|
反戦運動の「断絶」の根拠と「継承」の可能性をさぐる(下) |
| WORLD PEACE NOWをめぐる論争によせて |
「派兵国家」化に対する運動
一九九二年のPKO法成立と自衛隊のカンボジア派兵以来、日本の反戦・平和運動は、いっそう大きな後退を余儀なくされた。
この間、一九九五年の米兵による少女への性暴力事件をきっかけに沖縄の反米軍基地「島ぐるみ闘争」が展開され、沖縄の闘いと連帯しつつ日米安保の再定義(一九九六年四月)、米軍用地特措法改悪(一九九七年四月)、新ガイドライン(一九九七年九月)に反対する闘いが、「本土」においても共産党、社民党、新社会党と市民運動との部分的な合流をふくんで作りだされた(一九九七年十一月以後、「超党派」国会議員が呼びかけ、六次にわたって行われた「戦争協力を許さないつどい」)。
この闘いの中から、戦後日本国家の「派兵国家」への本格的転化に挑戦しようとする試みが、さまざまなレベルで重層的に模索された。われわれも、「新しい反安保行動をつくる実行委員会」などを通じて、このプロセスに積極的にかかわり、再定義された日米新ガイドライン安保と、PKO海外派兵の恒常化に反対する運動を掘り起こすことに全力を上げた。
幾度も積み重ねられた、全国各地で反基地運動をねばり強く担ってきた市民運動との全国会議とそのネットワーク化、沖縄の反戦運動との持続的交流に触発された「民衆の安全保障論」などは、この間の成果として発展させるべき重要な内容をふくんでいる。しかし、この間の経験は、全体としての大衆運動、とりわけグローバル化の中での全体としての労働者・市民運動の分散化と「参加・提言型」運動への転換、青年・学生の意識の「保守化」と反戦運動の後退局面にくさびを打ち込む、新しい流れを築き上げることはできなかった。
小渕内閣の下の第145通常国会に提出された一九九九年の「周辺事態措置法案」反対闘争は、法案採決直前に陸海空港湾労組20団体と宗教者が媒介となって明治公園で五万人集会を実現した。しかしそれは、必ずしも反戦運動の新たなイニシアティブを作りだすものにはならなかった。
法案阻止闘争の構造的な衰退
私は、一九九九年の「周辺事態措置法」反対運動の総括(本紙99年6月21日号、平井「新ガイドライン関連法案反対闘争の総括のために――抵抗線を築き上げ、戦争国家体制と対決する政治闘争の再建を」)の中で次のように書いた。
「反PKO闘争との対比で見たとき、われわれは労働者民衆の集団的意思表示としての政治的大衆運動のスタイルがギリギリにまで後退した現実を見ることができる。とりわけ、議会内的抵抗と結びついた国会に向けた大衆運動のダイナミズムという『伝統的』スタイルはついに形成されなかった」「対国会闘争において労組や旧社会党勢力のイニシアティブの完全な消滅にかわるものを、運動の側が作りだせなかったことは冷厳な現実である」。
「もちろんわれわれは、かつての社会党に代わって日本共産党がガイドライン反対闘争において重要な役割を果たしたことを見ておくべきである。……共産党は一方では、『安保維持』の『暫定連合政権構想』を打ち上げつつ、とりわけ今年になってからガイドライン法案反対闘争に全力をそそいだ。共産党はその際、より柔軟な共同行動方式を採用し、従来ならば『反党分子』『ニセ左翼暴力集団』として当初から排除の対象にしてきた団体や個人に対しても取り込もうとする方針をとった」。
「しかし、それはいまだ不安定な基盤の上に成立しているものであって、そのことによって共産党をふくんだ大衆運動の新しい政治構造が作られつつあるということはできない。われわれは共産党の市民運動への窓口を拡大する一定の戦術的転換と、共同行動へのセクト主義的姿勢の手直しのきざしを歓迎するが、市民運動や労働運動全体の力量の低下の中でそれが進められていることによる限界についても見据えておかなければならない。/すなわち大衆運動の側から共産党のセクト主義を統制するという関係は成立しておらず、それがともすれば共産党の力へのぶら下がりに容易に転化する可能性をもふくんでいるからである」。
