| 民主党に対する民意バブルの終焉 かけはし2004.12.13号 |
|
9.12立法会選挙とプロレタリア民主派の課題(上) |
新行政首都建設
特別法は違憲
10月21日、憲法裁判所は政府が推進中の新行政首都建設特別法に対して違憲の判決を下した。政府が無理に法案を推進したならば違憲となり得る。だが違憲の唯一の根拠が、およそ耳慣れない「慣習憲法」ということでは首を傾けざるをえない。慣習憲法以前に「慣習刑法」まで持ち出して罪刑法定主義の根本を揺るがす判決を下すとき、本質をよくよく見極めるべきだったとの遅まきの後悔をする。
劇的に生き残った
パク・チョンヒ
「国防警備法」という、ゾッとするような「それ」があった。なぜわざわざ「それ」と言わなければならないのかと言えば、名称には「法」という文字が入っているものの到底、法と呼べる代物ではないからだ。「悪法も法なのか」と言う古い論争もあるけれども、この「それ」は悪法中の悪法たる国家保安法とは次元が異なる。最初から法ではなかった。ところがいつの間にか法となり、大韓民国の建国以来、最も多くの人間を法の名によって処断した。
「法律新聞」の推計によれば、この法によって処罰された人は16万人から20万人、死刑を受けた人間については推計さえ難しい。韓国(朝鮮)戦争の混乱期に「前列は死刑、後列は無期」という伝説のような、裁判なのかデタラメなのかも分からないことが「軍法会議」という名によって進められたとき、その軍法会議設置の根拠となったのも国防警備法という「それ」であり、集団的な「司法殺人」の兇器となったのも、まさに国防警備法という「それ」だった。
この法によって処罰された人々も実にさまざまだ。済州4・3事件の際に逮捕された人々のうち高等軍法会議で、この法によって有罪判決を受けた人は死刑384人を含む2530人だが、死刑を免がれた人々の大部分も韓国戦争当時、政府側によって集団虐殺された。「麗順反乱」事件の多くの関連者たちや「女性スパイ」の代名詞となってしまったキム・スイム、それに韓国戦争期間中のパルチザンや「反逆行為」関連者の多数が同法32条(利敵)と33条(間諜)違反によって処刑された。(略)
だが国防警備法によって重刑を受けながら死刑にされたり獄中で虐殺されたりせずに生き残った人々の中で、最も劇的な人生を生きのたは、やはりパク・チョンヒだった。パク・チョンヒは18条の「暴動または反乱」の項目が適用され、死刑の求刑に対して無期懲役を言い渡された。興味深い事実は、南労党が軍に浸透させた現役最高の工作員たるパク・チョンヒに、当時の一般的な雰囲気とは違って33条の間諜罪が適用されなかった、という点だ。これはパク・チョンヒの満州軍・日本軍の先輩や同僚たちが、すでに粛軍に協力した彼を生かすことにした場合、有罪と認定されたら死刑以外に他の刑罰のない間諜罪を避けなければならなかったからだろう。
反乱罪が適用されながらも、こうして生き残ったパク・チョンヒは12年後に再び反乱を犯してしまう。そうして最高権力者となり、自身を処罰した国防警備隊を廃止し、代わりに「軍刑法」と「軍法会議法」を制定し、その空白を埋めた(1962年)。
堂々とその名称に「法」という文字をつけており、同法によって10数万人を超える人々が裁判を受けたが、なぜ同法を法と呼ぶことができないのだろうか? ドラマを見さえすると、なぜ夜となく昼となく「起源の秘密」が出てくるのか、と評論家たちは不平を並べるが、韓国ではどうしようもない。大韓民国自体がたいへんな起源の秘密を持っている国なのだから……。大韓民国の起源の秘密にあっても最も血なまぐさい秘密が、まさに生まれてもいない国防警備法の誕生だ。
各種の法令集を見ると、国防警備法とその弟格の海岸警備法は48年7月5日公布(または公布指示)され、48年8月4日に効力が発生した、号数未詳の法律だと書かれている。この異常な「法律」は、米軍政当局によって公式に出版された法令集には入ってはいないが、50年代初めから出てきた法令集には、過渡政府の法律項目に堂々とその位置を占めて、入っている。
軍隊もないのに
軍刑法を作る
(略)国防警備法というのは、最初は軍刑法として作られたものだった。ところで軍刑法があろうとするためには、何よりも軍隊が存在しなければならない。米軍政下の南朝鮮は独立した国家ではなかったため軍隊を持つことはできなかった。45年11月、米軍政は国防司令部を設置し、その傘下に軍務局を置いた。だが米軍政と日本軍、満州軍出身らの軍隊創設計画はマッカーサー司令部と米軍合同参謀本部の反対にぶちあたることとなった。なぜなら、南北が米国とソ連によって分断されている状況にあって、どちらか一方が軍隊創設を準備することとなれば、相手側の激しい反発を買うのは明々白々だったからだ。
米軍政当局は軍隊創設を準備したものの、国防ではなく国内の治安と秩序維持を担う「警察予備隊」の性格を標ぼうすることとなる。46年1月、米軍政は南朝鮮国防警備隊を発足させるが、その年の5月、朝鮮臨時政府樹立のための米ソ共同委員会が開かれることになると、ソ連側は当然にも「国防」という名前の入った軍事組織の出現を問題視した。米国としてもソ連の主張に反ばくできる立場ではないので、46年6月15日、法令86号によって「国防部」を「国内警備部」と改称し、「軍務局」は廃止するとともに、南朝鮮国防警備隊は国防という名所をはずし、「朝鮮警備隊」へと改称させた(だが当時の言論では国防警備隊という言葉が使用され続けた)。
