読書案内『野蛮の衝突』
ジルベール・アシュカル著 湯川順夫訳 作品社刊二二〇〇円+税 かけはし2005.2.28号 |
『文明の衝突』への鋭角的な批判
二〇〇二年四月に仏語版で刊行され、その後、欧米だけではなくアラビア語、トルコ語、中国語などでも翻訳出版されて話題を呼んでいる本書『野蛮の衝突』は、二〇〇一年「9・11」が衝撃的に浮き彫りにしたアメリカ「帝国」の戦争と「イスラム原理主義」に代表される異なった「テロリズム」同士の対決が意味するものを解明しようとする、最もアクチュアルなテーマを取り扱っている。
中東レバノン出身の著者ジルベール・アシュカルは、若き日に一九七〇年代のレバノン内戦の中で生死を賭けた政治闘争に参加し、一九八〇年代にフランスに移住した後、パリ第8大学教授として研究生活に入る一方で、今日も実践的な政治運動に関与して時事的な問題についても積極的に発言している。本紙でもブッシュのイラク侵略戦争などについての彼の論文やインタビューを掲載しているので、ご存じの読者もいるだろう。
『野蛮の衝突』という題名は、言うまでもなくアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンのベストセラー『文明の衝突』(邦訳は集英社刊、鈴木主税訳)を意識し、それを鋭角的に批判しようとするものだ(なお「バーバリズム」の訳語である「野蛮」は、通常はそれ自体として「進んだ西欧文明」との対比で征服された地域の文明や民族・文化を蔑視するものというニュアンスが強い。しかし著者は、明確に西欧的「エスノ中心主義」をきっぱりと拒否しており、「それぞれの文明が生み出すそれぞれの野蛮」について指摘している。したがってここでは、本書の核心とも言うべき「野蛮」概念について、その訳語をそのまま使用する)。
アシュカルは、ブッシュのアフガニスタン、イラクへの「先制的対テロ戦争」と宗教的原理主義のテロリズムとの衝突を、「文明」対「野蛮」、あるいは異なった二つの「文明」間の衝突としてではなく、「文明の進歩」が各段階で必然的に分泌する「野蛮」の衝突として、その政治的・心理的構造を描きだす。
「歴史的な長い射程において、異なるさまざまな文明を貫いてそれぞれの文明内部の自立的発展の中でも異なる文明の相互作用の中でも、『文明化の過程』が実際に存在しているのをわれわれが立証することはむずかしいことではない。だが、われわれは、同時に検証可能なこの歴史的過程の必然的帰結を見失ってはならない。それゆえに、文明の進歩の中で到達した各段階は野蛮の特殊な様式を生み出す。したがって、各文明はそれ自身、独自の野蛮の特殊な形態を生み出すのである」。
台頭する「野蛮」とどう向きあうのか
アシュカルは、ジョージ・W・ブッシュが、今日の「対テロ戦争」をアメリカに体現された「絶対善」とテロリストが体現する「絶対悪」の闘いとしてとらえ、「9・11」の悲劇を、全世界でアメリカをはじめとした帝国主義支配が作りだしているさらに巨大な悲劇と切り離して「特権化」している、と批判する。そしてメディアを介して世界的にかきたてられた「9・11」の衝撃とは、グローバル資本主義に一体化したエリート的生活様式が作りだした「自己愛的同情」なのだと分析している。
しかし本書の最大の特徴は、今日のブッシュ政権が全世界で遂行している「聖戦」の構造を歴史的にとらえ、それを完膚なきまでに批判するとともに、著者自らが身をもって体験してきた中東政治の推移の中で、イスラム「宗教的原理主義」の「野蛮」の具体的な特徴をえぐり出し、それに対しても仮借なき批判を加えていることである。アルカイーダなどに代表されるテロリズムをあたかも「反帝国主義」的正統性を持ったものとして擁護しようとする傾向との分岐線が、そこでは明解に引かれている。
しかしこの原理主義的反動は、決して「ファシズム」とのアナロジーで語られるべきではない。著者は述べている。「反西洋のイスラム原理主義は、帝国の政策の先鋭な表われや労働運動の台頭に対する反動ではない。むしろ、それは、帝国主義の支配とこの支配が依拠している腐敗したブルジョア体制に対する反対の先鋭な表われなのである」と。
「イスラム原理主義」は、アラブの共産主義や民族主義の敗北の中から大衆的基盤を獲得することになった。著者は、アメリカ帝国主義が中東における共産主義や民族主義の脅威への防波堤として育成してきたサウジアラビア王制、およびそのワッハーブ派イスラムイデオロギーの最も過激な反動的原理主義潮流としてのアルカイーダの分析によって、この問題にアプローチしている。
