もどる

再び考える87年労働者大闘争の歴史(1)        かけはし2007.10.8号

維新体制下で蓄積された矛盾
と怒りが「ソウルの春」を実現

夜明けとなった87年大闘争

 20年の歳月の中にうずもれてしまった87年の労働者大闘争、黒白のあいまいなレンズが光を放ち、再び色濃い灰色に変わっているありようの中で自ら、無気力さが長いため息となって吐き出されるとき、時代的意味は肯定性よりも否定的な形となって迫り来る。
 労働運動において87年の労働者大闘争は転換の意味を持っている。87年は労働者大衆の燎原の火のような闘争が情勢を反転させる契機のひとつであったし、労働運動の未来と展望の中で変革というスローガンが労働解放の旗となり、大衆の胸の奥深くに位置づき始める歴史の場でもあった。
 87年の波長は、ほぼ20年近く続いた。労働運動をまとめたり、情勢についての比喩を行うとき、87年は定番であって、それは薄らぎつつもなお進行形だ。そのために87年の大闘争は、われわれの運動全般に及ぼした強い影響力を否定できないとの意志が込められたのだろう。
 ところで87年の大闘争は時期的断絶の中で噴出した突発的現象と言うよりは、運動史の延長上において現れた、独特でありながらも自然な過程として理解するのが良いだろう。87年闘争を特定の時期に他の条件や状況と関係なしに、瞬間的な労働者の怒りを表出した一時的、限定的事件だと考えるとすれば、それは合法則性自体を否定する判断になるだろう。
 したがって87年は特定の時期に表れた突発現象ではないのであり、70年代と90年代を貫通する賃労働関係の矛盾、労働者階級に蓄積された抑圧が巨大な怒りとなって爆発した闘争だ。そうであるがゆえに87年労働者大闘争は、それ以前の運動の延長線上にあると同時に、今日なお続いているのだ。

70年代と80年代の民主労組

 70年代労働運動の全般的流れは、生活運動という性格が強かったと考える。労働組合の活動も組合構成員の究極的利害というよりは現実的利害に焦点が合わされており、若干の規模があって民主を志向する労組であればあるほど工場内に信用協同組合や消費組合的運動の気流が強く表れた。つまり手易くカネを貸してくれる構造を作る労働組合の役割、そして高くない価格で生活必需品を供給するという労組の経済的感覚が組合員たちにとって肯定的に受け入れられた。特に(労組執行部の側から見れば)組織事業の中枢的機能だったのだろう。
 ままならぬ労働者に信協を通じてカネを貸すことが、まるで施恵のように感じられ、労働組合が消費組合を運営することが大きな誇りと自慢の種であるかのように、ともかくもその当時の労働組合のあり様は、そのように反映されていた。ややもすれば、「工場セマウル運動」のイデオロギー的攻勢にはっきりした突破口を用意できなかったせいであるかも知れない。
 このような現象は、労働組合の連帯の機能にも多くの影響を及ぼす。職場の信用協同組合の研修を通して、また消費組合の運営についての研修会を通して、労働組合の幹部らの出会い自体を労組の活動だと考えていたことを、今日の同志たちが理解するのは簡単ではないだろう、と思う。

