もどる

ドクさんとともに考える平和の集い            かけはし2005.4.11号

米軍は戦争被害者に補償を

ベトナム枯葉剤被害者の苦しみは決して消えない


 【大阪】三月二十四日、大阪中之島中央公会堂で「ベトナムの枯れ葉剤被害者から戦争を知る――ドクさんとともに考える平和の集い」が特定非営利活動法人「南大阪とアジアの平和友好のかけ橋」(NPO MOA)の主催で開かれた。大阪府、大阪市、大阪府・市各教育委員会、在大阪ベトナム社会主義共和国総領事館、連合大阪が後援した。
 主催団体の MOAは、南大阪の労働組合でつくる南大阪平和人権連帯会議が、ベトナム戦争終結二十年を機会にベトナムを訪問し、ホーチミン市の産婦人科病院ツーヅー病院との交流を重ね、医療物資支援に取り組んでいく中で、二〇〇二年十二月に設立された。そして、米軍のイラク空爆開始二周年のこの時期に、MOAがドクさんや「ツーヅー病院」のスタッフを日本に招いた。ドクさんたちは、三月十九日の反戦集会(大阪平和人権センター主催)にも参加した。
 集会はベトナム戦争のビデオ上映、関生太鼓のオープニングで始まり主催者を代表して加来洋八郎代表理事があいさつし、「小国が米国という大国の軍隊を追い出し国家を統一した事実が三十年前にあったことを確認するのは意義がある。戦争の加害者である米国は今まだ戦争被害の責任を負わずにいる。戦争被害を知り、戦争の実相を知ることが必要だ。ベトナム枯れ葉剤被害者が米国の科学毒物製造会社を提訴した裁判の判決では、訴えが棄却された。このことに満腔の怒りを覚える」と述べた。
 ベトナム総領事が来賓あいさつし、米国はベトナム戦争の被害者に補償すべきだと述べた。観客席の最前列にいる民主党の国会・府会・市会議員が紹介された後、ベトナム枯れ葉剤被害者協会副会長のジエンさんが、ベトナム枯葉剤被害者協会は裁判に勝つまで訴訟を続けると、支援を訴えた(別掲)。

ダイオキシンに
よる被害の拡大

 続いて、「ツーヅー病院」のテウィ副院長がダイオキシン被害の専門的な説明をした。それによると、ベトナム戦争で使用されたダイオキシンは、ベトナムのような光の強い地域では三年でなくなるが、体内に入った場合は数十年間存在する。世界のダイオキシン被害のすべての障害が「ツーヅー病院」で発見されている。その障害は、精神的障害、手足がない・関節が曲がらない・足の長さがちがう障害、耳や目のない障害、結合双生児の障害、頭や口が変形している障害の五つに分かれる。子どもは母乳から感染する。
 この後、岡本知明さん(大阪国際平和センター理事長)がアピールをした。岡本さんはベトナム戦争当時の大阪総評運動の指導者で、原爆・劣化ウラン弾・枯葉剤の被害者が手を取り合って平和を訴えていくための国際シンポジウムを〇四年四月に大阪国際平和センターで開催した。
 岡本さんは、最近平和運動の力量が低下していることを憂え、「B29による空襲、広島・長崎・沖縄の被害と同時に日本がアジアの人々に与えた犠牲と被害、日本軍が戦争中ベトナムで米を大量に取り上げ、その結果二百万人とも言われるベトナム人を餓死させたことを忘れてはいけない。原爆の被害、枯葉剤の被害、難民救済の問題、対人地雷による被害、劣化ウラン弾による被害、国境なき医師団による活動など、NPOやNGOの人々と力を合わせ、講演会や展示を通して戦争の残した傷を多くの人に知らせることから、運動を広げていきたい。」と大阪国際平和センターの立場を述べた。

