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寄稿                          かけはし2007.1.15号

新美隆さんを追悼する

戦争責任を問い「弱者に寄り添い、闘い続けた信念の人」
                          内田雅敏(弁護士)

 昨年12月20日、中国人強制連行被害者の「花岡事件」訴訟など、戦後補償裁判の弁護活動で知られる新美隆弁護士が亡くなられた。享年59歳。新美さんの葬儀は12月29日、30日に東京でとり行われた。われわれは、新美さんが弁護士になった一九七四年にフォード来日阻止闘争の弁護活動をお願いしたのを皮切りに、叛軍兵士裁判、三里塚開港阻止決戦8ゲートグループ、管制塔裁判、さらに電通労組反リストラ裁判などで非常にお世話になった。新美隆さんとともに多くの裁判を担ってこられた内田雅敏弁護士に追悼文を書いていただいた。(編集部)

こんなに早く逝
ってしまうとは

 新美隆弁護士が亡くなった。
 二年ほど前から肺ガンに冒され、入退院をくり返しており、病状が厳しいものであることは人伝てに聞いていた。それでも最後に会った昨二〇〇六年十月二十五日、中国北京郊外蘆構橋にある中国抗日戦争紀念館の館長らが来日した際に、アジア人権基金での土井たか子元衆院議長らとの会合に、奥さんの付き添いを受けながらも出席された新美さんの元気そうな様子からすれば、まさかこんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。
 享年五十九歳、余りにも早い逝去であった。
 新美隆弁護士と言えば、中国人強制連行に起因する「花岡事件」をはじめとする、日本の戦争責任をめぐる戦後補償問題、在日外国人の指紋押捺問題、国籍を理由とする昇給差別問題、そして最近では東京都が東京朝鮮第二初級学校に立ち退きを求めた「枝川訴訟」など、常に「弱者に寄り添い、闘い続けた信念の人」(2006年12月30日告別式当日の東京新聞朝刊)として、誰しもが認める人物である。十二月三十日の告別式には、花岡和解を実現したときの東京高裁裁判長(現弁護士)も出席してくれた。

反日武装戦線と
連続爆破闘争

 新美弁護士が亡くなった直後、或る記者から質問を受けた。新美弁護士があのような活動をするようになった契機はどこにあったのかと。
 今から三十余年前に起きた或る事件を語ろうと思う。
 一九七四年八月三十日、丸の内の三菱重工ビルが爆破され、死者八名を含む多数の死傷者が出た。爆弾を仕掛けたのは「東アジア反日武装戦線狼部隊」と名乗る者たちであった。この年の秋から冬にかけてこの爆破闘争は間組、大成建設、鹿島建設江戸川作業所、三井物産、帝人研究所等に及んだ。これらの爆破闘争の中で彼らは「狼」以外にも「さそり」「大地の牙」といった聞き慣れない名前で次々と犯行声明を出した。その声明の趣旨、概要は以下の通りであった。
 `日本は中国侵略に端を発する侵略戦争の中で数千万の東アジア人民を殺戮してきた、そして戦後もこれを反省せず、賠償問題すら利用してこれらの地に経済的侵略を続け、これらの地の人民を搾取し、資源を収奪し、環境を破壊している、その先端を担っているのがこれらの建設会社、商社らである、我々は今、東アジア人民とともに反日の闘いに立ち上がったものであるa
 わが国のかつての被侵略諸国民に対する戦後補償の問題が問い直され、朝鮮人、中国人らを強制連行し、強制労働させた企業が問われるなど、日本及び日本人の加害者責任についてもう一度考えてみようということが強調されている今日、振り返ってみれば彼ら東アジア反日武装戦線の諸君の言っていることにはなんら奇とするところはない。だが当時は違った。まず、差別と抑圧を民族間の問題としては捉えず、もっぱら資本と労働、すなわち階級間の問題としてのみ捉えがちであった当時の私には、反日武装戦線という名称がいかにも奇異に見え、その言うところの反日思想というのがよくわからなかった。また、爆破闘争の対象も自衛隊、警察、官公署などの国家権力ではなく、企業であったのがそれまでの闘争とは違っていた。
 一体彼らはどのような者たちであるのか、自分とは無縁な人たちである、と思っていた。一九七五年五月十九日、彼らに対する一斉検挙が行われた。当時の新聞、テレビはこの逮捕を大きく取り上げ、警察、検察当局がタレ流す取り調べ状況をそのまま報道した。曰く「爆弾魔」「冷血漢」「劇画世代」……と。
 私自身、この報道に毒され、彼らの逮捕を報じた五月十九日の夕刊を見た時は「大変な事件だ。弁護人になるものがいるのだろうか。国選弁護人しかいないのではなかろうか」というのが率直な感想であった。

