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                           かけはし2004.06.14号

ムンバイ世界社会フォーラムがかちとった成果と課題(上)

インド開催の大きな意義

 

 一月十六日から二十一日までインド最大の都市ムンバイで開催された第四回世界社会フォーラム(WSF)は、二〇〇一年一月からブラジル・ポルトアレグレを舞台に積み重ねられてきた世界社会フォーラムの運動プロセスにとって新たな転換点を画するものとなった。初めてブラジルを離れて、近い将来に中国を追い越して世界最大の人口を擁するようになることが予測されるインドで世界社会フォーラムが開催されたことには、きわめて大きな意義があった。
 これまでラテンアメリカとヨーロッパが参加者の中心だった第三回までの世界社会フォーラムが、世界人口の過半を占めるアジアの、しかも資本の新自由主義的グローバリゼーションにさらさられる「南」の現実と矛盾を最も集約的に表現するインドを舞台として開かれ、民族・言語・文化・階層を異にするインドの多様きわまる運動の現実と接触し、学んだことは、「世界社会フォーラム」が真にその名にふさわしい「世界的」な質を獲得し、「オルタナティブ」をいっそう具体化していく上で貴重な経験となっていくだろう。

グローバル化の矛盾を体現する土地で

 新自由主義的グローバリゼーションが「南」の世界にもたらす矛盾を最も象徴的に体現する国の一つがインドである、ということの意味はどこにあるのだろうか。
 第一に、グローバリゼーションの推進者にとってインドが成功の「模範例」として賞賛されていることである。たとえばILOがグローバリゼーションの弊害に焦点を当ててまとめた報告書「公正なグローバリゼーション」に対して、インド出身のバグワティ米コロンビア大教授が「グローバリズム防衛論」を出版し、新自由主義的グローバリゼーションの「成果」を強調しているが、その引き合いに出されているのがインドの「成長」なのである(毎日新聞 3月3日)。
 一九九〇年代以後、それまでの国民会議派が主導した「インド的社会主義」という保護主義的な経済建設路線を転換し、貿易・投資の自由化、規制緩和策に踏み切ったことを通じて新自由主義的グローバリゼーションに積極的に対応してきたインドは、年率六〜七%の急速な経済成長を達成し、従来は見られなかった「都市中間階級」の大衆的創出(約二億人と言われる)を経験してきた。その推進力は、IT産業である。
 それはインド出身のIT技術者が米シリコンバレーで働くエンジニアの三割を占め、インドのソフトウェア輸出額がアメリカに次いで世界第二位であるという事実に止まらない。今や、アメリカの大企業のコンピューター事務処理部門がバンガロールなどにあるインドの現地企業にアウトソーシング(外注)され、その結果、アメリカのホワイトカラーの職を奪っているのかインドだということになり、かつての日本ではなくインドがアメリカの失業の元凶であるというバッシング現象が起こっていると、される。そこでアメリカ大統領選挙に影響を与える外国は、第一がイラクであるが、第二はインドであると言われているほどだ(日本経済新聞 04年3月7日「春秋」欄)。
