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                                   かけはし2004.08.23号

右島一朗(高島義一)同志を追悼する

日本革命的共産主義者同盟(JRCL)中央委員会書記局



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 同志、読者の皆さん。われわれは深い衝撃と悲しみをもって以下の事実を報告しなけれぱならない。
 日本革命的共産主義者同盟(JRCL)中央委員、書記局員で、「週刊かけはし」編集長の同志・右島一朗(高島義一)は、単独行の登山中、南アルプス赤石岳と聖岳の間の赤石沢で滑落し、死亡した。享年五十五歳。右島同志の遺体は、八月十一日に登山者によって発見された。同日夜になって連絡を受けた家族と同志たちがただちに現地にかけつけた。彼の遺体は八月十二日にヘリコプターによって搬送され、八月十三日午前中に静岡市で荼毘(だび)に付された。彼が手帳に残した克明なルート記録、ならびに検死の結果によれば、彼が亡くなったのは八月八日で、ほぼ即死と推定される。
 八月十三日午後一時、連れ合いの政子さんたちとともに東京駅に着いた右島同志の遺骨は、約四十人の同志、友人たちに迎えられ、最後の悲しい別れを行った。

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 右島一朗同志は、一九四八年九月、千葉県船橋市に生まれた。一九六八年に東京薬科大学に入学した彼は、ベトナム革命の前進を背景とした当時の全世界的な青年・学生運動の急進化の中で、新左翼運動の戦列に加わった。彼はブント(共産主義者同盟)の活動家として闘いを開始した。一九六九年の第二次ブントの最終的分裂の中で、彼は赤軍派の形成過程に関わったが、その直後に赤軍派の空論的な極左一揆主義的路線を批判し、ブント関西派系列のメンバーとして闘うことになった。
 一九七一年以後、ブントと決別し、トロツキーと第四インターナショナルの理論と実践を全面的に支持するようになった右島同志は、一九七二年一月に当時の国際主義共産学生同盟(学生インター)――第四インターナショナル日本支部を支持する学生組織――に結集するとともに、東薬大の活動家たちを学生インター東薬大支部に組織した。トロツキズムと世界革命に対する強固な確信を持った右島同志は、あらゆる闘いの最先頭に立ち、一九七三年には日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)に加盟し、生涯をつらぬいた共産主義革命家としての歩みを決意することになった。この彼の決意は、終生変わることがなかった。
 右島同志は一九七四年、学生運動を「卒業」し、党活動家として「世界革命」編集部の活動を手伝うようになり、その後一貫して日本革命的共産主義者同盟機関紙編集部の専従活動家としての闘いを献身的に担った。

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 一九八〇年代後半から一九九〇年代初頭にかけた、女性差別問題を契機とした第四インターナショナル日本支部の危機と分裂、階級闘争の深刻な後退の顕在化は、わが同盟にとってきわめて深刻な試練であった。組織力量の大幅な減退の中で、われわれは機関紙「世界革命」―「かけはし」の週刊発行を軸に、石にかじりついても社会主義革命運動の再生の思想的拠点を防衛しようとする闘いを継続した。
 機関紙の週刊発行は、われわれの現実の組織力量を考えれば、ほとんど不可能と思われるほどの任務であった。そしてその困難な課題はひとえに編集長としての右島同志の肩にかかってきたのである。彼は、一人で編集業務を引き受け、企画を立て、連日の集会・行動を取材して記事にし、「世界革命」―「かけはし」の主要論文を毎号のように執筆した。彼の執筆分野は、政治情勢、経済情勢についての分析、労働運動、反戦運動・反原発運動をはじめとする社会運動から、時事問題、書評・文化批評、マルクス主義にかかわる理論問題、イデオロギー闘争などあらゆる分野に及んでいた。彼は徹底して資料と格闘し、考え抜いた末に結論を導き出して、原稿を執筆した。どんなに多忙な時でも、彼は決してその論文スタイルをゆるがせにはしなかった。
 右島同志の比類ない責任感、旺盛な読書力・知識欲、現場の労働運動・大衆運動の現実への精力的な関心が、オールラウンドプレーヤーとしての彼を支えていた。音楽や絵画、文学への造詣も深く、中途半端を許さない「完全主義者」「凝り性」としての彼の性格は、きわだったものだった。彼の生命を奪うことになった、とりわけ難しい挑戦を繰り返す夏冬の単独山行も、彼の「チャレンジ精神」の表現だったと言えるだろう。
 彼はマルクス主義、トロツキズムからの安易な逸脱やスターリニズムのあらゆる表れを許さない「頑固」なまでの原則主義者であり、徹底した論争を好んだが、同時に今日の状況の中でのマルクス主義革命理論の豊富化のためには、驚くほどの柔軟性も持っていた。そのことは、エコロジー運動などからの問題提起については、われわれの中で最も早く受容し、差別問題に敏感であり、最新の理論テーマについても貪欲に理解しようとする姿勢に示されていた。間違っていると思うことに対しては容赦なく批判したが、運動の中では決してセクト主義ではなかった。われわれの組織的・運動的・理論的弱点についても、彼はよく理解し、その克服のために努力してきた。
 そうした彼の姿勢は、反原発運動、反戦運動など多くの分野で、無党派の活動家からも信頼され、彼の書く論文の鋭い問題提起が読者の共感を得ることへとつながった。「高島義一論文」は、他党派や無党派の人びとからも注目して読まれていた。「高島義一論文」に感銘して、わが同盟や共青同に結集した若い仲間も少なくない。彼はそうした若い同志たちとの討論、教育にも大きな力を注いでいた。