弁護を引き受け
た若手弁護士

 このような社会的な非難の嵐の中で、救援連絡センターは彼らの救援に乗り出した。彼らからの救援要請があったわけではない。「権力」によって弾圧されている者に対しては常に救援の手を差しのべるという救援連絡センターの理念に基づいてのものであった。したがって、それは最初は押し掛け的救援ですらあった。
 私も要請を受け、その一員として彼らとの接見活動に入ったが、正直いって最初は彼らの考えていることがよく理解できず、おっかなびっくりであった。このことは彼らの方も同様であった。反日武装戦線を名乗る彼らには日本人の中に味方などおらず、逮捕されたときは自分たちの闘争の終焉するときであり、裁判闘争など考えられなかった。そのため、万一逮捕されたときにはすぐに死ぬことができるように自殺用の青酸カリを身につけていた(「大地の牙」の斉藤和君は逮捕直後この青酸カリで自殺した)。したがって、彼らは逮捕された自分たちのところへ弁護人が面接に来るなどとは思ってもいなかったので、最初は弁護人に対する信頼など全くなく、警察当局の策動もあってのことだが、弁護人の解任がくり返された。
 この救援活動には、主として私たちのような登録して間もない若手弁護士が当たった。
 この事件は当初、捜査弁護活動の段階ではかなりの人数の若手弁護士が参加していた。しかし、公判段階になると`事務所の都合aその他を理由として一人欠け、二人欠けとなり、最後は庄司宏、新美隆、高橋耕、鈴木淳二、そして私の五人だけになってしまった。このうち新美、高橋弁護士は二十六期で弁護士二年目、鈴木、内田の二人が二十七期で弁護士一年目であり、このような陣容で弁護活動をするにはあまりにも重大な事件であった。
 私たちは約半年間に及ぶ捜査弁護活動を通じて、東アジア反日武装戦線の諸君と接する中で彼らの考えを理解し、また、彼らも私たちと接する中で自らの考え(日本人は東アジア人民にとってすべて敵であり、日本人との連帯などあり得ないという思想)の偏狭さを知るようになった。そういう中で、私たちは自らの学生時代を彼らに重ねあわせるとき、彼らの弁護人たることから逃れるわけにはいかなかった。
 私たちがこの事件の弁護人になることを承諾したのは、狼部隊の大道寺将司君が、三菱重工爆破闘争のやり方は誤りであった、それは反日思想の偏狭さに由来する誤りであり、本来味方にしなければならない人たちを殺してしまった、と反省したからである。