同時に著者は、この二つの「野蛮」について「抑圧者の立場にある最強のものの方が、やはり最も大きな責任を負っている」として、安易な相対主義の立場を否定している。
著者はまた、この「野蛮の台頭」についてたんに国際的な衝突の次元でとらえているだけではない。「それが国家的・資本主義的野蛮であろうと、政治的または宗教的な過激派の野蛮であろうと、あるいはほとんど錯乱的な野蛮であろうと、同じく重大なのは、自身の社会に対して向けられる野蛮の台頭である」。
アシュカルは、最も豊かな市民社会の中で生み出される「野蛮」の例として、一九九五年に起こった二つの事件、すなわちオクラホマシティーの米連邦ビルを爆破した極右白人至上主義者ティモシー・マクヴェイの事件と、地下鉄でサリンを撒いた日本のオウム真理教事件を取り上げている。これらは、先進帝国主義諸国の大都市でエスカレートする暴力との密接な相互関連を持っている。
新しい「マーシャルプラン」の提起
それでは、人類の生存にとっての脅威でもあるこの「野蛮の衝突」はどのように克服されるのだろうか。そのためには資本主義の新自由主義的グローバリゼーションが新たな内容で深化している社会経済的アノミーと政治的・イデオロギー的アノミー、すなわち価値基準と規範の解体に抗して、社会的公正と平等にもとづくオルタナティブを現実の政治・社会運動を通じて作りだしていく以外にはない、と著者は結論づける。
国際政治の現実的選択の二つの柱として著者が提起するのは「国連憲章の全体的な適用を伴った国連」と、「元祖マーシャルプランよりもはるかに大規模で、貧困と飢餓と伝染病を根絶し、『南』や『東』のすべての国の発展を促進する」ための「ある種の全世界的なマーシャルプラン」である。このあたりは、おそらく「反グローバリゼーション」運動の国際的な過渡的路線として、重要な論争的問題提起となるだろう。この「世界的なマーシャルプラン」については、スーザン・ジョージも『オルター・グローバリゼーション宣言』(作品社刊)の中で積極的に提起している。
また私たちが提起してきた「国連安保理常任理事国制度の廃止」については、著者は本書「結び」の注の中で以下のように批判している。
「常任理事国の拒否権を廃止して執行権力を国連総会に移譲することを要求する立場は、あまりにも素朴すぎるばかりでなく、民主主義の観点からも間違っている。……この改革が採択されるチャンスはいささかもない。それに、これは民主主義の観点からも間違っている。なぜなら、『一国一票』の原則は本当は民主主義的ではないからである。たとえば、この原則は一〇億人のインド国民と一万二〇〇〇人ののナウル国民を同等にしているのである。真に民主主義的な国際機関は二つの院に依拠する必要があるだろう。一方は、現在の国連総会をモデルにした国家からなる院であり、もう一方は住民の比例代表による直接普通選挙で選ばれた住民からなる院である」。
とりわけ後者の主張はユニークなものであり、検討の必要があるだろう。いずれにせよ本書は、どのような幻想も、根拠のない楽観主義も、観念的絶望も排除されているアシュカルの冷徹な論理を学ぶためにも、一読の価値のある好著である。 (平井純一)
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「パッチギ!」を見て
思いきって河を渡らなアカン
S・M
「イムジン河」の歌がいい心が綺麗になった
1月に、シネ・リーブル池袋1で「パッチギ!」(井筒和幸監督作品)を見た。
ストーリーを紹介したい。
舞台は、1968年の京都だ。松山康介(塩谷瞬)は、府立東高校の2年生だ。ある日、康介は、担任の布川(光石研)に、友人の吉田紀男(小出恵介)と一緒に「朝鮮高校に親善サッカーの申し込みに行ってこい」、と言われる。2人が朝鮮高校に行くと、どこからかブラスバンドの美しい演奏が聞こえてくる。
康介は、音楽室でフルートを吹く2年生のリ・キョンジャ(沢尻エリカ)に、一瞬で心を奪われる。楽器店で坂崎(オダギリジョー)という若者と知り合い、朝鮮高校で聞いた曲が「イムジン河」という南北分断の悲しみを唄った朝鮮の歌で、日本語に訳されたものをザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)が歌っていること、フォークルのその歌は発売中止になっていること、などを知る。
康介は書店で『日朝辞典』を買い、坂崎にはギターを教えてもらう。康介はキョンジャに電話をかけ、フォークルのコンサートに一緒に行こう、と誘う。だが、康介は逆に「キョンジャのコンサート」(実は、兄のアンソン、朝鮮高校3年生。高岡蒼佑)の帰国を祝う宴会)に誘われる。円山公園での宴会で、康介はキョンジャと「イムジン河」を合奏する。康介は、段段と朝鮮の人びとと親しくなっていくのだった……。
