| 「国旗」への敬礼を拒否した教師とのインタビュー かけはし2006.7.31号 |
イ・ヨンソク教師の姿は、いささか意外だった。イ教師はジーパンに黒いシャツを羽織っていた。平和主義者と言うよりは暴走族まがいの風貌。けれども彼の声は低く、かつ明瞭だった。菜食主義者となってから2カ月目だと自己を紹介した彼に7月5日、富川・上洞高グランドの片隅で会った。
イ・ヨンソク教師はインタビューで「国旗(太極旗)への敬礼は個人の信念の問題であって、京畿道教育庁の懲戒方針は撤回されるべきだ」と主張した。彼はまた「学校の教室は体面至上主義、国家主義など、わが社会が与えている無差別的なイデオロギー攻勢の中で、異なった意見もあるということを示してやる所でなければならない」と自分なりの教育哲学を披露もした。
全体主義の暴力性に苦悩
――普段から国旗への敬礼(および「誓い」)をしていないのか。
教師たちは毎週月曜日の8時30分になると教務会議の開始前に国旗敬礼をしなければならない。以前から手を胸に当てることに拒否感があった。それで2年前から国旗敬礼をしていない。他の学校にいた時、国旗敬礼をしない同僚らを見たこともあって。初めのうちは起立をせず、ただ座っていた。そうこうしているうちに同僚らが言うものだから、昨年からはその場で立って雰囲気に合わせた。
――今日まで国旗敬礼を拒否して国家から弾圧に遭った人々は、そのほとんどがキリスト者だった。一般人としては初めてのようだが、なぜ国旗敬礼をしないのか。
全教組の運動をすると同時に、全体主義の暴力性について苦悩し始めた。多数が従えば無条件に正しいのか。私の生き方の中で実践できることはないだろうか。子どもらに対する頭髪取り締まり、体罰、まあそんな悩みでした。そうこうするうちに、私の日常の中に沁み込んでいる国旗敬礼について振り返って見るところとなったのだ。そこで敬礼をしないことに決心し、今日までそれを実践している。2カ月前から菜食も始めた。抵抗できない存在(動物)に対する暴力を省察しながら、私に何ができるのかを求めてきた。
――生徒の親たちは、あなたが子どもらに国旗への敬礼をしないように言い、また軍隊に行くなと扇動したと言っているが。
毎学期の最初の授業時間に、いかなる態度を取るべきかについて子どもたちと話を交わす。「差異は差別ではない」というテーマだった。差別はそれ自体が暴力であり、そのような暴力がわれわれに内面化する、という内容だ。国旗に対する敬礼と軍隊文化はその事例だと話をした。(国旗への敬礼の際に朗唱される)「誓い」には「祖国」と「民族」という表現があるばかりで個人や社会的弱者を重要視する内容はなく、全体主義的性格について心配だ、と語った。そのような理由から個人的に国旗への敬礼をしないのだと言ったのであって、子どもたちにやるなと言ったことはない。
軍隊の問題も同じことだ。軍隊が持っている暴力的性質を語りながら、服従が内面化する側面を説明した。そのような暴力的軍隊ならば行かないほうがいいし、行ったとしても暴力的性質が内面化しないことが重要だと話した。その程度のことなら新聞にも出てくる。暴力が内面化した軍隊は当然にも変えなければならないし、選択の問題とならなければならない。
――未熟な青少年らに社会的少数者として生きよ、と教えているのではないのか。
そのような話をする時には、個人的な考えだということを前置きしてから始める。話している時の子どもらの反応を見ると……。確かに注意深く聞いている生徒は何人もいない。(笑い)何よりも子どもらは何も知らないわけではない。みんな自分の判断の根拠を持っている。子どもらが私の話を聞いてそれにそのまま従って行動すると考えるのであれば、それは高3を無視しているというものだ。しかも子どもらは、わが社会の差別的なイデオロギー攻勢にさらされている。体面至上主義、国家主義、学閥主義……。せめて教室ででも異なったものがあるということを示してやらなければならない。
――このほかにも京畿道教育庁は、あなたがイ・スンシン(李舜臣)将軍は作りあげられた偉人だとして感受性の鋭敏な生徒らを相手にして偏向した価値観教育を行った、との懲戒理由を挙げているが。
イ・スンシン将軍に対する異なった歴史的解釈も可能だし、彼を武将として尊び崇めることは、ともすれば暴力の当為性を内面化しかねない、と話しただけだ。さまざまなメディアが組織暴力団の連中の義理や男らしさを、いかにももっともらしく包装して青少年らの心の奥深い所で暴力への当為性を内面化させている。いかなる暴力も許さないという平和主義的観点を持たなければならないし、絶えず内面化される暴力の傾向性を追い求め、否定しようという話をした中で若干、言及したものだ。
今後も国旗への敬礼はしない
――先般の(データ偽造による学術論文でっちあげの)ファン・ウソクの事態のとき、ファン元教授を支持したネッティズン(ネットとシチズンの合成造語)のほとんどが青少年だった。その後のW杯でも国家主義の危険性が警告されてもいるし。現場で見てきた子どもは、どうか。
W杯が子どもらの国家主義的性向を強化したとは思わない。子どもらは基本的には統制に抵抗する。むしろ競争が次第に内面化しているというのが合っているだろう。自分のもの、われわれの側というのを決めて無条件に闘わなければならないと考える。W杯のとき、トーゴを応援している子どもを見たことがあるか?