被害者の生々しい
映像にショック

 「ツーヅー病院」に併設されている「平和村リハビリテーション」のタン課長は、生まれたときから親と離れてこの施設で生活している六十人の子どもの生活を写したビデオを上映しながら、子どもたちの日常生活を紹介した。様々なタイプのダイオキシン被害者である子どもたちを映した生々しい映像に強烈なショック受けた。写真で断片的に見たことはあっても、これほど具体的に様々な被害者の日常を写した映像を見たのは、おそらく現地を訪問した人以外では初めてだろう。
 生まれたときから平和村で生活していて、今は「ツーヅー病院」で仕事をし、平和村では課長の手伝いをしている二十四歳のドクさんが、最後にアピールした。ドクさんの兄のベトさんは今もベッドの上で「植物人間」の生活をしている。ドクさんは、枯葉剤被害者の子どもも普通の子どもと同じ夢を持っていると言い、両足のないある少女の話をした。そして支援を訴え、障害は戦争が原因だ、イラク戦争反対の運動に参加してほしいと呼びかけた。
 この後、趙博さんが応援メッセージを歌い、喜納昌吉さんはビデオでメッセージを述べた。そして再びドクさんが登壇しインタビューに対して、大阪の小学校を訪問したことが印象深かったことなどを答えた。最後にドクさんが共同声明を日本語で読み上げて、集会は終了した。  (T・T)

b ベトナム枯葉剤被害者支援のためのインターネット署名を呼びかけている
ベトナム枯葉剤被害者協会のホームページ
http://www.vysa.jp/aovn/(日本語)

ジエンさん(ベトナム枯れ葉剤被害者協会副会長)の報告から
被害者の集団提訴を米連邦地裁が不当棄却

 米軍は、ベトナムの広大なジャングル・山地・農地・生活用水・環境を破壊するために化学兵器を使用した。一九六一年から七一年までに米軍が散布した化学兵器は、ダイオキシン四百キログラムを含め八千万リットルに及ぶ。四百八十万人のベトナム人がダイオキシンに感染し、そんな中で数十万人が戦争中にガンや難病で死亡した。多くの女性は不妊や「奇形児」出産にみまわれた。彼らの子ども、孫の数万人は先天性の「奇形」で生まれた。深刻な枯葉剤の後遺症により、数百万人の被害者と先天性「奇形児」が病気と貧困に苦しんでいる。
 ある家族では、一九七九年から八四年までに四人子どもが生まれ四人ともが「奇形児」だった。生まれたときは普通でも五〜六歳になったら手足が曲がる子どももいる。ベトナムは被害者を調査する組織をつくり、ベトナム枯葉剤被害者協会は〇四年一月十日につくられた。そして直ちに、〇四年一月三十日に米国ニューヨーク州連邦地方裁判所に三十七の科学毒物製造会社を提訴した。〇五年三月フランスのパリで、ベトナム枯葉剤後遺症に関する国際会議が開かれた。〇五年三月十日の判決では、被害者の訴えは棄却された。
 これは実に不合理で不公平な判決だ。九〇年代、米国化学医療院は枯葉剤が人間に引き起こす十三の病状を認めているし、米国政府はベトナム戦争帰還兵の中に枯葉剤被害者がいることを認めている。ベトナム枯葉剤被害者協会は裁判に勝つまで訴訟を続ける。(発言要旨、文責編集部)