 もっともIT産業の隆盛によって生み出された「中間層」の年間所得は、政府系のシンクタンクの調査によっても十二万ルピー(約三十万円)以上となっており、消費者層と期待される「中間層」の所得水準は、国際的レベルでは依然として低い(小川忠『インド 多様性大国の最新事情』 角川選書)。一九九〇年代の高度経済成長にもかかわらず、一人あたりGDPは二〇〇一年の統計で四百六十USドルにとどまっている(一九九一年は三百三十ドル)。
 第二は、この新自由主義的グローバリゼーションが貧富の格差をいっそう拡大し、十億を超えるインドの人口の大多数を占める貧困層にとって、その生活基盤そのものを破壊する深刻な現実をもたらしていることである。農業、伝統的製造業の衰退が進み、土地を手放し、都市のスラムに流入する人口層が増大している。
 彼ら、彼女らが水、電気などの最低限のインフラにアクセスする条件はさらに悪化しており、子ども、女性たちの人身売買も増加している。そのことは、バンガロールとならぶIT産業の中心地であるハイデラバードを州都とするアンドラ・プラデーシュ州で、貧しい人々の餓死に加えて、伝統的織物業者や農民の生活苦・借金苦による自殺が二〇〇二年だけで三千百九十九人もの多数に及んでいるという悲劇的現実が示すところである(「しんぶん赤旗」4月19日、ワールドリポート欄)。
 実際、千五百万人の人口を持つムンバイ市は巨大なスラム人口を抱えた大都市である。ムンバイ・サハール国際空港を日中明るいうちに離着陸する旅行者は、空港周囲の小高い丘を麓から頂上まで隙間なく埋めつくした土色のスラム住居に圧倒されるし、世界社会フォーラムの会場となった同市北部ゴレガオン地区にあるネスコグラウンドの周囲もまた、道路脇に土で作られた掘っ建て小屋が密集する貧しい住民の多い地域である。世界社会フォーラムがそうした空間で開催されたことは、全世界の社会運動活動家にとって「もう一つの世界」をめざす闘いが、どういう複雑で困難な現実に直面しなければならないかを端的に象徴するものであった。
 「WSF2004は、この年次会合が『ジェット機族』のエリート活動家や進歩的NGOのためだけのものではなく、インドのような地域の社会運動に根を下ろしたものであることを示した。ポルトアレグレ(ブラジル)は決してWSFの『中枢指導部』ではなく、WSFは欧州中心主義なのでもない。それはますますグローバル化しつつある。/今年の世界社会フォーラムのムンバイでの開催は、このイベントの創出のための共同作業に合意したインドの社会運動と政治グループの関与によってはじめて可能となった。この協力は、世界の注目をアジアとインド亜大陸に向けたこととならんで、WSFが達成した重要な成果の一つである」(ジェームズ・コッククロフト、スーザン・コールドウェル「世界社会フォーラム:新たな前進・以前から引きずる諸問題」、「インターナショナルビューポイント」04年3月号)。