――京畿道教育庁の懲戒は不当だと思うか。
国旗敬礼をするのか、しないのかという個人の信念であり、哲学の問題だ。そして多様な観点を示すという次元で授業時間に話すことはできる。むしろ多様な論理の展開や創意に満ちた思考のために社会的懸案を話すことは、現在の入試制度の中でも当然のことではないのか。
今、子どもらはこのような問題を考えてみる余裕もなしに「論述問題」や「面接の技術」についてさえも塾や予備校で暗記式で学んでいる。それでも「先生、がんばって!」と激励してくれる子どもらがいる。今後も私は国旗への敬礼はしないだろう。(「ハンギョレ21」第618号、06年7月18日付、富川=ナム・ジョンヨン記者)
「大韓民国国旗法案」が発議
「国旗への誓い」を廃止か修正か
大韓民国の国旗規定第3条は国旗に対する「誓い」の全文とともに、「国旗に対する敬礼を行うときは誓いを朗唱しなければならない、(ただし)愛国歌(国歌)を奏楽する場合には省略できる」という実施方法を規定している。大韓民国国旗規定は大統領令だ。したがってこれまで大統領が特別の意志を持って推進しない限り、国旗への誓いは廃止されたり、変えることはできなかった。
だが大統領令を法律へと格上げさせる「大韓民国国旗法案」が推進されるのに伴い、国旗への誓いを廃棄したり修正できる道が開かれた。現在、国会に発議された法案は野党ハンナラ党の法案と与党・開かれたウリ党の法案の2つだ。両法案は現行の国旗規定と大同小異だが、国旗への誓いを含めるかどうかをめぐっては大きな違いが見られる。
ハンナラ党案は第4条「国旗に対する誓い」で既存の大統領令の、国旗への誓いの条項をそのまま継承した。反面、ウリ党案は、この部分をはなから削除した。ウリ党案が採択されれば、国旗に対する敬礼の際、誓いを朗唱しなくともよい。事実上、廃止されるのだ。
これについて主務部署の行政自治部(省)は、「国旗への誓いを実施しなければならない」との条項だけを法律に入れ、誓いの文は大統領令で別に定めるように意見を国会に提示した。誓いの文言に修正の可能性を開けておくものと解釈できる。
国旗に対する誓いは1968年3月、忠清南道教育委員会が初めて制定し、傘下の小、中、高校で施行された後、維新直前の1972年8月、一部の文言が修正され全国的に拡大された。当初の忠南道教委が作った誓いの文言は以下の通りだった。「私は誇らしい太極旗の前に祖国の統一と繁栄のために正義と真実とをもって忠誠を尽くすことを誓います」。この「祖国の統一と繁栄」が新しい誓いの言葉では「無窮の栄光」に、「正義と真実とをもって」は「身と心を捧げて」に変わった。(「ハンギョレ21」06年7月18日付より)
政府と一部マスコミのゆ着
全教組の孤立をねらう誹謗宣伝を直ちに中断せよ
韓国社会にあって政権とその走狗たる保守言論のゆ着関係は、すでにへきえきとしたものがあるが、いわゆる「参与政府」、「改革」を掲げてきたノ・ムヒョン政権と一部マスコミのゆ着関係は、その稚拙さ加減に舌を巻かざるをえないほどだ。
かつての軍事政権時代には報道統制の形で歪曲報道をこととし、持てる者と支配階級のイデオロギーを注入してきたとするならば、いわゆる文民政権(キム・ヨンサム政権)以後のあり方は、それこそ「マッチ・ポンプ・ゴー・ストップ」式に持てる者たちの言論や放送によって自らの役割を十分に果たしており、これに「ハンギョレ新聞」が加勢するとともに、労働者・民衆の正当な要求や闘争に対する歪曲された世論の造作や魔女狩り式の世論の駆り立てを付け加えている。
その代表的な事例はノ・ムヒョン政権の「正規職労働者の利己主義への攻勢」であり、今回の全教組に対する「京郷新聞」、「ハンギョレ新聞」の報道の仕方によって再び繰り返されている。ところで重要なことは、各新聞の報道の時期だ。