グローバル反戦行動デー
全世界で百万人がイラク戦争・占領に抗議デモ」 


 三月十九日、二十日「すべての占領軍はイラクから撤退せよ」「もう戦争はいらない」を共通のスローガンにして全世界で反戦デモが行われた。
 アメリカでは、サンフランシスコの二万五千人、ロサンゼルスの二万人をはじめ、ニューヨーク、シカゴなどで数千人のデモが行われた。ノースカロライナ州フォーエットビルのフォートブラッグ基地前では、声を出す軍人家族の会、平和を求める退役軍人の会、反戦イラク帰還兵の会、ユナイテッド・フォー・ピース・アンド・ジャスティス(UFPJ)ノースカロライナなどの共催で五千人が集会を行った。全米でデモ・集会が行われた都市の数は七百に達した。
 ロンドンでSTWC(ストップ戦争連合)が呼びかけた集会には十万人が結集し、最大規模の集会となった。その他、ヨーロッパではブリュッセル、マルセイユ、ローマ、リスボン、マドリッド、アテネ、ストックホルム、コペンハーゲン、レイキャビク、ワルシャワなどでデモが行われた。ラテンアメリカではメキシコシティー、マナグア、カラカス、サンパウロ、リオデジャネイロ、ポルトアレグレ、ブエノスアイレス、サンチャゴなど、中東・アジア太平洋ではカイロ、イスタンブール、ラワルピンジ、バンコク、ダッカ、クアラルンプール、マニラ、ソウル、アデレード、ブリスベーン、キャンベラ、クライストチャーチなどで大衆的な集会・デモが行われた。
 こうして全世界では少なくとも百万人規模の同日反戦行動が展開されたのである。このグローバルな反戦のパワーを基礎に、ブッシュとその同盟者の戦争・占領を最終的な破綻に追い込む闘いを強めよう。(K)                        



コラム

里山から見た環境保全

 里山は日本の原風景だと言っても過言ではない。かつてどこの農家でも堆肥をつくるために落ち葉をさらい、下草を刈り、家の新築ともなれば木を伐りだして柱にしたという。有機農業の取材で、ある農家を訪れた際、柱も壁も、天井もみんな自分の山から伐った木材でまかなったと聞いて驚いた。床土を作るために今でも山の落ち葉に鶏糞を混ぜ堆肥を作っているとも聞かされた。
 「今ではこの地域で山仕事をしているのは、うちくらいですね」と主。案内された山は、傾斜地であるにかかわらず見事に手入れされ、それは桃源郷を思わせる光景だった。藪山を夫婦で手入れしたのだという。「今では山仕事が楽しくてしかたありません。堆肥の準備が終わると一年が安心です」。里山は農家にとって命の源であり、無くてはならない存在なのだとこのときはじめて教えられた。
 そんな里山が、しだいに消えていったのは高度経済成長と、その歩みを一にする。働き手が安定した現金収入を求めて会社勤めを始めると、環境保全の担い手だった専業農家は激減し、もはや山の手入れどころではなくなった。堆肥も化学肥料がとって代わった。農薬による除草や害虫駆除が盛んに行われるようになったのもこのころである
 生態系も変わった。用水路からタニシが消え、子どもたちを夢中にさせたカブトムシの姿も見られなくなった。農薬による環境破壊が始まったのだ。
 また、期を同じくして里山は開発の美名のもと、次々に破壊され宅地化され、あるいは工業用地となっていった。これら里山の消滅は今もなお続いているといってよい。
 そんな中、周りをゴルフ場に囲まれながらも頑なに里山を守り育てるOさん一家の話を聞くことができた。場所は茨城県の城西。平地林が広がる里山である。「ここに来たときは、本当になにもありませんでした。雑木林と湿地があるだけで、地図上に記された道路さえなかったんです」。自然と共生した平飼養鶏をしたいと探し求めた土地だったという。
 木を切り開き、鶏舎を建て、ようやく落ち着いたと思った矢先のゴルフ場建設だった。狡猾な買収をはね除け、立木トラストをはじめとする反対運動を組織したOさんはこう話す。「ゴルフ場建設がなかったなら、私たちは小市民的な考え方で養鶏を続けていたかもしれません」。ゴルフ場建設こそ阻止できなかったが、Oさんの土地はゴルフ場の中に楔を打ち込んだように広がり、今もなお反対運動に共鳴した人々がこの里山を訪れ、山仕事に精を出す。また、この運動を通して構築した環境への取り組みは、さらに進化しNPO法人を取得。町を巻き込んだ地域ぐるみの環境保護運動へと発展している。
 近年になって里山の大切さが見直されるようになった。環境省もようやく里山再生、保全を施策に掲げるようになった。もはや開発が万能の時代は終わったのだ。私たちの最も身近にある自然環境を、どう生活の中に取り入れ守っていくが今後の課題だといえる。里山に対して傍観者ではいられない。 (雨)


もどる

Back