| 日本軍の細菌戦による被害者の証言を聞く かけはし2004.12.20号 |
【千葉】日米開戦の十二月八日、戦争責任を考える千葉八月の会主催の「ペスト菌で中国人を虐殺した歴史・日本軍の細菌戦による被害者の証言を聞こう」集会が、船橋中央公民館で行われた。
この集会は、前日の七日、中国から東京高裁における七三一細菌部隊戦裁判の第九回控訴審の意見陳述に来日した三人の方の話を聞くことができる貴重な集会だった。
七三一細菌部隊戦裁判とは、日中戦争中の一九四〇年から四二年にかけて、日本軍七三一部隊が、中国江南地区(当時は中支と呼称)でペスト菌を食物に混入し、あるいは、ペストノミを空中散布するなどして、市民や農民、兵士らを虐殺した犯罪行為を対象にしている。その被害者たち百八十人が日本政府に「謝罪と損害賠償」を求めて、一九九七年八月、東京地裁に提訴した。
二〇〇二年八月の判決は、日本陸軍中央の指令で強行した細菌戦で、一万人以上の中国人を殺害した事実を認め、国際慣習法(人道法)に違反する戦争犯罪と認定したものの、事件から提訴までの時効=除斥(十五年)が成立・失効のため「国に責任なし」と賠償請求を棄却し、原告は敗訴した。
原告・弁護団は、ただちに控訴し、八日の意見陳述では、来日した二人の原告が証言を、国際法学者が証人として、《正義と人道にそった判決》を裁判官に強く訴えたそうである。
集会に先だって、「日本軍による細菌戦の歴史事実とを明らかにする会」が制作した、中国での記録ビデオを上映し、八月の会代表の大島孝一さんが、「八六年から毎夏アジア人の証言を聞いてきた。これまでは、日本の加害責任を追及するさまざまな裁判が行われてきたが、みな日本の国益を盾に屁理屈をつけて一蹴されてきた。日本は現在自衛隊を海外派兵している中で、かつての戦争責任を認めなければならない。七三一部隊裁判は、非常にありがたく、大切な裁判だ」とあいさつした。
続いて被害者の証言にうつった(別掲)。
加害責任は決して消え失せない
今回証人として来日し、七日の法廷で、意見書『日中共同声明』等の対日戦争賠償請求権問題に関して』を執筆・提出した管建強さん(華東政法大学教授 国際法)は、中国側が、賠償請求権を放棄したのではない点が重要であることを指摘した。
すなわち、「賠償問題は日華条約で解決済み」という日本政府の立場と、日華条約では、条約の適用範囲が限定されており、中国大陸には及ばないという条約の解釈の狭間で、中国本土における対日戦争賠償請求権は、一九五二年日華平和条約によっても、一九七二年の日中共同声明によっても、現実には決して放棄されていないというのが正しい法的解決なのである。したがって、日中共同声明と日中平和友好条約によって、「国際法上は」「決着したものといわざるを得ない」とする原判決の理解は誤りなのだとした。
この八日、日本やアジア諸国などの市民団体でつくる「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」の日本委員会が、太平洋戦争開戦記念日の八日、東京都内で記者会見し、日本が国連安全保障理事会の常任理事国に入ることに反対する声明を出した。
声明では、小泉首相が九月の国連総会で常任理事国入りの決意を表明したことについて、アジア各地の戦争被害者が日本政府を訴えた訴訟が約三十件あることを挙げ「日本は常任理事国入りする前にまず戦争責任を果たすべきだ」として反対、謝罪と個人賠償を速やかにするよう求めた。
その記者会見で熊さんは、市民の反対を無視し、イラク派兵をする日本政府に、「中国人は非常に不安を感じている。常任理事国入りには強く反対する」と訴えたとのことだ。この反対声明は、共同通信社が配信したものの、商業マスコミではまったく取り上げられなかった(唯一「しんぶん赤旗」のみ)。七三一細菌部隊戦裁判においては、まったく取り上げられなかった。
この八月の会主催の集会には、四十人近い参加者があったものの、若者や学生の参加はなかった。最後に発言した弁護団団長土屋公献さんがいったように、この裁判には被害者や遺族百八十人が提訴しているが、高齢のために亡くなる人も出てきている。
長い裁判に相反して、被害者にはあまり時間が残されていない。読者の皆さんに細菌戦被害を受けた原告の真剣な面持ちをお伝えすることができないのが残念だが、以下の資料を参考にして、もう一度日本軍が行った蛮行に心身を痛めている人々がいることを省みていただきたい。
加害責任も連帯も若者へとひきつがれていく。
事実を知るための参考文献・映画
『生物戦部隊七三一―アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪』西里扶甬子(草の根出版会、二〇〇二年)。テレビプロデューサーとして、七三一部隊の元隊員を追いかけた力作。九・一一テロの視座が鮮烈。/『七三一部隊の生物兵器とアメリカ―バイオテロの系譜』ピーター・ウィリアムズ、
