創造はできないということだ。憲法の平和主義の理念を、今改めて国民的な決意とし、国際社会に通用する護憲論として展開すべきである」と批判していた。一九九〇年代に全面的に開花することになったNGOの国際支援活動の論理が、ここで端的に表現されている。
私は前掲論文で、この「連帯」紙の主張を「安易に`オルタナティブaを主張する傾向」として批判し、「古典的な反帝国主義と『祖国敗北主義』」を対置した上で「『ヒト・カネ・モノを送るな』とする論理を、アジア・『第三世界』民衆と共働した日本帝国主義の『国際化』に立ち向かう政治闘争の路線へと煮詰めていく」ことを訴えた。この一種「最後通牒的」とも言うべき私の主張は、「ヒト・カネ・モノを送るな」というスローガンが体現していた重大な弱点、すなわち米ソ冷戦終焉以後の新しい時代の特質と、その中での反戦・平和運動や国際連帯のあり方がどうあるべきなのか、についての理解が不十分だったことを示している。
「ポスト冷戦期」における「唯一のスーパーパワー」=世界秩序形成者となったアメリカの単独覇権下での「新秩序」という言葉が最初に発せられたのは一九九〇年、アメリカが「砂漠の楯」作戦を発動してサウジアラビアに大量の軍を展開した直後の「九月十一日」、父ブッシュ大統領が行った米上下両院議員総会の演説においてである。
当時の私たちが、資本の新自由主義的グローバリゼーションとセットになったアメリカ帝国主義のグローバルな軍事支配が持つ意味について自覚的でなかったことは、それがまだようやく姿を現しはじめた時代であったため「やむをえなかった」ということもできるだろう。しかし当時の反戦運動は、もはやかつてのソ連をはじめとする「労働者国家」に支持された進歩的民族運動の帝国主義に対する闘いという対決の構造が崩壊した時代の反戦運動が取るべき論理について、「支持すべき対象のない反戦運動」について論議を開始しつつも、それが突きつける課題を持続的に深めることはできなかったのである。
新たな時代に対応した反戦運動の分解は、社会党ばかりでなく市民運動をも直撃した。それは一九九一年に京都の「反戦ドタバタ会議」の青木雅彦が提起した「ハーフオプション」論に典型的に示されることになった。「ハーフオプション」論の骨子は、反戦運動の側が自衛隊違憲論という「非現実的でかたくなな」姿勢を改め、自衛隊を「合憲」と認めた上で、段階的に自衛隊を半減して余った軍事費を「国際貢献」にあてるという内容であった。
この「ハーフオプション」論は、ポスト冷戦期の「国際貢献」論に対応した市民運動からの、旧来の反戦運動路線転換を本格化する道を開いた。
反PKO法闘争の政治的枠組み
湾岸戦争後、自民党政府は「国連平和協力法案」の失敗を受けた自・公・民社の「三党合意」を基礎に、PKO法案の成立を急いだ。それは「自・公・民社」を基軸にした小沢一郎自民党幹事長の政界再編構想とセットのものだった。他方、土井委員長の体制から一九九一年七月に田辺体制に移行した社会党は、民社党をはさんで「社民結集・一部リベラルとの連携」による政権構想をもって、小沢の「自・公・民社」基軸政界再編論に対抗した。そこでは自民党「リベラル派」と田辺の人脈的関係を基礎にして小沢構想をゆさぶろうとするものであった。
その背景にあったのは、「護憲」とは明確に一線を画した連合・労組指導部の政界再編の思惑だった。連合と結びついた社会党内右派勢力、あるいは「ニューウエーブ」グループにとっては、PKO法案については「国際貢献」の観点から基本的に容認すべきことだったのである。
ここで反PKO法闘争は、社会党田辺指導部をめぐる社会党内の「左右対立」と密接な関連をもって展開されることになった。それは一九九〇年から九一年にかけての運動過程とは大きく違っている。湾岸危機から湾岸戦争にいたるわれわれの反戦運動は、基本的に一九八〇年代の「六月共同行動」のブロック、すなわち「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)などの旧ベ平連系市民運動や、反核・反原発の市民運動、反天皇制運動、そして三里塚の熱田派を支援する「非内ゲバ」政治党派を中心に組織され、最大約三千人を結集したが、既成「革新」ブロックとの接点は成立しなかった。それは広義の意味での「新左翼」的運動、あるいは既成の「革新政党」とは独立して展開された地域市民運動の流れの中に存在していた。
私は、この社会党「護憲派」と市民運動とのブロックに関して一九九二年の反PKO法闘争の総括で次のように述べた。