この映画は、在日朝鮮人と日本人の恋愛を描いている。そして、日本(日本人)による朝鮮人差別の問題に触れている。この映画は見ていて、涙が出てきてしまった。胸から咽の辺りがヒクヒク痙攣するような感じがした。胸の中を突き上げるようなものを感じた。同時に涙が頬を伝うのを感じた。その涙は、「トリコロールに燃えて」(ジョン・ダイガン監督作品)を見た時に出てきた涙と似た涙だった。この映画は、「チルソクの夏」(佐々部清監督作品)や「ホタル」(降旗康男監督作品)などよりもずっと良いような気がした。見ていて心が綺麗になっていくような気がした。「イムジン河」や「あの素晴しい愛をもう一度」などの歌もいい感じがした。
この映画を見ていて、「言論の自由」の問題についても考えさせられた。かつての歌には「権力や差別と闘う歌」が多かったが、今の歌はどうなっているのだろうか、とも思った。
ただ、この映画の暴力シーンや汚いシーンは、見ていてあまりいい感じがしなかった。また、内ゲバ派(中核派)や毛沢東(マオ・ツートン)に無批判的なところには疑問を感じた。「天皇制と日本資本主義そのものに対する批判」や「スターリン主義体制に対する進歩的な批判」も入れることは出来なかったのだろうか、とも思った。後、「精神障害者」を差別するような表現があった。
映画に関連する言葉を紹介したい。井筒和幸監督は、次のように語っている。
「日本人の90%が朝鮮系の渡来系の血だと考えてもまちがいない。それが、第1次大戦になって、そして日韓併合して、そして強制労働で何百万人も連れて来られた。その数は、100万人とも200万人とも諸説あります。……そしてひとつの国が、ひとつの国を潰したわけです。そして名前を変えさした……。……1910年から日本帝国主義はそういうことをしてきたわけだよね。創氏改名させて、神社を建てて、古来からある儒教や道教といった朝鮮の宗教を『田舎くさい宗教』と言って神道に改めさした。それで小学校建てて、日本語を教育するという、これは全くの侵略ですよ。……それで、死んだ人もいっぱいいるわけでね。広島では3万人ぐらい死んでいるんですよね、強制労働で連れて来られて」『シネ・フロント』第332号、10ページ、シネ・フロント社)。
井筒和幸監督は、朝鮮戦争についても、次のように語っている。
「そのころ人口3千万人ぐらいのうち500万人も死んだんです、両軍合わせて。離散家族が今、1千万人ぐらいいるんじゃないですか。みんな一緒に暮らしてません、誰か欠けてるんですよという人が1千万人ぐらいいる。……なぜ朝鮮が2国に分かれてなければならなかったのか。……日本が戦争して侵略してたからですよね。遠因は日本が起こした侵略戦争にあるんだよということは、自虐史観でもなんでもないんですよ」(『シネ・フロント』第332号、12ページ、シネ・フロント社)。
また、この映画のパンフレットの中には、朝鮮戦争について、次のようなことが書かれている。「朝鮮半島全土で450万人の朝鮮人が死亡し、そのうち4人に3人は一般市民だった」。井筒和幸監督は、この映画のパンフレットの中で、次のように語っている。
「世の中には、越えがたい河もたくさん流れている。それは何も、朝鮮半島を南北に隔てているイムジン河だけじゃなくて。日本と朝鮮半島の間にもあるし、日本人と『在日』との間にもあるし、もっと言えば男と女の間にだってある。アメリカにだって、白人と有色人種の間にはまだまだあると思う。でも、……最初から渡ることを諦めてしまったら人間というのは進化しない。だからみんな、もっと思いきって河を渡らなアカンのちゃうかということですね」。
松岡環さんは、次のように述べている。「在日朝鮮人・韓国人への差別は、もっときつくて陰険だった。……前は在日の人に対してえらいえげつない差別しとってんで、とさらっと言える日はこの国に来るのか」(『キネマ旬報』2005年2月上旬号、129ページ、キネマ旬報社)。
「パッチギ!」/2004年/日本映画/原案 松山猛『少年Mのイムジン河』(木楽社)。
なお、『シナリオ』2005年3月号(シナリオ作家協会発行)に「パッチギ!」のシナリオが(映画と少し違う部分があるような気がするが)掲載されている。また、「パッチギ!」を小説化した本(『パッチギ!』井筒和幸、羽原大介・原案/朝山実・著/キネマ旬報社)も発行されている。(2005年2月13日)
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