周知のように全教組は6月9日から入試教育中心の課外授業反対、拡大成果給の廃止、標準授業時数の法制化争取、学校自治―校長選出補職制実現のための教育部(省)前(光化門政府総合庁舎後ろ)での籠城を展開している。そして大規模集会など多様な方法を駆使して闘いを展開する計画を発表した。まさにこの時点で日刊紙の1面に誹謗記事が掲載されたのだ。
「ハンギョレ新聞」と「京郷新聞」は全教組の初代政策室長であり青瓦台(大統領府)の教育文化秘書官だったキム・ジンギョンのインタビューを載せるとともに、全教組に対する非難を浴びせた。その内容は余りにも粗悪であるがゆえに一顧の価値さえないものだが、このような卑劣な扇動がねらいとしているのは結局、全教組の6、7月闘争や、それ以降に展開される教員評価阻止闘争を霧散させようとする政府(青瓦台)との合作劇と言わざるをえない。
ノ・ムヒョン政権が口さえ開けば騒ぎ立ててきた「参与政府」なるものは、労働者・民衆を排除した資本家でも、既得権勢力の参与を拡大する政府にすぎないと言うこと、そして一部の没知覚的な運動陣営が弾劾反対などを云々して期待していたその「改革」的措置というのは結局、反労働者・民衆的な政権の本質を糊塗するためのギマン的で不徹底な「ブルジョア的改革」、「新自由主義の改革」にほかならないことを平澤米軍基地拡張、非正規労働法改革、労使関係ロードマップ、そして韓米FTAの強行によって証明されている。
一層、卑劣なことは、これらがあたかも疎外された労働者・民衆を心から心配し配慮しているかのようにサギ的振る舞いをしていることだ。キム・ジンギョンは「全教組は組合員である教師の利益だけを代弁し、国民からかけ離れ、孤立化している。全教組は、立ち後れ取り残された地域の子どもらなど教育疎外階層のためにやったことは何かあったか」と全教組を孤立させるための卑劣な扇動をしている。
だがこの主張がねらっているのは結局、成果給制、教員評価制などを通じて教育労働者たちを構造調整するためのものだということ、そしてその位置を安い賃金で非正規職教育労働者へと代替するためのものだということを全教組の組合員たちは余りにもよく知っている。そればかりか、遅れた地域の子どもを云々するが、この政権が採っている教育政策というのは、その実像は教育の不平等を深化させる新自由主義の教育市場化一色であることを隠ぺいしようとする邪悪な術数にほかならない。
すでにキム・ヨンサム政権の5・31措置以後、新自由主義の教育政策によって公教育は、その脱け殻さえも捨て去っている。父母の支払い能力によって教育の機会は異なって与えられ、これが学閥や学問、学校間の位階序列化と相まって学校教育は入試予備校となってからすでに久しい。このように公教育は根幹から揺らいでいるのに、はなから外国人学校の規制緩和、公営型学校のように露骨な営利行為の許容はもちろん、市場原理に委ねて教育の不平等構造を深化させ、立ち後れた地域の疎外された階級・階層の教育権を無視しているのは誰なのか。教師たちなのか、それともノ・ムヒョン政権なのか。
教育というのは、普遍的な権利・疎外された階級・階層、立ち後れた地域の子どもらの教育を受ける権利を闘いとるためには教育労働者だけの問題ではなく、労働者民衆全体の課題だ。また全教組が遂行している入試偏重教育の構造改革、教員に対する構造調整阻止、韓米FTA阻止、教育部門の自発的開放化、自由化反対などの懸案の闘争は、とりも直さず新自由主義の反対闘争であり、公教育実現のための避けて通ることのできない道筋だ。
もはやこれ以上、全教組の正当な要求と闘争を集団利己主義として追い立てる破廉恥な行為を中断せよ。そうでなければ労働者民衆の巨大な闘争の前に悲惨な末路を迎えることになるだろう。
「労働者の力」は全教組の当面の闘争を支持し、固く連帯するであろう。また新自由主義の教育市場化反対、公教育を闘いとる大道を共に進むであろう。
2006年6月21日
労働者の力
(「労働者の力」第105号、06年6月23日付より)
|