「昨年(一九九一年)九月、十一月の二度の日比谷集会を成功させ、今年もそれを引き継いで、四月二十三日、五月二十六日の二度の全国集会を成功させた市民運動、国労、都職労など全労協を中軸にした左派労組、そして社会党『護憲派』のブロックは、『憲法違反のPKO法案を廃案へ! 全国実行委員会』に結実し、社会党田辺執行部への圧力装置として党全体を『廃案』の立場に結集させていく大きな原動力となった。/とりわけ六月三日以後、十五日に至るまで衆参両院議員面会所前を埋めつくした全国実行委の闘いは、社会党の議会内的取り引きを一定程度、統制する役割を果たし、社会党の『戦術的転換』を引き起こすバネになった」。
「ところで、国会前に結集した人々の闘いの中から、われわれはいかなる教訓をくみ取るべきであろうか。/田辺路線を批判する『護憲』派を含めて社会党議員が一様に主張していたことは、PKO法案の『違憲』性の強調であり、『ファッショ的・反民主的議会運営の暴挙』の批判であった。そして『全国実行委』を中心にした労学市民もまた、『憲法を守れ!』『平和を守れ!』『社会党議員団ガンバレ!』のシュプレヒコールに唱和した。そこでは客観的に見て、『護憲』を基盤にした社会党の議会内闘争と、国会を取り巻く市民のプロックが成立していたと言わなければならない。さらに言えば、社会党の議会内抵抗闘争を徹底的に『尻押し』する運動という位置を、この国会前の運動は持っていたのである」。
私は、この社会党「尻押し」運動を高踏的に批判したわけではない。私はこの文章の中でさらに次のように述べた。
「議会外的大衆闘争が後退し、労働組合の社会的・政治的抵抗機能が衰退し、むしろ『連合』に見られるようにそれが帝国主義政治を翼賛する『統合機関』へと変質している今日、われわれは、この間の国会闘争で表現された大衆の直接的政治意思をさらに発展させていく水路を模索する必要がある。それは憲法や議会や野党にそれ自体として幻想を抱いているわけではない民衆の行動が、有効な政治意思としては『議会主義的尻押し』としてしかありえなかったこの矛盾を、自覚的に克服課題として引き受けることである」(平井「総括のために――反PKO闘争をめぐる政治構造と当面する課題」、本紙92年6月29日号)。
現実主義的傾斜と「抵抗」運動
PKO法案成立後、社会党は国会最終局面での「議員辞職」戦術などなかったかのように、急速に幕引きに入った。国会終了直後の七月参院選で社会党は、「社民結集と一部リベラルのブロック」の田辺路線の立場から、広島選挙区では一九九一年にペルシャ湾派遣掃海艇部隊の「激励」に真先にかけつけた民社党の小西を推薦し、また東京選挙区ではPKO・海外派兵推進論者である森田健作を「連合」統一候補として推薦した。
これに対して、PKO派兵反対の「護憲派」ブロックは市民運動とともに、広島では栗原君子候補、東京では内田雅敏候補を擁立して独自に参院選挙を闘った。この国政選挙への運動としての挑戦は、一九九四年の村山自社連立政権成立と社会党の「安保・自衛隊容認」への大転換を経て、一九九五年の参院選での「平和・市民」選挙に引き継がれることになる。しかし、独立左翼政治グループと市民派の国政への挑戦は、ついに結実しえなかった。
私が先の文章で指摘した「社会党への議会主義的尻押し」と独立した労働者・市民の政治意思との「矛盾」を「自覚的に克服」しようとする課題は、運動的基盤のいっそうの衰退の中でその突破口を見いだせず、左翼や市民運動の分解、「参加・提言」型路線への現実主義的傾斜が進行していくことになった。
そうした後退は、『世界』93年4月号に掲載された和田春樹、前田哲男、山口二郎、山口定ら九人の学者・評論家による「共同提言・『平和基本法』をつくろう」と重なり合うものだった。同提言は日本国憲法は「個別的自衛権」を認めている、という理解に立って「国民生活をさまざまな主権侵害行為から防衛するための実力は保持しうる」とした。そして国連を中心とした「集団的安全保障機構の設立」「今日の世界に適合する『国連軍』(警察軍)を各国と協力しつつ具体的な形で提案する」ことを主張するものだった。
われわれ、そして一九八〇年代の「六月共同行動ブロック」の多くは、「自衛隊合憲」論に立つ「平和基本法」路線を批判した。しかしそうした反安保・反戦運動の「原則的」立場がますます周辺化していく趨勢を逆転することはきわめて困難だった。われわれは、その中で現実の運動が「リベラル民主主義的要素」をふくんで展開せざるをえない現実を「理解」しつつ、「抵抗」の政治的・思想的・運動的連続性を体現する「拠点」の防衛と、新しい大衆運動との結びつきの可能性を持続的に模索しようとしてきたのである。
(つづく)(平井純一)
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