| 鉄建公団訴訟個別立証第3期日 かけはし2004.11.22号 |
「救済命令の実現を子どもに見せたい政府・JRに謝罪してもらいたい」
鉄建公団訴訟の山場に差しかかった十一月四日個別立証第三期日が東京地裁を舞台に丸一日闘い抜かれた。今回は闘争団が家族を全国から傍聴に大量動員、原告は家族とともに二度の解雇の不当性を法廷の内外で訴えた。
法廷内では公団代理人による国策に反抗するものは解雇されて当然とする不当な侮蔑的尋問に、傍聴席に陣取る家族、共闘の仲間は裁判長が何度も静止するほど、野次と怒号、嘲笑で怒りをたたきつけた。
当日六人の原告のうち二番目に立証に立ったのは北見闘争団女性原告の石川さんだ。石川さんは臨雇で電話交換手として国鉄に採用され、女性差別ゆえに正規の職員になったのは遅く、しかも一九八六年に職場の廃止とともに不慣れな喫茶店に配転され、人材活用センター(以下、人活)に入れられた上、不採用になった経過を述べた。
石川さんは、正規の職員になれたのは先輩の転勤のためと思い、どこでもまじめに働き先輩や仲間を大切にしてきたと証言した。その後、人活の女性職員十人中「共働きなら妻は不採用だ」と言われ三人が退職に追い込まれた。そして国労を脱退した二人が採用となり、残る五人の国労全員が不採用となった採用差別の事実を突きつけた。当時の駅長が「国労を脱退したら採用されるよ」と不当労働行為発言をしたことも告発した。
清算事業団は斡旋十五回、指導三十回と言っているが、面談は五、六回しかなく「夫の仕事を考えて家に入れば」と、やめろと言うのに等しいことを言われたことも証言した。最後に両親、家族への心情を述べながら「地労委命令の実現を子どもに見せてやりたいし政府、JRに謝罪してもらいたい」と発言、個別立証を終えた。
その日の立証に立った六人全員が、職歴を通して当局も認める優秀な技術屋か仕事熱心な職員で、国労組合員として健康と安全とを大切にし、仲間の信頼を得ていたことを明らかにした。そして不採用は中曽根が発言したように国家的不当労働行為そのものであったことを、体験を述べることを通して立証した。
それぞれ親や家庭の事情で悩んだ末に広域採用には応じられず、地労委救済命令が彼らを当然JR復帰に道を開いてくれると信じていたことを率直に述べた。そして清算事業団でも非人間的扱いを受けた上に、再就職斡旋とは名ばかりの嫌がらせが続き、人間としての尊厳を傷つけられたことを立証した。公団代理人による政府の政策に逆らうものは解雇されて当然との主張には炎のような怒りで反撃した。
原告たちは、十八年間も原告、原告の両親、家族はあらゆる苦難を強いられ続けてきたことに「私たちの人生を返してください。政府JRは謝罪してください。公正な判断を示して欲しい」と裁判官に叫ぶように訴えた。
鉄建公団訴訟は十二月二日の個別立証第四期日を最後として結審を迎える。
その前日の十二月一日に、「四党合意」の破綻を乗り越えて国鉄闘争と一〇四七人の解雇撤回闘争を引き継いだ鉄建公団訴訟の戦いの総決算として、鉄建公団訴訟原告団長、全動労争議団長、鎌田慧さん、佐高信さんらを集会実行委員として全国集会が開催される。
建交労・全動労争議団は今夏の大会で鉄建公団(現鉄道・運輸機構)を相手にした訴訟を行うことを決定した。にもかかわらず全労連中央、弁護団、国労内革同・共産党グループの反対によって提訴は見送られたままである。彼らの決断を後押しし、勇気を奮い起こさせるためにも一二月一日の全国集会は決定的に重要である。
国労本部は鉄建公団訴訟の山場の戦いから目をそらし、面子と体裁を取り繕うために全国キャンペーン運動を展開し、十一月二十四日から二十六日まで国会前座り込み行動を中心とした中央行動、二十六日を総決起集会とした闘争指示二号を発した。しかし本部アピールにもあるように、それは破綻したにもかかわらず定期大会で総括することを拒否した四党合意路線を引き継いだ政治解決というお願い路線の補強に他ならない。
11・26集会は建交労との共催で平和フォーラム、全労連、全労協を後援に巻き込んでおり、すでに開催予定が公表されていた十二月一日の全国集会への対抗に焦点を当てたものと疑ってしかるべきものである。一〇四七人が解決に向けてどう団結するのかをめぐってし烈なせめぎあいが行われている。鉄建公団訴訟の闘いを通して解決の道を切り開くのか、四党合意の二番煎じによる終結だけを自己目的化した方針かが問題である。