一九九九年の周辺事態措置法案反対運動において、反安保実は法案審議過程での「議面集会」などの「場」の設定にも大きなエネルギーを注いだが、われわれはその中で、戦争法案反対運動に取り組むにあたって、「野党の議会内抵抗」と結びついた大衆運動のダイナミズムの可能性が、戦後「革新」勢力の議会内での極小化ともあいまって決定的な困難におちいったことをあらためて実感せざるをえなかった。
他方、周辺事態法案が打ち出した米軍への「後方支援」協力にとって重要な役割を果たす自治体への働きかけが各地において積極的に展開されたことは、戦争法の発動を阻止するために大きな意義を持っていた。自治体が攻防の「現場」として焦点化されたことは、一九八〇年代、九〇年代を通じた市民運動の重要な成果であった。しかしそれは、全国レベルでの大衆運動のダイナミズムの喪失を代替するものではない。
もう一つ重大な問題は、この周辺事態措置法案をはじめとして「国歌・国旗法案」や「盗聴法案」など145国会の戦争国家・強権的監視・管理体制づくりの諸法案に反対する闘いの共同行動の中で、一九八〇年代以来の市民の共同行動の原則としてきた「意見の相違を暴力で解決したり、それを正当化するるグループを共同行動の対象としない」という「内ゲバ排除」の原則が、なし崩し的にあいまいにされていったことである。それは中核派や革マル派に代表される内ゲバ党派が、市民運動体の看板で党派色を消し、過去の「内ゲバ殺人」路線へのいかなる総括・反省もなく参加することを許容し、彼らとの共同行動の否定を逆に「排除の論理」として批判する傾向として現れた。われわれは「共同行動の原則と『内ゲバ』主義について」(本紙99年2月15日号)で、こうした動向に注意を促したが、その問題は今日にいたるまで決着がつけられていない。
一九九九年の二〇労組、宗教者平和ネットなどの呼びかけで開催された「周辺事態法案」反対集会での「非暴力の行動」「他の参加団体を誹謗中傷しない」という参加原則は、今日のWORLD PEACE NOW実行委員会にまで継承されており、直接的な党派的暴力の行使を統制するものとなっているが、「内ゲバ主義」の克服を共通了解とする段階にまで至っていないことも事実なのである。
この問題については今後も三十年間の経験に即したねばり強い討論が必要だ。
「集団的抵抗」体験不在という壁
一九九〇年代を通じてわれわれが突き当たった反戦・平和運動の後退と分解は、労働者・民衆の行動による直接的意思の表明という機会、「集団的抵抗」への参加の経験が、先進資本主義諸国において例外的とも言えるほど長期にわたって「断絶」してしまった日本の大衆運動の低迷をあらためて俎上にのせるものとなった。
もちろん一九八〇年代後半から九〇年代半ばにかけた労働者をはじめとした「集団的抵抗」の衰退は、決して特殊日本的現象ではなかった。グローバル資本主義の新自由主義的攻勢は、「社会主義」への歴史的信頼性の喪失ともあいまって、「階級対立」「階級闘争」という概念を過去の遺物であるかのように思わせた。とりわけ西欧において労働者が一世紀に及ぶ闘いによって勝ち取ってきた権利に対する攻撃が吹き荒れ、労働組合、労働者政党の力は後退した。
しかし一九九五年末のフランス労働者の公務員ストライキによって、この趨勢への抵抗が始まった。新自由主義への労働者の抵抗は、その当初から失業者の運動、移住労働者の闘いなどの新しい民主主義と人権を求める闘いと社会的に結合した。その中で、一九八〇年代から九〇年代の敗北と「断絶」した青年・学生のラディカルな世代が反グローバリゼーション運動と結びついて発展していった。この波は、スターリニズムや社会民主主義など旧来の伝統的な左翼指導部をバイパスして、第四インターナショナルをはじめとするラディカル左翼と結びつき、その組織化と行動の形態も、きわめて多元的な「草の根」からの運動の連携として作りだされた。
