| 香港、民主党に対する民意バブルの終焉 かけはし2004.12.20号 |
|
9.12立法会選挙とプロレタリア民主派の課題(下) |
梁国雄と鄭経翰はどちらも「民衆の代弁者」というイメージを打ち出し、民主党から票を奪い高得票率で当選した。鄭の高得票率は当然であった。彼は現状に異議を申し立てるもっとも有名なテレビの司会者であったからだ。
梁国雄の当選の意義はそれとは異なる。かれは草の根運動の出身であり、支持を集めた理由は、それまで継続してきた身の丈をこえた方法による政府への抗議を通じて名声を得てきたからだ。それゆえ今回の当選を「議会に棺桶を掲げて入る」と嘲笑する論評もある(梁はこれまで抗議の現場で棺桶を掲げて「民主主義は死んだ」というパフォーマンスをしてきた)。多くの人がこの二人を同列に批評するが、梁国雄の当選の政治的意義は大きい。
しかし厳密に言うと、梁国雄に投じられた票の多くは一種の抗議票であり、すでに明確で断固とした方向に向かう左傾化した有権者によるものではない。情勢全体は左傾化した有権者の登場を促しているが、それはいまだ始まったばかりである。
ゲバラをプリントしたTシャツは梁国雄の抵抗のシンボルであり、梁国雄自身がまた現状に抗議する民衆のシンボルでもある。しかしこれらの支持者に、何を求めているのか、労働者民衆の利益のために政府は何をしなければならないのかとたずねても、多くは全く答えられないか、抽象的にしか答えられないし、梁と鄭との本当の区別もつけられない。
鄭経翰の一連の発言から、彼の社会経済的立場は右翼民主派のそれからは大きく逸脱していない。しかし梁国雄の選挙公約は明らかに民主派左派のそれである。しかし多くの有権者は二人がともに「民衆を代表している」と考え、支持している。梁国雄に投票したある支持者は彼に投票した理由を「目茶苦茶な奴を議会に送って混乱させるのも一興だ」という。しかし梁国雄は目茶苦茶な奴ではない。
このような有権者は今回は梁国雄に投票したが、今後も同じように振る舞うとは限らない。結局、確固とした左翼的有権者の支持基盤はいまだ形成されてはいないのである。このような支持基盤を形成することは容易なことではない。主要な困難は、まさに労働者民衆がまだその闘争の方向性をはっきりと認識していないことにあり、自分が何を求めているのかをはっきりとは分かっていないことにある。
政治的には、全議席の直接選挙という目標だけははっきりとしているが、社会経済的には、どのような改革が必要なのかについては非常に不明確である。非常に多くの人が、董建華が辞職すれば、あるいは全面的な直接選挙が実施されれば一切の問題があっという間に解決すると楽観的に考えている。一部の人は、数え切れないくらいの不満を発散したいがどのように表現すればいいのかがわからないでいる。
こういう人たちは、梁国雄が議会で暴れてくれればよい、と考え投票している。こういった抗議票を投じた有権者の割合は決して少なくない。思想的には非常に混乱しており、容易に投機的な政客(例えば田北俊の類)に利用されるだろう。
現在の政治制度の下では、立法会の権力は極めて小さなものであり、たとえ全六十議席がすべて梁国雄らのグループで占められたとしても、香港政府の支配権を動揺させることはできない。ましてや現在は彼は一人なのである。
それゆえ梁国雄の議会進出の現実的意義は、一時的に下層市民の憂さ晴らしにしかならず、彼らの生活の困難と香港の社会的矛盾を本当の意味で解決することはできない。これを実現するには、なによりも力強い労働者民衆の民主的闘争が必要である。
しかしこれはまた最も困難な任務でもある。梁国雄の選挙運動員は「中国共産党に対して抵抗したいという気持ちがあるが自分にはできない。梁国雄はそれを実践している」と語っている。しかし、「梁国雄は抵抗できるが民衆は抵抗できない」といった状況が今後も続くとなれば、民主主義と民衆の生活が保障された社会を築き上げることに期待は持てないだろう。
この二十年来、香港民衆の民主主義的意識は大いに高揚したが、それはスタートラインが極めて低い位置にあったことに由来する。香港人の心にはいまだ多くの奴隷根性があり、いつの日にか救世主が問題を解決してくれることを期待しており、自らが長期的な集団的闘争に参加するという考えが少ない。