一〇四七人の解雇撤回、鉄建公団訴訟勝利、十二月一日全国集会を成功させよう。 (11月9日 蒲田宏)
b集会予定
国鉄労働者一〇四七名の解雇撤回 政府はILO条約を守れ!鉄建公団訴訟勝利 12・1全国集会 主催 12・1集会実行委員会
12月1日(水)午後6時会場 場所:東京日比谷野外音楽堂(地下鉄霞ケ関駅下車)
投 稿
憲法24条改悪に反対する集会に参加して
東京 日暮テツ
男女平等と個人の尊厳を憲法から消させない!「STOP! 憲法24条改悪キャンペーンキックオフ集会」が十一月五日、午後六時三十分より東京ウイメンズプラザホールで開催されました。
日本国憲法第24条は、2項からなり、そこには家族生活における個人の尊厳と両性の平等が謳ってあります。1項には、婚姻の自由、夫婦の同等の権利。2項の家族に関する法律には、個人の尊厳と両性の平等に立脚して制定されなければならないという国家の義務が規定されています。「憲法24条を見直すべきだ」という声が、自民党や右派の一部から出ています。「いまの日本は個人優先のいきすぎ。家族・共同体・国家への奉仕を義務づけるべきだ」というのです。個人の人権尊重と平等は、社会の平和と安全を守るための不可欠の基盤です。24条改悪の動きを阻止するために、「STOP!憲法24条改悪キャンペーン」がスタートをするということを聞きつけ、集会に参加しました。
主催者を代表して清水澄子さんが、「一九五五年から憲法改正が言われてきた。9条と共に、24条も改正案がでている。この中身は、当時も今も同じようなことがいわれていた。国家に対する国民の義務や、血族関係の強化など。先輩たちが守ってきた憲法を今後も守りつづけていこう。」とあいさつしました。
基調講演は「24条改悪のねらい」として植野妙実子さん。
「最近の憲法改正の動向として、社共を除きすべての政党が前向き。どこをどう直すのか、めざすべき国家像はどのようなものか。改正の方法、改正の議論など論議すべき点が多々ある」とする、わかりやすい講演でした。
内容は、大きく五つに分けられていて、最初に24条についての解釈。次に自民党の論点整理。次に読売新聞の試案の説明がありました。さらに教育基本法の改正について。最後に問題点を挙げていました。
「国際協力や憲法改正は、経済界の要請によるものだ。日本がアメリカと結びつくことにより、経済界に大きな利益がもたらされる。そして日本は、安上がりな国家をつくることをめざしている」というのが、植野さんの解釈でした。
コントは、ザ・ニュースペーパーの小泉首相と前防衛庁長官の石破のパフォーマンス。場内が元気なので、予定外のことをいっぱいしゃべらなくてはならなかった小泉。石破は、人形を使って笑いを誘いながら、正当防衛について説明していました。
呼びかけ人の紹介で、三木睦子さんは怪我で欠席。戒能民江さんは、「DVと24条はつながっている」とおっしゃいました。吉武輝子さんは、「憲法制定当時、24条は家制度廃止の件で、とてももめた」と話されました。江原由美子さんは、「吉武さんのお話で、24条がなぜ改悪されようとしているのかがよくわかった」と、会場の私たちの感想を代弁してくださいました。
いろいろな立場からということで発言がありました。
勘解由小路(かげゆこうじ)承子さん「民法改正を求めて」。柴田靖子さん「障がいのある子を育てている親として」。賀谷恵美子さん「男女平等教育の現場から」。辻雄作さん「暴力を選ばない男になる」。柚木康子さん「均等待遇の現実を」。
行動提起では、本山央子さんが今後の目標などを提案されました。ネットでの署名集めや、国会や地方議会での陳情などができるのではないかということでした。 (11月6日)
アラファト議長の死を悼む
オルタナティブ情報センター(イスラエル)
十一月十一日、PLO(パレスチナ解放機構)とパレスチナ自治政府の指導者として、三十五年にわたってシオニスト・イスラエルに対するパレスチナ民衆の解放闘争を率いてきたヤセル・アラファトが、療養先のパリで死去した。以下は、パレスチナ人とユダヤ人の共同した反シオニスト・反占領の闘いをイスラエルで続けているオルタナティブ情報センター(AIC)が、アラファト議長の死を悼んで発表した声明である。(本紙編集部)
オルタナティブ情報センターの事務局、メンバー、友人たちはパレスチナ政府議長ヤセル・アラファトの死を心から悼み、深く悲しんでいる。
私たちは、勇敢なパレスチナ人民に、彼ら、そして私たちの民族的指導者の死に対してもっとも誠実な弔意を表明する。