もちろんヨーロッパに端的に見られた「左翼の復活」の意味を、われわれが実感的に理解できるようになったのは、一九九九年十一月のシアトル以後のことである。
私はここに引用した一九九九年「周辺事態法」反対闘争総括文章の中で、自治体を攻防の「場」としたローカルレベルでのイニシアティブの全国的連携の萌芽を重視しつつも、同時に、「政府・国会に向けた共産党など既成の議会政党をふくめた全国的政治闘争の枠組みを形成していこうとする独自の闘い」に挑戦する必要を強調した。しかし、とりわけ一九八〇年代以来の共同行動を支えてきた「非共産党左派、ないし独立した労働運動、市民運動勢力の全般的な力量の低下」の中で、当面は「主体的力量の強化につとめながら、『別個に進んでともに撃つ』経験を一歩一歩確実に積み上げていく必要がある」としたのである。
それは、左翼運動にとっての危機を突破する出口が安易には見いだせない現実の中で、新しい「抵抗」の可能性を経験的模索の中でつかみとっていく闘いを持続すること、しかし情勢の発展につねに敏感に対応し、たとえどのような兆しであろうとも運動を掘り起こすイニシアティブを発揮するための準備を整えなければならない、ということを意味していた。
この時期、天野恵一は「私たちの運動の世界から、『階級闘争による革命』という『高い目標の手段』として反戦運動を位置づける主張や言葉が、ほぼ消滅している」事実を指摘している(「運動のデモクラシーとデモクラシー運動について」、『派兵チェック』78号、99年3月15日)。このとき天野は「ラディカルなデモクラシー」を作りだしていくための具体的プランを共同で作りだしていくことの必要性を訴えていた。
ある意味で、天野のこの認識については、私たちに突きつけられたことであった。「社会主義革命運動の再生」という私たちが堅持してきた目標と現実の大衆運動との間に存在する「絶望的」ともいえるほどの距離を、私たちは痛切に認識していた。天野とわれわれとの違いは、新自由主義的グローバリゼーションに抗し、「闘争的対案」によって「平和」「公正」や「人権と民主主義」の価値を現実の運動の中で豊富化し発展させていく作業を媒介にしてしか、もう一度「社会主義」の理念を復活させることはできない、という形で「社会主義と革命の放棄」を拒否してきたことである。それは先験的な「社会主義革命の必然」によるものではなく、どのような形であれ開始するであろう過去と「断絶」した新しい世代の運動の初歩的経験を媒介とし、「歴史なき世代」との共同の作業を経過することによって、初めて現実化しうる挑戦であるとわれわれは考えていた。
一九九九年のJRCL18回大会で討論文書として高島義一が提出した「時代認識について」は「反戦・反安保闘争などの政治闘争や反原発闘争などのエコロジー運動も、部分的、あるいは一時的例外を除いて、それぞれ宣伝のための運動や歴史的連続性を防衛するための運動という状況に追い詰められ」ており「政府・資本や行政に自らの運動の力で要求を強制するというより、社民党や共産党、あるいは民主党へのロビー活動を通じて、間接的に社会的規定力をおよぼそうとするしかないところにまで、運動の力を大きく後退させてしまっている」と述べ、「残存左翼運動全体が右へと大きく軸芯を移動させた旧社会党のミニ版的存在に転落してしまう」危険性が存在している、と指摘した(「時代認識について」〔2〕、本紙99年10月18日号)。
この提起は一九六八年に開始した左翼政治運動の時代的サイクルが終焉した、という情勢認識に踏まえて、新しい闘いへの挑戦を呼びかけようとするものだった。