 私が覚えている70年代後半の民主労組運動は、理念的枠組みや確固たる路線による規定力ではなかった。
 労働者の切々たる要求を掲げて簡単に妥協しない、ということよりは不義に対抗して闘争する術を知り、チョン・ティル精神を語りつつ労働者の連帯を、どんなささやかなレベルであれ、強調する程度で民主労組が区分された。今日でも例外ではないけれども、御用性を批判しつつ競選の構図に身を投じる組織(?)などが自らを民主派だと自認してもいた。
 当時、民主派だと自称している各単位は、西江大付設の「産業問題研究所」を通じて活動家の教育プログラムを履修した。教育プログラムは3カ月コースと1週間コースがあったが、講義時間と課目は両コースともに一緒だった。3カ月コースは出退勤前後の教育であり、1週間コースは合宿教育だった。
 厳密に言えばカトリックの保護(?)を受けて進められる教育訓練コースだった。講師陣の中には維新政権(パク・チョンヒ政権を指す)から弾圧を受けていた知識人もいたが、資本主義の矛盾について講義をする中で、「労働組合が目指す社会像は資本主義ではない」という程度のメッセージを投じた。当時の情勢を考えれば、極めて衝撃的な主張だったことは事実であり、「労働者が目指す社会像」について苦悩し始める契機となったことは明らかだ。私が属していた労組は大宇グループの系列社(当時は大韓電線系列)の大宇電子部品という所だった。
 70年代にも、さまざまなサークルがあった。ささやかな規模の「サンドゥル(そよそよ)会」という集まりもあったし、150人の「トンシム(同心)会」という組織もあった。「サンドゥル会」は今日の学習会とでも言えようし、「トンシム会」は運動についての理念的枠組みや路線を論議する集まりではなく、主として労働組合の御用性に対する批判とともに分会の選挙を準備する現場の集いだ。
 70年当時、金属労連は起亜自動車出身のキム・ピョンヨンが委員長で、彼は繊維のキム・ヨンテと双璧をなす代表的御用だった。3年の任期が満了するころには代議員争奪戦が楽しくなった。代議員を懐柔、買収し、甚だしくは監禁までして、権力を維持するために手段や方法を選ばないあり様を容易に見ることができた。
 金属労連に挑戦状を突きつける側は大韓電線のハン・ダルス支部長であり、大方のところ民主派と呼ばれ、敗れた。ハン・ダルス支部長は70年代当時、支部の常勤者(企画室長)として学生出身の活動家(シン・グモ)を採用する果敢性を示したりもした。そして、その採用された活動家によって民主労組運動に方向と道筋がつけられていく過程が思い出される。
 当時、金属、繊維などのいわゆる民主派たちは毎年11月にチョン・テイル追悼祭を行うために秘密裏に活動を行った。維新時代はチョン・テイル追悼祭を公然と行える状況ではなかったし、7人以上が集まる際は集会申告を事前に行わなければならなかった(形式や手続きは今日とは比較にならないほど厳しかった)ために、秘密活動にならざるをえなかったのだ。

 南漢江(カンヒョン、現在の驪州)の河辺で野遊会をするとの目的で集会申告を行い、50人ほどがかわるがわる船に乗って河を渡って山中に入り、寒さが全身を包む11月の深い渓谷で、緊張感をろうそくで分かち合い烈士を追悼し、烈士の意志を継承しようとの悲壮な決意をひとつにした。

一瞬実現した「解放空間」

 維新という歴史のひとつの場面に終わりを告げ、迎えた80年の春は長くはない、わずかな瞬間にすぎないけれども、当時の情勢にあっては「解放の空間」だった。労働者階級の抑圧されていた怒りが活火山のように噴き上がり、弾圧、抑圧、搾取などの単語を公然と語り、討論できる空間が作られた。
 大規模工場で街頭闘争を含む激烈な闘争が始まるやいなや韓国労総は、そのままではいられないかのように決起大会(?)を招集した(80年5月13日だったかと思う)。大会が始まるやいなや民主労組を標ぼうする労働者たちは演壇を占拠し、また韓国労総の占拠に突入した。予め東一紡績の解雇労働者らが「解雇者復職」というハチマキを準備して演壇を占拠し、演壇から労総幹部らを制圧するとともに、極めて自然に金属、繊維労働者たちの占拠籠城が実現された。
 そのとき、民主労組のひとつだった大韓毛紡のパン・ヨンソク支部長が籠城の隊伍をも主導して行動した。維新政権の暴圧性の象徴である東一紡績での糞尿事件の写真と状況が大衆に公開され、維新時代のむごい弾圧の数々が克明にされるとともに、韓国労総の講堂は怒りの場へと変わっていった。
 講堂のテーブルの脚を叩き壊し、それらをたたきながら「労総歌」、「夜勤」、「われら勝利せん」、「揺らぐことなく」、またそのほかの替え歌などによって労総の講堂は熱気を帯びていった。特にそのころシム・スボンの「あの時のあの人」という歌に付けられた替え歌は最も人気のある労働歌だった。
 維新と言えば思い出す、あの人/いつも言葉がなかった、あの人/最も信頼していたジェギュから銃で撃たれ/首を落としてしまったあの時のあの人/……
 今日とは違って労働文化は深い泥沼の中に埋もれていた。太鼓見物さえままならない中で、太鼓の代わりに木製テーブルをうち壊して意気揚々と叩き鳴らしながら、労総占拠を共に行う同志たちは、のども裂けよとばかりに歌を歌った。合い間、合い間には労働者の最初の(?)熱を帯びた討論も真剣に進められた。
 占拠籠城の第1の目標は、維新独裁政権の弾圧によって犠牲となった労働者たちを原状復帰させるものであり、その約束を次期大統領となる3キム(キム・ジョンピル、キム・デジュン、キム・ヨンサム)から約束を取りつけようとするものだった。韓国労総委員長職務代行はパン・ヨンソクに胸ぐらをつかまれた。3キムを連れてくることを要求し、おじけづいた職務代行は、ぶるぶる震えながら、そうすると約束し出ていったものの、数時間後にひとりで戻ってきた。
 その当時、労働者らが認識していた政治地形は、パク・チョンヒが死んだのだから次期には間違いなく3キム氏のうちのひとりが大統領になるという確信があった。占拠籠城2日目、最初の労学連帯闘争となるところだった場は籠城指導部の拒否によって実現しなかった。数百人の学生の隊伍は再び肩を組んで階段を下りていかなければならなかった。
 当時、労学連帯を拒否した第1の理由は、「われわれの問題は、われわれ自らで解決するから学生たちは学生たちで行動せよ」というものであった。第2の理由は、情勢についての認識の違いだった。学生らの主張は、次は3キムが権力を握るのではなく、チョン・ドゥファンが握る、というものだった。今から思えば労学連帯拒否の理由とは言えないようなものだった。それにもかかわらず当時の労総占拠の現場では、いささかの問題提起はあったものの、それほどの反発はなかったという点で、80年の春を迎えている時期の労働者大衆の一般的な気分だったのかも知れない。
 東一紡績・糞尿事件の真相糾明、解雇者復職などの要求は全く反映されない中で、2日目の短い解放空間は、そのようにして幕を下ろした。非常戒厳令が予告される情勢であることを勘案していたようだ。