デヴィド ウォーレス(西里 扶甬子訳、かもがわ出版、二〇〇三年)十年かけて訳されたものだが、これも炭疽菌事件などとつながっていく叙述に、背筋に寒いものが走る。/映画『にがい涙の大地から』(海南友子 監督 二〇〇四年)。二〇〇三年に、旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器による事故で父親を失った女性を追ったドキュメンタリー。筆者は未見だが、現在各地で自主上映されている。一月二十三日には、東京赤羽会館講堂において上映会が行われる予定である。 (沢中 仙)
胡 賢忠さんの証言
歴史の究明と真の友好
浙江省寧波市で被害にあい現在七十三歳になる。私と両親は、細菌戦の被害者であり、生存者だ。
一九四〇年十月二十七日午後二時頃、日本軍の飛行機が寧波上空に飛んできた。私はその時数えで九歳だった。家の横で飛行機から粟や米のような小さな物が撒かれているのを見た。
あいにくその夜大雨が降り、その粟のような物が家や貯水槽の中に入った。突然ある近所の豆乳屋をやっている夫妻が発病した。発熱しリンパ節が腫れ、三日目に亡くなった。
私は、父母、姉、弟との五人家族だったが、最初に発病したのは姉と弟だった。両親は、十キロ離れた病院へ隔離された。私も地域の未発症の人々と一緒に、別の病院へ隔離された。村には棺桶が並び、両親の生死を思うと胸がいっぱいになった。
私は二十日間隔離され、解放後両親と姉弟が死んだことを聞かされた。孤児になった九歳の私には、泣くことしかできなかった。仕方なく、農業をしていた兄の家に行き、牛飼の世話などをしながら面倒を見てもらった。
しかし、農家だった兄の家は貧しく、生活が維持できなくなったため、兄嫁と甥の三人で、北京の叔父の家へ行った。お粥も食べられず、草やぬかで作ったまんじゅうを食べた。兄もやってきて、叔父に雇ってもらい働いたが、叔父の死でまた生活ができなくなったため、一九四三年四人で寧波に戻った。
その後兄は、親戚や友人からお金を借りて、屋台で靴底を作って生活を立てた。私は、十三歳で革靴工場に入った。五〇年の解放後は労働組合に加入し、五一年人民解放軍に入隊した。
私たちの訴訟は、平和と中日人民の友好のための訴訟だ。過去の歴史を明らかにすることによって、中日の真の友好ができると信じている。この侵略と加害の歴史を清算しない限り、日本は国連の常任理事国入りはできない。十三億中国人民は、日本の国連常任理事国入りに反対している。また小泉首相の靖国神社参拝にも反対している。この訴訟を最後まで頑張りたい。
熊 善初さんの証言
家族四人が殺された
一九二六年六月二十四日生まれの七十四歳だ。常徳市の辺境といえる地域に住んでいた。
四二年の旧暦十月、細菌戦で八人だった家族が四人も死んだ。兄とその二人の息子、下の兄が十日のうちに死んでしまった。
あのとき私は、家から五キロほどの小学校で寄宿生活をしていた。
兄が亡くなったと連絡で家に帰り、学校へ戻ってみると、五人の生徒が頭痛と発熱、発疹をうったえていた。私も同じ症状にかかり、授業にも集中できず、先生に「なぜ授業に集中できないのか」といわれた。
当時の国民党政府は、これを重要視し、罹患地に調査チームを派遣してきた。先生に病院へ連れて行かれたが、採血され、何の病気かも告げられず、一日二回注射をされ、数人の生徒たちとともに、先生の控え室のような部屋に隔離された。
さいわい八日後に回復した。すべての授業は中止になり、生徒は家に帰らされた。
家に帰ったものの、外に出られず、人とカラスの鳴き声だけが聞こえた。方々で葬式が頻繁に行われていたが、最後には誰も手伝いに来なくなった。避難先のある人は出て行ったが、逃げ場のない私たちは家に閉じこもった。皆なんの病気かわからず、自然災害だと思って運命に身をまかせるしかなかった。発病するとほぼ三日で亡くなった。だんだん棺桶の数も足りなくなり、そのまま埋められるようになった。私の村の五キロ周辺で、百七十二人の死者が出ている。私たちの調査では七千人にも上る人々が細菌戦で亡くなっている。しかし、避難した人や近隣の村など完全に把握しているとはいえない。
殺された人々は、みな庶民でなんの罪もない。女性や子ども、老人もいた。日本軍国主義の犯罪を怨まずにはいられない。
日本軍による細菌戦は、細菌による世界初の犯罪だ。今日日本軍の犯罪を日本と世界の人々に知ってほしい。中日は、政府間レベルでは正常な関係が結ばれたが、民衆の間には友好関係が結ばれただろうか。日本政府は、安全保障一つとってもアメリカ追随だし、歴史教科書では正しい歴史が削除されつつある。政治家の言動や靖国神社参拝なども私たちは許せない。私たちが日本の国連常任理事国入りをどう思っているか知ってほしい。
投書
世界大会報告を読んで
K・S