検事が隠した天皇
列車爆破未遂事件

 以後この裁判は最高裁まで十年近くを要することになるが、庄司先生を団長として、新美弁護士を主任弁護人として、五名の弁護士の誰一人欠けることなく(後になって渡辺務、舟木友比古の両弁護士が参加)弁護活動を続けていくことになる。
 この間、裁判所の強権的訴訟指揮を原因として被告人らの出廷拒否などで法廷が`荒れa、私自身「法廷等の秩序維持に関する法律」に基づく制裁裁判によって十日間の監置処分を受け、東京拘置所に収容されたこと、この裁判を契機として法務省、検察庁が必要的弁護事件についても一定の場合は弁護人抜きで裁判を進めることができるとする、いわゆる「弁護人抜き法案」を提出し、日弁連をあげてこの法案阻止の闘いをしたことなど、数々の出来事があった。法廷でも毎回拘束者が出るなど、実にいろいろなことが起こり、とにかくきつい裁判であった。
 とりわけ、捜査段階では明らかにされていなかった荒川鉄橋上における天皇列車爆破未遂事件(殺人予備罪として起訴)をめぐる息の詰まるような議論のことは今でも鮮明に思い出す。「狼」の諸君が三菱重工爆破で使った二個の爆弾は、実は八月十五日に行われる戦没者追悼式に出席するために静養先の那須から帰京する天皇を、荒川鉄橋上で列車ごと爆破しようという計画(彼らはこれを「虹作戦」と名付けた)の下に作られたものだった。彼らはその天皇列車が通過する前日夜、荒川鉄橋上にこの二個の爆弾を仕掛けようとした。ところがその作業の最中、数名の不審な人物が現場近くに現れ、立ち去らなかったため作業を中途で断念せざるをえなかった。
 彼らがこの爆弾闘争を実行できなかったことで敗北感に打ちひしがれているとき、韓国で文世光氏による朴大統領狙撃事件が起きた。「狼」の諸君はこの事件に衝撃を受け、隣国で独裁者朴大統領打倒のために立ち上がった文世光氏に続けと、天皇列車爆破に使用する予定であった二個の爆弾を使用して三菱重工爆破闘争を決行したのであった。
 この天皇列車爆破計画事件の存在を知った検察当局は慌てた。そしてこれをひた隠しにした。この反日武装戦線事件の主任検事であったO公安検事は、天皇列車爆破計画関連の証拠をすべて自分の金庫にしまいこみ、取り調べ担当検事を通じて「狼」の諸君にこの件については一切言うな、とりわけ警察には絶対しゃべるなと指示した。
 おりから天皇が初めて訪米するということで、天皇の政治利用が問題にされようとしていた。「狼」の諸君からこの話を聞いた私たち弁護団は迷った。この件を公にして裁判の全体を天皇裁判として位置づけるべきか、それともこれは秘すべきか(公にした場合「狼」の諸君に対する攻撃が彼らの家族にまで及ぶ可能性があった)と。弁護団会議を終えて関連資料を机の奥深くしまいこんだときの緊張感が今でもよみがえる。
 どういうわけかこの件を朝日新聞がスクープした。その情報の出所は今日でも不明である。そして結局この裁判の中では天皇列車爆破未遂事件が、彼らの一連の爆破闘争の中でも中心的な事件として取り上げられることになった。
 それからずっと経って、一九八八年秋、天皇裕仁の病状悪化を契機として、この国を祭等諸行事自粛・天皇賛美の風潮が覆い、歴史の捏造がなされたことはまだ記憶に新しい。この風潮は、翌一九八九年一月七日、裕仁が亡くなることによって頂点に達したが、「狼」の諸君が荒川の鉄橋上で天皇を狙った頃には、まさか天皇の死によってこれ程までの賛美の風潮が作り出されるとは予想もできなかった。私たちはこのような風潮が作り出されるのを苦々しく思いながら、死刑判決を受けて小菅刑務所に入れられている「狼」の諸君のことを考えた。彼らが正しかったと。

「花岡事件」を担
当した彼の原点

 当時私たちは、天皇制などわずらわしいが、歴史的に見ればいずれ老衰して消滅すべき運命にあるのだから、それまで放っておけ、そんなにこだわることはないと思っていた。こんな人間の尊厳に反する不合理なものが続くはずはないと思っていた。為政者にとっては今日でも天皇の「権威」は人民を統治するためのきわめて有効な道具であるということに気づいていなかったのである。
 前述のように私は新美弁護士とともに、日本の戦争責任、戦後責任を問い続けた東アジア反日武装戦線の諸君の弁護活動を十年以上にわたって引き受けてきた。
 その延長上に、中国人強制連行「花岡事件」との遭遇があった。そして私たちがこの事件を担当することは極めて自然な流れであった。
 私は新美さんよりも二年年長で、日本の敗戦の年に生まれた。しかし、ともに戦後民主主義下において育ってきた。
 いま戦後体制の脱却とかを声高に述べる戦争を知らない首相が登場した。
 そう簡単に戦後民主主義を否定されてたまるものかと思う。
 いま私は、新美さんとともに闘った東アジア反日武装戦線裁判、花岡事件裁判を原点として、残る弁護士人生を歩もうと思う。
 それにしても早過ぎた。
 この訃報を死刑確定判決を受けて獄中にいる、そしてハイジャックでアラブに飛んだ東アジア反日武装戦線の諸君はどう受け止めているであろうか。


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