それゆえ香港の民主化運動は一貫してある致命的弱点を持っている。それは、職業的組織者と一般民衆の間に、まったく活動家が存在しないか、いても個人的なレベルにとどまっていることだ。またこの存在する活動家も、何年にも渡って活動を継続する者は極めて少数である。かつて海外メディアは第一党である民主党が何千何万の党員を擁していると思い込んでいたが、実際には五百人の党員しかいないと知ったときは大いに驚いたというエピソードがある。民主党ですらこういった状況であるので、その他の小さな政治団体は言うに及ばずである。
大衆的な組織と考えられる団体、たとえば労働組合でも本当にアクティブな組合員は数えるほどしかいない。アクティブさに関しては、今日の組合員は、五〇年代の組合員には遠く及ばない。このような致命的な弱点は、香港労働者階級がこの数年来の資本と政治の強力な攻勢に抵抗できない主要な理由の一つである。このような弱点は同時に、労働運動が多分にカリスマ的指導者に依拠し、カリスマ的指導者が組織を圧倒することにつながるだろう。労働者は労働界出身のカリスマ議員は知っていても、(出身団体である)工盟や街工などの名前を挙げることができないかもしれない。
十数年来活動をしている四五行動も梁国雄一人に依拠している。代議員制と選挙活動は資本主義社会においては通俗化され、一種のイメージを主とした選挙イベントと化し、客観的にも個人的なカリスマ的指導者を強化する。しかしカリスマ的指導者が増え、かれらの政治ショーがどれだけ華やかになろうとも、最も重要な課題、労働者民衆自身の組織と長期的な闘争という課題は解決されないままだろう。
今日、大衆が集団的抵抗の準備を欠いているのは、単に勇気がないということではなく、抵抗の筋道と方向性が見えないからである。民生問題はもっとも切実な問題であるが、まさにこの問題において、労働運動の中の多くを含む大部分の人は、いまだに自由主義派の思想的束縛から抜け出ることができないでいる。それは代議制プラス自由市場という公式であり、政治的に普通選挙を勝ち取り、経済上では個人の市場競争を強調するのが、もっとも理想的な社会制度だというのである。
ここ数年、労働運動団体には一定の前進が見られ、最低賃金制など、市場の搾取を制限するいくつかの要求を提起しているが、結局のところ公的権力がどの程度自由市場に介入すべきであるのかということについては討論すらもなく、全面的な社会的改造を求めるプロレタリア民主派の綱領については言うに及ばずである。民主派左派がこのような綱領を提起できないままだと、自由主義派の思想的支配に対抗することは不可能であり、自由主義派のしっぽ的役割を免れないだろう。
それゆえ左翼の切迫した任務は、この問題に関する討論を促すことであり、活動家と民衆の意識を高め、綱領を発展させるために思想および政治的な準備をすることである。これは何人かの個人が立法会の内外で抗議を続けること以上に重要なことである。
梁国雄の政治綱領は他のどの候補者よりも左に位置しており、われわれを含む多くの草の根運動組織にとっても協力可能な前提が数多くある。しかし長期的に見た場合、依然として検討しなければならない問題も少なくはない。
梁国雄は若いときにはトロツキスト、すなわち労働者階級の解放事業を堅持する社会主義派を自認していた。社会主義が、中国やソ連共産党の徹底した労働者階級への裏切り、そして自ら資本主義復活を進めたことで引き起こされた空前の停滞状況において、梁国雄と彼の同志(劉山青など)も少しずつ変化してきた。
当選後のインタビューで、いまだトロツキストなのかという質問に対して、「ええ。しかしいまはトロツキストの理想を実現することはできません。なぜなら今は、一般民衆が声を上げること、つまり民主化運動に取り組まなければならないからです」と答えた。記者によるこの発言の引用が妥当であるかどうかは置いておくとしても、四五行動(梁国雄が代表を務める運動体)の綱領および彼の長年の路線は、社会主義的立場ではなく左翼民主主義の立場である。別なインタビューで彼は「いま香港に必要なのは社会民主主義の政策を実現すること」であり、ケインズの主張する「公的財政の支出で需要を拡大すること」だと述べている。
これらの考えには正しい主張もあるだろうが、検討しなければならないところもある。十分な社会福祉を勝ち取らなければならず、そのために公的支出を縮小ではなく拡大しなければならないという意味においては、それは正しい主張だろう。