インドの政治・運動構造の困難の克服

 ムンバイで世界社会フォーラムを開催するにあたっては、固有の困難を克服しなければならなかった。
 第一は、ブラジルのポルトアレグレが十年以上にわたるPT(労働者党)市政による「参加型予算」の実験が成功を収めたモデルケースであり、市の行政が世界社会フォーラムの開催を全面的に支援したのに比べて、ムンバイ市はインドの政権党であるBJP(インド人民党)とそれに連なるヒンズー至上主義右翼によって支配され、行政からの協力をまったく得られなかったことである。またインドの社会フォーラム組織委員会は、基本的に多国籍企業に関わる財団からの資金援助を断り、独自の財政努力で今回のフォーラムを運営することになったため、資金的逼迫も予想された。
 第二は、インドの複雑な左翼政党関係と「大衆運動・民衆運動」が競合する関係の存在である。インドでは、西ベンガル州などで州政府を掌握する二大共産党(CPI〔インド共産党〕とCPI―M〔インド共産党―マルクス主義〕)の他にも、東部のビハール州などで一定の力を持つ毛沢東主義起源のCPI―ML(インド共産党―マルクス・レーニン主義)とそこから派生した多数のグループなど、数多くの「共産党」が存在する。ML系の一部は今日もなお「武装闘争」を継続しており、一部の農民運動団体にも影響力を持っている。
 ML系共産党の中心勢力(ML、ML解放、ML赤旗)は、世界社会フォーラムに「批判的」に参加したが、一部(ML人民戦争派)はフィリピン共産党(CPP=シソン派共産党)が中心になった世界社会フォーラムへの事実上の「対抗プロジェクト」としての「ムンバイ・レジスタンス」(MR2004)に合流した。また世界社会フォーラムの重要な構成要素の一つである国際的農民運動組織「ビア・カンペシーナ(農民の道)」に結集するインドのグループもまた「MR2004」を支持した。こうした関係で「ビア・カンペシーナ」の会議は、WSFの会場とも、道を一つはさんだ「MR2004」の会場とも違う、別の場所で行われることになった。「ムンバイ・レジスタンス」は、世界社会フォーラムを「帝国主義諸国のNGOなどが主導権を取った、グローバリゼーションを補完する企画」と規定し、世界社会フォーラムの会場でも活発な宣伝活動を行った。
 インドでのフォーラム開催地がムンバイになった理由は、総選挙を前にして政党相互の競争が熾烈さを増す中で、たとえばムンバイとならぶ大都市である西ベンガル州のコルカタで開催した場合、州と市の行政を支配するCPI―Mの影響力が強大になりすぎる、などの配慮が働き、運動への一政党の影響力がそれほど支配的ではないムンバイに落ちついたためと言われる。
 なおここで「大衆運動」と「民衆運動」の区別についても説明する必要がある。それがインドの運動構造を理解する上でのキー概念の一つだからである。インドでは「大衆運動」(mass movement)とは二大共産党などの各政党がそれぞれの系列の「傘下大衆組織」を通じて組織した労働組合運動、女性運動、農民運動、文化運動などの「伝統的」運動を意味し、「民衆運動」(people's movement)とは政党から独立したNGOや、ダリット(カーストからも排除された被差別最下層の民衆)などのマイノリティーの自立した諸運動を指している。
 インドだけではなく、アジア諸国では左翼政党が独自の「傘下大衆組織」を直接的に組織し、政党ごとにそれぞれの労組、農民組織などを分立させる傾向が強い。すなわち「大衆運動」は直接的に党の影響下に分裂的に作りだされてきたのである。
 伝統的「大衆運動」と「民衆運動」とは相互に錯綜しながら、並立・対立して存在し、共同した行動を形成することは稀であった(たとえばナルマダダム建設などの「巨大開発」計画に反対する地域住民運動には、二大共産党は同調してこなかった。そのことは、共産党=スターリニスト党の経済開発路線の「生産力主義」的概念と関係している、と思われる)。
 しかしこうした主体的な困難性は、世界社会フォーラム・インド組織委員会の努力によって基本的に克服されることになった。インド全二十八州のほとんどで、州ごとの社会フォーラムが積み上げられ、その成果がムンバイの世界社会フォーラムに集約されることになった。労組、女性組織などの伝統的「大衆運動」だけではなく、「全国行進」を行ってムンバイに結集し、二〜三万人を動員したとされるダリットの人びと、各少数民族・部族の大衆が、それぞれの表現で自己主張を行い、セックスワーカーやLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の人びとが自らの存在と要求をアピールした。
 「MR2004」(ムンバイ・レジスタンス)との関係では、お互いの企画が深刻な敵対にならないための調整の努力が行われた。一月十六日のオープニング集会で発言したアルンダティ・ロイは、「MR2004」に参加した人びととの共同の闘いを強調した。ロイをはじめ世界社会フォーラムと「MR2004」の双方で発言した人びとも少なくなかった。
 「WSFがグローバリゼーションに対する具体的な統一した闘争方針を打ち出していない」という「MR2004」からの批判は性急に過ぎるものであり、「WSFを主導するNGOは帝国主義が人民の運動に送り込んだ『トロイの馬』だ」とまで規定する彼らの主張は、グローバリゼーションに反対する多様な社会運動から自らを意識的に孤立化させ、十万人以上を結集させたWSFに対して「MR2004」の動員は五千人程度にとどまった。しかしこの批判にふくまれる諸問題(政党の代表や軍事組織の参加を拒否するWSFの「原則憲章」など)については、世界社会フォーラムの側にとっても今後の戦略的論議の中で取り上げられることになるだろう。     (つづく)(平井純一)


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