私はトロツキストではありませんが、第四インター15回世界大会報告決定集を読んで、15回大会の内容が、非常に感動的で、ほとんどの点に賛成できるものでした。ヨーロッパやラテンアメリカで大衆闘争の先頭に立ち、かつ、その中で、最左翼の立場を堅持してきた活動家たちが作り上げた意気込みが感じられました。その点、前大会の報告とは画然と雰囲気が違っています。
特に、『第四インターの役割と任務』、『エコロジーと社会主義』が冴えてると思いました。『エコロジーと社会主義』は、マルクス主義の立場にしっかり立ちつつ、その未開の領域を具体的実践的に、かつ謙虚に論じていて魅力的でした。私はこの領域は無知でしたので、エコロジーの問題が、「単に資本主義の否定的結果のひとつ」とか、「感傷的美的な問題」ではなく、「われわれの種の存在自身を脅かす資本主義の脅威」であることに、はじめて気づかされました。『新しい世界情勢』も知らないことが多く、勉強になりました。ソ連崩壊後の九〇年代国際階級闘争は底を抜け、二十一世紀、新しい高揚の時代の端緒についたという分析は同感できます。ただ、ちょっとマルクス主義特有の下向分析(経済的法則性の解明)が弱い点が気になりました。
さて、『第四インターの役割と任務』です。フランソワ・ベルカマン氏も書いていますが、ここには第四インターのアイデンティティーの大きな転換があると思います。それを今、できたところがすばらしいと思うのです。
インターの歴史を積極的に評価しつつ、今後は「大衆的影響力をもつ新しい国際主義的、複数主義的、革命的勢力の構築の展望にたって、労働運動、社会運動の組織化に寄与する」としています。14回大会までの「第四インターは唯一の国際的な革命組織」「社会主義革命の世界党」という自己認識を転換し、あらゆる大衆闘争と労働運動の先頭に立ちつつ、改良主義的潮流に抵抗して、ラディカルな左翼潮流の再結集に貢献するとしています。これが実現されたら、革命的左翼が階級闘争への影響力を回復していくことも可能となるでしょう。本当に頑張ってほしいと思います。
さて、日本の現実です。「革命的左翼勢力の組織的再編統合」という課題は、実に困難にみえます。いくつかの左翼勢力の統合も聞きますが、「組織の履歴の防衛」に基づいた統合では迫力がありません。大衆運動・労働運動が低調なこともさることながら、「内ゲバ」が重大な壁であるということは言えるでしょう。
しかし、「内ゲバがあるから、日本では15回大会の戦略はとれない」というのでは大変残念です。第四インターの「内ゲバ党派排除」の戦略も理解できますが、内在的な「内ゲバ」批判をもって、もう一歩踏み込んだ、開かれた組織戦略に出てほしいという期待もあります。OO派系の大衆団体でも、無視できない数の真摯な人士や活動家が存在していると思うからです。
小西誠氏らが主催する『内ゲバ研究会』にはJRCLのメンバーも参加されていたようです。そこでの議論には様々な意見がありますが、「唯一前衛党論」批判を析出したことは意義があるのではないかと思います。「唯一前衛党論」批判は15回大会の転換とも通底するものがあると考えます。『第四インターの役割と任務』も、日本ほど深刻ではないにしろ、「ほとんどの革命的諸組織は先天的にセクト的」である中で、「革命的左翼組織内部の和解」があえて必要とされていると提起しているのではないでしょうか。
差し伸べられた手を、ともに固く握ってたたかいましょう!
内ゲバ主義否定は組織的再編の前提
本紙編集委員会
「第四インターナショナル第15回世界大会報告集」を精読していただきありがとうございました。いくつかの点で、私たちの考え方についてより正確を期するためにお答えいたします。
まず第四インターナショナルは「唯一の国際的な革命組織」「社会主義革命の世界党」という規定を14回大会まで保持していたわけではありません。「『唯一の』国際的な革命組織」という規定については、私たちの知る限りそのようにセクト主義的に主張していませんでしたし、「社会主義革命の世界党」規定については一九八五年の第四インターナショナル第12回世界大会で、そのような自己規定はしないことについて確認しています。したがって15回世界大会の決議は、決して突然の「転換」ではなく、少なくとも一九八〇年代以来の私たちの実践と討論の集約であると理解していただきたい、と思います。
また私たちは「内ゲバがあるから15回大会の戦略を取れない」としているわけではありません。私たちはこの間、新しい反資本主義的左翼の再編・結集のための意識的な努力に挑戦する立場を明らかにしています。しかし、その政治的共同の対象には内ゲバを行使し、あるいは内ゲバ主義的実践を自己批判していない政治組織はふくまれていません。内ゲバ主義の否定は、左翼の新しい再編を進めていく上でゆるがせにしてはいけない重要な原則の一つだと考えているからです。
私たちは、そうした前提に立って、共同の討論と実践を具体的に進めていこうと思います。
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