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                            かけはし2006.6.5号

水俣病問題は終わっていない

新たな50年のために│特別講演会
被害を見つめ、行政の責任を問う患者・家族たちの発言


解 説

水俣病の50年

国は救済の枠組を早急に見直すべきだ

 一九五六年五月一日に、水俣病が公式に確認されてから五十年が経過した。証言にもあるように患者や遺族にとって、想像を絶する苦難の道のりだった。猛毒の有機水銀を含んだ熊本県水俣市のチッソ水俣工場の排水が不知火海に垂れ流され、魚介類に蓄積されて、被害が広がった。
 現行の国の基準は「感覚障害に加え、視野狭さくや運動失調など複数の病状を伴うこと」を認定の要件としている。これに対して二〇〇四年十月の関西訴訟で最高裁は、舌先の感覚障害だけで被害を認定できるとの判断を示した大阪高裁判決を支持、国の基準より緩い指針を示して、幅広く救済できる道を開いた。
 最高裁は判決の中で、「遅くとも公式確認から三年後の一九五九年の暮れには、被害の拡大を防ぐ措置を講じることができた」として、国や県の不作為責任を指弾した。しかし、環境省は「最高裁は基準見直しまでは求めていない」と基準の改定を拒否している。
 こうした司法判断と行政認定の二重基準が、被害者に深刻な影響を及ぼしている。最高裁の判決後、熊本、鹿児島両県では約三千七百人の未認定患者の審査が止まったままになっている。両県の認定審査会の委員が「審査不能」として留任を拒むなど、審査会が機能停止に陥っているためだ。
 熊本、鹿児島両県で認定申請したのは約二万一千人で、認定されたのは約一〇%。被害者救済は遅れている。政府は認定制度や補償、救済制度の枠組みを見直し、被害者の救済を最優先に考えるべきだ。 (M)



水俣病の教訓は
生かされていない

 四月二十九日、午前十一時に日比谷公会堂前に集まり、東京に水俣の記憶を尋ねる「叢想行列」を行った。患者の「怨」の旗のもと、数百人が水俣闘争に関係する環境省、日比谷・松本楼、旧東京地裁、丸の内警察署、旧チッソ本社入居ビル跡までを静かに歩いた。この後、日比谷公会堂で「水俣病―新たな50年のために」特別講演会が水俣フォーラムの主催で開かれ会場は満席になった。
 水俣病で硬直したまま動かなくなった漁師・船場岩蔵さんの手の大きな縦の写真とその後ろに水俣病で亡くなった四百七十四人の遺影が飾られた。壇上には、不知火海で製塩された塩が置かれた。
 水俣病と認定された患者二千二百六十五人のうちすでに千六百人近くが故人となっている。
 黙祷の後、栗原彬さん(水俣フォーラム理事長)が「水俣病が法的に確認されてから五月一日で五十年を迎えるが水俣病問題は終わっていない。二〇〇四年に関西訴訟で最高裁の勝利判決があった。その後、認定を求めている人は三千八百人を超えている。水俣病の教訓は生かされていない。中国・アジア・アフリカなど公害はグローバルに広がっている。これから五十年先のことを考えていく」と主催者あいさつをした。