しかし社会民主主義、あるいはケインズ主義などの名称を使う必要は全くない。逆にこれらの名称を使うことで混乱を引き起こすだろう。なぜなら社会民主主義は社会福祉への支出と同義ではないからである。今日の社会民主主義(例えばイギリス労働党)にいたっては新自由主義とほとんど変わらなくなってしまっている。
ケインズ主義はなおのこと社会福祉への支出と何ら必然的な関係はない。それは市場が自然と均衡を保つとは信じてはいない。逆に赤字予算で市場に干渉することを主張している。しかし拡大された公共支出は福祉ではなく軍事費に充てることもあるのだ。
また、戦後から七〇年代末にかけての西欧社会民主主義は、相当程度の社会福祉支出を維持してきたが、それは西欧社会民主主義の唯一の構成要素ではなく、また最も重要な構成要素でもない。西欧社会民主主義の最も主要な特徴は改良主義であり、すべての改良的措置、民衆の福祉を保障するあらゆる措置は資本主義を維持するために行われたものである。これこそが社会民主主義の核心である。
これこそが八〇年代以降、各国の財界が比較的高価な社会福祉を維持できなくなり、また維持することを認めなくなったときに、すべての社会民主党が資本家に追随し、福祉削減の急先鋒になった理由である。これらの事態に対して、一部の人々は社会民主党が自らの綱領を裏切ったと考えているが、それは根本的に誤った理解から生じる誤解である。社会民主党は自らの綱領に背いていないばかりか、逆に最も根本的な問題において自らの綱領に忠実であったのだ。
それゆえ今日われわれが権利としての社会福祉を要求するとき、もし社会民主党のように社会福祉の要求は資本主義が許容する限度内を前提とするのでなければ、社会民主主義という名称を使うことを避けたほうがよいだろう。梁国雄と四五行動はこのような考えではないかもしれないが、彼らの構想全体がどのようなものであるのかについては、彼ら自身がはっきりさせるのを待たねばならない。
雇用と福祉の保障は、その時代の生産力と関連するが、資本主義やブルジョアジーとは永遠に相容れることはない。資本主義の繁栄期において、ブルジョアジーはやっと一定程度の社会福祉支出を許容するが、一旦それが衰退期に突入するとそんなことはお構いなしとなる。
労働者民衆が雇用と生活を保障したければ、資本主義を超え、資本の搾取の論理に支配されない新しい社会を作らなければならない。空想とは、このような社会が建設できると考えることではなく、資本主義という腐朽した制度内において雇用と生活の保障を試みることである。
それゆえ労働者民衆にとって必要なことは、社会主義的理念を堅持する長期的な目標であり、それを放棄することにあるのではない。われわれのいう社会主義とは労働者民衆が主人公であり続ける社会のことである。スターリンや毛沢東式の社会主義は、本当の社会主義ではない。資本主義の代議制政治体制とは、ニセモノの(あるいは多分に疑わしい)民主主義である。われわれの目指す社会主義こそが本当の社会主義であり、本当の民主主義である。
資本主義が全面的勝利を収めたかにみえる今日、社会主義について語ることは夢物語のようである。それは本当に夢物語なのだろうか。それとも歴史は資本主義で終結したとする宣言のほうが夢物語なのだろうか。ベルリンの壁の崩壊は資本主義を再び全地球的に拡大した。しかしそれに続いたのは人々の豊かな生活ではなかった。逆に失業と貧困の温床が全地球的に拡大した。現実の苦しみがオルタナティブを求める民衆の思考を促している。歴史は終わっていない。イデオロギーは終わっていない。進歩と反動の分岐も終わってはいない。
逆に、香港のように思想的な停滞が顕著な地域でさえ、右と左の分岐が始まっていることは、今回の選挙でも反映された。労働者民衆の解放事業を志すすべての友人は、左翼民主主義派の力を発展させるだけでなく、本当の社会主義左派の自立した勢力が、独裁派(親中国派)や自由派との三つ巴になるまでに発展させることに取り組み続けなければならない。そしてその時にはじめて労働者民衆は長期的で組織的な抵抗を発展させることができるだろう。
ここでわれわれが闘争の方向性をはっきりさせたのは、決して無意味なことではなく、今後の長期的な闘争への思想的準備のためである。
二〇〇四年十月二十一日
|