国防警備法なる「それ」は初めは南朝鮮国防警備隊が軍隊として正常に発展することを想定しつつ、軍刑法制定の必要性が提起されることによって準備されたものだ。この当時、米軍政軍務局では米国陸軍の戦時法をそのまま翻訳し、国防警備隊の軍刑法とみなそうとしたために、内容は米国の陸軍戦時法にほとんどそのまま従っているが、名称は「国防警備法」である草案が準備された。(略)
4・3事件、麗順
反乱時に生き返る
(略)草案状態で、ひき出しの中に眠っていた国防警備法が陽の目を見たのは48年に済州4・3事件が勃発し、続いて10月に麗順の反乱事件が起こった後だった。軍隊を作り、軍事反乱が起こったのに、彼らを処罰する軍刑法は作られていない状況。そして済州で起きた住民らの抵抗を鎮圧できないならば、政権は米国の信認を得られない状況。極めて当惑する状況だったろうが、当時の政府や軍指導者たちはこれを正常な方法によって解決しようとはしなかった。米軍政下では民間人も当然、軍事裁判所に回付されえたが、まだ法令の体系が整備できていない身の上の大韓民国にあっては「反乱軍」や済州の武装勢力を軍事裁判に回す法的根拠が何もなかったのだ。
おびただしいほどの人々の抵抗に直面した状況にあった国防警備法を持ち出して使うことができれば、軍法会議設置の根拠もできるし、また抵抗勢力をわずらわしい3審制でなく1回の裁判で死刑にして一掃できたのだ。このために当時、大韓民国政府や軍の運営の主体らは、充分な法的根拠のない軍刑法や旧刑事訴訟法によって裁判をするか、それとも遡及の負担を覚悟してでも軍刑法を制定して抵抗勢力を処罰するという道を選択せず、立法機構において審議されたことも通過したことも公布されたこともない、草案にすぎない国防警備法を持ち出して振りかざしたのだ。
国防警備法がたいへんな問題を抱えていることは軍当局もよく承知していただろう。法として公布できなかった「法」を法令体系の中に差し込む作業は韓国戦争中に始まったものと思われる。朝鮮後期から大韓民国樹立以後にわたって広範囲に進められた族譜(歴代家系図)の偽造は個人的にばかりではなく、法律の体系においても行われたのだ。
51年5月、国防部陸軍本部作戦教育局が編集した「軍法教範」を見ると「軍刑事法は必ずや国会を通過し、大統領が承認・公布することによって完全な『法律』として制定されなければならないことは多言を要しない」が、「過渡期の現象として現国防警備法は当時の軍政長官が自らの職権によって『法令』の形式をもって制定・発布したもの」だと主張した。(略)
匪族の群れの
親玉は「法匪」
このように、いいかげんに押し込んだ法律ならざる法律によって裁判がキチンとやられる訳は万に一つもない。高等軍法会議と書きつけられた法廷に1度、呼ばれて行き、それも名前だけ呼ばれた人々は、矯導所(刑務所)に行って監房入り口の自分の名札のわきに書かれているものを見て、初めて自身の刑量が分かったり、矯導官から「自分の刑量も知らない奴が、この世の中にいるものか」と侮辱されながら刑量を聞いたりした。4・3事件に関連して20年の刑を宣告されたキム・チュンベ氏は彼が服役していた矯導所が破壊された後、生き延びていて5・16(パク・チョンヒの軍事クーデター)後、検挙されて残刑を服役しなければならない立場におかれることになったが、当時の軍検察は軍法会議の受刑人名簿を証拠として提出したものの、陸軍本部普通軍法会議は前科者名簿は犯行内容が具体的に分かる証拠ではないとし、これを根拠にして刑執行をすることはできないとの判決を下した。イ・ジェスン教授の表現によれば、4・3事件の裁判は国防警備法の規定さえ守らなかったがゆえに「問題のある裁判」であるどころか、最初から「裁判不成立」に該当するという。
チョ・ヨンファン弁護士は長期囚を代理して、このように物議の多い国防警備法を大法院(最高裁)と憲法裁判所に持ち込んだ。この過程で彼が準備した〈成文化された慣習刑法―「国防警備法」の人権問題〉は、あまりにも明瞭に国防警備法は法ではないことを明らかにしている。
だがわれわれの大法院や憲法裁判所は「もちろん、このように国家の基幹組織が未だ形成される前の非常の時期に、今日の通常な立法過程で見ることのできる手続きを経ておらず、非常な手続きや手段によって法律が制定され、通用された場合は、はたしてそれに対して法律としての効力を認定できかどうかは法哲学の論難の対象となりえる」とした後、「少なくともそれが長い間、わが国の一般国民によって有効な法律として承認され、その規範力を認定されてきたのであれば、法的安定性という法の理念の要請に照らしてみるとき、今になって数十年をさかのぼって、その当時のような混乱の時期に今日のような完璧な立法手続きを経なかったとの欠陥を挙げて、その法律の規範力を全面的に否認することはできない」のであるとして大法院は98年に、そして憲法裁判所は01年に国防警備法は「法」だと判断した。
国防警備法を法として認定するというのは罪刑法定主義も法治主義もすべて否認するということだ。最も厳格に慣習法を排斥しなければならない刑事法に慣習法を引用した国で慣習憲法が登場したのは、むしろ当然なことだ。国防警備法は、国家保安法はもちろん、社会安全法を経て保安観察法に至るまで今日まで生き残っている。30年代の満州はあらゆる匪族が羽振りをきかせた匪族の国だった。馬族、土匪、共匪、兵匪、政治匪……。ところが、その多様な匪族の群れの中での親玉格は法をかざして戯れる法匪だった。(「ハンギョレ21」第533号、04年11月11日付「ハン・ホングの歴史の話/聖公会大・教養学部教授)
|