生きる価値を見
出すことができた

 水俣病患者を診続けてきた原田正純さん(精神神経科医師)が講演を行った(別掲)。続いて、病気の体を息子さんに支えられて中原八重子さん(水俣病患者)が登壇し、絞り出すような声で発言した(別掲)。
 作家の田口ランディさんが「今日、亡くなった人といっしょに歩いた。国がひどい、チッソがひどいと怒りが込み上げてきた。相手をねじふせたい気持ちになった。自分が望んでいないのに、天から与えられたものを、水俣で『のさり』と言う。水俣病も『のさり』だ。チッソの社員も同じ人間。自分も同じ人間としてたくさんの命を償っていこうとしている、と患者本人が言う。私としては、どうしてそんなに人間を信じられるのかと思う。しかし、人を信じなくてどこに解決があるのか。相手を許すしかない。人間ははかり知れないものだ。水俣は希望で強くやさしくなれる。水俣は宝だ、心の力を伝えていこう」と語った。
 次に歌手の上條恒彦さんが歌を披露した。
 続いて、緒方正人さん(漁師・水俣病患者)が静かに語った。
 「一九五三年生まれです。六歳の時、父が亡くなった。母もこの遺影の中にいる。患者第一号は私と同年生まれだ。侵略戦争と入れ替わるようにして水俣病が始まった。一九四二〜四三年頃に、魚がきりきりまいして浮いていたり、鳥が落ちたりする異変が起きていた。戦後チッソの中で辣腕をふるったのは朝鮮チッソの幹部たちだった。戦争とチッソの関係は継続していたと考えるべきだ。人間が毒を飲まされ、生態系全体が破壊された。命が商品として扱われる。カネではなくかけがえのないものは何なのかを考えてみるべきだ。いまチッソは液晶で六〇%のシエアを持っている。企業犯罪が隠されてきているのではないか」。
 最首悟さん(現代思想)の発言の後、柳田邦男さん(ノンフィクション作家)が「行政制度の遅れが水俣事件に対する対応を誤らせた。一九七七年にきわめて厳しい認定基準を限定的に決めたが、未だに変えようとしていない。自分の仕事の範囲内にとどめてしまう専門家のあり方が問題だ。グレーゾーンを救うべきだ。国はそれをしたら補償の対象が増えて、チッソが倒産するし、国も払えないという。こうした国の姿勢を変えさせる最後のチャンスだ」と提起した。

いまだに隠され
るチッソの犯罪

 最後に、水俣病患者・家族が登壇した。中原新之介さん(患者家族)。「母から水俣病患者と告げられた。水俣病でなければどんな人生だったかと思いをいたした。望むのは安らぎだけです」。
 大矢理巳子さん(医療手帳保持者)。「チッソに勤めていた父が一九五六年に亡くなった。水俣の現場にもっと早くきてほしかった」。
 大村トミエさん(医療手帳保持者)。「舟乗りだった父が奇病だと言われ、六十年以上苦しんで死んでいった。私は十二回も死産を経験した。チッソに座り込んだこともある。応援してもらって、生きている価値があると思っている」。
 川本ミヤ子さん(医療手帳保持者)。「夫は一年七カ月座り込みをやり、意地を持ってがんばった。私は語り部をしている」。
 緒方正実さん(未認定患者)。「未認定患者は差別・偏見を恐れ、逃げ隠れしていた。認定を受けようとしたら水俣病とまったく関係ないと言われた。その後十年間闘い続けている。自分の存在を認めてほしい。水俣病は終わっていない」。
 杉本栄子さん(認定患者)、杉本雄さん(認定患者)。「チッソや行政が注意していればこんなことにならなかった。行政の患者無視が患者を運動に向かわせた。真実を訴えていきたい」。
 今後について、実川悠太さん(水俣フォーラム事務局長)が「どうしたら、水俣病を繰り返さないでいられるか、どう生きるか、どういう社会を作るのか――五十年後まで語り伝えたい。今後十年間のために一億円の基金を作りたい」と運動への支援を訴えた。
         (M)
水俣フォーラム 東京都新宿区高田馬場1―34―12竹内ローリエビル401
電話03―3208―3051

原田正純さんの講演から
認定を求めて四千人が申請、千人が裁判


 最初に水俣に行ったとき、患者は隠れるように住んでいた。「魚が売れなくなる。世間が忘れようとしている。何も悪いことはしていない、帰れ」と患者に言われた。当時は有機水銀中毒は、胎盤を通じて遺伝しないというのが医学の常識だった。しかし、胎児性水俣病患者が生まれていた。
 一九五六年五月一日に水俣病が確認され、五九年に原因が分かった。六二年、だれも認めようとしなかったが、皆同じだとお母さんたちに言われた。岩崎まりちゃんが七歳で亡くなり、解剖をしてはじめて原因が有機水銀であり、胎児性水俣病であることが分かった。六八年になってようやくチッソは有機水銀を垂れ流す排水を止めた。厚生省が公害と認定し、これで終わったと言われた。
 その後裁判が始まり判決が出た。それから患者が直接交渉し、協定が結ばれた。救済の門戸は開かれたかのようにみえた。しかし認定問題で一万数千人が切り捨てられた。命懸けの闘いが続いた。一九九五年に村山内閣の時に和解案が出された。不満だったが、裁判を全部取り下げた。これで終わったとまた言われた。
 二〇〇四年、和解を拒否した関西訴訟で、「水俣病であること、行政に責任がある」と勝利判決が出た。しかし、政府は行政の責任を認めていない。現在、認定を求めて四千人が申請をし、千人が裁判を起こしている。終わっていない水俣をみつめてほしい。後百年、二百年も研究を続けていかなければならない。(発言要旨、文責編集部)