光州民衆抗争と労働運動弾圧

 労働者たちの怒りを表出させていた短い間に80年の春は、容赦なく押しよせる公安政局に縮みあがった。新軍部の徹底した報道統制によって光州民衆抗争は多くの労働者たちにとって「パルゲンイ(赤)」の手による国家転覆の企図として刻印された。工場ごとに「職場浄化委員会」がつくられ、「工場セマウル運動」などによって労働者の文化を圧殺しつつ登場したチョン・ドゥファン政権は、労働組合それ自体に対して浄化措置をもって攻勢と統制を強化した。
 国会でもない「国保委(国家保衛委員会)」を通じて改悪された労働法は猛威を振るい始めた。労働3権は無力化され、労働組合の活動自体が常に監督、監視されるように制度化された。労働組合の予算は予め定められた規定にそって編成されなければならず、徹底した会計の指針は労働組合を統制、管理し、抑圧する手段として作用するところとなった。
 そして遂には労組を会社に協力する一部署として転落させることを誘導し、それこそが正しい労働組合観だと強弁した。争議費の予算は項・目が削除され、その代わりに福祉費に転換させなければならず、弁公費(公務の処理に必要な費用)も予め定められた比率に正確に合わせなければならなかった。そして労働部は毎年、業務監査を通じて労組を統制・抑圧するとともに、労組活動が活発な労働組合は業務調査を通して間違いなく「横領」との決定を下し、そのような結果を掲示板に掲示する方法によって組合員と執行部間の離間と弛緩とを絶えず助長した。法と体制を整備したチョン・ドゥファン政権は80年代初盤に再びセマウル運動に焦点を合わせ始めた。チョン・ドゥファンをセマウル運動本部長に座らせ、「工場セマウル運動」を通じてイデオロギー攻勢を強化し始めた。
 九老工団(工業団地)本部に設けられた「工場セマウル運動教育館」で、労組がある現場労働者は誰もが教育を受けなければならなかった。朝6時に起床・駆け足で始まる1日の日程は夜10時まで、1週間のコースだった。工場セマウル教育は完全に軍隊訓練所、あるいはそれ以上だった。服装も軍服のように支給され、セマウル教育期間中は絶対にタバコを吸うことはできない。工場セマウル教育を通して普及された新たな技法はQC(品質管理)だった。おそらく最初の分担討議が普及したのは工場セマウル教育だと記憶している。
 1週間の兵営式訓練過程を終えて現場に戻れば、現場の部署を基準として7〜10人の分任組が構成される。一般的な討論のテーマは生産性向上と品質改善だが、分任討議には絶対的な原則がひとつ、あった。討論形式には原因の分析において自ら解決できないものは原因として認められないのだ。会社の問題点だとか、機械や工具あるいは材料に問題があるなどとする提起自体は意味がなくなる。簡単に言えば、会社に対する不満・不平はダメだ、というものであり、ただ「自己批判」を通じて、一切の問題(生産、品質)は自分のところから生じたものだとの考えを文化的に注入させるものだ。
 当時、法、制度的装置、武力によって抑圧し、イデオロギー攻勢によって労組活動自体を封鎖している状況の中で、労働運動が行き場を失いかねないとの危機感を抱いたのはひとりやふたりの同志たちだけではなかっただろう。(つづく)

【訂正】前号(10月1日号)、8面大見出し「なくろう」を「なくそう」、同最下段右から20〜21行目の「ソ連のお先棒かつぎだのと」を「米国のお先棒かつぎだの、ソ連のお先棒かつぎだのと」に訂正します。


もどる

Back