アラファト議長の生涯は、シオニストによる百年間に及ぶパレスチナの圧殺と占領に対する確固たる抵抗を表現し、象徴するものだった。彼の一貫した、真剣な努力は、パレスチナとパレスチナ人民の課題を、国際的に意識化させるために貢献した。アラファト議長は、亡命パレスチナ人と被占領下のパレスチナ人の社会を統一し、あらゆる政治的分野からの支持を獲得し、この地と亡命地のパレスチナ人の強力で誇りある民族的アイデンティティーを作りだす上で傑出した役割を果たした。
アラファト議長は、イスラエルの占領に対する確固たる抵抗を、パレスチナとイスラエルの間の公正な平和を作りだす動きと結びつけた。
オルタナティブ情報センターは、勇敢なパレスチナ人民に対して、国際的な協定や宣言と完全に一致したパレスチナの民族的目標を達成するための統一した、正当な抵抗を強化するよう呼びかける。
アラファト議長の業績が、これからもパレスチナ人民の闘いの精神と希望となり、そしてイスラエルの占領を終わらせる要因であり続けることを願う。 2004年11月11日
コラム
火が消えた駅前の繁華街
今、東京などの大都市を少し離れた地方都市の駅に降り立つと、多くの駅前商店街は閑古鳥が鳴き、「火が消えた」という言葉がぴったりの光景を呈している。かつてはにぎやかであったろうと思われるアーケード街でも三軒に一軒はシャッターが閉まっている。所によっては駅前広場の横の一等地に建っているビルが最早使用されず「立ち入り禁止」の張り紙があったりする。かつてはデパートか大手スーパーであったことは想像に難くない。
だが他方、駅前を離れ郊外に出ると巨大な駐車場を持つ大手スーパーやショッピングモールなどが林立する。今や家電のコジマ、ヤマダ電気、紳士服の青山、アオキなど必ずといっていいほど目につく。ハデなネオンをまとったパチンコ屋などの娯楽施設も同じように並ぶ。これは過疎地域でも同様であるから人口の増減とはあまり関係はない。宇都宮、郡山などの都市でさえこの構造は貫徹している。
私の知る限り戦後から六〇年代までは八百屋、魚屋、薬屋、食堂という個人商店が連なり商店街を形成し、大きな都市の駅前の一角には高級品などを扱うデパートがあるというのがどの街でも定番であった。我流な決めつけだが、これを戦後の第一期とすれば、第二期はこの商店街の一角にダイエーや長崎屋、イトーヨーカ堂などの大店舗が進出し始めた時期であろう。しかも七〇年代の半ばまではこれらの大店舗は旧来の商店街と共存していた。そして七〇年代後半から始まる第三期、ゼネコンと「国家」がゆ着した道路建設、トヨタ、日産などの資本が手を結んで作り出されたモータリゼーションの「発展」が一体となり、小売り・流通機構を一変させ今日に続く郊外型を形成させた。
これを牽引したのがダイエーや西友、長崎屋などであった。ダイエーは牛丼のらんぷ亭やローソン、西友は吉野屋やクレジットカード、さらにはホテル・リゾート開発まで手を広げた。この時期、ダイエーや西友が東西のチャンピオンであったが、今を時めくイトーヨーカ堂やイオン(ジャスコ)は業界の十位くらいの位置であった。
しかしバブルの崩壊に始まる第四期は最終的に駅前商店街の風景を変えてしまい、第二〜第三期を主導した大手スーパーに代表される小売り業は完全に二極分化した。長崎屋やマイカルは倒産し、長崎屋は米資本のサーベランスに買収され、西友もウオルマートの傘下に入り、今やダイエーは産業再生機構の支配下に入った。セブン・イレブンを持つイトーヨーカ堂は業界トップとなり、国際市場で業績を延ばしたイオンはアジア進出で失敗したヤオハンを配下に置き、ついに香港、シンガポールでは小売り業のトップとなっている。逆にダイエーは好成績であったローソンなどを手放さざるを得ず今日に至っている。
第二〜第三期を主導した小売り業は不動産を取得し、それを担保に経営拡大をはかった。ダイエーとイトーヨーカ堂の差はこの違いだと言われるが、他方では「ワンマン度」の差とも言われ、「小売り」以外に手を出した差だとも言われる。この分析は専門家にまかせよう。
だがはっきりしているのは、「負け組」は失業者を増大させ、「勝ち組」は非正規従業員と低賃金の温床になっているという事実である。パート・低賃金はここに最も集中している。 (武)
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