新しい歴史意識の獲得に向けて
ドラスティックな後退を強いられた一九九〇年代の運動経験の上に、われわれはアメリカ帝国主義の「グローバル戦争」戦略と資本の新自由主義的グローバリゼーションが一体となった支配構造に対決する、新しい運動のサイクルを開始しうるか否か、という岐路に立たされている。
それは、「内ゲバとテロリズム」を重要な主体的な要因の一つとして他の帝国主義諸国よりもはるかに深刻な運動的「断絶」を余儀なくされた日本では、いっそう困難な回路を通過せざるをえない。資本との関係における初歩的な階級意識の不在は、社会全体への規定力のあるストライキ運動が一九七五年のスト権スト、一九七八年末から七九年初頭にかけた全逓労働者の「年賀を止めた」闘い以来、二十数年間にわたって存在しなかった日本において、とりわけ深刻なものである。
その意味で、二〇〇三年初頭からのWORLD PEACE NOWを中心としたイラク反戦運動は、きわめて端著的な形であっても、過去を知らない「デモ・デビュー」世代が「層」として登場した重要な転機であった。もちろん、WPNへの参加者の広がりは、若い世代だけではなく、ブッシュの戦争に衝撃を受けたかつての「全共闘世代」の三十年ぶりの参加、反戦運動とは一線を画していたNGOメンバーの参加などによって支えられていた。
しかしやはり、日常的現実に食い込んだ「戦争」と、昨年二月十五日に空前の動員を実現した全世界的な反戦運動によって、社会と自分との関係意識を自覚せざるをえなかった若い世代の登場こそが、WPNをベトナム反戦以来の大衆的社会運動に押し上げた最も注目すべき特徴であったことは間違いない。
環境運動やポスト冷戦期のNGO活動の中で社会的コミットメントの唯一のあり方となった、メディアに受け入れられる「参加」型活動が、まず参加者の意識を規定する最初の枠組みとなったことはある意味で当然であった。徹底的に周辺化した左翼運動は、「孤立」を恐れ、「普通」であることが社会的関与の条件となっている若い世代にとって、まずは忌避されるべきものだったからである。過去の運動との「断絶」こそ、新しい世代にデモ参加への「安心感」を保障するものだった。そこには一九九〇年代の「敗北」の要素と、それとは異なる新しい可能性への積極的要素がからみあっていたことは必然である。
したがって、この運動が真に新しい運動サイクルの出発点となるためには、新しい世代が、自らの運動経験を積み重ね、世界に対する「直観」を系統的な「認識」へと飛躍させ、論理化していく作業が避けて通れない。このようにしてこそ、世界の現実に立ち向かい、その変革を志した過去の運動との対話や継承を通じて、自分の位置を歴史的に獲得することができる。その責任の多くは私をふくむ「古い」世代に課せられている。
論争は避けられない。そして運動経験の「継承」は、何よりも過去の運動を担った世代、過去から現在をつなぐ世代が、自ら突き当たった根本問題についての経過と総括を真摯に突き合わせることから開始しなければならない。
WPNで登場した運動の波は、イラク侵略戦争を止められなかったことによって、いったんは引いたものの、二年近い経過の中で、自衛隊イラク派兵に反対する運動、日本人「人質」を救う活動、イラク占領反対の闘い、「平和のための投票」などを通じて、すでに幾つかのささやかな高まりと挫折を経験してきた「新しい世代」も決して少なくはない。WPN運動を通じたこの二年間の経過は、かつての運動から今日までの高揚と後退を体験した世代の「経験」とWPN世代の「経験」をつきあわせつつ「論争」し、「継承」を通じて新しい運動サイクルに向けた「断絶」を組織することができるのである。そのための条件は運動の中ですでに作りだされつつあると私は思う。(平井純一)
追記:反戦運動をめぐる今日の論争点については、さらに別稿で論じたい。
|