中原八重子さんの発言から

こわい病気ではなくつらく悲しい病気

 私は五十三歳で、おととし認定申請した。七歳の時祖父が亡くなった。水俣病は怖いと思った。父母も認定された。この時は死の宣告を受けたような衝撃であった。五十年間耐えて耐えてきた。いまは子どもと二人で生活している。自分が水俣病であることを隠していることが息子を守れると考え、思い悩んできた。
 関西訴訟・最高裁判決を知り、長い間闘ってきたこと、被害にあった人たちのことをはじめて知ることができた。本当のことを話すことが家族を守ることだと考えるようになった。
 五十一歳の弟がいる。いままで結婚ができていない。幼い時から体が弱い弟を「だらしがない」とずっと責めてきた。二〇〇一年に認定を申請したが兄弟とも棄却された。関西訴訟判決の後、再度申請した。環境省やチッソ工場前で座り込みをやった。役人は「前向きに」「上と相談して」とずっと逃げてきた。行政のエライ人は痛みを分かってくれる人はひとりもいません。
 水俣病はこわい病気ではなく、つらく悲しい病気です。私は体調はよくないが、どこへでも行って話をしたい。絶対泣かないと思ってきたが、弟のことを思うと泣いてしまう。水俣病患者のことを五十年先まで忘れないでほしい。(発言要旨、文責編集部)


4・30メーデー弾圧報告集会

逮捕者全員を奪還した!共同の力で権力に反撃を


 五月十一日、大久保地域センターで「仲間を返せ!メーデー弾圧を許すな 5・11緊急集会」が行われ、会場一杯の百四十人を超える参加によってかちとられた。
 この集会は去る四月三十日に、フリーターの権利を訴えて原宿〜渋谷で行われたサウンドデモ(「自由と生存のメーデー06」)に対して、警察が行った弾圧(参加者3名の逮捕・家宅捜索)への抗議と反撃のために計画されていた。だが、弾圧への抗議と支援の輪はインターネットなどを通じて急速に拡がり、十一日までに三人全員が無事奪還された。この日の集会は、被弾圧者全員の早期奪還という「勝利」への喜びと、反転攻勢への決意に満ちたものとなった。
 まず、集会のはじめにデモ当日の映像が流された。出発前から警察は先頭の音響機材とDJを載せた車両(サウンドカー)を「道路交通法違反」である、として執拗な介入を行ってきた。そもそも、サウンドカーの使用を含めてデモ申請を行っているのであるから、これは法的根拠のない不当な介入、嫌がらせ以上のものではない。だが、公安デカどもは事前に用意してきた「警告」なるプラカードを振りかざし、「これを出したらパクるからな!」とすごんでみせる。
 何とか出発したデモ隊が整然と表参道から原宿駅前にさしかかる。すると、待っていましたとばかりに公安デカと機動隊は行く手をさえぎり、「警告」を振りかざしたかと思うと、「道交法違反!」とわめきながらサウンドカーに襲いかかり、荷台に乗っていたDJと運転手を逮捕したのだ!(渋谷駅前でさらに1人逮捕)今回の弾圧の不法性と本質をよく映した映像であった。
 続いて、被弾圧者たちから弾圧の状況報告があった。特に、渋谷署に最後まで拘留されていた仲間は、あまりにひどい留置場の待遇改善(六十人の人間に支給されるカミソリが六個!)をもとめて、二日間のハンストに決起し、他の留置者との連携のなかで遂に留置場の待遇改善を勝ちとった。
 権力の不当な弾圧には完黙・非転向だけではなく、敵の陣営内に新たな抵抗拠点を作るという可能性、さらにインターネットなどのメディアを駆使することで権力による運動の分断と各個撃破を許さず、全国、世界規模での団結を作って反撃していくことの重要性が確認された集会であった。
     (半田しのぶ)
 ※4・30の映像は以下のサイトで見ることができる。メーデー救援会 http://mayday2006.jugem.jp/


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