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 右島同志は、この間とりわけ、今日の反グローバリゼーション運動・反戦運動の国際的な発展を基礎にした、日本における新たな左翼の結集のための論議に、同盟内外でその努力を集中していた。また今回の単独山行の直前に同志と交わした討論の中では、自民党の憲法改悪プロジェクトチームの「論点整理(案)」に示される反動的な国家・社会支配構造の再編との闘いに全力を注がねばならないことを強調した。
 彼の、そうした理論的・実践的な挑戦は、ついに完結することはなかった。それは彼にとってだけでなく、われわれにとっても、そして日本の左翼全体にとってもかえすがえすもくやしく、残念なことである。彼の突然の死は、革命的左翼の新たな挑戦にとって重大な打撃である。
 彼の抜けた穴は、決して埋めることはできない。彼の長年にわたる闘いの中で蓄積された経験、能力は、誰にもとってかわることはできない。右島同志を失った「空白」は、われわれの困難を非常なまでに増幅させるだろう。
 しかも、世界と日本の情勢は、イラク情勢の激動と占領支配の危機、小泉政権のグローバル帝国主義戦争への参戦と憲法改悪攻撃、戦後「護憲・革新」勢力の深刻な衰退の中で、歴史的な転換の局面を迎えている。いまこそ新しい左翼勢力の登場にとっての正念場である。
 われわれは右島同志を失った困難の中で、この試練に立ち向かわなければならない。われわれは彼の残した業績、闘争精神を引き継いで闘う。同志の皆さん、友人の皆さん。ともに、右島一朗の不屈の遺志を、われわれ一人一人の中に育み結実させようではないか。
     (04年8月15日)


右島一朗の突然の死を悼んで
│ 寄せられたメッセージから

二人でよく山の話をしていた

                         内田雅敏(弁護士)

 自衛隊イラク派兵違憲訴訟全国弁護団会議のため札幌に行っており、帰途、空港より事務所に連絡を入れたところ、右島さん遭難を知らされ、大変驚き悲しんでいます。
 余りにも突然のことですので、どのように悲しんでいいのかさえ分からないような状態です。
 右島さんとは、もちろん運動上の付き合いから始まったわけですが、よく二人で山の話をしておりました。
 私は彼のように沢や岩をやるような本格的なものでなく、尾根歩き程度のものですので、もっぱら私の方が聞き役でした。
 いつだったか、五月三日の憲法集会終了後、山に入り、岩にぶら下がっていたときのことを聞いた覚えがあります。岩に取りついている、それだけに集中して他には何も考えないからいいと話していました。
 彼が亡くなったことの実感はまだわきません。 8月13日


会って議論したかった
                           S・K

 高島義一氏のご逝去に、心から、哀悼の意を表します。突然のことで信じられない気持ちです。私は、かつて他党派の活動家でしたが、昨年、高島氏に自分の書いた論文を批判して頂き、電話でもお話をさせてもらいました。会って議論する機会を楽しみにしていたのに、本当に残念です。
 高島氏を介して、地域ではインターの方とも共闘できるようになりました。氏も願ったであろう、日本での反資本主義左翼の結集が実現されるよう頑張りましょう。 

改憲阻止闘争を前にして
                       尾沢孝司(日韓ネット)

 右島さんの突然の訃報に大変衝撃を受けています。これまで日韓連帯運動の様々な場で、いろいろとご協力していただいてきたことに大変感謝していました。政治的な立場は違うかもしてませんが、まだまだこれから協力し合い、改憲阻止の大きな闘いに臨もうとするときに、このような不慮の事故によってなくなられたことを大変残念に思います。心からご冥福をお祈り申し上げます。

遺志を継いで奮闘を
                  渡邉充春(関西東峰団結小屋維持会)

 右島氏(高嶋さん)の御逝去に心からお悔やみ申し上げます。皆さんが、今後も彼の遺志を継いで奮闘されんことを、望みます。


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